海外音楽評論・論文紹介

音楽に関するレビューや学術論文の和訳、紹介をするブログです。

Weekly Music Review #63: Ed Sheeran "="

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エド・シーランの「=」をApple Musicで

= - Album by Ed Sheeran | Spotify

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運命的な出会いをした女性との恋路を過剰な演出で描く。エルトン・ジョン風の衣装をまとうシーンも。最後は中世の騎士に変身するも、ヘタレなオレっち、というオチ。

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ヴァンパイアに変身したエド・シーラン。怪物仲間たちと夜の街で大暴れ。雰囲気だけのアメコミ映画みたいな趣。事実、カオスに陥った街で一人はでなスーツを着て踊るシーンは『ジョーカー』からの着想か。

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ツアー中にツアーバスに乗り遅れてしまったシーランくんが、色んな人達と一緒に不思議な旅をする。ヒッピー崩れの若者、真夜中の山奥で行われる奇祭、渋いおじさんたちのバイカーたち、どれも純然たるクリシェ。最後には謎の力士が登場し、めちゃくちゃダサい日本語版 “Shape of You” が流れておしまい。は?

今作のミュージック・ビデオがどれもこれも致命的にダサく、つまらなく、意味がわからない。Creepy Nutsにも言いたいことだけど、ミュージック・ビデオの中で改めて「自分役」を演じるのってもうマジで面白くないからやめて欲しい。

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こういうのとか、マジでやめてって思う。つまんね〜〜〜〜〜〜〜〜

「自分役」で思い出したけど映画『イエスタデイ』でのエド・シーランは結構良かったね。現役の人気ミュージシャンがわざわざ「負け役」で出るってすごいけど、それもビートルズの楽曲の凄さがなせる技だよな、って思ったりして。

この映画『イエスタデイ』では、ビートルズがいなかった平行世界に来てしまった主人公(=売れないミュージシャン)が、記憶を頼りにビートルズの楽曲を自分の作品として発表し、世界的なミュージシャンになっていく…というお話。その中で主人公は、メジャー・レーベルの世界的スターにつきものである「創造上の自由の制約」と直面することになる。『ホワイト・アルバム』というタイトルじゃ売れるわけがない、とか言われて、会議で意味のわからない方向性で売り出されそうになるなど、本人の才能以外にもミュージシャンの成功の要因ってたくさんあるよなあと思わされる映画でもあった。

で、思うに今のエド・シーランってまさにそんな状況なんじゃないの、って思ってしまう。一言でいうとオーバープロデュース、やりすぎやりすぎ。だからといって削ぎ落としていったらいい音楽になるかと言われると、そんな本質が彼に宿っているのか、それすらよくわからなくなっている。

wmg.jp

これは、エド・シーランが大の猫好きであることから実現。TikTokにて『=(イコールズ)』収録曲である「Bad Habits」を使い、ハッシュタグ「#エドシーニャン」をつけて猫の動画を投稿するだけで参加となります。

lineblog.me

8/31(火)23:59までに「のびしろ」ストリーミング・ダウンロードチャート状況をスクリーンショットして「#のびしろしかないわ」を書いてツイートしたTwitter URLを応募してくださった方にCreepy Nuts販促ポスター を抽選で10名様にプレゼントいたします!

つまりこういう施策を組まれるようになったらアーティストは終わりなんです。サイテー。

え、曲の話?全部つまんねーからしねーよ。

Weekly Music Review #62: Parquet Courts "Sympathy for Life"

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Parquet Courtsの「Sympathy for Life」をApple Musicで

Sympathy for Life - Album by Parquet Courts | Spotify


今年日本で劇場公開されたデヴィッド・バーンのライヴ映画『アメリカン・ユートピア』が、音楽映画史に残る大大傑作であったことに異論を唱えるものは少ないであろう。バーン本人を含めたパフォーマーたちはそれぞれの楽器を手に持ち(ドラム・セットは数人のパーカッショニストによって担われ)、しかもコード類はすべてワイヤレスという大胆な発想により、ステージ上の装飾は極限まで削ぎ落とされ、ステージ上にあるのは肉体と楽器のみというある種静謐とも言える空間が映画内で展開される。しかしこの映画は、バーン達が自転車でニューヨークの街中を走る映像で幕を閉じる。(おそらく)この場面を念頭に置いた、作家の森永博志がこの映画に寄せたコメントが素晴らしい。

舞台は客席に、劇場はストリートに、直結していた。一番大事なことを改めて教えられた。

そしてParquet Courtsの新作、“Sympathy for Life”の1曲目、’Walking at a Downtown Pace'を聴いたときも、このコメントのこと、そして『アメリカン・ユートピア』のことを思い出した。

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ニューヨークという場所を舞台にしていること以外は特に明確な共通点はないのだけれど、街を歩くことがクリティカルな思考法になるのだという一種のプロテストめいた感覚が両者を貫いていると言えようか。プロテストという観点で言えば、Parquet CourtsのYouTubeチャンネルにアップロードされている「Marching at a Downtown Pace」という動画では、The Lesbian & Gay Big Apple CorpsというLGBTQ+コミュニティのためのマーチング・バンドがプライド・パレードにおいてこの曲を演奏している模様が見れる。

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最近、人間の思考の速度は歩行の速度と合致しているのではないかと思ったことがあって、でもデヴィッド・バーンにも憧れているぼくは今日も、自転車で街を走る。「考えるバンド(thinking band)」と評されるParquet Courtsの音楽は、それと妙に相性がいい。food for thought、それは移動することと、音楽を聞くことだ。

Weekly Music Review #61: BLACKSTARKIDS "Puppies Forever"

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BLACKSTARKIDSの「Puppies Forever」をApple Musicで

Puppies Forever - Album by BLACKSTARKIDS | Spotify

Amazon Music - BLACKSTARKIDSのPuppies Forever [Explicit] - Amazon.co.jp

BLACKSTARKIDS "Puppies Forever"(2021)

Remi WOLF - Juno CD at Juno Records.

Remi Wolf "Juno"(2021)

なんだかこの2作は同日にリリースされたということや、"Juno"というタイトル(前者には同名の楽曲が、後者はアルバムタイトル)、更にはジャケットの色使いに至るまで、なんだかにたものを感じる。両者ともヒップホップやR&Bといった既存のいわゆる「ブラック・ミュージック」という枠組みを超えた表現をしているという点も共通している。

ブラック・ミュージックと極彩色、といえばPファンクが始祖となるだろうか、でもBLACKSTARKIDSやRemi Wolfのそれはどうもそれとは違う。Pファンクのそれはショーアップやサイケデリアと(確か)結びついたそれで、それはどちらかといえば現在のTrippie ReddやLil Yachtyといった派手髪ラッパーへとつながっていく系譜のように思われる。だとすればBLACKSTARKIDSやRemi Wolfのこの色使いはどこから来ているのかと言われると、たぶんOdd Future周りなのではなかろうか。

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Tyler, the Creator "Cherry Bomb"(2015)

Odd Future Official Online Store

Odd Futureのマーチ

実際にBLACKSTARKIDSのメンバーたちはTyler, the Creatorを影響源として上げているわけだけれど、面白いのはTylerの名前ではなくKanye Westの名前が本作では2度でてくるというところだ。

I just wanna be the best like 3K or Kanye
('Revolt Syndrome*')

Like Kanye bitch I’m stronger
('Fight Club')

Amazon | Graduation (Clean) | West, Kanye | イーストコースト | ミュージック

Kanye West "Graduation" (2008)

思えば「ピンクのポロシャツを着た男」としてJAY-Zの前に現れたカニエこそ、BLACKSTARKIDSやRemi Wolfにつながる極彩色の色使いの始祖なのかもしれない。先日友人と話していて、「派手髪が下の世代だと全然自然に受け入れられている」という話をしたのだけれど、カニエの出現から20年ほどが経とうとしている今、それがようやくスタンダードになりつつある、というすごい話なのかもしれない(もちろん80年代回帰や、特に日本ではYouTuberの浸透も関係してきていると思うが)。

Weekly Music Review #60: Don Toliver "Life of a DON"

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ドン・トリヴァーの「Life of a DON」をApple Musicで

Life of a DON - Album by Don Toliver | Spotify

Don Toliverの名前を初めてきちんと認識したのは、2019年の暮れにリリースされた、Travis Scottが主宰するレーベル=Cactus Jackのローンチ・コンピレーション作『JACKBOYS』だった。

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その前年のTravis Scott『ASTROWORLD』にも参加しているし、『ASTROWORLD』の1日前にはデビュー・ミックステープ『Donny Womack』をメジャー・レーベル=Atlanticからリリースしているのだが、はっきりと「Travis Scottさんとこの!」と認識したのは『JACKBOYS』だったのだ。レーベルの周知が目的だった同作はきちんと役割を果たしたと言える。

その後のDon Toliverの快進撃は目覚ましい。2020年はEminemNasのアルバム参加したほか、プロデューサー集団=Internet Moneyの楽曲にGunna、Navと共に参加した「Lemonade」が特大ヒット曲に。この曲の、一度聴いたら忘れられないメロディーと声色でDon Toliverは一気にスターダムを駆け上った。

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そして同年3月には初となるフル・スタジオ・アルバム『Heaven or Hell』をCactus Jackからリリース。Travis Scott、Offset、Quavoらが客演で参加し、プロデューサーにもSonny Digital、TM88など豪華な布陣を迎え制作されたこの作品は見事ビルボード・チャートの7位にチャート・イン。

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Travis Scott譲りの、というか『Donny Womack』の時点からそうなのだが、彼の作品のスタイルは空間をたっぷり使ったサイケデリックR&B〜ヒップホップだ。そのスタイルだけではTravisの2番煎じ担ってしまいそうなところだが、彼には唯一無二の声と、彼独特の歌いまわしをもっていて、それが彼のオリジナリティを形成している。だからこそ客演ではアクセントして光るのだけれど、それが丸々1枚の作品として聞かされると飽きてしまう、というのが『Heaven or Hell』で露呈した弱点だった。

その弱点をどう克服してくるのか、というのが個人的な今作に対する期待だったのだけれど、彼は実直に自身の強みにこだわることによってそこを克服してきたな、というのが第一印象だ。

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ほとんどドラムが入らない変則的な “XSCAPE” で幕を開ける本作だが、この曲を聞くと明らかに前作よりもヴォーカルの重ね取りが念入りになされていることに気がつく。前作ではビートというキャンバスの指定されたところだけをきれいに塗ったような作品だったとすれば、今作ではそのキャンバスからはみ出さんばかりに彼の声で塗りつぶされているような作品だ。一点突破、行くぜHIP HOPPER、って感じで大変よろしい。

だから一聴すると前作と大きく変わったところはないのだけれど、実はヴォーカルの技の引き出しも(本人すら)気づかないレベルで進化している部分があり、それが1枚という作品を通して聴くと「このアルバム、いいな」というレベルで感じ取れる差分になっているのだ。

これほどまでに声に意識が行ってしまってそれ以外のディテールに注意が向かなく鳴ってしまうアーティストはそういないのだが、その1点のみしかないというところで音楽的な面白みが好みの輩にはあまり評価されないというのがかわいそうなところだ。そういう個々のプレイヤーの個性にこそ価値を見出すのがヒップホップ〜R&Bの楽しみなのにね。

<Pitchfork Sunday Review和訳>Sparks: No.1 in Heaven

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ELEKTRA • 1979

  パンクは70年代のロック・エスタブリッシュメント層を揺さぶったが、ディスコはさらにその先を行った。安全ピンや皮肉な鉤十字は、ワンピースのジャンプスーツやブギー・シューズを前に太刀打ちなどできなかった。1979年7月12日、シカゴで開催された悪名高い「ディスコ・ディモリション・ナイト」では『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックが積み上げられたが、結局、セックス・ピストルズのレコードを燃やすために野球スタジアム規模の集会を開こうとするものは誰もいなかったのだ。当時のいくつかの報道や、その後のさらなる記述がそう告げているように、その出来事に日をつけたのは単に4/4のグルーヴや甘ったるいストリングスに対する嫌悪感ではなく、慣習化されたレイシズムホモフォビアだったということは明らかである。しかし、ロックの名誉を守るためにコミスキー・パークのフィールドになだれ込んだ若者たちの理解が滑稽だったのは、彼らのヒーローたちの多くがスタジオ54のゲスト・リストに載ろうとしていたことだろう。

 1979年までに、多くの高名なロック・アクト――ローリング・ストーンズ、ロッド・ステュワート、キッス――がダンスフロア志向の作品を作り、ピンク・フロイドイーグルスレイナード・スキナードなど他のアクトたちも12インチ市場に入り込みたいという欲求を隠しながらも、ディスコの滑らかさと巧妙な音処理をいくらかは取り入れていた。これらのアーティストたちの多くにとって、ディスコは真剣な交際というよりは一晩限りの関係であり、「ディスコ・サックス」と呼びかける人たちには、コカイン中毒による過ちであり、ポップ市場に一瞬だけ譲歩したのだと説き伏せた。自分たちを完全にディスコ・アクトとして再発明し、このジャンルの鍵を握る指導者となるほどに惚れ込んだロック・バンドは現れなかった。しかしスパークスのようなバンドもまた現れなかった。彼らにとって、ディスコとは単に乗っかるための流行りではなく、グラム・ロックの「過去の人」から未来のポップの預言者に変身させた、キャリアを救った大いなるフォースだったのである。

 スパークスの物語を考えるとき、理にかなっているものはなにもない。彼らにまつわるナラティヴというのは常にどこか「ズレて」いるのだ。ラッセルとロンのマエル兄弟はテレパシー的とも言えるクリエイティヴなパートナーシップを楽しみ続け、いくつかのヒットを生み出してきた。しかしそれらのヒットは連続することがなく、ヒットする地域もバラバラなら、そのスタイルも同じではなかった。彼らのキャリアは決して終わることのないローラーコースターだったが、マエル兄弟はそのレールから滑り落ちそうなときはいつでも起動を修正することに成功してきた。彼らはある領域でファンを獲得すると次の領域でそれらを取りこぼした。古くからのフォロワーたちを急激な美学の変化で戸惑わせ、新たなニッチな領域へと踏み込んでいくのだ。

 その商業的成功の最盛期ですら、スパークスを売るのは簡単なことではなかった。ロサンゼルスを拠点としたこのグループはまず、シアトリカルな1974年のシングル “This Town Ain't Big Enough for Both of Us” でUKのグリッター・ロック・シーンを襲撃したことで評判を得た。しかし彼らの外見はグラム(=glam)でありながら不機嫌そう(=glum)だった:ラッセルのプリティな装いとは対照的に、ロンは厳格でプロフェッショナルな佇まいで、チャーリー・チャップリンにインスパイアされた口ひげを蓄えていたが、多くはそれを不気味なヒトラーのコスプレであると解釈した(マエル兄弟がユダヤ系であることもその混乱に拍車をかけた)。

 その逆張りの精神はその後の数十年間でより強固になっていった。25枚ものアルバムの中で、スパークはジャンルを一つ残らず――オペラティックなアート・ロックニューウェイヴハウス・ミュージッククラシックメタル――荒らしていった。しかし彼らのディスコグラフィーは唯一無二の粗野でありながら上品な精神によって束ねられており、それによって彼らはジョン=クロード・ヴァン・ダムの血みどろの『ノック・オフ』とレオス・カラックスの単館系狂気映画『ホーリー・モーターズ』、両方のサウンドトラックに登場する唯一のバンドとなったのだ(レオス・カラックスとの睦まじい関係は今夏、スパークスが劇伴を務めアダム・ドライバーマリオン・コティヤールが出演するカラックスのミュージカル『Annette』のリリースによって再び激化するだろう)。エドガー・ライト監督による近年の大スター出演ドキュメンタリー/ラブレターである『The Sparks Brothers』の中でも認めている通り、マエル兄弟はさらに有名なアーティストたち――ベック、ビョーク、フリー、ジャック・アントノフなど――にも愛される存在だ。その順応をしない姿勢と大胆な勇気。しかし、その性格が財産ではなく欠点であるとされていた時期もあったのだ。

 グラム・ロックが堕落しパンクへと変化していった70年代中盤、スパークスは非常に気まずいポジションに収まっていた。セックス・ピストルズラモーンズ、そしてスージー・スーといった第一波が波乱因子としてマエル兄弟を崇める一方で、当時のスパークが実際にやっていた音楽――祝祭的なアート・ポップ『Indiscreet』、下品な『Big Beat』、そしてビーチ・ボーイズにインスパイアされた幻想的な『Introducing Sparks』――は、パンクが根絶しようとしていた荘厳な過剰そのものだった。さらには、これらの作品は商業的に失敗したのだ――スパークスが最も信頼しているUKの市場ですら。しかしポゴのモッシュ・ピットに向けた作品を作って自分たちのイメージを取り戻そうとする代わりに、マエル兄弟は当時起こっていたもう一つの革命に加わろうと思い立ったのだった。

 1977年の7月にリリースされたドナ・サマーの “I Feel Love” はディスコ・シングルの『スター・ウォーズ』だった――それ以前の出来事が時代遅れで物足りなく感じてしまうほどのブロックバスターだった。この曲はサマーの、40年代からディスコまでの様々な時代の音楽を探索したコンセプト・アルバム『I Remember Yesterday』の最後の曲として当初リリースされた。“I Feel Love” は、生楽器がシンセのパターンに取って代わられ、伝統的な曲の構造が催眠的なマントラへと雲散霧消していった未来のサウンドを想像するという、最後に付け加えられたちょっとしたおふざけのようなものだった。しかしこの曲は空想ではなく予言であったことが証明され、ディスコはファンクをなめらかにした変種から、エレクトロニック・ダンス・ミュージックの土台へと移り変わっていった。

 そのプロデューサーのジョルジオ・モロダーという名前を形容詞に変えたのはこの “I Feel Love” だった。かつてはピアノをチロチロと鳴らすバブルガム・ポップムーディーなブルースのファンク版カヴァーなどをやっていたモロダー(と彼を影で支えたプロダクション・パートナー、ピート・ベロット)は、1977年には自身をジャンルとして確立していた。彼のランドマークとなったソロ・アルバム『From Here to Eternity』はサマーとの楽曲で始めたエレクトロニックな実験を作品全編に渡ってさらに押し広げ、翌年のシンセ中心のオスカー受賞作『Midnight Express』のスコアではポップの時代精神をさらに強固なものとした。モロダーの出現は偶然にもマエル兄弟がロックに幻滅し始めた時期と重なっていた。そして、やがてスパークスは5人組のバンドから兄弟二人のデュオへと解体されたのだ。

 同年代のロック・アクトの中でも、スパークスはディスコへの返信を遂げるバンドとして理想的な候補だった。土曜日のマチネと『Sgt. Pepper's』をふんだん摂取して育ったマエル兄弟は音楽に対してロールプレイ的アプローチを採っていて、不条理劇の登場人物のような風刺的な楽曲を演じてやっていた。他の兄弟バンドたちとは異なり、2人は典型的な大々的な兄弟喧嘩を避け、兄弟間の嫉妬のようなクリシェをステージ上の「くだり」に昇華させた。きっちり着飾ったロンが、まるで相手を破壊しようという計画をこっそりと練っているかのような眼差しでコケティッシュラッセルをじっと見つめる、そんなふうに。70年代のグラム・ロックの時期において、スパークスは口紅やドレス、毛皮のボアを纏うことはなかった。まえる兄弟にとって、ロックンロールこそがコスチュームであり、彼らがバカバカしい現実逃避を演じることができる乗り物だったのだ。そして着古したものは簡単に投げ捨てることができる。そんなコスチュームだった。

 彼らが語るように、スパークスがダンスフロアに転向したのはトレンドを追いかけた日和見主義的なそれというよりはむしろ、ドレスアップで遊びながら新しい実験を始めた程度のことだった。「僕たちはこのバンドの形式をどんな領域にも持っていけるんじゃないかと感じていた」ロンは2020年のインタビューで語っている。「“I Feel Love” をラジオで聞いたとき、ラッセルがこんな冷たいエレクトロニックをバックに歌ったら面白いんじゃないかと思ったんだ」。しかしそのような機材を持っていなかった彼らにできることは、そのアイデアをそれとなく打ち明けることだった。70年代のその時期、ドイツの音楽ジャーナリストがまえる兄弟に今作りたいと思っている音楽はどんなものであるかを尋ねた。兄弟はモロダーに取り組んでいるんだと語った。それは冗談めいた希望観測的考えだったが、“I Feel Love” の未来志向の考え方そのもののように、彼らの夢は次第に現実のものとなる。そのジャーナリストがたまたまモロダーの友人だったことから、それから程なくするとマエル兄弟はモロダーがミュンヘンに構えるミュージックランド・スタジオに赴き、家具ほどの大きさのシンセやシークエンサーを弄って遊んでいた。それがやがて1979年のアルバム『No.1 in Heaven』を形作っていくのである。

 露にも似た最初のシンセのしずくから、『No.1 in Heaven』はマエル兄弟の音楽的地平を広げるどころか、全く違う惑星に降り立ったかのようである。ドスンとささるような “I Feel Love” 風の鼓動が “Tryouts for the Human Race” を指導させると、その感情はさらに明白なものとなる。それまでのスパークスの最もわかりやすい曲ですらピンボールのようにあちこちを跳ね回っていたが、モロダーは彼が信頼を置くセッション・ドラマーと共に、まるでメルセデス級のペース・カーのように、キース・フォマエル兄弟を直線的な上昇の中にとどめている。ラッセルの髪を逆立てるようなボーカルが入ってくると、ロック界で最も容赦ないほどに大げさなシンガー、もとい生まれつきのディスコ・ディーヴァによるスリリングなスペクタクルが繰り広げられる。

 もちろん、70年代後期においてこのようなエレクトロニクスと戯れていたロック出身のアーティストはスパークスだけではない。しかしクラフトワークボウイチューブウェイ・アーミーなどとは対照的に、マエル兄弟はシンセサイザーのSF的側面には大した関心を払わず、ラッセルの誘惑するようなボーカルとロンの萎れさすような歌詞の間の緊張感を高めるために使用したのだ。いかにもスパークスらしいのが、『No.1 in Heaven』は単なるディスコ・アルバムではないということだ:これは、このジャンルに通底するテーマやエネルギーから着想を得、それを自分たちの特異な視点を通過させた、ディスコ「についての」アルバムである。皮肉にも、自分たちの美学を完全に作り変えたことによって、スパークスはよりスパークスらしいサウンドを獲得し、クラフトワークがヨーロッパの公共交通のような効率性を祝福したように、彼らは色欲、虚栄、物質主義にとりつかれた文化を探求したのである。

 サマーがディスコをオーガズムのような快感のための導管として扱ったのに対し、ラッセルは “Tryouts for the Human Race” を、妊娠させる英雄になるために100万分の1の確率に挑む実際の精子の視点から歌っている(「僕らの中のひとりがやってのけるかも知れない/残りは露となって消えるだろう!」)。きらめくシンセの音色の吹雪の中から現れる浮ついた “Academy Award Performance” はパパラッチのピットを通り過ぎる若手女優のようにレッド・カーペットの上を闊歩していくが、この楽曲に込められた忠告(「Play the shark! Play the bride! Joan of Arc! Mrs. Hyde!」)は、家父長主義を満足させるために多くのことなった顔を使い分けなければいけない女性の苦難を描き出している。誇らしげにヨーロッパのルーツを覗かせる “La Dolce Vita” は、モロダーの音楽が権威として君臨していた地中海のナイトクラブにお誂え向きの楽曲であるが、その関心はそのような店に出入りする人物――つまり、年配で金持ちである社交界の人々の退屈な腕遊び相手となっている若いジゴロ達――を観察することに向けられている。そして幸福感あふれる “Beat the Clock” で、マエル兄弟はディスコの容赦なく汗にまみれたリズムを、今にも制御不能になりそうな行き王で加速していくコンピューター時代のメタファーとして用い、Phdを取ること、旅行、リズ・テイラーと寝ること、といった「死ぬまでにやりたいことリスト」をおとなになる前にクリアしていきたいと思っているでしゃばった若者たちを正確に描写している。

 しかしこの卑屈な性質とドライアイスのような退廃によって、『No.1 in Heaven』は魂を浄化するような多幸感へといざなっていく。スパークスがこの作品の制作に取り掛かった頃、彼らからはヒット・ソングを書く能力が失われていた――だからこそ、彼らにできることはそれを夢見ることだけだった。このアルバムの疑似タイトル曲であり最後の曲である “The Number One Song in Heaven” は、スパークスのキャリアの年月の間ずっと浮かんでいた疑問についての究極の表明である:彼らは皮肉を言っているのか本気なのか? 確かに、髪によって書かれたチャート首位のヒット曲というコンセプトはマエル兄弟のメタユーモアの範疇にピッタリと収まるだろう。しかし、この曲に込められた、ディスコの団結的な力と身体を超越性への信念は100%本気のそれだ。雲から差し込む聖なる光のように現れるスローモーションの管で始まるこの曲は、その後突然成層圏に向かってロケットで飛んでいくような爽快な第2幕へと移行していく。“I Feel Love” がモロダーの未来を想像し用とする試みだとしたら、“The Number One Song in Heaven” は死後の世界のヴィジョンである。エレクトロニック・ディスコはスピリチュアルな経験として生まれ変わったのである。

 天国で『No.1 in Heaven』が本当にヒットであったのかを知ることは不可能であるが、この曲はスパークスをUKチャートのトップ20へ連れ戻し、このアルバムはポップ・カルチャーの中でそれなりの位置を占めることとなった。それは、ポール・マッカートニーが1980年のシングル “Coming Up” のビデオにおいてロンの特徴的な外見と仕草を真似したことからも伺える。(“Beat the Clock” は、チャートトップに輝いたビートルズのディスコ・メドレーのノベルティ・ソング “Stars on 45” で引用されたことでさらにメインストリームに浸透した)。しかしこれらの『トップ・オブ・ザ・ポップス』出演やロックスターによる承認は、このアルバムが持つ桁外れのインパクトの最初の波紋に過ぎなかった。

 ポスト・パンクの第一世代――パンクの冷笑主義とディスコの祝祭的なエネルギーの間に挟まれたティーンたち――にとって、『No.1 in Heaven』はその転覆的精神を失わずにダンスフロアの誘惑に屈することができる事を証明した。華やかさと厳格さの融合において、『No.1 in Heaven』は80年代のシンセ・ポップのネオンの輝きにも似たサウンドとセンシビリティを今我々が知っている形に形成したのである。ライトのドキュメンタリーのなかでは、デュラン・デュランデペッシュ・モード、イレイジャー、ヴィサージュ、そしてニュー・オーダーのメンバーたちがその事を断言している(ステファン・モリスは、ジョイ・ディヴィジョンの “Love Will Tear Us Apart” で “The Number One Song in Heaven” のドラム・ビートを盗んだ事を認めている)。このアルバムの影響はディケイドを越えて響き渡り続けている:“My Other Voice” のヴォーコーダー処理の構想の中には、エール(=Air)のスペース・エイジ的独身男の家のサウンドスケープや、ダフト・パンクのロボット・プログレの青写真を見つけることができるだろう。“Tryouts for the Human Race” にはLCDサウンドシステムの空を突くようなエレクトロ・ロック・アンセムの下ごしらえが聞こえる。

 スパークスとモロダーの関係はもう一枚のアルバム、さらにニュー・ウェイヴに傾倒した『Terminal Jive』を作っただけで終わってしまった。その後、「建物ほどの大きさのシンセサイザー」(ロンの談)と一緒にツアーする時のぞっとするようなロジスティックスによって、マエル兄弟は80年代に向けてスパークスを通常のバンド編成に戻そうと考え直すことになる。その後も山あり谷ありだったが、『No.1 in Heaven』はスパークスにそれらの道のりを切り抜ける自信を与えたアルバムであり、彼らがロック史上最も予測のつかない、カメレオンのような、そして素晴らしいほどに直感に反したバンドであるという伝説を確固たるものにした。40年にも渡るシンセサイザーの技術の進歩と数多の模倣者たちによって、『No.1 in Heaven』はもはや未来のサウンドを表象するものではない――しかしその技術のユートピアに響き渡るポップは、今の時代がこうであればいいのに、という意味で未来のように感じられはしないだろうか。

<Pitchfork Sunday Review和訳>Fugees: The Score

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COLUMBIA • 1996

 1994年の夏、Fugees契約を切られる瀬戸際にいた。このニュージャージーのヒップホップ・トリオによるデビューLP『Blunted on Reality』はKool and the Gangのカリス・ベイヤンがプロデュースを務めたのだが、当時人気だったアグレッシヴなストリート・サウンドに迎合しようとするあまり、プラカズレル・サミュエル・マイケルワイクリフ・ジョン、そしてローリン・ヒルの3人による多面的な視点をとらえることができていなかった。ファースト・シングルの ”Boof Baf” が商業ラジオでヒットせず、レコードの売り上げも振るわず、Fugeesはコケたかのように思われた。そしてリミックスの導師であるサラーム・レミがいなかったら、本当に失敗に終わっていたかもしれないのだ。

 この22歳のプロデューサーはカーティス・ブロウやクレイグ・Gといったヒップホップの大御所の作品を手掛けたり、シャバ・ランクススーパー・キャットダンスホール・トラックをリミックスしたりすることで名を上げた。カリブ海サウンドとストリートのブレイクビーツサウンドブレンドすることにかけては右に出る者がいない彼に、次のシングルがヒットしてほしいと願うコロンビアが目を付けた。最初に手掛けた ”Nappy Heads” では、彼らはオリジナルにある矢継ぎ早でやかましいフロウを削ぎ落し、ワイクリフとローリン・ヒルに少しゆとりをあたえ、テンポを落としてジャジーでスウィングしたベースラインを再構築した。アルバムのオリジナル録音版のタフガイ的な虚飾を捨て去って残ったのは、彼らのエネルギーのより正確な表象だった。ワイクリフの間抜けな魅力とローリンのカッコつけないカッコよさ、そしてプラーズの早熟な思慮深さ。この楽曲はすぐさまNYのHot 97(レミはファンクマスター・フレックスの番組を手掛けていた)で話題となり、ビルボードのトップ100入りを果たした。コロンビアはようやく待望のヒットを手にし、Fugeesももう一枚アルバムを作ることができることになった。

 『The Score』はその時期に行われたレミとの最初期のセッションで生まれた作品だ。”Nappy Heads” のリミックスが発表されて間もないころ、彼はファット・ジョーのために作った――そしてあしらわれた――ビートを流し、ラムゼイ・ルイスのサンプルをフリップさせてブーンバップ風の映画音楽のようなものを作り上げ、それにインスパイアされたワイクリフはその場で思いついた、それでいて予言的な最初の小節をシャウトした:「俺たちは昔はナンバー10だった/今では永久に首位だ」。ローリンが ”La” というアイデアをもってきて、フックの上で口ずさむうちに1988年のティーナ・マリーヒット曲に着想を得てこの曲を ”Fu-Gee-La” と命名した。この曲は彼らの新しいアルバムと新しいサウンドの精神的な中心をなすことにになる。

 13万5000ドルの前金と完全な創作上のコントロールをもって、プラーズ、ローリン、ワイクリフの3人はブーガ・アパートメントへと向かった。ワイクリフの叔父の家に作られた間に合わせのスタジオで、Refugee Campのクルーたちのホームとなった場所である。彼らは前金をプロフェッショナルなスタジオ機材に投資し、彼らの軌道上にいるアーティストたち(ラー・ディガ、ジョン・フォルテ、そしてまだ幼かったエイコンなど)をつなぐクリエイティヴなハブを作り上げた。それはワイクリフよそのいとこであるジェリー・ワンダが世界中で聴かれることになるヒット曲を製作する本拠地だった。『The Score』の制作と録音は1995年の5か月間の間に行われた。レンタル・スタジオの制限時間に追われることからも、レーベルの重役の油断のない眼差しからも解き放たれていた。

 ワイクリフにとって努力とは、24時間週7日休まずに働くライフスタイルのことだった。彼は信心深い父親から「罪深い音楽を作っている」とニューアークの実家を追い出されてから、このスタジオ上階の寝室に移り住んだ。歌詞のテーマはデビュー作と大きく違うところはないが、ブーガ・ベースメントで、Fugeesはついに自分たちのサウンドを見つけたのだった。「誰ともいさかいは起こさない、ブラックである前にヒューマンだ」とワイクリフは ”How Many Mics” でスピットし、Fugeesが自分たちと世界のつながりをどのように考えているのかを垣間見ることができる。「難民(=refugees)」として、そして「ヒップホッパー」としてでさえ、彼らは周縁化されることに慣れきって育った。しかしそのような経験は違いを浮かび上がらせるのと同じように多くの共通点を想起させる。彼らの視点に、聴き手は色んなものからの逃避を重ね合わせる:仕事から、家族から、警察から、あるいは自分の近隣住民からの逃避。Fugeesのメンバーたちはそれを音楽の中に見出した。ローリンが子供の頃に聴いていた70年代のR&Bやブルース、プラーズとワイクリフがラップ嫌いの宣教者である父と暮らしている間に惹かれていたロックやポップス、そして彼らが自分たちで作ろうと思い立った、カリブ海音楽に影響されたヒップホップに。これらの全てが『The Score』には収められている。この発表当時、そういう音楽はほとんどなかった。

 グループはこのような危ういパーソナリティーのバランスを、それぞれが自然に自分の強みを強調し、他の者の弱みをカバーするような明確な役割を果たすことで保っていた。プラーズは自分が音楽的に弱い部分であることに気がつくことができるほど明晰だった。彼のヴァースは常に一番短いもので、彼はポップ・ヒットを聞き分けられる耳を持っていたが、歌うことも楽器を演奏することもできなかった。しかし彼のビジネス面でその目の鋭さを発揮した:彼らをレコード契約にこぎつけさせたのも彼であったし、彼はバンドの会計をも任されていた(トップ40入を果たすことになる、70年代初頭のカバーをやろうというのも彼のアイデアだった)。夢見がちな吟遊詩人であるワイクリフは他のメンバーにかけていたミュージシャンシップを持ち込んだ。ギターとピアノに精通した彼はFugeesのショウでストリートの物語を語りながら金切り声を上げるようなソロを演奏する。彼は自分がメリー・メルやジミー・クリフと同じ役割を果たしていると感じていた。

 そして歌姫、ローリン・ヒルのお出ましである。ベスト・シンガーであり、ベスト・ラッパーであり、最もクールで、最もおとなしく、最も落ち着いているメンバーである。彼女の歌唱は甘さと強さを兼ね備え、さらには後にソロ組曲『The Miseducation of Lauryn Hill』で表現することになる弱さもそこはかとなく感じさせた。しかしMCとしてのローリンは手のつけようがなく、男社会の中での地位などに惑わされない自身に満ちた女性であった。『The Score』の中で、彼女はセクハラ野郎(“The Mask”)、マフィアもどき(”Ready or Not”)、そして一文無しのクズ(”How Many Mics”)を平然とした面持ちで蹴散らしていく。そして “Zealots” でのローリンほど、いわゆる「コンペティション」を気にしないラッパーはいなかった:

So while you fuming, I’m consuming mango juice under Polaris
You’re just embarrassed 'cause it's your last tango in Paris
And even after all my logic and my theory
I add a ‘motherfucker’ so you ignant n***as hear me
(お前が騒いでいる間、私は北極星の下でマンゴージュースを飲んでいる
それがお前にとってパリでの最後のタンゴだから、お前は恥ずかしい
そして私の理屈と理論のあとでさえ
私はバカにも聞こえるように「motherfucker」と付け加えるのさ)

 政情不安と国家による暴力に端を発したハイチの難民問題は90年代初頭、民主的な選挙で選ばれたジャン=ベルトラン・アリスティド大統領を退陣に追い込んだクーデターによってピークに達した。1982年にCDCによってHIV感染の「危険因子」であるとされた4つのグループの1つ(他の3つは「同性愛者、ヘロイン中毒者、血友病患者」)として無根拠な烙印を押されていたハイチ系アメリカ人は、暴力から逃れるために船に一斉に本国へ送還され、上陸したものは無期限に勾留された。無理もない話だが、多くのハイチ系アメリカ人たちは自分のエスニシティを隠しながら暮らし、周囲の人々は彼らをジャマイカ系や他のカリブ系からの移民であると認識していた。

 Fugeesが当初結成された頃、「難民(=refugee)」は侮蔑的な文脈で用いられることが多かった。しかしプラーズとワイクリフはその文化を肯定し、世界中の難民たちとの共通の下地を探し求めた。プラーズが「I, refugee, from Guantanamo Bay/Dance around the border like I’m Cassius Clay(俺はグアンタナモ湾からの難民だ/カシアス・クレイのように国境の上でダンスするのさ」と潜水艦の中でラップし、彼らを「boat people」と中傷するような人種差別的で違法ですらあったアメリカの国境政策をあからさまに風刺した、大予算のハリウッド・プロダクションによる “Ready or Not” のヴィデオをMTVのローテーションで見ることは本当に画期的なことだった。彼らがハイチ人にたいする明らかな侮辱に与えた影響は低呂化することができないが、ハイチ人たちが家を売るのに苦労したりハイチの商品がお店で売られることがなかった時代において、それはアイデンティティと現状の否定に関する強力なステートメントだった。ワイクリフは後に、2010年に発生したポルトープランスの大地震において、彼の運営するYéle Haiti Foundationが人道的活動のために集めた1600万ドルもの寄付金を不正に使用したとして、その善意を無駄にすることとなった。しかし90年代にあって、プラーズとワイクリフは公共空間における数少ないハイチ系の有名人であり、大半がハイチ系であるクルーが自分たちのことを「難民キャンプ(=Refugee Camp)」と呼ぶことがどれだけラディカルであったかということは無視できない事実だ。

 しかしそのエスニシティを超えたところで、この作品は大衆受けとストリートの正統性という両立しがたいバランスを保つことに成功している。当時メインストリームのメディアは彼らの印象的なライヴ・パフォーマンスのダイナミズムを強調していた。ハイプマンやバックトラックを用いていた同世代のアーティストたちとは対象的に、彼らは自分たちのヒット曲を名曲の生楽器演奏と織り込んでいた。しかしこの作品はフッドによる、フッドのための、フッドの作品であった。でもそれはギャングスターではなかった。社会的にコンシャスでありながら、移民たちの体験のリアリティによってストリートに根ざしたものだった。Fugeesはヒップホップ作品にしては驚くべきほど多様な参照元を持ち込んだ――ローリンはR&Bとソウルを、プラーズはロックとポップの影響を、そしてワイクリフがカリブ海の嗅覚を。

 “Fu-Gee-La” は『The Score』における精神的中心となっているが、この作品からの最大のヒットはカヴァー曲であり、アメリカでは公式にシングルとしてリリースされたわけでもなく、しかもアルバムの制作の中で最後に録音された楽曲だった。ロバータ・フラックの1973年のヒット曲をやろうというのはプラーズの提案だったが、この “Killing Me Softly With His Song” はローリン・ヒルが世界にその名を知らしめる起爆剤となり、『The Score』の未曾有の商業的成功への触媒となった。ワイクリフはこの曲のシングルとしてのポテンシャルに確信を持っていなかったが、ラジオ関係者は違った考えを持っていて、この曲は公式リリースなしでシングル・チャート入りを果たした。ヨーロッパではミリオン・セールスを達成したが、アメリカ市場ではある打算によってリリースされることはなかった。レーベルはこのヒットによってファンたちがこの曲を聞くためにアルバムを買うだろうと踏んでいた。ストリーミング経済となった今では再現不可能な思考法である。

 リリースされたとき、『The Score』がローリン・ヒルの発表作のほぼ4分の1を占めることになるだろうとは誰も思っていなかった。彼女はグループの中でも傑出した才能の持ち主であると目されており、その後グループの解散までの間、グループを脱退するのではないかという推測――あるいは提案――を退け続けなければいけなかった。彼女は若くしてスターダムを約束されているかのように思われた:ハイスクールを卒業する前から彼女はオフ・ブロードウェイの演劇(ヒップホップ版の『十二夜』である『Club XII』)、ソープ・オペラ(『As the World Turns』)、そして2本の映画(『天使にラブ・ソングを2』『わが町 セントルイス』)に出演し、Fugeesのデビュー作をリリースした。『The Score』で示された疑いようのない才能について、彼女やグループの成功は男性のコラボレーターのおかげであると人々(やプレス)に思われることや、ワイクリフの娘であると見られることに彼女は嫌気がさした。

 そして彼女は1998年のソロ・デビュー作『The Miseducation of Lauryn Hill』でヒップホップよりも大きな存在となった一方、『The Score』での彼女の仕事はこのジャンルで比類なきものであり続けている。どんなMCも彼女のようなソウル、パワー、そして優雅さを持って歌うことはできないし、どんなシンガーも彼女ほどハードにスピットすることができない。この言い方が少し大げさにきこえるなら、彼女のようにラップしたり歌ったり、それぞれ別々でもいいからできる同世代アーティストを挙げようとしてみるといい。シーロ? ファレル? ドレイク? 笑ってしまう。アジーリア・バンクスが “212” をドロップした時にみんなが騒いだのには理由がある。オートチューンを使った歌い手がポップ・チャートにあふれていようとも、両者のスキルが交わることはないのだ。そしてOG達ですら彼女を史上最高のMCのリストのトップ近くに入れている。このような称賛や承認の後でさえも、彼女はどこか目立たず、どこか過小評価されているように感じていた。『Miseducation』では、弱さを力強く表現することや、アルバムの作曲やプロダクションのクレジットから残虐にもコラボレーターの名前を取り除いたことにこのことが明白に示されている。

 Fugeesのレコーディング・キャリアはわずか3年しか続かなかった。マルチプラチナムを達成した傑作に続いたオファーやチャンスの洪水の中で、グループは崩壊し始めていた。ワイクリフは『The Carnival』の録音を――精神面でも創作面でも――プラーずとローリン(共にゲスト参加している)のサポートを受けながら開始した。しかしローリンが自身のソロ・デビュー作のための作曲を始めたとき、ワイクリフはそれを冷遇した。これは、ローリンがグループとの連帯のためにソロのチャンスを何度も断ってきた後では強烈な打撃となった。そのダイナミックは、2人の内密なロマンスによってさらに厄介になった。彼は別の女性と結婚していたし、ローリンもボブ・マーリーの息子であるローハンとのちに結婚するにもかかわらず、である。そしてローリンの第一子の誕生が親権をめぐるスキャンダルとなると、その裂け目は亀裂となり、迅速な和解への希望は絶たれてしまった。

 『The Score』は、3人の別々のヴィジョンを持ったアーティストがなにか特筆すべきものを作り上げられるだけの期間合体して作り上げられた、偶然の錬金術の産物である。その過程で彼らは、どのようにレコードをチョップして隠すのかではなく、その古いレコードのキュレーションが重要であるという、ヒップホップにおける許可を受けたサンプリング時代に向けたテンプレートを設計した。ラッパーやプロデューサーたちは、どうせお金を払わなければいけないのなら、オリジナルをわかりやすい形で使い、新しいオーディエンスを導いたほうがいいということにすぐさまに気がついた。“Killing Me Softly” はいくつものディケイドにまたがっている:ロバータ・フラックのヴァージョンを使っているが、それ自体がロリ・リーバーマンのオリジナルをリアレンジしたヴァージョンである。FugeesのヴァージョンはそこにA Tribe Called Questの “Bonita Applebum” のブーンバップ風のドラム・ビートを付け加えているが、この曲もミニー・リパートンのRotary Connectonの “Memory Band” をサンプルしたものなのだ。

 Fugeesは、一元的に描写されることの多いゲットーの声を多様化させた。彼らは世界中のハイチ系移民のプライドを取り戻した。ハイチ人は、植民地時代以降の貧困や紛争で悪い印象を抱かれているが、新世界で奴隷となった人々のなかで初めて圧制者に対する反乱を成功させた場所として記憶されている。彼らのサウンドが多面的なのは、彼ら自身がそうであったように、彼らの音楽も黒人の経験と同じように多様であったからである。

<Pitchfork Sunday Review和訳>The Flying Burrito Brothers: The Gilded Palace of Sin

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A&M • 1969

 1960年代後半、ヒッピー嫌いのカントリー・ミュージック・ファンが多く訪れていたノース・ハリウッドのバー「パロミノ」で、グラム・パーソンズが初めてオープン・マイク・ナイトに出演したときのことだ。お気に入りのサテンのベルボトムを履き、栗色の髪を誰よりも長く伸ばしていたパーソンズに、その男は「俺の3人の兄弟を紹介するよ」と言った。「俺たちはお前のケツを蹴ってやろうと思っていたが、お前は歌がうまいから、代わりにビールをおごってやるよ」と、男は続けた。

 グラムにとってこれ以上の賛辞はなかった。彼が後に「コズミック・アメリカン・ミュージック」と呼ぶことになる壮大な目標――カントリー、R&B、ゴスペル、ロック、そして古き良き南部のカリスマを聴覚的/精神的に融合させたもの――は一見反目し合う人々たちの間に実は隠されている共通点だったのだ。そして1960年代後期にあって、ヴェトナム戦争が世代間の断絶を拡大し、そのような団結はなかなか得難いものだった。しかしパーソンズはその分断に橋を架ける方法を探していた。ジョージ・ジョーンズのバラッドの底なしの哀愁や、バック・オーウェンズのギラギラした気概を理解できるのであれば、髪の長い徴兵逃れも悪いことではないと、保守的な人たちに納得させたかったのだ。そしてその逆に、作家のジョン・エイナーソンが2008年の『Hot Burritos: The True Story of the Flying Burrito Brothers』に書いてあるように、パーソンズは「ヒッピーの大衆にも、彼らの鼻の下に隠れていて気づかないような素晴らしくオーセンティックなアメリカン・ミュージックについて啓蒙すること」にもまた興味があった。パーソンズは自分の芸術に高尚な目標を持っていた。世間が誰も彼のことを知らない頃から彼はこころの中ではスーパースターであり、彼の「コズミック・アメリカン・ミュージック」が救済をもたらすと信じて疑わなかった。

 「コズミック・アメリカン・ミュージックだって?」Flying Buritto Brothers最初期にパーソンズと並んでフロントマンを務めたクリス・ヒルマンはエイナーソンの本の中で嘲るように笑う。「それはどういう意味なんだ?それは私が聴いてきた中で最も馬鹿げた概念だ。それにはなんの意味もない。私には理解ができなかったし、今でも理解できない。私達がやろうとしていたのはちょっとだけバックビートが効いたカントリー、だただそれだけだった」。

 これら2つの見解を合わせ――理想主義者と実利主義者、ふざけた夢想家と真面目な働き者――少しもドラッグを用いずに、さらに『Gmuby』のクレイ・アニメーター(!)という昼間の仕事を決してやめなかったペダル・スティールの達人を加えると、不完全にほぼ完璧な作品、Flying Buritto Brothersの1969年のカルト・カントリー・ロックの試金石『The Gilded Palace of Sin』に結実することになる緊張感と60年代後期特有の奇妙さが浮かび上がってくる。

 2007年のパーソンズの伝記『Twenty Thousands Roads』で、デイヴィッド・N・メイヤーはこう書いている。「過去40年間の間に生み出された、価値があり、長い間評価され、影響を与え続けているアルバムの中で、『The Gilded Palace of Sin』ほど薄っぺらくプロデュースされいい加減に演奏されている作品を見つけるのは難しい」と。それは大した主張であり、もし私が議論をしたい気分であれば少なくとも5、6つの反証を簡単に上げることができる(ではVelvet UndergroundBeat Happeningの全ての作品はどうだ?など)。そしてたしかにこの作品にはこのバンドに似合ったガタガタのエネルギーを含んでいるが、私はここで『Gilded Palace』のプロダクションが極めてリッチであると主張したいわけではない(A&Mのハウス・プロデューサー、ラリー・マークスはこの新人のデビュー・アルバムの四季を任されていたが、後に『Gilded Palace』での自分の役割を「アルバムを完成させ、物事が手に負えなくならないようにするための、仕事上の監視役」程度のものだったと語っているが、少なくともその意味では、彼の任務は達成されたと言えるだろう)。

 しかしこの作品には奇妙なバイタリティがあって、それが欠点であるように思われる部分をチャーミングに、さらに言えば意義深くさえしている。バンドと親しい関係だった多くの人々がマークスがヴォーカルのサウンドを正しく調整しなかったと信じている。彼の選択の中で最も奇妙で極端なものの一つは間違いなく、BurritoがEvery Brothersに影響されて始めた2声ハーモニーを、二人のフロントマンの声をステレオに振り分けたことだ:パーソンズの高く悲しげな歌声を左に、ヒルマンのアーシーなクルーンを左に――そして聴き手の感受性豊かな頭蓋骨はその中間にある。しかしそれによって、このレコードをヘッドホンで聴くことで自分の肩に天使と悪魔が乗っているような親密で不気味な経験をすることができる。それぞれが矛盾したアドバイスを耳に吹き込み、やがて両方が蹴っこ良いことを言っているのではないかという甘美な結論へと溶け合わさっていく。

 パーソンズの生まれは悪名高いほどに裕福で、フロリダの柑橘類収穫高の3分の1を牛耳る家族の生まれである。しかし後に彼がカバーすることになるポーター・ワグナーの名曲の言葉を借りれば、金持ちの10人に1人は満たされた心を持っているということになるが、パーソンズの家族にはそのような人は1人もいなかった。両親は並外れた酒飲みで、その子どもたちの感情的な欲求を無視した。パーソンズの父親はグラムが12歳のころ、クリスマスの2日前に銃で自殺した。彼は息子に気前の良い、だが恐ろしいクリスマス・プレゼントを残した。当時はまだ珍しかったリール・トゥ・リールのテープ・レコーダーだ。しかしそこにはグラムの父親が、彼を愛していると伝える肉声が録音されていた。若きパーソンズにとって、耐え難い痛みと弱さを生涯に渡って記録し続けるための環境が揃ったのだ。

 それと同じ頃、サンディエゴの反対側では、ヒルマンの牧歌的な中流階級の子供時代が、カウボーイに関する想像とカントリー・ミュージックで充満するようになったところだった。彼は十代にしてマンドリンの演奏を習得し、Scottsville Squirrel Barkers and the Hillmenのようなブルーグラス・バンドと一緒に演奏するようになった。しかしヒルマンの父親が彼が16歳の頃になくなった。パーソンズの場合とは異なり、それは彼が日中は働いて家族を養いながら、夜間学校に通わなければならないことを意味していた。その分断こそが、後にこのバンドの最大の特徴となる不均衡な労働倫理へとつながっていくのである。

 しかし1968年の中頃、パーソンズヒルマンは2人の間に様々な共通点を見出していた。彼らは両方真剣な関係を抜け出し、さらに同じバンドを辞めた。The Byrdsである。ヒルマンは10代の後半からByrdsに在籍し、そのバンドの突然の成功に居合わせた。パーソンズは後から加入した。彼のグループ在籍期間は1年にも満たないが、彼はバンドが1968年の画期的なカントリー・ロックのランドマーク『Sweetheart of the Rodeo』でのカントリー路線の新機軸を形成していく手助けをした。Byrdsのフロントマン、ロジャー・マッギンはそれが「正しい」方向なのか確信が持てずにいた――「彼は羊の皮をかぶった怪物だったのさ」彼はパーソンズについてこう語る。「そして彼はその羊の皮すら脱ぎ捨てたんだ。なんてことだ!スパンコールのスーツを着たジョージ・ジョーンズだ!」しかし今や自分たちのバンド、Flying Buritto Brothersを結成したパーソンズヒルマンはついに、思う存分トゥワンギーになる自由を得たのだった。

 彼ら2人が最初期に書いた名曲の一つに “Sin City” がある。聖書的な想像とヴィヴィッドなサイケデリアを融合させた悲しげなバラードである。60年代後期のカリフォルニア特有の差し迫った終末を告げるスモッグのような雰囲気が全体を包み込んでいる。「街全体が罪で溢れている、それはお前を飲み込んでしまうだろう。お前が燃やすほどの金を持っているなら」とこの青年たちはタンデムで歌い出す。少なくともこの曲では「Sin City」とはエルヴィスの晩年やルーレット・テーブルの街ではなくロサンゼルスのことであり、彼らが移り住んだ夢の光景であった。そこで2人はその俗っぽい欲求を満たそうという敵わない願いを抱いている。

 パーソンズヒルマンは馬の合わない2人だった――だが当時は違ったのだ。『Gilded Palace of Sin』に向けた楽曲を制作しているときの2人を、ヒルマンは「2人の心破れた独身男性が一緒に暮らしていた」と描写している。2人は寝室が3つついているランチハウスをリシーダに借りた。そこは3セット・ストリップとは離れており、作曲に集中し面倒事から逃れるには適していた。ヒルマンは彼とパーソンズの人生に置いてその時期が最もクリエイティヴ面で生産的な時期だったと語る。「いつもは朝5時まで外出していたのが、朝起きて作曲に取り組むようになった。毎日自発的なスケジュールで作曲をするんだ。誰かと一緒に作業をして、これほどまでにピークを感じたことはない」。

 パーソンズヒルマンが2人ともリズム・ギターを引きリード・ボーカルを分け合う中で、Flying Buritto Brothersはリード楽器が収まる枠が空いていた。そこで登場するのが「スニーキー」ピート・クライナウだ。視覚効果アニメーターでありながら、LAのカントリー・バーではよく知られたペダル・スティール奏者だった。彼がBurritosに加入したのは、彼らが1968年にスタジオに向かう直前だった(彼はまた、明らかにサイケデリック『Gumby』のテーマ・ソングのオリジナル版を作曲したことでも知られている)。パーソンズヒルマンは2人ともクライナウがByrdsの『Sweetheart』ツアーに参加するべきだと思っていたが、マッギンがそれを拒んだということも、2人がByrdsをやめた一つの理由である。クライナウの楽器にそれほど重きを置くことは確かにギャンブルだった。当時のロックのオーディエンスにとって、ペダル・スティールはスープに入ったコリアンダーのようなものだった――その一つがほかのすべてを上回ってしまうほどの威力を秘めている可能性がある、という点で。その水平なフレームと枯れ草のような音は、田舎の保守主義を強く印象付け、Burritosが達成しようとしていた相反するもの同士の繊細なバランスを崩しかねないほどに強力である。

 しかし、エメラルド色の粘土を見てGumbyというキャラクターを生み出すにはある種の自由奔放な精神を必要とするわけであって、「スニーキー」・ピートはそんじょそこらのペダル・スティール奏者とは違っていた。彼は特異で非正統的なチューニングを用い、まるでエレクトリック・ギターであるかのようにその楽器をファズボックスにつないで演奏した。A&Mのスタジオにあった16トラックのコンソールは、ステージ上よりも時間と空間をいじくる機会をスニーキーに与え、“Christine's Tune” や ”Hot Burrito #2” といった楽曲の前面にはオーバーダブされた切り裂くようなリックや重ねられたレイヤーが押し出されていた。「カントリーというのは伝統的形式の音楽だ:スニーキー・ピートは伝統的なカントリーの楽器を完全に新しい方法で演奏したんだ」とメイヤーは記している。すぐに彼だとわかるその特徴的な演奏が『Gilded Palace of Sin』の中を野火のように駆け巡っていく。

 ミシシッピ出身のベーシストクリス・エスリッジが加わり、バンドのオリジナル・ラインナップが完成した(ドラマーを見つけるのに苦労したため、『Gilded Palace』には数多くの違ったセッション・プレイヤーたちが参加している)。彼もまた、パーソンズにとって実り多い作曲のパートナーだった。2人は一緒にこの作品の中でも特に人気の2曲、”Hot Burrito #1” と ”Hot Burrito #2” を作曲した(「なんでそういう風に呼ぶことにしたのかはわからない。ほかのタイトルも考えていたんだけど」とエスリッジはエイナーソンに語っている)。「Burrito組曲」はパーソンズがソロ・ボーカルをとる唯一の楽曲であり、この2曲は同じコインの裏表である。人間の欲望を表す、偽物の金の輝きのような。

 ”Hot Burrito #1” は陶酔するような、バールーム・ピアノ・バラードである。パーソンズがそれに苦しそうなボーカルを乗せて命を吹き込んでいる。「僕はお前のおもちゃ、僕は君の老人、でも君以外には愛しているといわれたくないんだ」彼は甘く低い声で歌う。ちょうど手が届かないところにいる何か――誰か――の方向に手を伸ばしながら。それは悲しい男のカノンであり、エルヴィス・コステロが後に自身のレパートリーに入れたのも納得できる。そして次の曲――エスリッジのメロディっくなベースラインが ”Hot Burrito #2” の始まりを告げる――では彼は望んでいた女性を手に入れ、落ち着きのない様子で、家庭内の生活の突然の要求に不満を垂れる。「とぼとぼと歩いて/俺が家に帰る/何か知らせを伝えようと/ずっと待っていた/そしてお前は俺が家に一晩中いろっていうのか?」彼はその不信感を感情的に怒鳴る。ブリトーはいつでも反対側の方が熱いようだ。

 ロックスターのワナビーにしては、パーソンズは本能的にスペクタクルの力というものを理解していたようだ。アルバムのジャケットの撮影の前に、彼はバンドをヌーディー・スーツのカスタムへと連れだした。手掛けるのは伝説的な仕立て屋、ヌーディー・コーンである。メンバーのスーツは一人一人のパーソナリティーを反映したものになっている:ヒルマンは少しこわばって入るものの堂々とした威厳を持った青いビロードを身にまとい、エスリッジは花の刺繍が入った長いジャケットを着て南部の紳士を演じ、スニーキー・ピートは巨大なテロダクティル(恐竜の名前)が載ったビロードのスウェットシャツを注文した(なんでって、なんでだめなの?)。そしてメインディッシュはパーソンズだ。自分にまつわる神秘を作ることに長けていた彼は、自分の美徳をコラージュしたものを注文した。マリファナの葉っぱ、錠剤、ピンナップ・ガール、アシッドが垂らされた砂糖のキューブなどが、彼のスーツの純白の袖を誇らしげに飾っている。

 この『Gilded Palace of Sin』を、1969年の発表からずいぶん経った後になってから発見することの利点の一つは、この作品が「そこにいて実際に目撃しなければ」という類のものではないということだ。「オリジナルの編成のライブで、恥ずかしさのあまりに涙が出てこなかったことはないと思う」スニーキー・ピートは1999年にそう語っている。これらすべてのペダル・スティールのオーバーダブをステージ上で再現するのは難しかったのだ。しかしそれだけではなく、メンバーが…まあ、「ハイ」になていることももちろんあった。そして「それとは違う」ドラッグで肺になっていることもあったため、リズムを一定に保つことが厳しい冒険になってしまった(コカインを摂取したリード・シンガーとダウナー系を摂取したベーシストの組み合わせは、我々が変拍子と呼んでいるものである)。このオリジナル期のBurritosはライブではめちゃくちゃで、レーベルもいい待遇を与えてくれなくなった。プロモーション予算も削減され、批評的な成功と憧れの人物からのお墨付き(「ボーイ、大好きだ。このレコードは一瞬で僕をノックアウトしたよ」とボブ・ディランは『Rolling Stone』誌に語った)を得たにもかかわらず、『Gilded Palace』はたったの4万枚しか売れず、ビルボードでも164位どまりだった。

 Flying Burrito Brothersを立ち上げたとき、パーソンズはすでにバンドからバンドへとひょいひょいと乗り換えることで悪名高かった。彼はInternational Submarine Bnadをファースト・アルバムが出るよりも前に抜けてもっと成功をおさめていたByrdsに加入し、彼のByrds脱退を後押ししたのは、彼がさらにクールなRolling Stonesのメンバーと仲良くなったことだった。そして『Gilded Palace』がコケたとき、Flying Burrito Brothersも一夜にしてスターになるためのチケットではないことが明らかになり、彼は自己破壊へと急旋回し、必然的にヒルマンがバンドから彼を追い出した。彼らはソウルフルではないにしてもタイトな作品を作り続け、来ナップは回転式ドアのようにぐるぐると変わった。もはやオリジナル・メンバーがいなくなり、かろうじてオリジナルの名前とかすかなつながりを持つだけになったヴァージョンのバンドもいまだに音楽を作り続けている。その一方で、パーソンズのドラック問題は悪化した。彼はハードに、ファストに、そして性急に生きることをやめなかった。彼はヨシュア・ツリーのモーテルの部屋で、モルヒネのオーヴァードーズで亡くなった。まだ26歳だった。

 「死んだ奴とどうやって競争しろっていうんだ?」のちにイーグルスを結成するバーニー・レドン(1970年の2枚目『Burrito Deluxe』発表前に加入)はエイナーソンの本の中でこう尋ねている。「そんなことってできないだろ。殉教者みたいな話だ。グラムは自分の剣で倒れ、そしてヒーローになったんだ」。特定の、非常にむかつくタイプのグラム・パーソンズ信者がいることは確かだ。パーソンズのドラッグ使用を美談にし、彼の冷酷な行動や信託基金を神話化し、おそらく高価なバイクを乗り回し、パーソンズの友人たちが彼の死体を盗んで砂漠で燃やし、精神が肉体から解き放たれるとかなんとか言っていたのを本当にクールだと思っている、そういう連中だ(かくいう私も、彼らがしたことは少しだけクールだと思っているということを認めざるを得ない。ばかげているけど、クールだ)。

 『Gilded Palace of Sin』はクリス・ヒルマンなしには生まれなかった作品であり、だからこそ彼は無限の賞賛に値する。1968年秋の数か月間、グラム・パーソンズを何とか集中させて作業に取り組んだのは、並大抵のことではなかった。彼の残りのレコーディング・キャリアを特徴づける不幸な失敗やじれったい「たられば」はそのことの何よりの証左である。しかし、この素晴らしい作品において、パーソンズが感情や弱さといった流れにアクセスできるようになっていたことは明らかである。ヒルマンにはそれができなかった。Byrdsのプロデューサージム・ディクソンはメイヤーの伝記の中でこう語る。「彼ら2人は同じことをしていたんだ。でもグラムは感情を楽曲に落とし込むことに前向きだったけど、クリスは決してそうではなかった」

 そんなお互いに反対向きの力はバランスを崩す運命にあるが、この作品の中で止まっている時間においては、2人はお互いをコントロール下に置いている。ひょっとすると『Gilded Palace』が何か重要な文化的瞬間と永遠に結びついてしまうほどに成功をおさめたのではないということが、この作品をこれほど長く「現在形」にし続けているのかもしれない。このアルバムが70年代のカントリー・ロック、80年代後半から90年代初頭にかけてのオルタナ・カントリー・ブームに与えた影響については多く語られてきたが、私にはこの作品の残響がさらに最近の出来事の中からも聞こえてくるように感じられるのだ。ポスト・マローンがヌーディー・スーツを好んでいること。そしてケイシー・マスグレウヴスが2018年の傑作『Golden Hour』で、サイケデリアを用いてカントリーの境界線をぼやかしたこと。そしてリル・ナズ・Xがカントリー・ミュージックの純潔を守る守護者たちと向かい合い、やがて彼らはそれがブラフではないと気が付いたこと。”Old Town Road” は21世紀においてはじめて、「コズミック・アメリカン・ミュージック」を体現する作品にほかならない。

 パーソンズの70年代中盤のソロ作品『GP』と死後にリリースされた『Grievous Angel』には魔術的と言ってもいいくらいの力が込められているが、それを聴いている間、これはゆっくりと死に近づいている人間が歌っているのだということを忘れることは難しい。そんなカルト的な魅力がある。『Gilded Palace of Sin』はそうではない。パーソンズの周囲に一時的に漂っていた安定的な力によって、これは軽やかさと希望が詰まった可能性の瞬間を切り取った作品になっている。この作品の最後の曲、”Hippie Boy” がそれをよく表している。この曲はFlying Burrito Brothersの火薬庫の中で、一番シリアスではない曲でありながら、同時に市場シリアスな曲である――長髪の若者と、パーソンズがバー「パロミノ」で出会っていたかもしれない一見閉鎖的な心を持った男との会話を想像して書かれたスポークン・ワード作品だ。ヒルマンが両方の役を演じているが、パーソンズが彼に演技指導を行った(当時、彼は「やる前にスコッチを5分の1杯飲まないと全体が感じられない」と主張していた。「彼は1オンスの草も吸えないんだ」)。”Hippie Boy” はユートピア的な団結感のヴィジョンであり、ものすごくまじめな内容であるために少し皮肉っぽい感じで演奏される必要があった。楽曲と、そしてこのアルバムが終わりに近づくにつれて、酔っぱらった音痴な声のコーラスが古い讃美歌 ”Peace in the Valley” の一節を素早く口ずさむ。それは美しく感動的な場面であり、すぐに終わってしまうのが惜しいほどだ。より良い世界に向けた宇宙的な約束は一瞬空にかかったかと思うと、すぐに消えてしまう。