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<Pitchfork Sunday Review和訳>Sparks: No.1 in Heaven

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ELEKTRA • 1979

  パンクは70年代のロック・エスタブリッシュメント層を揺さぶったが、ディスコはさらにその先を行った。安全ピンや皮肉な鉤十字は、ワンピースのジャンプスーツやブギー・シューズを前に太刀打ちなどできなかった。1979年7月12日、シカゴで開催された悪名高い「ディスコ・ディモリション・ナイト」では『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックが積み上げられたが、結局、セックス・ピストルズのレコードを燃やすために野球スタジアム規模の集会を開こうとするものは誰もいなかったのだ。当時のいくつかの報道や、その後のさらなる記述がそう告げているように、その出来事に日をつけたのは単に4/4のグルーヴや甘ったるいストリングスに対する嫌悪感ではなく、慣習化されたレイシズムホモフォビアだったということは明らかである。しかし、ロックの名誉を守るためにコミスキー・パークのフィールドになだれ込んだ若者たちの理解が滑稽だったのは、彼らのヒーローたちの多くがスタジオ54のゲスト・リストに載ろうとしていたことだろう。

 1979年までに、多くの高名なロック・アクト――ローリング・ストーンズ、ロッド・ステュワート、キッス――がダンスフロア志向の作品を作り、ピンク・フロイドイーグルスレイナード・スキナードなど他のアクトたちも12インチ市場に入り込みたいという欲求を隠しながらも、ディスコの滑らかさと巧妙な音処理をいくらかは取り入れていた。これらのアーティストたちの多くにとって、ディスコは真剣な交際というよりは一晩限りの関係であり、「ディスコ・サックス」と呼びかける人たちには、コカイン中毒による過ちであり、ポップ市場に一瞬だけ譲歩したのだと説き伏せた。自分たちを完全にディスコ・アクトとして再発明し、このジャンルの鍵を握る指導者となるほどに惚れ込んだロック・バンドは現れなかった。しかしスパークスのようなバンドもまた現れなかった。彼らにとって、ディスコとは単に乗っかるための流行りではなく、グラム・ロックの「過去の人」から未来のポップの預言者に変身させた、キャリアを救った大いなるフォースだったのである。

 スパークスの物語を考えるとき、理にかなっているものはなにもない。彼らにまつわるナラティヴというのは常にどこか「ズレて」いるのだ。ラッセルとロンのマエル兄弟はテレパシー的とも言えるクリエイティヴなパートナーシップを楽しみ続け、いくつかのヒットを生み出してきた。しかしそれらのヒットは連続することがなく、ヒットする地域もバラバラなら、そのスタイルも同じではなかった。彼らのキャリアは決して終わることのないローラーコースターだったが、マエル兄弟はそのレールから滑り落ちそうなときはいつでも起動を修正することに成功してきた。彼らはある領域でファンを獲得すると次の領域でそれらを取りこぼした。古くからのフォロワーたちを急激な美学の変化で戸惑わせ、新たなニッチな領域へと踏み込んでいくのだ。

 その商業的成功の最盛期ですら、スパークスを売るのは簡単なことではなかった。ロサンゼルスを拠点としたこのグループはまず、シアトリカルな1974年のシングル “This Town Ain't Big Enough for Both of Us” でUKのグリッター・ロック・シーンを襲撃したことで評判を得た。しかし彼らの外見はグラム(=glam)でありながら不機嫌そう(=glum)だった:ラッセルのプリティな装いとは対照的に、ロンは厳格でプロフェッショナルな佇まいで、チャーリー・チャップリンにインスパイアされた口ひげを蓄えていたが、多くはそれを不気味なヒトラーのコスプレであると解釈した(マエル兄弟がユダヤ系であることもその混乱に拍車をかけた)。

 その逆張りの精神はその後の数十年間でより強固になっていった。25枚ものアルバムの中で、スパークはジャンルを一つ残らず――オペラティックなアート・ロックニューウェイヴハウス・ミュージッククラシックメタル――荒らしていった。しかし彼らのディスコグラフィーは唯一無二の粗野でありながら上品な精神によって束ねられており、それによって彼らはジョン=クロード・ヴァン・ダムの血みどろの『ノック・オフ』とレオス・カラックスの単館系狂気映画『ホーリー・モーターズ』、両方のサウンドトラックに登場する唯一のバンドとなったのだ(レオス・カラックスとの睦まじい関係は今夏、スパークスが劇伴を務めアダム・ドライバーマリオン・コティヤールが出演するカラックスのミュージカル『Annette』のリリースによって再び激化するだろう)。エドガー・ライト監督による近年の大スター出演ドキュメンタリー/ラブレターである『The Sparks Brothers』の中でも認めている通り、マエル兄弟はさらに有名なアーティストたち――ベック、ビョーク、フリー、ジャック・アントノフなど――にも愛される存在だ。その順応をしない姿勢と大胆な勇気。しかし、その性格が財産ではなく欠点であるとされていた時期もあったのだ。

 グラム・ロックが堕落しパンクへと変化していった70年代中盤、スパークスは非常に気まずいポジションに収まっていた。セックス・ピストルズラモーンズ、そしてスージー・スーといった第一波が波乱因子としてマエル兄弟を崇める一方で、当時のスパークが実際にやっていた音楽――祝祭的なアート・ポップ『Indiscreet』、下品な『Big Beat』、そしてビーチ・ボーイズにインスパイアされた幻想的な『Introducing Sparks』――は、パンクが根絶しようとしていた荘厳な過剰そのものだった。さらには、これらの作品は商業的に失敗したのだ――スパークスが最も信頼しているUKの市場ですら。しかしポゴのモッシュ・ピットに向けた作品を作って自分たちのイメージを取り戻そうとする代わりに、マエル兄弟は当時起こっていたもう一つの革命に加わろうと思い立ったのだった。

 1977年の7月にリリースされたドナ・サマーの “I Feel Love” はディスコ・シングルの『スター・ウォーズ』だった――それ以前の出来事が時代遅れで物足りなく感じてしまうほどのブロックバスターだった。この曲はサマーの、40年代からディスコまでの様々な時代の音楽を探索したコンセプト・アルバム『I Remember Yesterday』の最後の曲として当初リリースされた。“I Feel Love” は、生楽器がシンセのパターンに取って代わられ、伝統的な曲の構造が催眠的なマントラへと雲散霧消していった未来のサウンドを想像するという、最後に付け加えられたちょっとしたおふざけのようなものだった。しかしこの曲は空想ではなく予言であったことが証明され、ディスコはファンクをなめらかにした変種から、エレクトロニック・ダンス・ミュージックの土台へと移り変わっていった。

 そのプロデューサーのジョルジオ・モロダーという名前を形容詞に変えたのはこの “I Feel Love” だった。かつてはピアノをチロチロと鳴らすバブルガム・ポップムーディーなブルースのファンク版カヴァーなどをやっていたモロダー(と彼を影で支えたプロダクション・パートナー、ピート・ベロット)は、1977年には自身をジャンルとして確立していた。彼のランドマークとなったソロ・アルバム『From Here to Eternity』はサマーとの楽曲で始めたエレクトロニックな実験を作品全編に渡ってさらに押し広げ、翌年のシンセ中心のオスカー受賞作『Midnight Express』のスコアではポップの時代精神をさらに強固なものとした。モロダーの出現は偶然にもマエル兄弟がロックに幻滅し始めた時期と重なっていた。そして、やがてスパークスは5人組のバンドから兄弟二人のデュオへと解体されたのだ。

 同年代のロック・アクトの中でも、スパークスはディスコへの返信を遂げるバンドとして理想的な候補だった。土曜日のマチネと『Sgt. Pepper's』をふんだん摂取して育ったマエル兄弟は音楽に対してロールプレイ的アプローチを採っていて、不条理劇の登場人物のような風刺的な楽曲を演じてやっていた。他の兄弟バンドたちとは異なり、2人は典型的な大々的な兄弟喧嘩を避け、兄弟間の嫉妬のようなクリシェをステージ上の「くだり」に昇華させた。きっちり着飾ったロンが、まるで相手を破壊しようという計画をこっそりと練っているかのような眼差しでコケティッシュラッセルをじっと見つめる、そんなふうに。70年代のグラム・ロックの時期において、スパークスは口紅やドレス、毛皮のボアを纏うことはなかった。まえる兄弟にとって、ロックンロールこそがコスチュームであり、彼らがバカバカしい現実逃避を演じることができる乗り物だったのだ。そして着古したものは簡単に投げ捨てることができる。そんなコスチュームだった。

 彼らが語るように、スパークスがダンスフロアに転向したのはトレンドを追いかけた日和見主義的なそれというよりはむしろ、ドレスアップで遊びながら新しい実験を始めた程度のことだった。「僕たちはこのバンドの形式をどんな領域にも持っていけるんじゃないかと感じていた」ロンは2020年のインタビューで語っている。「“I Feel Love” をラジオで聞いたとき、ラッセルがこんな冷たいエレクトロニックをバックに歌ったら面白いんじゃないかと思ったんだ」。しかしそのような機材を持っていなかった彼らにできることは、そのアイデアをそれとなく打ち明けることだった。70年代のその時期、ドイツの音楽ジャーナリストがまえる兄弟に今作りたいと思っている音楽はどんなものであるかを尋ねた。兄弟はモロダーに取り組んでいるんだと語った。それは冗談めいた希望観測的考えだったが、“I Feel Love” の未来志向の考え方そのもののように、彼らの夢は次第に現実のものとなる。そのジャーナリストがたまたまモロダーの友人だったことから、それから程なくするとマエル兄弟はモロダーがミュンヘンに構えるミュージックランド・スタジオに赴き、家具ほどの大きさのシンセやシークエンサーを弄って遊んでいた。それがやがて1979年のアルバム『No.1 in Heaven』を形作っていくのである。

 露にも似た最初のシンセのしずくから、『No.1 in Heaven』はマエル兄弟の音楽的地平を広げるどころか、全く違う惑星に降り立ったかのようである。ドスンとささるような “I Feel Love” 風の鼓動が “Tryouts for the Human Race” を指導させると、その感情はさらに明白なものとなる。それまでのスパークスの最もわかりやすい曲ですらピンボールのようにあちこちを跳ね回っていたが、モロダーは彼が信頼を置くセッション・ドラマーと共に、まるでメルセデス級のペース・カーのように、キース・フォマエル兄弟を直線的な上昇の中にとどめている。ラッセルの髪を逆立てるようなボーカルが入ってくると、ロック界で最も容赦ないほどに大げさなシンガー、もとい生まれつきのディスコ・ディーヴァによるスリリングなスペクタクルが繰り広げられる。

 もちろん、70年代後期においてこのようなエレクトロニクスと戯れていたロック出身のアーティストはスパークスだけではない。しかしクラフトワークボウイチューブウェイ・アーミーなどとは対照的に、マエル兄弟はシンセサイザーのSF的側面には大した関心を払わず、ラッセルの誘惑するようなボーカルとロンの萎れさすような歌詞の間の緊張感を高めるために使用したのだ。いかにもスパークスらしいのが、『No.1 in Heaven』は単なるディスコ・アルバムではないということだ:これは、このジャンルに通底するテーマやエネルギーから着想を得、それを自分たちの特異な視点を通過させた、ディスコ「についての」アルバムである。皮肉にも、自分たちの美学を完全に作り変えたことによって、スパークスはよりスパークスらしいサウンドを獲得し、クラフトワークがヨーロッパの公共交通のような効率性を祝福したように、彼らは色欲、虚栄、物質主義にとりつかれた文化を探求したのである。

 サマーがディスコをオーガズムのような快感のための導管として扱ったのに対し、ラッセルは “Tryouts for the Human Race” を、妊娠させる英雄になるために100万分の1の確率に挑む実際の精子の視点から歌っている(「僕らの中のひとりがやってのけるかも知れない/残りは露となって消えるだろう!」)。きらめくシンセの音色の吹雪の中から現れる浮ついた “Academy Award Performance” はパパラッチのピットを通り過ぎる若手女優のようにレッド・カーペットの上を闊歩していくが、この楽曲に込められた忠告(「Play the shark! Play the bride! Joan of Arc! Mrs. Hyde!」)は、家父長主義を満足させるために多くのことなった顔を使い分けなければいけない女性の苦難を描き出している。誇らしげにヨーロッパのルーツを覗かせる “La Dolce Vita” は、モロダーの音楽が権威として君臨していた地中海のナイトクラブにお誂え向きの楽曲であるが、その関心はそのような店に出入りする人物――つまり、年配で金持ちである社交界の人々の退屈な腕遊び相手となっている若いジゴロ達――を観察することに向けられている。そして幸福感あふれる “Beat the Clock” で、マエル兄弟はディスコの容赦なく汗にまみれたリズムを、今にも制御不能になりそうな行き王で加速していくコンピューター時代のメタファーとして用い、Phdを取ること、旅行、リズ・テイラーと寝ること、といった「死ぬまでにやりたいことリスト」をおとなになる前にクリアしていきたいと思っているでしゃばった若者たちを正確に描写している。

 しかしこの卑屈な性質とドライアイスのような退廃によって、『No.1 in Heaven』は魂を浄化するような多幸感へといざなっていく。スパークスがこの作品の制作に取り掛かった頃、彼らからはヒット・ソングを書く能力が失われていた――だからこそ、彼らにできることはそれを夢見ることだけだった。このアルバムの疑似タイトル曲であり最後の曲である “The Number One Song in Heaven” は、スパークスのキャリアの年月の間ずっと浮かんでいた疑問についての究極の表明である:彼らは皮肉を言っているのか本気なのか? 確かに、髪によって書かれたチャート首位のヒット曲というコンセプトはマエル兄弟のメタユーモアの範疇にピッタリと収まるだろう。しかし、この曲に込められた、ディスコの団結的な力と身体を超越性への信念は100%本気のそれだ。雲から差し込む聖なる光のように現れるスローモーションの管で始まるこの曲は、その後突然成層圏に向かってロケットで飛んでいくような爽快な第2幕へと移行していく。“I Feel Love” がモロダーの未来を想像し用とする試みだとしたら、“The Number One Song in Heaven” は死後の世界のヴィジョンである。エレクトロニック・ディスコはスピリチュアルな経験として生まれ変わったのである。

 天国で『No.1 in Heaven』が本当にヒットであったのかを知ることは不可能であるが、この曲はスパークスをUKチャートのトップ20へ連れ戻し、このアルバムはポップ・カルチャーの中でそれなりの位置を占めることとなった。それは、ポール・マッカートニーが1980年のシングル “Coming Up” のビデオにおいてロンの特徴的な外見と仕草を真似したことからも伺える。(“Beat the Clock” は、チャートトップに輝いたビートルズのディスコ・メドレーのノベルティ・ソング “Stars on 45” で引用されたことでさらにメインストリームに浸透した)。しかしこれらの『トップ・オブ・ザ・ポップス』出演やロックスターによる承認は、このアルバムが持つ桁外れのインパクトの最初の波紋に過ぎなかった。

 ポスト・パンクの第一世代――パンクの冷笑主義とディスコの祝祭的なエネルギーの間に挟まれたティーンたち――にとって、『No.1 in Heaven』はその転覆的精神を失わずにダンスフロアの誘惑に屈することができる事を証明した。華やかさと厳格さの融合において、『No.1 in Heaven』は80年代のシンセ・ポップのネオンの輝きにも似たサウンドとセンシビリティを今我々が知っている形に形成したのである。ライトのドキュメンタリーのなかでは、デュラン・デュランデペッシュ・モード、イレイジャー、ヴィサージュ、そしてニュー・オーダーのメンバーたちがその事を断言している(ステファン・モリスは、ジョイ・ディヴィジョンの “Love Will Tear Us Apart” で “The Number One Song in Heaven” のドラム・ビートを盗んだ事を認めている)。このアルバムの影響はディケイドを越えて響き渡り続けている:“My Other Voice” のヴォーコーダー処理の構想の中には、エール(=Air)のスペース・エイジ的独身男の家のサウンドスケープや、ダフト・パンクのロボット・プログレの青写真を見つけることができるだろう。“Tryouts for the Human Race” にはLCDサウンドシステムの空を突くようなエレクトロ・ロック・アンセムの下ごしらえが聞こえる。

 スパークスとモロダーの関係はもう一枚のアルバム、さらにニュー・ウェイヴに傾倒した『Terminal Jive』を作っただけで終わってしまった。その後、「建物ほどの大きさのシンセサイザー」(ロンの談)と一緒にツアーする時のぞっとするようなロジスティックスによって、マエル兄弟は80年代に向けてスパークスを通常のバンド編成に戻そうと考え直すことになる。その後も山あり谷ありだったが、『No.1 in Heaven』はスパークスにそれらの道のりを切り抜ける自信を与えたアルバムであり、彼らがロック史上最も予測のつかない、カメレオンのような、そして素晴らしいほどに直感に反したバンドであるという伝説を確固たるものにした。40年にも渡るシンセサイザーの技術の進歩と数多の模倣者たちによって、『No.1 in Heaven』はもはや未来のサウンドを表象するものではない――しかしその技術のユートピアに響き渡るポップは、今の時代がこうであればいいのに、という意味で未来のように感じられはしないだろうか。