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<Pitchfork Sunday Review和訳>The Flying Burrito Brothers: The Gilded Palace of Sin

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A&M • 1969

 1960年代後半、ヒッピー嫌いのカントリー・ミュージック・ファンが多く訪れていたノース・ハリウッドのバー「パロミノ」で、グラム・パーソンズが初めてオープン・マイク・ナイトに出演したときのことだ。お気に入りのサテンのベルボトムを履き、栗色の髪を誰よりも長く伸ばしていたパーソンズに、その男は「俺の3人の兄弟を紹介するよ」と言った。「俺たちはお前のケツを蹴ってやろうと思っていたが、お前は歌がうまいから、代わりにビールをおごってやるよ」と、男は続けた。

 グラムにとってこれ以上の賛辞はなかった。彼が後に「コズミック・アメリカン・ミュージック」と呼ぶことになる壮大な目標――カントリー、R&B、ゴスペル、ロック、そして古き良き南部のカリスマを聴覚的/精神的に融合させたもの――は一見反目し合う人々たちの間に実は隠されている共通点だったのだ。そして1960年代後期にあって、ヴェトナム戦争が世代間の断絶を拡大し、そのような団結はなかなか得難いものだった。しかしパーソンズはその分断に橋を架ける方法を探していた。ジョージ・ジョーンズのバラッドの底なしの哀愁や、バック・オーウェンズのギラギラした気概を理解できるのであれば、髪の長い徴兵逃れも悪いことではないと、保守的な人たちに納得させたかったのだ。そしてその逆に、作家のジョン・エイナーソンが2008年の『Hot Burritos: The True Story of the Flying Burrito Brothers』に書いてあるように、パーソンズは「ヒッピーの大衆にも、彼らの鼻の下に隠れていて気づかないような素晴らしくオーセンティックなアメリカン・ミュージックについて啓蒙すること」にもまた興味があった。パーソンズは自分の芸術に高尚な目標を持っていた。世間が誰も彼のことを知らない頃から彼はこころの中ではスーパースターであり、彼の「コズミック・アメリカン・ミュージック」が救済をもたらすと信じて疑わなかった。

 「コズミック・アメリカン・ミュージックだって?」Flying Buritto Brothers最初期にパーソンズと並んでフロントマンを務めたクリス・ヒルマンはエイナーソンの本の中で嘲るように笑う。「それはどういう意味なんだ?それは私が聴いてきた中で最も馬鹿げた概念だ。それにはなんの意味もない。私には理解ができなかったし、今でも理解できない。私達がやろうとしていたのはちょっとだけバックビートが効いたカントリー、だただそれだけだった」。

 これら2つの見解を合わせ――理想主義者と実利主義者、ふざけた夢想家と真面目な働き者――少しもドラッグを用いずに、さらに『Gmuby』のクレイ・アニメーター(!)という昼間の仕事を決してやめなかったペダル・スティールの達人を加えると、不完全にほぼ完璧な作品、Flying Buritto Brothersの1969年のカルト・カントリー・ロックの試金石『The Gilded Palace of Sin』に結実することになる緊張感と60年代後期特有の奇妙さが浮かび上がってくる。

 2007年のパーソンズの伝記『Twenty Thousands Roads』で、デイヴィッド・N・メイヤーはこう書いている。「過去40年間の間に生み出された、価値があり、長い間評価され、影響を与え続けているアルバムの中で、『The Gilded Palace of Sin』ほど薄っぺらくプロデュースされいい加減に演奏されている作品を見つけるのは難しい」と。それは大した主張であり、もし私が議論をしたい気分であれば少なくとも5、6つの反証を簡単に上げることができる(ではVelvet UndergroundBeat Happeningの全ての作品はどうだ?など)。そしてたしかにこの作品にはこのバンドに似合ったガタガタのエネルギーを含んでいるが、私はここで『Gilded Palace』のプロダクションが極めてリッチであると主張したいわけではない(A&Mのハウス・プロデューサー、ラリー・マークスはこの新人のデビュー・アルバムの四季を任されていたが、後に『Gilded Palace』での自分の役割を「アルバムを完成させ、物事が手に負えなくならないようにするための、仕事上の監視役」程度のものだったと語っているが、少なくともその意味では、彼の任務は達成されたと言えるだろう)。

 しかしこの作品には奇妙なバイタリティがあって、それが欠点であるように思われる部分をチャーミングに、さらに言えば意義深くさえしている。バンドと親しい関係だった多くの人々がマークスがヴォーカルのサウンドを正しく調整しなかったと信じている。彼の選択の中で最も奇妙で極端なものの一つは間違いなく、BurritoがEvery Brothersに影響されて始めた2声ハーモニーを、二人のフロントマンの声をステレオに振り分けたことだ:パーソンズの高く悲しげな歌声を左に、ヒルマンのアーシーなクルーンを左に――そして聴き手の感受性豊かな頭蓋骨はその中間にある。しかしそれによって、このレコードをヘッドホンで聴くことで自分の肩に天使と悪魔が乗っているような親密で不気味な経験をすることができる。それぞれが矛盾したアドバイスを耳に吹き込み、やがて両方が蹴っこ良いことを言っているのではないかという甘美な結論へと溶け合わさっていく。

 パーソンズの生まれは悪名高いほどに裕福で、フロリダの柑橘類収穫高の3分の1を牛耳る家族の生まれである。しかし後に彼がカバーすることになるポーター・ワグナーの名曲の言葉を借りれば、金持ちの10人に1人は満たされた心を持っているということになるが、パーソンズの家族にはそのような人は1人もいなかった。両親は並外れた酒飲みで、その子どもたちの感情的な欲求を無視した。パーソンズの父親はグラムが12歳のころ、クリスマスの2日前に銃で自殺した。彼は息子に気前の良い、だが恐ろしいクリスマス・プレゼントを残した。当時はまだ珍しかったリール・トゥ・リールのテープ・レコーダーだ。しかしそこにはグラムの父親が、彼を愛していると伝える肉声が録音されていた。若きパーソンズにとって、耐え難い痛みと弱さを生涯に渡って記録し続けるための環境が揃ったのだ。

 それと同じ頃、サンディエゴの反対側では、ヒルマンの牧歌的な中流階級の子供時代が、カウボーイに関する想像とカントリー・ミュージックで充満するようになったところだった。彼は十代にしてマンドリンの演奏を習得し、Scottsville Squirrel Barkers and the Hillmenのようなブルーグラス・バンドと一緒に演奏するようになった。しかしヒルマンの父親が彼が16歳の頃になくなった。パーソンズの場合とは異なり、それは彼が日中は働いて家族を養いながら、夜間学校に通わなければならないことを意味していた。その分断こそが、後にこのバンドの最大の特徴となる不均衡な労働倫理へとつながっていくのである。

 しかし1968年の中頃、パーソンズヒルマンは2人の間に様々な共通点を見出していた。彼らは両方真剣な関係を抜け出し、さらに同じバンドを辞めた。The Byrdsである。ヒルマンは10代の後半からByrdsに在籍し、そのバンドの突然の成功に居合わせた。パーソンズは後から加入した。彼のグループ在籍期間は1年にも満たないが、彼はバンドが1968年の画期的なカントリー・ロックのランドマーク『Sweetheart of the Rodeo』でのカントリー路線の新機軸を形成していく手助けをした。Byrdsのフロントマン、ロジャー・マッギンはそれが「正しい」方向なのか確信が持てずにいた――「彼は羊の皮をかぶった怪物だったのさ」彼はパーソンズについてこう語る。「そして彼はその羊の皮すら脱ぎ捨てたんだ。なんてことだ!スパンコールのスーツを着たジョージ・ジョーンズだ!」しかし今や自分たちのバンド、Flying Buritto Brothersを結成したパーソンズヒルマンはついに、思う存分トゥワンギーになる自由を得たのだった。

 彼ら2人が最初期に書いた名曲の一つに “Sin City” がある。聖書的な想像とヴィヴィッドなサイケデリアを融合させた悲しげなバラードである。60年代後期のカリフォルニア特有の差し迫った終末を告げるスモッグのような雰囲気が全体を包み込んでいる。「街全体が罪で溢れている、それはお前を飲み込んでしまうだろう。お前が燃やすほどの金を持っているなら」とこの青年たちはタンデムで歌い出す。少なくともこの曲では「Sin City」とはエルヴィスの晩年やルーレット・テーブルの街ではなくロサンゼルスのことであり、彼らが移り住んだ夢の光景であった。そこで2人はその俗っぽい欲求を満たそうという敵わない願いを抱いている。

 パーソンズヒルマンは馬の合わない2人だった――だが当時は違ったのだ。『Gilded Palace of Sin』に向けた楽曲を制作しているときの2人を、ヒルマンは「2人の心破れた独身男性が一緒に暮らしていた」と描写している。2人は寝室が3つついているランチハウスをリシーダに借りた。そこは3セット・ストリップとは離れており、作曲に集中し面倒事から逃れるには適していた。ヒルマンは彼とパーソンズの人生に置いてその時期が最もクリエイティヴ面で生産的な時期だったと語る。「いつもは朝5時まで外出していたのが、朝起きて作曲に取り組むようになった。毎日自発的なスケジュールで作曲をするんだ。誰かと一緒に作業をして、これほどまでにピークを感じたことはない」。

 パーソンズヒルマンが2人ともリズム・ギターを引きリード・ボーカルを分け合う中で、Flying Buritto Brothersはリード楽器が収まる枠が空いていた。そこで登場するのが「スニーキー」ピート・クライナウだ。視覚効果アニメーターでありながら、LAのカントリー・バーではよく知られたペダル・スティール奏者だった。彼がBurritosに加入したのは、彼らが1968年にスタジオに向かう直前だった(彼はまた、明らかにサイケデリック『Gumby』のテーマ・ソングのオリジナル版を作曲したことでも知られている)。パーソンズヒルマンは2人ともクライナウがByrdsの『Sweetheart』ツアーに参加するべきだと思っていたが、マッギンがそれを拒んだということも、2人がByrdsをやめた一つの理由である。クライナウの楽器にそれほど重きを置くことは確かにギャンブルだった。当時のロックのオーディエンスにとって、ペダル・スティールはスープに入ったコリアンダーのようなものだった――その一つがほかのすべてを上回ってしまうほどの威力を秘めている可能性がある、という点で。その水平なフレームと枯れ草のような音は、田舎の保守主義を強く印象付け、Burritosが達成しようとしていた相反するもの同士の繊細なバランスを崩しかねないほどに強力である。

 しかし、エメラルド色の粘土を見てGumbyというキャラクターを生み出すにはある種の自由奔放な精神を必要とするわけであって、「スニーキー」・ピートはそんじょそこらのペダル・スティール奏者とは違っていた。彼は特異で非正統的なチューニングを用い、まるでエレクトリック・ギターであるかのようにその楽器をファズボックスにつないで演奏した。A&Mのスタジオにあった16トラックのコンソールは、ステージ上よりも時間と空間をいじくる機会をスニーキーに与え、“Christine's Tune” や ”Hot Burrito #2” といった楽曲の前面にはオーバーダブされた切り裂くようなリックや重ねられたレイヤーが押し出されていた。「カントリーというのは伝統的形式の音楽だ:スニーキー・ピートは伝統的なカントリーの楽器を完全に新しい方法で演奏したんだ」とメイヤーは記している。すぐに彼だとわかるその特徴的な演奏が『Gilded Palace of Sin』の中を野火のように駆け巡っていく。

 ミシシッピ出身のベーシストクリス・エスリッジが加わり、バンドのオリジナル・ラインナップが完成した(ドラマーを見つけるのに苦労したため、『Gilded Palace』には数多くの違ったセッション・プレイヤーたちが参加している)。彼もまた、パーソンズにとって実り多い作曲のパートナーだった。2人は一緒にこの作品の中でも特に人気の2曲、”Hot Burrito #1” と ”Hot Burrito #2” を作曲した(「なんでそういう風に呼ぶことにしたのかはわからない。ほかのタイトルも考えていたんだけど」とエスリッジはエイナーソンに語っている)。「Burrito組曲」はパーソンズがソロ・ボーカルをとる唯一の楽曲であり、この2曲は同じコインの裏表である。人間の欲望を表す、偽物の金の輝きのような。

 ”Hot Burrito #1” は陶酔するような、バールーム・ピアノ・バラードである。パーソンズがそれに苦しそうなボーカルを乗せて命を吹き込んでいる。「僕はお前のおもちゃ、僕は君の老人、でも君以外には愛しているといわれたくないんだ」彼は甘く低い声で歌う。ちょうど手が届かないところにいる何か――誰か――の方向に手を伸ばしながら。それは悲しい男のカノンであり、エルヴィス・コステロが後に自身のレパートリーに入れたのも納得できる。そして次の曲――エスリッジのメロディっくなベースラインが ”Hot Burrito #2” の始まりを告げる――では彼は望んでいた女性を手に入れ、落ち着きのない様子で、家庭内の生活の突然の要求に不満を垂れる。「とぼとぼと歩いて/俺が家に帰る/何か知らせを伝えようと/ずっと待っていた/そしてお前は俺が家に一晩中いろっていうのか?」彼はその不信感を感情的に怒鳴る。ブリトーはいつでも反対側の方が熱いようだ。

 ロックスターのワナビーにしては、パーソンズは本能的にスペクタクルの力というものを理解していたようだ。アルバムのジャケットの撮影の前に、彼はバンドをヌーディー・スーツのカスタムへと連れだした。手掛けるのは伝説的な仕立て屋、ヌーディー・コーンである。メンバーのスーツは一人一人のパーソナリティーを反映したものになっている:ヒルマンは少しこわばって入るものの堂々とした威厳を持った青いビロードを身にまとい、エスリッジは花の刺繍が入った長いジャケットを着て南部の紳士を演じ、スニーキー・ピートは巨大なテロダクティル(恐竜の名前)が載ったビロードのスウェットシャツを注文した(なんでって、なんでだめなの?)。そしてメインディッシュはパーソンズだ。自分にまつわる神秘を作ることに長けていた彼は、自分の美徳をコラージュしたものを注文した。マリファナの葉っぱ、錠剤、ピンナップ・ガール、アシッドが垂らされた砂糖のキューブなどが、彼のスーツの純白の袖を誇らしげに飾っている。

 この『Gilded Palace of Sin』を、1969年の発表からずいぶん経った後になってから発見することの利点の一つは、この作品が「そこにいて実際に目撃しなければ」という類のものではないということだ。「オリジナルの編成のライブで、恥ずかしさのあまりに涙が出てこなかったことはないと思う」スニーキー・ピートは1999年にそう語っている。これらすべてのペダル・スティールのオーバーダブをステージ上で再現するのは難しかったのだ。しかしそれだけではなく、メンバーが…まあ、「ハイ」になていることももちろんあった。そして「それとは違う」ドラッグで肺になっていることもあったため、リズムを一定に保つことが厳しい冒険になってしまった(コカインを摂取したリード・シンガーとダウナー系を摂取したベーシストの組み合わせは、我々が変拍子と呼んでいるものである)。このオリジナル期のBurritosはライブではめちゃくちゃで、レーベルもいい待遇を与えてくれなくなった。プロモーション予算も削減され、批評的な成功と憧れの人物からのお墨付き(「ボーイ、大好きだ。このレコードは一瞬で僕をノックアウトしたよ」とボブ・ディランは『Rolling Stone』誌に語った)を得たにもかかわらず、『Gilded Palace』はたったの4万枚しか売れず、ビルボードでも164位どまりだった。

 Flying Burrito Brothersを立ち上げたとき、パーソンズはすでにバンドからバンドへとひょいひょいと乗り換えることで悪名高かった。彼はInternational Submarine Bnadをファースト・アルバムが出るよりも前に抜けてもっと成功をおさめていたByrdsに加入し、彼のByrds脱退を後押ししたのは、彼がさらにクールなRolling Stonesのメンバーと仲良くなったことだった。そして『Gilded Palace』がコケたとき、Flying Burrito Brothersも一夜にしてスターになるためのチケットではないことが明らかになり、彼は自己破壊へと急旋回し、必然的にヒルマンがバンドから彼を追い出した。彼らはソウルフルではないにしてもタイトな作品を作り続け、来ナップは回転式ドアのようにぐるぐると変わった。もはやオリジナル・メンバーがいなくなり、かろうじてオリジナルの名前とかすかなつながりを持つだけになったヴァージョンのバンドもいまだに音楽を作り続けている。その一方で、パーソンズのドラック問題は悪化した。彼はハードに、ファストに、そして性急に生きることをやめなかった。彼はヨシュア・ツリーのモーテルの部屋で、モルヒネのオーヴァードーズで亡くなった。まだ26歳だった。

 「死んだ奴とどうやって競争しろっていうんだ?」のちにイーグルスを結成するバーニー・レドン(1970年の2枚目『Burrito Deluxe』発表前に加入)はエイナーソンの本の中でこう尋ねている。「そんなことってできないだろ。殉教者みたいな話だ。グラムは自分の剣で倒れ、そしてヒーローになったんだ」。特定の、非常にむかつくタイプのグラム・パーソンズ信者がいることは確かだ。パーソンズのドラッグ使用を美談にし、彼の冷酷な行動や信託基金を神話化し、おそらく高価なバイクを乗り回し、パーソンズの友人たちが彼の死体を盗んで砂漠で燃やし、精神が肉体から解き放たれるとかなんとか言っていたのを本当にクールだと思っている、そういう連中だ(かくいう私も、彼らがしたことは少しだけクールだと思っているということを認めざるを得ない。ばかげているけど、クールだ)。

 『Gilded Palace of Sin』はクリス・ヒルマンなしには生まれなかった作品であり、だからこそ彼は無限の賞賛に値する。1968年秋の数か月間、グラム・パーソンズを何とか集中させて作業に取り組んだのは、並大抵のことではなかった。彼の残りのレコーディング・キャリアを特徴づける不幸な失敗やじれったい「たられば」はそのことの何よりの証左である。しかし、この素晴らしい作品において、パーソンズが感情や弱さといった流れにアクセスできるようになっていたことは明らかである。ヒルマンにはそれができなかった。Byrdsのプロデューサージム・ディクソンはメイヤーの伝記の中でこう語る。「彼ら2人は同じことをしていたんだ。でもグラムは感情を楽曲に落とし込むことに前向きだったけど、クリスは決してそうではなかった」

 そんなお互いに反対向きの力はバランスを崩す運命にあるが、この作品の中で止まっている時間においては、2人はお互いをコントロール下に置いている。ひょっとすると『Gilded Palace』が何か重要な文化的瞬間と永遠に結びついてしまうほどに成功をおさめたのではないということが、この作品をこれほど長く「現在形」にし続けているのかもしれない。このアルバムが70年代のカントリー・ロック、80年代後半から90年代初頭にかけてのオルタナ・カントリー・ブームに与えた影響については多く語られてきたが、私にはこの作品の残響がさらに最近の出来事の中からも聞こえてくるように感じられるのだ。ポスト・マローンがヌーディー・スーツを好んでいること。そしてケイシー・マスグレウヴスが2018年の傑作『Golden Hour』で、サイケデリアを用いてカントリーの境界線をぼやかしたこと。そしてリル・ナズ・Xがカントリー・ミュージックの純潔を守る守護者たちと向かい合い、やがて彼らはそれがブラフではないと気が付いたこと。”Old Town Road” は21世紀においてはじめて、「コズミック・アメリカン・ミュージック」を体現する作品にほかならない。

 パーソンズの70年代中盤のソロ作品『GP』と死後にリリースされた『Grievous Angel』には魔術的と言ってもいいくらいの力が込められているが、それを聴いている間、これはゆっくりと死に近づいている人間が歌っているのだということを忘れることは難しい。そんなカルト的な魅力がある。『Gilded Palace of Sin』はそうではない。パーソンズの周囲に一時的に漂っていた安定的な力によって、これは軽やかさと希望が詰まった可能性の瞬間を切り取った作品になっている。この作品の最後の曲、”Hippie Boy” がそれをよく表している。この曲はFlying Burrito Brothersの火薬庫の中で、一番シリアスではない曲でありながら、同時に市場シリアスな曲である――長髪の若者と、パーソンズがバー「パロミノ」で出会っていたかもしれない一見閉鎖的な心を持った男との会話を想像して書かれたスポークン・ワード作品だ。ヒルマンが両方の役を演じているが、パーソンズが彼に演技指導を行った(当時、彼は「やる前にスコッチを5分の1杯飲まないと全体が感じられない」と主張していた。「彼は1オンスの草も吸えないんだ」)。”Hippie Boy” はユートピア的な団結感のヴィジョンであり、ものすごくまじめな内容であるために少し皮肉っぽい感じで演奏される必要があった。楽曲と、そしてこのアルバムが終わりに近づくにつれて、酔っぱらった音痴な声のコーラスが古い讃美歌 ”Peace in the Valley” の一節を素早く口ずさむ。それは美しく感動的な場面であり、すぐに終わってしまうのが惜しいほどだ。より良い世界に向けた宇宙的な約束は一瞬空にかかったかと思うと、すぐに消えてしまう。