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<Pitchfork Sunday Review和訳>Fugees: The Score

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COLUMBIA • 1996

 1994年の夏、Fugees契約を切られる瀬戸際にいた。このニュージャージーのヒップホップ・トリオによるデビューLP『Blunted on Reality』はKool and the Gangのカリス・ベイヤンがプロデュースを務めたのだが、当時人気だったアグレッシヴなストリート・サウンドに迎合しようとするあまり、プラカズレル・サミュエル・マイケルワイクリフ・ジョン、そしてローリン・ヒルの3人による多面的な視点をとらえることができていなかった。ファースト・シングルの ”Boof Baf” が商業ラジオでヒットせず、レコードの売り上げも振るわず、Fugeesはコケたかのように思われた。そしてリミックスの導師であるサラーム・レミがいなかったら、本当に失敗に終わっていたかもしれないのだ。

 この22歳のプロデューサーはカーティス・ブロウやクレイグ・Gといったヒップホップの大御所の作品を手掛けたり、シャバ・ランクススーパー・キャットダンスホール・トラックをリミックスしたりすることで名を上げた。カリブ海サウンドとストリートのブレイクビーツサウンドブレンドすることにかけては右に出る者がいない彼に、次のシングルがヒットしてほしいと願うコロンビアが目を付けた。最初に手掛けた ”Nappy Heads” では、彼らはオリジナルにある矢継ぎ早でやかましいフロウを削ぎ落し、ワイクリフとローリン・ヒルに少しゆとりをあたえ、テンポを落としてジャジーでスウィングしたベースラインを再構築した。アルバムのオリジナル録音版のタフガイ的な虚飾を捨て去って残ったのは、彼らのエネルギーのより正確な表象だった。ワイクリフの間抜けな魅力とローリンのカッコつけないカッコよさ、そしてプラーズの早熟な思慮深さ。この楽曲はすぐさまNYのHot 97(レミはファンクマスター・フレックスの番組を手掛けていた)で話題となり、ビルボードのトップ100入りを果たした。コロンビアはようやく待望のヒットを手にし、Fugeesももう一枚アルバムを作ることができることになった。

 『The Score』はその時期に行われたレミとの最初期のセッションで生まれた作品だ。”Nappy Heads” のリミックスが発表されて間もないころ、彼はファット・ジョーのために作った――そしてあしらわれた――ビートを流し、ラムゼイ・ルイスのサンプルをフリップさせてブーンバップ風の映画音楽のようなものを作り上げ、それにインスパイアされたワイクリフはその場で思いついた、それでいて予言的な最初の小節をシャウトした:「俺たちは昔はナンバー10だった/今では永久に首位だ」。ローリンが ”La” というアイデアをもってきて、フックの上で口ずさむうちに1988年のティーナ・マリーヒット曲に着想を得てこの曲を ”Fu-Gee-La” と命名した。この曲は彼らの新しいアルバムと新しいサウンドの精神的な中心をなすことにになる。

 13万5000ドルの前金と完全な創作上のコントロールをもって、プラーズ、ローリン、ワイクリフの3人はブーガ・アパートメントへと向かった。ワイクリフの叔父の家に作られた間に合わせのスタジオで、Refugee Campのクルーたちのホームとなった場所である。彼らは前金をプロフェッショナルなスタジオ機材に投資し、彼らの軌道上にいるアーティストたち(ラー・ディガ、ジョン・フォルテ、そしてまだ幼かったエイコンなど)をつなぐクリエイティヴなハブを作り上げた。それはワイクリフよそのいとこであるジェリー・ワンダが世界中で聴かれることになるヒット曲を製作する本拠地だった。『The Score』の制作と録音は1995年の5か月間の間に行われた。レンタル・スタジオの制限時間に追われることからも、レーベルの重役の油断のない眼差しからも解き放たれていた。

 ワイクリフにとって努力とは、24時間週7日休まずに働くライフスタイルのことだった。彼は信心深い父親から「罪深い音楽を作っている」とニューアークの実家を追い出されてから、このスタジオ上階の寝室に移り住んだ。歌詞のテーマはデビュー作と大きく違うところはないが、ブーガ・ベースメントで、Fugeesはついに自分たちのサウンドを見つけたのだった。「誰ともいさかいは起こさない、ブラックである前にヒューマンだ」とワイクリフは ”How Many Mics” でスピットし、Fugeesが自分たちと世界のつながりをどのように考えているのかを垣間見ることができる。「難民(=refugees)」として、そして「ヒップホッパー」としてでさえ、彼らは周縁化されることに慣れきって育った。しかしそのような経験は違いを浮かび上がらせるのと同じように多くの共通点を想起させる。彼らの視点に、聴き手は色んなものからの逃避を重ね合わせる:仕事から、家族から、警察から、あるいは自分の近隣住民からの逃避。Fugeesのメンバーたちはそれを音楽の中に見出した。ローリンが子供の頃に聴いていた70年代のR&Bやブルース、プラーズとワイクリフがラップ嫌いの宣教者である父と暮らしている間に惹かれていたロックやポップス、そして彼らが自分たちで作ろうと思い立った、カリブ海音楽に影響されたヒップホップに。これらの全てが『The Score』には収められている。この発表当時、そういう音楽はほとんどなかった。

 グループはこのような危ういパーソナリティーのバランスを、それぞれが自然に自分の強みを強調し、他の者の弱みをカバーするような明確な役割を果たすことで保っていた。プラーズは自分が音楽的に弱い部分であることに気がつくことができるほど明晰だった。彼のヴァースは常に一番短いもので、彼はポップ・ヒットを聞き分けられる耳を持っていたが、歌うことも楽器を演奏することもできなかった。しかし彼のビジネス面でその目の鋭さを発揮した:彼らをレコード契約にこぎつけさせたのも彼であったし、彼はバンドの会計をも任されていた(トップ40入を果たすことになる、70年代初頭のカバーをやろうというのも彼のアイデアだった)。夢見がちな吟遊詩人であるワイクリフは他のメンバーにかけていたミュージシャンシップを持ち込んだ。ギターとピアノに精通した彼はFugeesのショウでストリートの物語を語りながら金切り声を上げるようなソロを演奏する。彼は自分がメリー・メルやジミー・クリフと同じ役割を果たしていると感じていた。

 そして歌姫、ローリン・ヒルのお出ましである。ベスト・シンガーであり、ベスト・ラッパーであり、最もクールで、最もおとなしく、最も落ち着いているメンバーである。彼女の歌唱は甘さと強さを兼ね備え、さらには後にソロ組曲『The Miseducation of Lauryn Hill』で表現することになる弱さもそこはかとなく感じさせた。しかしMCとしてのローリンは手のつけようがなく、男社会の中での地位などに惑わされない自身に満ちた女性であった。『The Score』の中で、彼女はセクハラ野郎(“The Mask”)、マフィアもどき(”Ready or Not”)、そして一文無しのクズ(”How Many Mics”)を平然とした面持ちで蹴散らしていく。そして “Zealots” でのローリンほど、いわゆる「コンペティション」を気にしないラッパーはいなかった:

So while you fuming, I’m consuming mango juice under Polaris
You’re just embarrassed 'cause it's your last tango in Paris
And even after all my logic and my theory
I add a ‘motherfucker’ so you ignant n***as hear me
(お前が騒いでいる間、私は北極星の下でマンゴージュースを飲んでいる
それがお前にとってパリでの最後のタンゴだから、お前は恥ずかしい
そして私の理屈と理論のあとでさえ
私はバカにも聞こえるように「motherfucker」と付け加えるのさ)

 政情不安と国家による暴力に端を発したハイチの難民問題は90年代初頭、民主的な選挙で選ばれたジャン=ベルトラン・アリスティド大統領を退陣に追い込んだクーデターによってピークに達した。1982年にCDCによってHIV感染の「危険因子」であるとされた4つのグループの1つ(他の3つは「同性愛者、ヘロイン中毒者、血友病患者」)として無根拠な烙印を押されていたハイチ系アメリカ人は、暴力から逃れるために船に一斉に本国へ送還され、上陸したものは無期限に勾留された。無理もない話だが、多くのハイチ系アメリカ人たちは自分のエスニシティを隠しながら暮らし、周囲の人々は彼らをジャマイカ系や他のカリブ系からの移民であると認識していた。

 Fugeesが当初結成された頃、「難民(=refugee)」は侮蔑的な文脈で用いられることが多かった。しかしプラーズとワイクリフはその文化を肯定し、世界中の難民たちとの共通の下地を探し求めた。プラーズが「I, refugee, from Guantanamo Bay/Dance around the border like I’m Cassius Clay(俺はグアンタナモ湾からの難民だ/カシアス・クレイのように国境の上でダンスするのさ」と潜水艦の中でラップし、彼らを「boat people」と中傷するような人種差別的で違法ですらあったアメリカの国境政策をあからさまに風刺した、大予算のハリウッド・プロダクションによる “Ready or Not” のヴィデオをMTVのローテーションで見ることは本当に画期的なことだった。彼らがハイチ人にたいする明らかな侮辱に与えた影響は低呂化することができないが、ハイチ人たちが家を売るのに苦労したりハイチの商品がお店で売られることがなかった時代において、それはアイデンティティと現状の否定に関する強力なステートメントだった。ワイクリフは後に、2010年に発生したポルトープランスの大地震において、彼の運営するYéle Haiti Foundationが人道的活動のために集めた1600万ドルもの寄付金を不正に使用したとして、その善意を無駄にすることとなった。しかし90年代にあって、プラーズとワイクリフは公共空間における数少ないハイチ系の有名人であり、大半がハイチ系であるクルーが自分たちのことを「難民キャンプ(=Refugee Camp)」と呼ぶことがどれだけラディカルであったかということは無視できない事実だ。

 しかしそのエスニシティを超えたところで、この作品は大衆受けとストリートの正統性という両立しがたいバランスを保つことに成功している。当時メインストリームのメディアは彼らの印象的なライヴ・パフォーマンスのダイナミズムを強調していた。ハイプマンやバックトラックを用いていた同世代のアーティストたちとは対象的に、彼らは自分たちのヒット曲を名曲の生楽器演奏と織り込んでいた。しかしこの作品はフッドによる、フッドのための、フッドの作品であった。でもそれはギャングスターではなかった。社会的にコンシャスでありながら、移民たちの体験のリアリティによってストリートに根ざしたものだった。Fugeesはヒップホップ作品にしては驚くべきほど多様な参照元を持ち込んだ――ローリンはR&Bとソウルを、プラーズはロックとポップの影響を、そしてワイクリフがカリブ海の嗅覚を。

 “Fu-Gee-La” は『The Score』における精神的中心となっているが、この作品からの最大のヒットはカヴァー曲であり、アメリカでは公式にシングルとしてリリースされたわけでもなく、しかもアルバムの制作の中で最後に録音された楽曲だった。ロバータ・フラックの1973年のヒット曲をやろうというのはプラーズの提案だったが、この “Killing Me Softly With His Song” はローリン・ヒルが世界にその名を知らしめる起爆剤となり、『The Score』の未曾有の商業的成功への触媒となった。ワイクリフはこの曲のシングルとしてのポテンシャルに確信を持っていなかったが、ラジオ関係者は違った考えを持っていて、この曲は公式リリースなしでシングル・チャート入りを果たした。ヨーロッパではミリオン・セールスを達成したが、アメリカ市場ではある打算によってリリースされることはなかった。レーベルはこのヒットによってファンたちがこの曲を聞くためにアルバムを買うだろうと踏んでいた。ストリーミング経済となった今では再現不可能な思考法である。

 リリースされたとき、『The Score』がローリン・ヒルの発表作のほぼ4分の1を占めることになるだろうとは誰も思っていなかった。彼女はグループの中でも傑出した才能の持ち主であると目されており、その後グループの解散までの間、グループを脱退するのではないかという推測――あるいは提案――を退け続けなければいけなかった。彼女は若くしてスターダムを約束されているかのように思われた:ハイスクールを卒業する前から彼女はオフ・ブロードウェイの演劇(ヒップホップ版の『十二夜』である『Club XII』)、ソープ・オペラ(『As the World Turns』)、そして2本の映画(『天使にラブ・ソングを2』『わが町 セントルイス』)に出演し、Fugeesのデビュー作をリリースした。『The Score』で示された疑いようのない才能について、彼女やグループの成功は男性のコラボレーターのおかげであると人々(やプレス)に思われることや、ワイクリフの娘であると見られることに彼女は嫌気がさした。

 そして彼女は1998年のソロ・デビュー作『The Miseducation of Lauryn Hill』でヒップホップよりも大きな存在となった一方、『The Score』での彼女の仕事はこのジャンルで比類なきものであり続けている。どんなMCも彼女のようなソウル、パワー、そして優雅さを持って歌うことはできないし、どんなシンガーも彼女ほどハードにスピットすることができない。この言い方が少し大げさにきこえるなら、彼女のようにラップしたり歌ったり、それぞれ別々でもいいからできる同世代アーティストを挙げようとしてみるといい。シーロ? ファレル? ドレイク? 笑ってしまう。アジーリア・バンクスが “212” をドロップした時にみんなが騒いだのには理由がある。オートチューンを使った歌い手がポップ・チャートにあふれていようとも、両者のスキルが交わることはないのだ。そしてOG達ですら彼女を史上最高のMCのリストのトップ近くに入れている。このような称賛や承認の後でさえも、彼女はどこか目立たず、どこか過小評価されているように感じていた。『Miseducation』では、弱さを力強く表現することや、アルバムの作曲やプロダクションのクレジットから残虐にもコラボレーターの名前を取り除いたことにこのことが明白に示されている。

 Fugeesのレコーディング・キャリアはわずか3年しか続かなかった。マルチプラチナムを達成した傑作に続いたオファーやチャンスの洪水の中で、グループは崩壊し始めていた。ワイクリフは『The Carnival』の録音を――精神面でも創作面でも――プラーずとローリン(共にゲスト参加している)のサポートを受けながら開始した。しかしローリンが自身のソロ・デビュー作のための作曲を始めたとき、ワイクリフはそれを冷遇した。これは、ローリンがグループとの連帯のためにソロのチャンスを何度も断ってきた後では強烈な打撃となった。そのダイナミックは、2人の内密なロマンスによってさらに厄介になった。彼は別の女性と結婚していたし、ローリンもボブ・マーリーの息子であるローハンとのちに結婚するにもかかわらず、である。そしてローリンの第一子の誕生が親権をめぐるスキャンダルとなると、その裂け目は亀裂となり、迅速な和解への希望は絶たれてしまった。

 『The Score』は、3人の別々のヴィジョンを持ったアーティストがなにか特筆すべきものを作り上げられるだけの期間合体して作り上げられた、偶然の錬金術の産物である。その過程で彼らは、どのようにレコードをチョップして隠すのかではなく、その古いレコードのキュレーションが重要であるという、ヒップホップにおける許可を受けたサンプリング時代に向けたテンプレートを設計した。ラッパーやプロデューサーたちは、どうせお金を払わなければいけないのなら、オリジナルをわかりやすい形で使い、新しいオーディエンスを導いたほうがいいということにすぐさまに気がついた。“Killing Me Softly” はいくつものディケイドにまたがっている:ロバータ・フラックのヴァージョンを使っているが、それ自体がロリ・リーバーマンのオリジナルをリアレンジしたヴァージョンである。FugeesのヴァージョンはそこにA Tribe Called Questの “Bonita Applebum” のブーンバップ風のドラム・ビートを付け加えているが、この曲もミニー・リパートンのRotary Connectonの “Memory Band” をサンプルしたものなのだ。

 Fugeesは、一元的に描写されることの多いゲットーの声を多様化させた。彼らは世界中のハイチ系移民のプライドを取り戻した。ハイチ人は、植民地時代以降の貧困や紛争で悪い印象を抱かれているが、新世界で奴隷となった人々のなかで初めて圧制者に対する反乱を成功させた場所として記憶されている。彼らのサウンドが多面的なのは、彼ら自身がそうであったように、彼らの音楽も黒人の経験と同じように多様であったからである。