海外音楽評論・論文紹介

音楽に関するレビューや学術論文の和訳、紹介をするブログです。

<Pitchfork Sunday Review和訳>Sparks: No.1 in Heaven

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ELEKTRA • 1979

  パンクは70年代のロック・エスタブリッシュメント層を揺さぶったが、ディスコはさらにその先を行った。安全ピンや皮肉な鉤十字は、ワンピースのジャンプスーツやブギー・シューズを前に太刀打ちなどできなかった。1979年7月12日、シカゴで開催された悪名高い「ディスコ・ディモリション・ナイト」では『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックが積み上げられたが、結局、セックス・ピストルズのレコードを燃やすために野球スタジアム規模の集会を開こうとするものは誰もいなかったのだ。当時のいくつかの報道や、その後のさらなる記述がそう告げているように、その出来事に日をつけたのは単に4/4のグルーヴや甘ったるいストリングスに対する嫌悪感ではなく、慣習化されたレイシズムホモフォビアだったということは明らかである。しかし、ロックの名誉を守るためにコミスキー・パークのフィールドになだれ込んだ若者たちの理解が滑稽だったのは、彼らのヒーローたちの多くがスタジオ54のゲスト・リストに載ろうとしていたことだろう。

 1979年までに、多くの高名なロック・アクト――ローリング・ストーンズ、ロッド・ステュワート、キッス――がダンスフロア志向の作品を作り、ピンク・フロイドイーグルスレイナード・スキナードなど他のアクトたちも12インチ市場に入り込みたいという欲求を隠しながらも、ディスコの滑らかさと巧妙な音処理をいくらかは取り入れていた。これらのアーティストたちの多くにとって、ディスコは真剣な交際というよりは一晩限りの関係であり、「ディスコ・サックス」と呼びかける人たちには、コカイン中毒による過ちであり、ポップ市場に一瞬だけ譲歩したのだと説き伏せた。自分たちを完全にディスコ・アクトとして再発明し、このジャンルの鍵を握る指導者となるほどに惚れ込んだロック・バンドは現れなかった。しかしスパークスのようなバンドもまた現れなかった。彼らにとって、ディスコとは単に乗っかるための流行りではなく、グラム・ロックの「過去の人」から未来のポップの預言者に変身させた、キャリアを救った大いなるフォースだったのである。

 スパークスの物語を考えるとき、理にかなっているものはなにもない。彼らにまつわるナラティヴというのは常にどこか「ズレて」いるのだ。ラッセルとロンのマエル兄弟はテレパシー的とも言えるクリエイティヴなパートナーシップを楽しみ続け、いくつかのヒットを生み出してきた。しかしそれらのヒットは連続することがなく、ヒットする地域もバラバラなら、そのスタイルも同じではなかった。彼らのキャリアは決して終わることのないローラーコースターだったが、マエル兄弟はそのレールから滑り落ちそうなときはいつでも起動を修正することに成功してきた。彼らはある領域でファンを獲得すると次の領域でそれらを取りこぼした。古くからのフォロワーたちを急激な美学の変化で戸惑わせ、新たなニッチな領域へと踏み込んでいくのだ。

 その商業的成功の最盛期ですら、スパークスを売るのは簡単なことではなかった。ロサンゼルスを拠点としたこのグループはまず、シアトリカルな1974年のシングル “This Town Ain't Big Enough for Both of Us” でUKのグリッター・ロック・シーンを襲撃したことで評判を得た。しかし彼らの外見はグラム(=glam)でありながら不機嫌そう(=glum)だった:ラッセルのプリティな装いとは対照的に、ロンは厳格でプロフェッショナルな佇まいで、チャーリー・チャップリンにインスパイアされた口ひげを蓄えていたが、多くはそれを不気味なヒトラーのコスプレであると解釈した(マエル兄弟がユダヤ系であることもその混乱に拍車をかけた)。

 その逆張りの精神はその後の数十年間でより強固になっていった。25枚ものアルバムの中で、スパークはジャンルを一つ残らず――オペラティックなアート・ロックニューウェイヴハウス・ミュージッククラシックメタル――荒らしていった。しかし彼らのディスコグラフィーは唯一無二の粗野でありながら上品な精神によって束ねられており、それによって彼らはジョン=クロード・ヴァン・ダムの血みどろの『ノック・オフ』とレオス・カラックスの単館系狂気映画『ホーリー・モーターズ』、両方のサウンドトラックに登場する唯一のバンドとなったのだ(レオス・カラックスとの睦まじい関係は今夏、スパークスが劇伴を務めアダム・ドライバーマリオン・コティヤールが出演するカラックスのミュージカル『Annette』のリリースによって再び激化するだろう)。エドガー・ライト監督による近年の大スター出演ドキュメンタリー/ラブレターである『The Sparks Brothers』の中でも認めている通り、マエル兄弟はさらに有名なアーティストたち――ベック、ビョーク、フリー、ジャック・アントノフなど――にも愛される存在だ。その順応をしない姿勢と大胆な勇気。しかし、その性格が財産ではなく欠点であるとされていた時期もあったのだ。

 グラム・ロックが堕落しパンクへと変化していった70年代中盤、スパークスは非常に気まずいポジションに収まっていた。セックス・ピストルズラモーンズ、そしてスージー・スーといった第一波が波乱因子としてマエル兄弟を崇める一方で、当時のスパークが実際にやっていた音楽――祝祭的なアート・ポップ『Indiscreet』、下品な『Big Beat』、そしてビーチ・ボーイズにインスパイアされた幻想的な『Introducing Sparks』――は、パンクが根絶しようとしていた荘厳な過剰そのものだった。さらには、これらの作品は商業的に失敗したのだ――スパークスが最も信頼しているUKの市場ですら。しかしポゴのモッシュ・ピットに向けた作品を作って自分たちのイメージを取り戻そうとする代わりに、マエル兄弟は当時起こっていたもう一つの革命に加わろうと思い立ったのだった。

 1977年の7月にリリースされたドナ・サマーの “I Feel Love” はディスコ・シングルの『スター・ウォーズ』だった――それ以前の出来事が時代遅れで物足りなく感じてしまうほどのブロックバスターだった。この曲はサマーの、40年代からディスコまでの様々な時代の音楽を探索したコンセプト・アルバム『I Remember Yesterday』の最後の曲として当初リリースされた。“I Feel Love” は、生楽器がシンセのパターンに取って代わられ、伝統的な曲の構造が催眠的なマントラへと雲散霧消していった未来のサウンドを想像するという、最後に付け加えられたちょっとしたおふざけのようなものだった。しかしこの曲は空想ではなく予言であったことが証明され、ディスコはファンクをなめらかにした変種から、エレクトロニック・ダンス・ミュージックの土台へと移り変わっていった。

 そのプロデューサーのジョルジオ・モロダーという名前を形容詞に変えたのはこの “I Feel Love” だった。かつてはピアノをチロチロと鳴らすバブルガム・ポップムーディーなブルースのファンク版カヴァーなどをやっていたモロダー(と彼を影で支えたプロダクション・パートナー、ピート・ベロット)は、1977年には自身をジャンルとして確立していた。彼のランドマークとなったソロ・アルバム『From Here to Eternity』はサマーとの楽曲で始めたエレクトロニックな実験を作品全編に渡ってさらに押し広げ、翌年のシンセ中心のオスカー受賞作『Midnight Express』のスコアではポップの時代精神をさらに強固なものとした。モロダーの出現は偶然にもマエル兄弟がロックに幻滅し始めた時期と重なっていた。そして、やがてスパークスは5人組のバンドから兄弟二人のデュオへと解体されたのだ。

 同年代のロック・アクトの中でも、スパークスはディスコへの返信を遂げるバンドとして理想的な候補だった。土曜日のマチネと『Sgt. Pepper's』をふんだん摂取して育ったマエル兄弟は音楽に対してロールプレイ的アプローチを採っていて、不条理劇の登場人物のような風刺的な楽曲を演じてやっていた。他の兄弟バンドたちとは異なり、2人は典型的な大々的な兄弟喧嘩を避け、兄弟間の嫉妬のようなクリシェをステージ上の「くだり」に昇華させた。きっちり着飾ったロンが、まるで相手を破壊しようという計画をこっそりと練っているかのような眼差しでコケティッシュラッセルをじっと見つめる、そんなふうに。70年代のグラム・ロックの時期において、スパークスは口紅やドレス、毛皮のボアを纏うことはなかった。まえる兄弟にとって、ロックンロールこそがコスチュームであり、彼らがバカバカしい現実逃避を演じることができる乗り物だったのだ。そして着古したものは簡単に投げ捨てることができる。そんなコスチュームだった。

 彼らが語るように、スパークスがダンスフロアに転向したのはトレンドを追いかけた日和見主義的なそれというよりはむしろ、ドレスアップで遊びながら新しい実験を始めた程度のことだった。「僕たちはこのバンドの形式をどんな領域にも持っていけるんじゃないかと感じていた」ロンは2020年のインタビューで語っている。「“I Feel Love” をラジオで聞いたとき、ラッセルがこんな冷たいエレクトロニックをバックに歌ったら面白いんじゃないかと思ったんだ」。しかしそのような機材を持っていなかった彼らにできることは、そのアイデアをそれとなく打ち明けることだった。70年代のその時期、ドイツの音楽ジャーナリストがまえる兄弟に今作りたいと思っている音楽はどんなものであるかを尋ねた。兄弟はモロダーに取り組んでいるんだと語った。それは冗談めいた希望観測的考えだったが、“I Feel Love” の未来志向の考え方そのもののように、彼らの夢は次第に現実のものとなる。そのジャーナリストがたまたまモロダーの友人だったことから、それから程なくするとマエル兄弟はモロダーがミュンヘンに構えるミュージックランド・スタジオに赴き、家具ほどの大きさのシンセやシークエンサーを弄って遊んでいた。それがやがて1979年のアルバム『No.1 in Heaven』を形作っていくのである。

 露にも似た最初のシンセのしずくから、『No.1 in Heaven』はマエル兄弟の音楽的地平を広げるどころか、全く違う惑星に降り立ったかのようである。ドスンとささるような “I Feel Love” 風の鼓動が “Tryouts for the Human Race” を指導させると、その感情はさらに明白なものとなる。それまでのスパークスの最もわかりやすい曲ですらピンボールのようにあちこちを跳ね回っていたが、モロダーは彼が信頼を置くセッション・ドラマーと共に、まるでメルセデス級のペース・カーのように、キース・フォマエル兄弟を直線的な上昇の中にとどめている。ラッセルの髪を逆立てるようなボーカルが入ってくると、ロック界で最も容赦ないほどに大げさなシンガー、もとい生まれつきのディスコ・ディーヴァによるスリリングなスペクタクルが繰り広げられる。

 もちろん、70年代後期においてこのようなエレクトロニクスと戯れていたロック出身のアーティストはスパークスだけではない。しかしクラフトワークボウイチューブウェイ・アーミーなどとは対照的に、マエル兄弟はシンセサイザーのSF的側面には大した関心を払わず、ラッセルの誘惑するようなボーカルとロンの萎れさすような歌詞の間の緊張感を高めるために使用したのだ。いかにもスパークスらしいのが、『No.1 in Heaven』は単なるディスコ・アルバムではないということだ:これは、このジャンルに通底するテーマやエネルギーから着想を得、それを自分たちの特異な視点を通過させた、ディスコ「についての」アルバムである。皮肉にも、自分たちの美学を完全に作り変えたことによって、スパークスはよりスパークスらしいサウンドを獲得し、クラフトワークがヨーロッパの公共交通のような効率性を祝福したように、彼らは色欲、虚栄、物質主義にとりつかれた文化を探求したのである。

 サマーがディスコをオーガズムのような快感のための導管として扱ったのに対し、ラッセルは “Tryouts for the Human Race” を、妊娠させる英雄になるために100万分の1の確率に挑む実際の精子の視点から歌っている(「僕らの中のひとりがやってのけるかも知れない/残りは露となって消えるだろう!」)。きらめくシンセの音色の吹雪の中から現れる浮ついた “Academy Award Performance” はパパラッチのピットを通り過ぎる若手女優のようにレッド・カーペットの上を闊歩していくが、この楽曲に込められた忠告(「Play the shark! Play the bride! Joan of Arc! Mrs. Hyde!」)は、家父長主義を満足させるために多くのことなった顔を使い分けなければいけない女性の苦難を描き出している。誇らしげにヨーロッパのルーツを覗かせる “La Dolce Vita” は、モロダーの音楽が権威として君臨していた地中海のナイトクラブにお誂え向きの楽曲であるが、その関心はそのような店に出入りする人物――つまり、年配で金持ちである社交界の人々の退屈な腕遊び相手となっている若いジゴロ達――を観察することに向けられている。そして幸福感あふれる “Beat the Clock” で、マエル兄弟はディスコの容赦なく汗にまみれたリズムを、今にも制御不能になりそうな行き王で加速していくコンピューター時代のメタファーとして用い、Phdを取ること、旅行、リズ・テイラーと寝ること、といった「死ぬまでにやりたいことリスト」をおとなになる前にクリアしていきたいと思っているでしゃばった若者たちを正確に描写している。

 しかしこの卑屈な性質とドライアイスのような退廃によって、『No.1 in Heaven』は魂を浄化するような多幸感へといざなっていく。スパークスがこの作品の制作に取り掛かった頃、彼らからはヒット・ソングを書く能力が失われていた――だからこそ、彼らにできることはそれを夢見ることだけだった。このアルバムの疑似タイトル曲であり最後の曲である “The Number One Song in Heaven” は、スパークスのキャリアの年月の間ずっと浮かんでいた疑問についての究極の表明である:彼らは皮肉を言っているのか本気なのか? 確かに、髪によって書かれたチャート首位のヒット曲というコンセプトはマエル兄弟のメタユーモアの範疇にピッタリと収まるだろう。しかし、この曲に込められた、ディスコの団結的な力と身体を超越性への信念は100%本気のそれだ。雲から差し込む聖なる光のように現れるスローモーションの管で始まるこの曲は、その後突然成層圏に向かってロケットで飛んでいくような爽快な第2幕へと移行していく。“I Feel Love” がモロダーの未来を想像し用とする試みだとしたら、“The Number One Song in Heaven” は死後の世界のヴィジョンである。エレクトロニック・ディスコはスピリチュアルな経験として生まれ変わったのである。

 天国で『No.1 in Heaven』が本当にヒットであったのかを知ることは不可能であるが、この曲はスパークスをUKチャートのトップ20へ連れ戻し、このアルバムはポップ・カルチャーの中でそれなりの位置を占めることとなった。それは、ポール・マッカートニーが1980年のシングル “Coming Up” のビデオにおいてロンの特徴的な外見と仕草を真似したことからも伺える。(“Beat the Clock” は、チャートトップに輝いたビートルズのディスコ・メドレーのノベルティ・ソング “Stars on 45” で引用されたことでさらにメインストリームに浸透した)。しかしこれらの『トップ・オブ・ザ・ポップス』出演やロックスターによる承認は、このアルバムが持つ桁外れのインパクトの最初の波紋に過ぎなかった。

 ポスト・パンクの第一世代――パンクの冷笑主義とディスコの祝祭的なエネルギーの間に挟まれたティーンたち――にとって、『No.1 in Heaven』はその転覆的精神を失わずにダンスフロアの誘惑に屈することができる事を証明した。華やかさと厳格さの融合において、『No.1 in Heaven』は80年代のシンセ・ポップのネオンの輝きにも似たサウンドとセンシビリティを今我々が知っている形に形成したのである。ライトのドキュメンタリーのなかでは、デュラン・デュランデペッシュ・モード、イレイジャー、ヴィサージュ、そしてニュー・オーダーのメンバーたちがその事を断言している(ステファン・モリスは、ジョイ・ディヴィジョンの “Love Will Tear Us Apart” で “The Number One Song in Heaven” のドラム・ビートを盗んだ事を認めている)。このアルバムの影響はディケイドを越えて響き渡り続けている:“My Other Voice” のヴォーコーダー処理の構想の中には、エール(=Air)のスペース・エイジ的独身男の家のサウンドスケープや、ダフト・パンクのロボット・プログレの青写真を見つけることができるだろう。“Tryouts for the Human Race” にはLCDサウンドシステムの空を突くようなエレクトロ・ロック・アンセムの下ごしらえが聞こえる。

 スパークスとモロダーの関係はもう一枚のアルバム、さらにニュー・ウェイヴに傾倒した『Terminal Jive』を作っただけで終わってしまった。その後、「建物ほどの大きさのシンセサイザー」(ロンの談)と一緒にツアーする時のぞっとするようなロジスティックスによって、マエル兄弟は80年代に向けてスパークスを通常のバンド編成に戻そうと考え直すことになる。その後も山あり谷ありだったが、『No.1 in Heaven』はスパークスにそれらの道のりを切り抜ける自信を与えたアルバムであり、彼らがロック史上最も予測のつかない、カメレオンのような、そして素晴らしいほどに直感に反したバンドであるという伝説を確固たるものにした。40年にも渡るシンセサイザーの技術の進歩と数多の模倣者たちによって、『No.1 in Heaven』はもはや未来のサウンドを表象するものではない――しかしその技術のユートピアに響き渡るポップは、今の時代がこうであればいいのに、という意味で未来のように感じられはしないだろうか。

<Pitchfork Sunday Review和訳>Fugees: The Score

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COLUMBIA • 1996

 1994年の夏、Fugees契約を切られる瀬戸際にいた。このニュージャージーのヒップホップ・トリオによるデビューLP『Blunted on Reality』はKool and the Gangのカリス・ベイヤンがプロデュースを務めたのだが、当時人気だったアグレッシヴなストリート・サウンドに迎合しようとするあまり、プラカズレル・サミュエル・マイケルワイクリフ・ジョン、そしてローリン・ヒルの3人による多面的な視点をとらえることができていなかった。ファースト・シングルの ”Boof Baf” が商業ラジオでヒットせず、レコードの売り上げも振るわず、Fugeesはコケたかのように思われた。そしてリミックスの導師であるサラーム・レミがいなかったら、本当に失敗に終わっていたかもしれないのだ。

 この22歳のプロデューサーはカーティス・ブロウやクレイグ・Gといったヒップホップの大御所の作品を手掛けたり、シャバ・ランクススーパー・キャットダンスホール・トラックをリミックスしたりすることで名を上げた。カリブ海サウンドとストリートのブレイクビーツサウンドブレンドすることにかけては右に出る者がいない彼に、次のシングルがヒットしてほしいと願うコロンビアが目を付けた。最初に手掛けた ”Nappy Heads” では、彼らはオリジナルにある矢継ぎ早でやかましいフロウを削ぎ落し、ワイクリフとローリン・ヒルに少しゆとりをあたえ、テンポを落としてジャジーでスウィングしたベースラインを再構築した。アルバムのオリジナル録音版のタフガイ的な虚飾を捨て去って残ったのは、彼らのエネルギーのより正確な表象だった。ワイクリフの間抜けな魅力とローリンのカッコつけないカッコよさ、そしてプラーズの早熟な思慮深さ。この楽曲はすぐさまNYのHot 97(レミはファンクマスター・フレックスの番組を手掛けていた)で話題となり、ビルボードのトップ100入りを果たした。コロンビアはようやく待望のヒットを手にし、Fugeesももう一枚アルバムを作ることができることになった。

 『The Score』はその時期に行われたレミとの最初期のセッションで生まれた作品だ。”Nappy Heads” のリミックスが発表されて間もないころ、彼はファット・ジョーのために作った――そしてあしらわれた――ビートを流し、ラムゼイ・ルイスのサンプルをフリップさせてブーンバップ風の映画音楽のようなものを作り上げ、それにインスパイアされたワイクリフはその場で思いついた、それでいて予言的な最初の小節をシャウトした:「俺たちは昔はナンバー10だった/今では永久に首位だ」。ローリンが ”La” というアイデアをもってきて、フックの上で口ずさむうちに1988年のティーナ・マリーヒット曲に着想を得てこの曲を ”Fu-Gee-La” と命名した。この曲は彼らの新しいアルバムと新しいサウンドの精神的な中心をなすことにになる。

 13万5000ドルの前金と完全な創作上のコントロールをもって、プラーズ、ローリン、ワイクリフの3人はブーガ・アパートメントへと向かった。ワイクリフの叔父の家に作られた間に合わせのスタジオで、Refugee Campのクルーたちのホームとなった場所である。彼らは前金をプロフェッショナルなスタジオ機材に投資し、彼らの軌道上にいるアーティストたち(ラー・ディガ、ジョン・フォルテ、そしてまだ幼かったエイコンなど)をつなぐクリエイティヴなハブを作り上げた。それはワイクリフよそのいとこであるジェリー・ワンダが世界中で聴かれることになるヒット曲を製作する本拠地だった。『The Score』の制作と録音は1995年の5か月間の間に行われた。レンタル・スタジオの制限時間に追われることからも、レーベルの重役の油断のない眼差しからも解き放たれていた。

 ワイクリフにとって努力とは、24時間週7日休まずに働くライフスタイルのことだった。彼は信心深い父親から「罪深い音楽を作っている」とニューアークの実家を追い出されてから、このスタジオ上階の寝室に移り住んだ。歌詞のテーマはデビュー作と大きく違うところはないが、ブーガ・ベースメントで、Fugeesはついに自分たちのサウンドを見つけたのだった。「誰ともいさかいは起こさない、ブラックである前にヒューマンだ」とワイクリフは ”How Many Mics” でスピットし、Fugeesが自分たちと世界のつながりをどのように考えているのかを垣間見ることができる。「難民(=refugees)」として、そして「ヒップホッパー」としてでさえ、彼らは周縁化されることに慣れきって育った。しかしそのような経験は違いを浮かび上がらせるのと同じように多くの共通点を想起させる。彼らの視点に、聴き手は色んなものからの逃避を重ね合わせる:仕事から、家族から、警察から、あるいは自分の近隣住民からの逃避。Fugeesのメンバーたちはそれを音楽の中に見出した。ローリンが子供の頃に聴いていた70年代のR&Bやブルース、プラーズとワイクリフがラップ嫌いの宣教者である父と暮らしている間に惹かれていたロックやポップス、そして彼らが自分たちで作ろうと思い立った、カリブ海音楽に影響されたヒップホップに。これらの全てが『The Score』には収められている。この発表当時、そういう音楽はほとんどなかった。

 グループはこのような危ういパーソナリティーのバランスを、それぞれが自然に自分の強みを強調し、他の者の弱みをカバーするような明確な役割を果たすことで保っていた。プラーズは自分が音楽的に弱い部分であることに気がつくことができるほど明晰だった。彼のヴァースは常に一番短いもので、彼はポップ・ヒットを聞き分けられる耳を持っていたが、歌うことも楽器を演奏することもできなかった。しかし彼のビジネス面でその目の鋭さを発揮した:彼らをレコード契約にこぎつけさせたのも彼であったし、彼はバンドの会計をも任されていた(トップ40入を果たすことになる、70年代初頭のカバーをやろうというのも彼のアイデアだった)。夢見がちな吟遊詩人であるワイクリフは他のメンバーにかけていたミュージシャンシップを持ち込んだ。ギターとピアノに精通した彼はFugeesのショウでストリートの物語を語りながら金切り声を上げるようなソロを演奏する。彼は自分がメリー・メルやジミー・クリフと同じ役割を果たしていると感じていた。

 そして歌姫、ローリン・ヒルのお出ましである。ベスト・シンガーであり、ベスト・ラッパーであり、最もクールで、最もおとなしく、最も落ち着いているメンバーである。彼女の歌唱は甘さと強さを兼ね備え、さらには後にソロ組曲『The Miseducation of Lauryn Hill』で表現することになる弱さもそこはかとなく感じさせた。しかしMCとしてのローリンは手のつけようがなく、男社会の中での地位などに惑わされない自身に満ちた女性であった。『The Score』の中で、彼女はセクハラ野郎(“The Mask”)、マフィアもどき(”Ready or Not”)、そして一文無しのクズ(”How Many Mics”)を平然とした面持ちで蹴散らしていく。そして “Zealots” でのローリンほど、いわゆる「コンペティション」を気にしないラッパーはいなかった:

So while you fuming, I’m consuming mango juice under Polaris
You’re just embarrassed 'cause it's your last tango in Paris
And even after all my logic and my theory
I add a ‘motherfucker’ so you ignant n***as hear me
(お前が騒いでいる間、私は北極星の下でマンゴージュースを飲んでいる
それがお前にとってパリでの最後のタンゴだから、お前は恥ずかしい
そして私の理屈と理論のあとでさえ
私はバカにも聞こえるように「motherfucker」と付け加えるのさ)

 政情不安と国家による暴力に端を発したハイチの難民問題は90年代初頭、民主的な選挙で選ばれたジャン=ベルトラン・アリスティド大統領を退陣に追い込んだクーデターによってピークに達した。1982年にCDCによってHIV感染の「危険因子」であるとされた4つのグループの1つ(他の3つは「同性愛者、ヘロイン中毒者、血友病患者」)として無根拠な烙印を押されていたハイチ系アメリカ人は、暴力から逃れるために船に一斉に本国へ送還され、上陸したものは無期限に勾留された。無理もない話だが、多くのハイチ系アメリカ人たちは自分のエスニシティを隠しながら暮らし、周囲の人々は彼らをジャマイカ系や他のカリブ系からの移民であると認識していた。

 Fugeesが当初結成された頃、「難民(=refugee)」は侮蔑的な文脈で用いられることが多かった。しかしプラーズとワイクリフはその文化を肯定し、世界中の難民たちとの共通の下地を探し求めた。プラーズが「I, refugee, from Guantanamo Bay/Dance around the border like I’m Cassius Clay(俺はグアンタナモ湾からの難民だ/カシアス・クレイのように国境の上でダンスするのさ」と潜水艦の中でラップし、彼らを「boat people」と中傷するような人種差別的で違法ですらあったアメリカの国境政策をあからさまに風刺した、大予算のハリウッド・プロダクションによる “Ready or Not” のヴィデオをMTVのローテーションで見ることは本当に画期的なことだった。彼らがハイチ人にたいする明らかな侮辱に与えた影響は低呂化することができないが、ハイチ人たちが家を売るのに苦労したりハイチの商品がお店で売られることがなかった時代において、それはアイデンティティと現状の否定に関する強力なステートメントだった。ワイクリフは後に、2010年に発生したポルトープランスの大地震において、彼の運営するYéle Haiti Foundationが人道的活動のために集めた1600万ドルもの寄付金を不正に使用したとして、その善意を無駄にすることとなった。しかし90年代にあって、プラーズとワイクリフは公共空間における数少ないハイチ系の有名人であり、大半がハイチ系であるクルーが自分たちのことを「難民キャンプ(=Refugee Camp)」と呼ぶことがどれだけラディカルであったかということは無視できない事実だ。

 しかしそのエスニシティを超えたところで、この作品は大衆受けとストリートの正統性という両立しがたいバランスを保つことに成功している。当時メインストリームのメディアは彼らの印象的なライヴ・パフォーマンスのダイナミズムを強調していた。ハイプマンやバックトラックを用いていた同世代のアーティストたちとは対象的に、彼らは自分たちのヒット曲を名曲の生楽器演奏と織り込んでいた。しかしこの作品はフッドによる、フッドのための、フッドの作品であった。でもそれはギャングスターではなかった。社会的にコンシャスでありながら、移民たちの体験のリアリティによってストリートに根ざしたものだった。Fugeesはヒップホップ作品にしては驚くべきほど多様な参照元を持ち込んだ――ローリンはR&Bとソウルを、プラーズはロックとポップの影響を、そしてワイクリフがカリブ海の嗅覚を。

 “Fu-Gee-La” は『The Score』における精神的中心となっているが、この作品からの最大のヒットはカヴァー曲であり、アメリカでは公式にシングルとしてリリースされたわけでもなく、しかもアルバムの制作の中で最後に録音された楽曲だった。ロバータ・フラックの1973年のヒット曲をやろうというのはプラーズの提案だったが、この “Killing Me Softly With His Song” はローリン・ヒルが世界にその名を知らしめる起爆剤となり、『The Score』の未曾有の商業的成功への触媒となった。ワイクリフはこの曲のシングルとしてのポテンシャルに確信を持っていなかったが、ラジオ関係者は違った考えを持っていて、この曲は公式リリースなしでシングル・チャート入りを果たした。ヨーロッパではミリオン・セールスを達成したが、アメリカ市場ではある打算によってリリースされることはなかった。レーベルはこのヒットによってファンたちがこの曲を聞くためにアルバムを買うだろうと踏んでいた。ストリーミング経済となった今では再現不可能な思考法である。

 リリースされたとき、『The Score』がローリン・ヒルの発表作のほぼ4分の1を占めることになるだろうとは誰も思っていなかった。彼女はグループの中でも傑出した才能の持ち主であると目されており、その後グループの解散までの間、グループを脱退するのではないかという推測――あるいは提案――を退け続けなければいけなかった。彼女は若くしてスターダムを約束されているかのように思われた:ハイスクールを卒業する前から彼女はオフ・ブロードウェイの演劇(ヒップホップ版の『十二夜』である『Club XII』)、ソープ・オペラ(『As the World Turns』)、そして2本の映画(『天使にラブ・ソングを2』『わが町 セントルイス』)に出演し、Fugeesのデビュー作をリリースした。『The Score』で示された疑いようのない才能について、彼女やグループの成功は男性のコラボレーターのおかげであると人々(やプレス)に思われることや、ワイクリフの娘であると見られることに彼女は嫌気がさした。

 そして彼女は1998年のソロ・デビュー作『The Miseducation of Lauryn Hill』でヒップホップよりも大きな存在となった一方、『The Score』での彼女の仕事はこのジャンルで比類なきものであり続けている。どんなMCも彼女のようなソウル、パワー、そして優雅さを持って歌うことはできないし、どんなシンガーも彼女ほどハードにスピットすることができない。この言い方が少し大げさにきこえるなら、彼女のようにラップしたり歌ったり、それぞれ別々でもいいからできる同世代アーティストを挙げようとしてみるといい。シーロ? ファレル? ドレイク? 笑ってしまう。アジーリア・バンクスが “212” をドロップした時にみんなが騒いだのには理由がある。オートチューンを使った歌い手がポップ・チャートにあふれていようとも、両者のスキルが交わることはないのだ。そしてOG達ですら彼女を史上最高のMCのリストのトップ近くに入れている。このような称賛や承認の後でさえも、彼女はどこか目立たず、どこか過小評価されているように感じていた。『Miseducation』では、弱さを力強く表現することや、アルバムの作曲やプロダクションのクレジットから残虐にもコラボレーターの名前を取り除いたことにこのことが明白に示されている。

 Fugeesのレコーディング・キャリアはわずか3年しか続かなかった。マルチプラチナムを達成した傑作に続いたオファーやチャンスの洪水の中で、グループは崩壊し始めていた。ワイクリフは『The Carnival』の録音を――精神面でも創作面でも――プラーずとローリン(共にゲスト参加している)のサポートを受けながら開始した。しかしローリンが自身のソロ・デビュー作のための作曲を始めたとき、ワイクリフはそれを冷遇した。これは、ローリンがグループとの連帯のためにソロのチャンスを何度も断ってきた後では強烈な打撃となった。そのダイナミックは、2人の内密なロマンスによってさらに厄介になった。彼は別の女性と結婚していたし、ローリンもボブ・マーリーの息子であるローハンとのちに結婚するにもかかわらず、である。そしてローリンの第一子の誕生が親権をめぐるスキャンダルとなると、その裂け目は亀裂となり、迅速な和解への希望は絶たれてしまった。

 『The Score』は、3人の別々のヴィジョンを持ったアーティストがなにか特筆すべきものを作り上げられるだけの期間合体して作り上げられた、偶然の錬金術の産物である。その過程で彼らは、どのようにレコードをチョップして隠すのかではなく、その古いレコードのキュレーションが重要であるという、ヒップホップにおける許可を受けたサンプリング時代に向けたテンプレートを設計した。ラッパーやプロデューサーたちは、どうせお金を払わなければいけないのなら、オリジナルをわかりやすい形で使い、新しいオーディエンスを導いたほうがいいということにすぐさまに気がついた。“Killing Me Softly” はいくつものディケイドにまたがっている:ロバータ・フラックのヴァージョンを使っているが、それ自体がロリ・リーバーマンのオリジナルをリアレンジしたヴァージョンである。FugeesのヴァージョンはそこにA Tribe Called Questの “Bonita Applebum” のブーンバップ風のドラム・ビートを付け加えているが、この曲もミニー・リパートンのRotary Connectonの “Memory Band” をサンプルしたものなのだ。

 Fugeesは、一元的に描写されることの多いゲットーの声を多様化させた。彼らは世界中のハイチ系移民のプライドを取り戻した。ハイチ人は、植民地時代以降の貧困や紛争で悪い印象を抱かれているが、新世界で奴隷となった人々のなかで初めて圧制者に対する反乱を成功させた場所として記憶されている。彼らのサウンドが多面的なのは、彼ら自身がそうであったように、彼らの音楽も黒人の経験と同じように多様であったからである。

<Pitchfork Sunday Review和訳>The Flying Burrito Brothers: The Gilded Palace of Sin

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A&M • 1969

 1960年代後半、ヒッピー嫌いのカントリー・ミュージック・ファンが多く訪れていたノース・ハリウッドのバー「パロミノ」で、グラム・パーソンズが初めてオープン・マイク・ナイトに出演したときのことだ。お気に入りのサテンのベルボトムを履き、栗色の髪を誰よりも長く伸ばしていたパーソンズに、その男は「俺の3人の兄弟を紹介するよ」と言った。「俺たちはお前のケツを蹴ってやろうと思っていたが、お前は歌がうまいから、代わりにビールをおごってやるよ」と、男は続けた。

 グラムにとってこれ以上の賛辞はなかった。彼が後に「コズミック・アメリカン・ミュージック」と呼ぶことになる壮大な目標――カントリー、R&B、ゴスペル、ロック、そして古き良き南部のカリスマを聴覚的/精神的に融合させたもの――は一見反目し合う人々たちの間に実は隠されている共通点だったのだ。そして1960年代後期にあって、ヴェトナム戦争が世代間の断絶を拡大し、そのような団結はなかなか得難いものだった。しかしパーソンズはその分断に橋を架ける方法を探していた。ジョージ・ジョーンズのバラッドの底なしの哀愁や、バック・オーウェンズのギラギラした気概を理解できるのであれば、髪の長い徴兵逃れも悪いことではないと、保守的な人たちに納得させたかったのだ。そしてその逆に、作家のジョン・エイナーソンが2008年の『Hot Burritos: The True Story of the Flying Burrito Brothers』に書いてあるように、パーソンズは「ヒッピーの大衆にも、彼らの鼻の下に隠れていて気づかないような素晴らしくオーセンティックなアメリカン・ミュージックについて啓蒙すること」にもまた興味があった。パーソンズは自分の芸術に高尚な目標を持っていた。世間が誰も彼のことを知らない頃から彼はこころの中ではスーパースターであり、彼の「コズミック・アメリカン・ミュージック」が救済をもたらすと信じて疑わなかった。

 「コズミック・アメリカン・ミュージックだって?」Flying Buritto Brothers最初期にパーソンズと並んでフロントマンを務めたクリス・ヒルマンはエイナーソンの本の中で嘲るように笑う。「それはどういう意味なんだ?それは私が聴いてきた中で最も馬鹿げた概念だ。それにはなんの意味もない。私には理解ができなかったし、今でも理解できない。私達がやろうとしていたのはちょっとだけバックビートが効いたカントリー、だただそれだけだった」。

 これら2つの見解を合わせ――理想主義者と実利主義者、ふざけた夢想家と真面目な働き者――少しもドラッグを用いずに、さらに『Gmuby』のクレイ・アニメーター(!)という昼間の仕事を決してやめなかったペダル・スティールの達人を加えると、不完全にほぼ完璧な作品、Flying Buritto Brothersの1969年のカルト・カントリー・ロックの試金石『The Gilded Palace of Sin』に結実することになる緊張感と60年代後期特有の奇妙さが浮かび上がってくる。

 2007年のパーソンズの伝記『Twenty Thousands Roads』で、デイヴィッド・N・メイヤーはこう書いている。「過去40年間の間に生み出された、価値があり、長い間評価され、影響を与え続けているアルバムの中で、『The Gilded Palace of Sin』ほど薄っぺらくプロデュースされいい加減に演奏されている作品を見つけるのは難しい」と。それは大した主張であり、もし私が議論をしたい気分であれば少なくとも5、6つの反証を簡単に上げることができる(ではVelvet UndergroundBeat Happeningの全ての作品はどうだ?など)。そしてたしかにこの作品にはこのバンドに似合ったガタガタのエネルギーを含んでいるが、私はここで『Gilded Palace』のプロダクションが極めてリッチであると主張したいわけではない(A&Mのハウス・プロデューサー、ラリー・マークスはこの新人のデビュー・アルバムの四季を任されていたが、後に『Gilded Palace』での自分の役割を「アルバムを完成させ、物事が手に負えなくならないようにするための、仕事上の監視役」程度のものだったと語っているが、少なくともその意味では、彼の任務は達成されたと言えるだろう)。

 しかしこの作品には奇妙なバイタリティがあって、それが欠点であるように思われる部分をチャーミングに、さらに言えば意義深くさえしている。バンドと親しい関係だった多くの人々がマークスがヴォーカルのサウンドを正しく調整しなかったと信じている。彼の選択の中で最も奇妙で極端なものの一つは間違いなく、BurritoがEvery Brothersに影響されて始めた2声ハーモニーを、二人のフロントマンの声をステレオに振り分けたことだ:パーソンズの高く悲しげな歌声を左に、ヒルマンのアーシーなクルーンを左に――そして聴き手の感受性豊かな頭蓋骨はその中間にある。しかしそれによって、このレコードをヘッドホンで聴くことで自分の肩に天使と悪魔が乗っているような親密で不気味な経験をすることができる。それぞれが矛盾したアドバイスを耳に吹き込み、やがて両方が蹴っこ良いことを言っているのではないかという甘美な結論へと溶け合わさっていく。

 パーソンズの生まれは悪名高いほどに裕福で、フロリダの柑橘類収穫高の3分の1を牛耳る家族の生まれである。しかし後に彼がカバーすることになるポーター・ワグナーの名曲の言葉を借りれば、金持ちの10人に1人は満たされた心を持っているということになるが、パーソンズの家族にはそのような人は1人もいなかった。両親は並外れた酒飲みで、その子どもたちの感情的な欲求を無視した。パーソンズの父親はグラムが12歳のころ、クリスマスの2日前に銃で自殺した。彼は息子に気前の良い、だが恐ろしいクリスマス・プレゼントを残した。当時はまだ珍しかったリール・トゥ・リールのテープ・レコーダーだ。しかしそこにはグラムの父親が、彼を愛していると伝える肉声が録音されていた。若きパーソンズにとって、耐え難い痛みと弱さを生涯に渡って記録し続けるための環境が揃ったのだ。

 それと同じ頃、サンディエゴの反対側では、ヒルマンの牧歌的な中流階級の子供時代が、カウボーイに関する想像とカントリー・ミュージックで充満するようになったところだった。彼は十代にしてマンドリンの演奏を習得し、Scottsville Squirrel Barkers and the Hillmenのようなブルーグラス・バンドと一緒に演奏するようになった。しかしヒルマンの父親が彼が16歳の頃になくなった。パーソンズの場合とは異なり、それは彼が日中は働いて家族を養いながら、夜間学校に通わなければならないことを意味していた。その分断こそが、後にこのバンドの最大の特徴となる不均衡な労働倫理へとつながっていくのである。

 しかし1968年の中頃、パーソンズヒルマンは2人の間に様々な共通点を見出していた。彼らは両方真剣な関係を抜け出し、さらに同じバンドを辞めた。The Byrdsである。ヒルマンは10代の後半からByrdsに在籍し、そのバンドの突然の成功に居合わせた。パーソンズは後から加入した。彼のグループ在籍期間は1年にも満たないが、彼はバンドが1968年の画期的なカントリー・ロックのランドマーク『Sweetheart of the Rodeo』でのカントリー路線の新機軸を形成していく手助けをした。Byrdsのフロントマン、ロジャー・マッギンはそれが「正しい」方向なのか確信が持てずにいた――「彼は羊の皮をかぶった怪物だったのさ」彼はパーソンズについてこう語る。「そして彼はその羊の皮すら脱ぎ捨てたんだ。なんてことだ!スパンコールのスーツを着たジョージ・ジョーンズだ!」しかし今や自分たちのバンド、Flying Buritto Brothersを結成したパーソンズヒルマンはついに、思う存分トゥワンギーになる自由を得たのだった。

 彼ら2人が最初期に書いた名曲の一つに “Sin City” がある。聖書的な想像とヴィヴィッドなサイケデリアを融合させた悲しげなバラードである。60年代後期のカリフォルニア特有の差し迫った終末を告げるスモッグのような雰囲気が全体を包み込んでいる。「街全体が罪で溢れている、それはお前を飲み込んでしまうだろう。お前が燃やすほどの金を持っているなら」とこの青年たちはタンデムで歌い出す。少なくともこの曲では「Sin City」とはエルヴィスの晩年やルーレット・テーブルの街ではなくロサンゼルスのことであり、彼らが移り住んだ夢の光景であった。そこで2人はその俗っぽい欲求を満たそうという敵わない願いを抱いている。

 パーソンズヒルマンは馬の合わない2人だった――だが当時は違ったのだ。『Gilded Palace of Sin』に向けた楽曲を制作しているときの2人を、ヒルマンは「2人の心破れた独身男性が一緒に暮らしていた」と描写している。2人は寝室が3つついているランチハウスをリシーダに借りた。そこは3セット・ストリップとは離れており、作曲に集中し面倒事から逃れるには適していた。ヒルマンは彼とパーソンズの人生に置いてその時期が最もクリエイティヴ面で生産的な時期だったと語る。「いつもは朝5時まで外出していたのが、朝起きて作曲に取り組むようになった。毎日自発的なスケジュールで作曲をするんだ。誰かと一緒に作業をして、これほどまでにピークを感じたことはない」。

 パーソンズヒルマンが2人ともリズム・ギターを引きリード・ボーカルを分け合う中で、Flying Buritto Brothersはリード楽器が収まる枠が空いていた。そこで登場するのが「スニーキー」ピート・クライナウだ。視覚効果アニメーターでありながら、LAのカントリー・バーではよく知られたペダル・スティール奏者だった。彼がBurritosに加入したのは、彼らが1968年にスタジオに向かう直前だった(彼はまた、明らかにサイケデリック『Gumby』のテーマ・ソングのオリジナル版を作曲したことでも知られている)。パーソンズヒルマンは2人ともクライナウがByrdsの『Sweetheart』ツアーに参加するべきだと思っていたが、マッギンがそれを拒んだということも、2人がByrdsをやめた一つの理由である。クライナウの楽器にそれほど重きを置くことは確かにギャンブルだった。当時のロックのオーディエンスにとって、ペダル・スティールはスープに入ったコリアンダーのようなものだった――その一つがほかのすべてを上回ってしまうほどの威力を秘めている可能性がある、という点で。その水平なフレームと枯れ草のような音は、田舎の保守主義を強く印象付け、Burritosが達成しようとしていた相反するもの同士の繊細なバランスを崩しかねないほどに強力である。

 しかし、エメラルド色の粘土を見てGumbyというキャラクターを生み出すにはある種の自由奔放な精神を必要とするわけであって、「スニーキー」・ピートはそんじょそこらのペダル・スティール奏者とは違っていた。彼は特異で非正統的なチューニングを用い、まるでエレクトリック・ギターであるかのようにその楽器をファズボックスにつないで演奏した。A&Mのスタジオにあった16トラックのコンソールは、ステージ上よりも時間と空間をいじくる機会をスニーキーに与え、“Christine's Tune” や ”Hot Burrito #2” といった楽曲の前面にはオーバーダブされた切り裂くようなリックや重ねられたレイヤーが押し出されていた。「カントリーというのは伝統的形式の音楽だ:スニーキー・ピートは伝統的なカントリーの楽器を完全に新しい方法で演奏したんだ」とメイヤーは記している。すぐに彼だとわかるその特徴的な演奏が『Gilded Palace of Sin』の中を野火のように駆け巡っていく。

 ミシシッピ出身のベーシストクリス・エスリッジが加わり、バンドのオリジナル・ラインナップが完成した(ドラマーを見つけるのに苦労したため、『Gilded Palace』には数多くの違ったセッション・プレイヤーたちが参加している)。彼もまた、パーソンズにとって実り多い作曲のパートナーだった。2人は一緒にこの作品の中でも特に人気の2曲、”Hot Burrito #1” と ”Hot Burrito #2” を作曲した(「なんでそういう風に呼ぶことにしたのかはわからない。ほかのタイトルも考えていたんだけど」とエスリッジはエイナーソンに語っている)。「Burrito組曲」はパーソンズがソロ・ボーカルをとる唯一の楽曲であり、この2曲は同じコインの裏表である。人間の欲望を表す、偽物の金の輝きのような。

 ”Hot Burrito #1” は陶酔するような、バールーム・ピアノ・バラードである。パーソンズがそれに苦しそうなボーカルを乗せて命を吹き込んでいる。「僕はお前のおもちゃ、僕は君の老人、でも君以外には愛しているといわれたくないんだ」彼は甘く低い声で歌う。ちょうど手が届かないところにいる何か――誰か――の方向に手を伸ばしながら。それは悲しい男のカノンであり、エルヴィス・コステロが後に自身のレパートリーに入れたのも納得できる。そして次の曲――エスリッジのメロディっくなベースラインが ”Hot Burrito #2” の始まりを告げる――では彼は望んでいた女性を手に入れ、落ち着きのない様子で、家庭内の生活の突然の要求に不満を垂れる。「とぼとぼと歩いて/俺が家に帰る/何か知らせを伝えようと/ずっと待っていた/そしてお前は俺が家に一晩中いろっていうのか?」彼はその不信感を感情的に怒鳴る。ブリトーはいつでも反対側の方が熱いようだ。

 ロックスターのワナビーにしては、パーソンズは本能的にスペクタクルの力というものを理解していたようだ。アルバムのジャケットの撮影の前に、彼はバンドをヌーディー・スーツのカスタムへと連れだした。手掛けるのは伝説的な仕立て屋、ヌーディー・コーンである。メンバーのスーツは一人一人のパーソナリティーを反映したものになっている:ヒルマンは少しこわばって入るものの堂々とした威厳を持った青いビロードを身にまとい、エスリッジは花の刺繍が入った長いジャケットを着て南部の紳士を演じ、スニーキー・ピートは巨大なテロダクティル(恐竜の名前)が載ったビロードのスウェットシャツを注文した(なんでって、なんでだめなの?)。そしてメインディッシュはパーソンズだ。自分にまつわる神秘を作ることに長けていた彼は、自分の美徳をコラージュしたものを注文した。マリファナの葉っぱ、錠剤、ピンナップ・ガール、アシッドが垂らされた砂糖のキューブなどが、彼のスーツの純白の袖を誇らしげに飾っている。

 この『Gilded Palace of Sin』を、1969年の発表からずいぶん経った後になってから発見することの利点の一つは、この作品が「そこにいて実際に目撃しなければ」という類のものではないということだ。「オリジナルの編成のライブで、恥ずかしさのあまりに涙が出てこなかったことはないと思う」スニーキー・ピートは1999年にそう語っている。これらすべてのペダル・スティールのオーバーダブをステージ上で再現するのは難しかったのだ。しかしそれだけではなく、メンバーが…まあ、「ハイ」になていることももちろんあった。そして「それとは違う」ドラッグで肺になっていることもあったため、リズムを一定に保つことが厳しい冒険になってしまった(コカインを摂取したリード・シンガーとダウナー系を摂取したベーシストの組み合わせは、我々が変拍子と呼んでいるものである)。このオリジナル期のBurritosはライブではめちゃくちゃで、レーベルもいい待遇を与えてくれなくなった。プロモーション予算も削減され、批評的な成功と憧れの人物からのお墨付き(「ボーイ、大好きだ。このレコードは一瞬で僕をノックアウトしたよ」とボブ・ディランは『Rolling Stone』誌に語った)を得たにもかかわらず、『Gilded Palace』はたったの4万枚しか売れず、ビルボードでも164位どまりだった。

 Flying Burrito Brothersを立ち上げたとき、パーソンズはすでにバンドからバンドへとひょいひょいと乗り換えることで悪名高かった。彼はInternational Submarine Bnadをファースト・アルバムが出るよりも前に抜けてもっと成功をおさめていたByrdsに加入し、彼のByrds脱退を後押ししたのは、彼がさらにクールなRolling Stonesのメンバーと仲良くなったことだった。そして『Gilded Palace』がコケたとき、Flying Burrito Brothersも一夜にしてスターになるためのチケットではないことが明らかになり、彼は自己破壊へと急旋回し、必然的にヒルマンがバンドから彼を追い出した。彼らはソウルフルではないにしてもタイトな作品を作り続け、来ナップは回転式ドアのようにぐるぐると変わった。もはやオリジナル・メンバーがいなくなり、かろうじてオリジナルの名前とかすかなつながりを持つだけになったヴァージョンのバンドもいまだに音楽を作り続けている。その一方で、パーソンズのドラック問題は悪化した。彼はハードに、ファストに、そして性急に生きることをやめなかった。彼はヨシュア・ツリーのモーテルの部屋で、モルヒネのオーヴァードーズで亡くなった。まだ26歳だった。

 「死んだ奴とどうやって競争しろっていうんだ?」のちにイーグルスを結成するバーニー・レドン(1970年の2枚目『Burrito Deluxe』発表前に加入)はエイナーソンの本の中でこう尋ねている。「そんなことってできないだろ。殉教者みたいな話だ。グラムは自分の剣で倒れ、そしてヒーローになったんだ」。特定の、非常にむかつくタイプのグラム・パーソンズ信者がいることは確かだ。パーソンズのドラッグ使用を美談にし、彼の冷酷な行動や信託基金を神話化し、おそらく高価なバイクを乗り回し、パーソンズの友人たちが彼の死体を盗んで砂漠で燃やし、精神が肉体から解き放たれるとかなんとか言っていたのを本当にクールだと思っている、そういう連中だ(かくいう私も、彼らがしたことは少しだけクールだと思っているということを認めざるを得ない。ばかげているけど、クールだ)。

 『Gilded Palace of Sin』はクリス・ヒルマンなしには生まれなかった作品であり、だからこそ彼は無限の賞賛に値する。1968年秋の数か月間、グラム・パーソンズを何とか集中させて作業に取り組んだのは、並大抵のことではなかった。彼の残りのレコーディング・キャリアを特徴づける不幸な失敗やじれったい「たられば」はそのことの何よりの証左である。しかし、この素晴らしい作品において、パーソンズが感情や弱さといった流れにアクセスできるようになっていたことは明らかである。ヒルマンにはそれができなかった。Byrdsのプロデューサージム・ディクソンはメイヤーの伝記の中でこう語る。「彼ら2人は同じことをしていたんだ。でもグラムは感情を楽曲に落とし込むことに前向きだったけど、クリスは決してそうではなかった」

 そんなお互いに反対向きの力はバランスを崩す運命にあるが、この作品の中で止まっている時間においては、2人はお互いをコントロール下に置いている。ひょっとすると『Gilded Palace』が何か重要な文化的瞬間と永遠に結びついてしまうほどに成功をおさめたのではないということが、この作品をこれほど長く「現在形」にし続けているのかもしれない。このアルバムが70年代のカントリー・ロック、80年代後半から90年代初頭にかけてのオルタナ・カントリー・ブームに与えた影響については多く語られてきたが、私にはこの作品の残響がさらに最近の出来事の中からも聞こえてくるように感じられるのだ。ポスト・マローンがヌーディー・スーツを好んでいること。そしてケイシー・マスグレウヴスが2018年の傑作『Golden Hour』で、サイケデリアを用いてカントリーの境界線をぼやかしたこと。そしてリル・ナズ・Xがカントリー・ミュージックの純潔を守る守護者たちと向かい合い、やがて彼らはそれがブラフではないと気が付いたこと。”Old Town Road” は21世紀においてはじめて、「コズミック・アメリカン・ミュージック」を体現する作品にほかならない。

 パーソンズの70年代中盤のソロ作品『GP』と死後にリリースされた『Grievous Angel』には魔術的と言ってもいいくらいの力が込められているが、それを聴いている間、これはゆっくりと死に近づいている人間が歌っているのだということを忘れることは難しい。そんなカルト的な魅力がある。『Gilded Palace of Sin』はそうではない。パーソンズの周囲に一時的に漂っていた安定的な力によって、これは軽やかさと希望が詰まった可能性の瞬間を切り取った作品になっている。この作品の最後の曲、”Hippie Boy” がそれをよく表している。この曲はFlying Burrito Brothersの火薬庫の中で、一番シリアスではない曲でありながら、同時に市場シリアスな曲である――長髪の若者と、パーソンズがバー「パロミノ」で出会っていたかもしれない一見閉鎖的な心を持った男との会話を想像して書かれたスポークン・ワード作品だ。ヒルマンが両方の役を演じているが、パーソンズが彼に演技指導を行った(当時、彼は「やる前にスコッチを5分の1杯飲まないと全体が感じられない」と主張していた。「彼は1オンスの草も吸えないんだ」)。”Hippie Boy” はユートピア的な団結感のヴィジョンであり、ものすごくまじめな内容であるために少し皮肉っぽい感じで演奏される必要があった。楽曲と、そしてこのアルバムが終わりに近づくにつれて、酔っぱらった音痴な声のコーラスが古い讃美歌 ”Peace in the Valley” の一節を素早く口ずさむ。それは美しく感動的な場面であり、すぐに終わってしまうのが惜しいほどだ。より良い世界に向けた宇宙的な約束は一瞬空にかかったかと思うと、すぐに消えてしまう。

<Pitchfork Sunday Review和訳>Joan Armatrading: Joan Armatrading

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A&M • 1976

 ジョーン・アーマトレイディングは、自己の内面の神秘を感情のリズムに敏感に調和させ明瞭に描き出す。それは最もひどい絶望ですらなんとか耐えうるものに聞こえてくるほどだ。そして彼女はあなたにほほえみをもたらすだろう。アーマトレイディングは1976年のヒット曲 “Love and Affection” を「私は恋をしていないが、その説得に乗る宵はできている」と始める。これ以上優れたポップ・ソングの導入があるだろうか? アーマトレイディングは1970年代を通じて、その世代の中で最も優れたシンガー・ソングライターの一人という地位を確立した:この強烈な知性と控えめなウィットを持った女性は、あなたの心を読んで深読みさせることに関しては右に出る者がいない。

 「わきまえない女」に親切ではない業界にあって、アーマトレーディングはノーと言うコツをマスターした。イギリスの女性解放誌『Spare Rib』の1974年の号のなかで、彼女はこの姿勢を論駁できないほどに明白に打ち出した。彼女は中性的な自身の見た目を変えるよう提案した男にノーと言い、ステージ上で愛想良く振る舞うよう言ってきた男にノーと言い、彼女のサウンドをコントロールしようとした男性のプロデューサーにもノーと言った。彼女の歌詞は個人的な経験から来ているに違いないとした批評家にもノーと言い(実際には混合である)、男性によって作られた、女性は「可愛らしく歌う」べきだという金言にもノーを突き立てた。その一つ一つの「ノー」は全てアーマトレイティングが一人で立ち向かったことであり、他の人達にもそうすることをはたらきかけた。「ポップ・ミュージックをやりながら自分自身で有り続けることは可能だ」と彼女は1976年、『The Guardian』誌に語っている。「私は挑戦し続けるつもりだ」と。

 カリブ海のセントキッツ島で生まれたアーマトレイティングは7歳のとき、一人で飛行機に乗りイギリスのバーミンガムに飛び、4年間離れて暮らしていた両親と二人の兄と再会した。小さなフラットで育てられた6人の子供の一人として、彼女はイギリス内陸部での多くの時間を孤独を求めて過ごした。彼女は図書館に隠れ、シェイクスピアディケンズを読んだ。「一人でいることが多くて…へんな子供時代だった」と彼女は『Melody Maker』誌に語る。「それが私の人格に最も強く影響を与えているかも知れない」。一人でいることは必ずしも孤独であることではないということ、人の群れから離れることは自分自身、ひいてはその他全ての物事への距離を縮めることがあるということを若くして学んだアーマトレイディングは、他者の熱心な観察者となった。

 彼女は質屋で買ったアコースティック・ギターで作曲を始め、家にあったピアノは無視した。彼女のフォーク・ロックへの偏向は彼女が聞いて育った音楽――ジャズやソウル、ゴスペルやロックンロール、アレサ・フランクリンオーティス・レディング――に彩られたものだ。特に、愛の天にも登るような高揚感やあるいは地を這うような空虚さを表現することのできる彼女のスモーキーなアルト・ヴォイスはその影響を色濃く受けている。彼女のアイドル、ヴァン・モリソン――彼女が名指しで挙げている数少ない影響源の一つである――と同じく、彼女の楽曲は非伝統的な構造を持ち、熱烈な祝祭感へと点火していったり、あるいは白昼夢の中を漂ったりする。アーマトレイディングは70年代のシンガー・ソングライターの伝統にイギリスの黒人であるというアイデンティティを持ち込んだだけではなく、その形成にイギリスの黒人女性が活発な役割を果たしたことを証明したのだ。

 1970年、バーミンガムのフォーク・クラブを演奏して回っていたアーマトレーディングは作曲パートナーと出会う。ガイアナ出身の詩人、パム・ネスターは巡業型ヒッピー・ロック・ミュージカル『ヘアー』の役者だった。アーマトレーディングのシャイな内省とネスターの外向的なドライヴの組み合わせは決定的だった。英国の劇場をツアーする間、アーマトレイディングはネスターの言葉を音楽に載せ、歌の劇作家も務めた。「シティ・ガールよ、人生を本来の姿にもどしてよ」とアーマトレイディングはネスターに捧げた初期の楽曲で舞い上がるように歌う。それは友情と回復の狼煙だった。1974年、アーマトレイディングは『Spare Rib』誌にこう語っている。「黒人女性は甘い歌を歌わない。なぜなら、自分たちはか弱い存在でなければいけないという洗脳を受けていないから。本当はその逆、強くなければいけない。ただそれを成し遂げるだけ」。

 『ヘアー』の仕事を終えたネスターとアーマトレイディングはロンドンへ向かった。ネスターが1971年のグラストンベリー・フェスティバルに参加したとき――彼女は自分の他に一人だけ黒人を見かけたと回想している――、一緒に参加した仲間が彼女に、エセックス・ミュージックにデモを持っていってみてはどうか、と提案した。エセックス・ミュージックは当時、T. RexやBlack Sabbathといったアーティストを手掛けていた。そして彼女たちはエセックスと契約を結び、アーマトレイディングは1972年にデビュー作『Whatever's for Us』を――エルトン・ジョンのプロデューサー、ガス・ダッジョンが録音を手掛けた――キューブ・レコードから発表した。しかしその後すぐにレーベルが彼女をソロ・アーティストとして売りたいということが明らかになり、二人が道を分かつよう圧力をかけた。この別離によって “Whatever's for Us, for Us” や “Spend a Little Time” などの生々しいコラボレーションはなんともほろ苦いものとなった。A&Mイージー・リスニング部門向けに初めて制作された次作『Back to the Night』(1975年)のレコーディング〜プロモーションの過程において、彼女はスタジオにおいて男性のエゴに対処するのに飽き飽きし、早々にスタジオをあとにした。

 しかしアーマトレディングはそれにめげることはなかった。一年後、『Joan Armatrading』に向けた地に足のついた、自己完結型のエネルギーを彼女は苦労して手に入れた。それはアーマトレイディングがすべての楽曲を自分一人で作曲した初めてのアルバムであり、その時点での最良の部類に入るものだった。完全無欠の『Joan Armatrading』は彼女にとっての『Tapestry』のようなものであった。デビュー作ではないが、彼女の自信画素の才能に追いつき、歌唱と熟達したミュージシャンシップ――バロック風のバラードの歌唱、燃えるようなブルース・ギター・リフ、ファンクの香り――が生き生きとしていて、ジャンルの境界線をにじませている。彼女をより商業的にしようという賭けによって、A&MThe Rolling StonesThe Who、The Eagles、そしてこの直前にはフォーク・ロックの偉人=Fairport Conventionを手掛けたロック畑のグリン・ジョンズをプロデューサーとして起用し、アーマトレーディングのバックをFairport Conventionのメンバーが務めることになった。ジョンズの回想によれば、彼は単純に彼女の邪魔だけはしないように務めたという。彼女は自分が何を求めているのかよくわかっていた。

 『Joan Armatrading』は、ポップ・ソングで普段耳にしないような鮮烈な個人的開陳を含んでいた。“Somebody Who Loves You” で、彼女は悲しげな「行くか行かざるべきか」というジレンマを鈍重なリアリティ・チェックと共に表現している:「一夜限りの関係には飽き飽き/浪費した情熱がもどかしさを残す/軽蔑すべき人間がまたひとり増える」。“Tall in the Saddle” のタイトルに表された感傷を明らかにするように、彼女は力強く歌う。「いつかそこから降りる日がくるんだ」と。そして「必要な友達はもう周りにいる」という、“Love and Affection” におけるアーマトレイディングの輝かしい確信はこれ以上ないほど愉快で透き通っている。彼女は至って真剣なのだ。そしてアーマトレイディングの内気な性格はロマンティックな関係における臆病さとして表現される。つながることがうまくできない人々、会話ができないこと、誤解、など…。『Joan Armatrading』の中の3つの楽曲の中で、彼女は「Love love, love」「Fun, fun, fun」「People, people, people」と歌っている。それはまるでそれぞれがどのように関係しているのかを明らかにしているかのようであり、もちろんそれは大いに共感できるのである。

 彼女の楽曲は時に息を呑むほどに弱さをみせる。しかし彼女が残した言葉は多くを語る。『Joan Armatrading』の楽曲の中で「私」目線でジェンダーが明確な恋人に向けて歌われた曲は少なく、それは彼女のクィアアイデンティティへの想像の余地を残している(彼女は長い間カミング・アウトしなかったが、1978年の『Melody Maker』誌には、彼女の本棚には1973年のレズビアン小説の傑作『Rubyfruit Jungle』が刺さっているという記述がある)。“Down to Zero” で、アーマトレイディングは暴力的なまでに説明不足な理解しがたい破局について赤裸々に語っている。彼女は「あなたの男を奪った」「新しいダンディ」について歌っていて、後に我々は「あなたの頭から心配を抜き取って」「あなたの心に面倒を吹き込んであげる」と、ある女性が別の女性について歌っているのを聴く。アーマトレイディングは賢人ぶった慰めを歌詞の中だけではなく、その決意に満ちた歌い方や、力強い爪弾き、ローレル・キャニオンのフォーク・ロックがよりシンコペートさせたような優雅なスティール・ギターの中にも忍ばせている。意味のない憧れや切望を前にして、全てが一種の鎧となるのだ。

 アーマトレイディングはよくジョニ・ミッチェルと比較されるが、それは少なくとも1976年当時は理にかなっていた。ミッチェルのフレーズを借用するならば、二人は「women of heart and mind」だった。超過敏な楽曲を書く超越的な器量を持ち、そして自分の音楽的アイデンティティを表現するために闘った。それでもこの比較はまったくもって正確であるというわけではない。アーマトレイディングの歌詞は広い視野を持っている一方で、ミッチェルはもっときめ細やかな歌詞を書いた。ミッチェルの卓越性がその細部にあるとすれば、アーマトレイディングのそれは彼女の角度、あるいは優れた省略にある。まるで遠くから見守ってくれている友人のように。それが彼女に有用な広がりを与えている。ミッチェルが自身の最大のシングル “Help Me” で歌う2年前に、アーマトレイディングは不器用で不十分で、思慮の浅い恋人たちのために別のアイデアを提案している。「あなたが自分のことを自分で対処すれば、私は非常に助かるのだけれど」。

 アーマトレイディングがフェミニストたちに愛されたのは何も不思議ではない。“Help Yourself” は自分の時間を無駄にしない女性の楽曲であり、騙されない女性の楽曲だった。哀れみよりも自分の都合を優先し、朝になって真実がわかるまでじっと待っている臆病者をこき下ろした。彼女が砕けた調子で標的を非難する際の言葉遣いには可笑しな完璧さがあった。声のピッチを上げて、この人物がその状況をなんとかする”必要がある”ということを強調している。アーマトレイディングはは人々――主に男性――がコミュニケーションを拒絶する様を完璧にコミュニケートした。困惑している人物に感情を抑えられた経験のある人なら、彼女の訥々とした語り口の中に、乾いた皮肉が込められているのがわかるだろう。「待って待って待って、心の整理をしているのか!」。ある瓦解が大声で叫ばれる突破口への道となる。「自分のために外に出るのだ!」それは生の肯定である。

 “Love and Affection” の冒頭、孤独を飛び出すための空想についてのたぶらかすような10単語を書いたときアーマトレイディングは25歳だった。“Love and Affection” は神秘的な英国のフォーク・バラードのように始まり、「Love, love, love」――13つの、全てが説き伏せるような「love」――という宣言で幕を閉じる。それはまるでゴスペル級の荘厳さである。彼女はこの曲は2つの曲を組み合わせたようなものであると語っているが、それは理にかなっている。なぜならばこの曲は2つの矛盾する真実についての曲だからである:愛を欲する気持ちと、それを感じることができないということ。「目に太陽を感じ/顔に雨粒を感じられるというのに/なぜ愛を感じることができないのだろう?」と彼女は歌う。このような歌詞の裏にある潜在的な混乱を読み取りたいという誘惑に駆られるが、1976年当時、それは答えのない問いであった。アーマトレイディングがミッチェルとなにか共通するものを持っているとしたら、それは解決できないものをまっすぐに覗き込もうとする意志であり、最大のヒット曲の中心に不確実なものを抱えているという点である。アーマトレイディングは、愛が形成されていくにしたがって感じ方が変わるということが愛の目的であるということを知っていた。それでこの楽曲は全編を通じて、まるで熱中している瞬間のように変形していくのだ。ソウルフルなベース・ボーカルとサックスがそれを後押しする。なんて勝ち誇ったような曲だろうか。

 “Love and Affection” はイギリスではトップ10ヒットとなった。しかし2019年のBBC Fourのドキュメンタリーの中で、アーマトレイディングはレーベルが自分の音楽をうまく売り込むことに失敗したということを率直に打ち明けた。オベーションのアコースティック・ギターを弾きこなし、ブラック・ミュージックのどのジャンルにも当てはまらない歌を歌う黒人女性をどう扱って良いのかわからなかったのだ。彼女の音楽はブルース、ジャズ、ファンク、ソウルといった装飾にあふれていたが、そのアプローチは同時代のシンガー・ソングライターと同じように、まったくもって個人的なものだった。70年代にか弱いカーペンターズを売り出すことに成功したこのロサンゼルスのレーベルは、英国黒人のオリジナルを売るという任務にはまだ準備ができていなかったのだ。A&Mはラジオにピッタリハマる音楽を売り出すノウハウを持っていたが、アーマトレイディングはラジオにピッタリハマる音楽ではなかったのだ。

 それでも『Joan Armatrading』は愛を持って受け入れられた。一年以内にゴールド・ディスクを獲得し、米国チャートに27周に渡ってランクインし、イギリスの音楽紙『Sounds』では、ボブ・ディランの『Desire』やジョニ・ミッチェルの『Hejira』を抑えてアルバム・オブ・ザ・イヤーを獲得した。その秋、彼女がハマースミス・オデオンの会場を売り切ったとき、『NME』の批評家はオーディエンスが「他のどんなギグよりも多くの女性を含んでいた」と書いている。しかしアメリカでは、次の名作『To The Limit』(1978)が出る頃になっても、アーマトレイディングはアメリカの若いリスナーたちには「広く知られていなかった」。強烈なほどに私的な人間であった彼女は、その後も多くの作品を残したが、決して名声を追い求めることはなかった。そして時が経ち――スターを量産する機械に頼ることなく――彼女は自分が思い描くポップ・ミュージックに関するコントロールをさらに自分のものにしていき、ニューウェイヴやレゲエへと向かい、自分のアルバムをプロデュースし、さらに挑戦的な楽曲を作り、最終的には自分できめた音楽を自主的に制作するためのレコーディング・スタジオを納屋に作ったのである。この『Joan Armatrading』には、すでにその力が鳴り響いている。

<Pitchfork Sunday Review和訳>Sonny Sharrock: Ask the Ages

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AXIOM • 1991

  ソニー・シャーロックはギターを弾きたいと思ったことがなかった。彼は初めてその楽器を手にしたときそれを嫌いさえした。1960年、彼が20歳のころである。そして彼は自身の表現の可能性を急激に広げ、自分のヴィジョンに合うように作り直し、さらにはこの楽器の演奏者として右に出る者はいないというほどの地位にまで上り詰めた後でさえも、その態度に頑固にも固執した。あるいは、自分が死ぬその日まで、記録に残るような場所ではそう主張し続けただけかもしれない。「俺はギターが大嫌いだ」(1970年の発言)、「俺はギターが好きじゃない。ちっとも」(1989年の発言)、「好きじゃない」(1991年、彼の最後の作品であり、最も優れたそれでもある作品をリリースした2か月後)、「ギターの音が大嫌いだ」(1992年の発言)、「あの楽器はあまり好きじゃなかった」(1993年、彼の死まで1年を切ったころの発言)。

 彼は10代のころ喘息を患っていたが、それでも彼はドゥーワップを歌ったり、彼の故郷であるニューヨークのオシニング駅周辺で50年代に育った子供に与えられていた路上でのいたずら行為に精を出すことを妨げられはしなかった。しかし、『Kind of Blue』との出会いによってジョン・コルトレーンの教会へと導かれた彼が欲しがったテナー・サクソフォンは例外だった。知人がギターを持っていたので、彼は代わりにそれを手に取った。彼はこの決断について、「若者がストリートで命を落とす要因であるあらゆるもの」から守ってくれたと確信をもって語っている。それでも彼はギターを嫌っていたのだ。それは、コルトレーンをはじめ、フリー・ジャズのパイオニアであり、コルトレーンと共にメロディやリズムといった西洋的概念から一歩先を言った音楽を鳴らしていたファラオ・サンダースアルバート・アイラーといった彼の愛するテナー奏者が表現していた、恍惚とした人間性の発露というものを表現するのにギターは向いていないと彼が信じていたからだ。ソニー・シャーロックにとってギターとは、だれが演奏しようと同じサウンドになる楽器だった。感情を乗せられないのだ。

 シャーロックが尊敬していたミュージシャンたちはほとんどみな、10代にして野外ふぇすで演奏したり、自身の才能を真剣に磨いていた。若者として、彼はジャズに触れるのが少し遅く、通常の方法(ほかのプレイヤーを研究したり、リックを吸収したのちに自身のスタイルを発展させていく)で音楽を学んでいては間に合わないと感じた。そこで彼はその思い入れのない楽器で、その時々の自身の能力の範囲内で思いっきり自分を表現することに決めた。もし彼が自分にとってのギター・アイドルのような存在を探していたとしても見つからなかっただろう。なぜなら、ソニー・シャーロック以前に彼のようなギターの弾き方をする人はいなかったからである。

 シャーロックに肩を並べるのはジミ・ヘンドリクスくらいであろう。彼はエレキ・ギターを限界まで押し広げ、どんなサウンドがそこにあるのかを探究した。ヘンドリックスの最も野心的な音楽、例えば1970年の “Machine Gun” は極端なヴォリュームとそれに伴うフィードバックとディストーションが用いられ、自然発生的な外界のエネルギーを手なずけ、自分の思うままに操っていた。彼がギターソロの途中でギターを置くと、そのギターは彼の手から離れた後も叫び声を上げ続けていた。シャーロックは、ヴォリュームは常に10のうち4に固定することを好んでいたが、まるでホーン奏者のように、何もしなければ無音で横たわっている物体に命を吹き込むようなプレイヤーである。彼が鳴らすすべての音――スライドが指板の端を飛び越え、ピックがミュートされた弦を叩き、素早く激しくコードをかき鳴らし接近中の竜巻のような音を立てるなど――は運動の力学によるものだった。このエネルギーは彼の中に存在していた。

 シャーロックは常に、自分のことをたまたま違う楽器を演奏しているサックス奏者だと考えていた。彼のもっとも大きな影響源はアイラ―かもしれない。彼のテナー・サックスへのアプローチはシャーロックのギターに対するそれと同じくらい妥協を許さないものだった。二人ともまるで子供が作曲したような明るくて明瞭なメロディーを好み、それを裏返すようなメロディーを書いた。民謡を演奏していたかと思うと、まるでガラスが割れる音のように五線譜に起こすことが不可能であるような音楽に作り替えてしまう。単一のノイズの強烈さがメロディー全体と同じほどの表現力を持つこともある:二人の間にほぼ違いはなかった。彼らは、全ての音楽表現を支配しようとした西洋的な考え方に縛られることを拒否した黒人であり、想像力豊かな思想家だった。しかし彼らの音楽は何かの否定であるだけではない。何かの否定を主眼に置いたものですらなかった。それは自由、超越、そしてその向こうに横たわるすべてのものを喜びのうちに抱擁することについてのものだった。

 かれはバークリー音楽大学を中退後ニューヨークに移ったが、1960年代のニューヨークにおけるフリー・ジャズの革命的世界においても、彼の音楽は難しい提案として受け止められた。彼の登場以前、「ジャズ・ギター」といえばウェス・モンゴメリーチャーリー・クリスチャンのような優雅でメロディックなソロのことを意味していた。フリー・ジャズのグループにはギター奏者のポジションが用意されていないことが多かった。ギターという楽器はボタンをピシッと留め上げたような、初期のジャズにおける調性のイメージにとらわれたままで、当時の白人がやるポップ・ミュージックの象徴となっていっていた。さらに、シャーロックが好んでいた歌うようなシンプルな奏法は、アヴァンギャルドな界隈においてファッショナブルとみなされないものだった。

 この奇妙で、唯一無二な才能をどうしたらいいのか、だれにもわかっていなかった。彼はシーンに現れて数年の間に、自身の名義で一つの大作を作り上げ――当時の妻であり、彼と同じくらいに急進的なヴォーカリスト、リンダ・シャーロックとの『Black Woman』(1969)――、他のプレイヤーの作品に短いながらもインパクトを残すような演奏で参加した。それらの作品では彼はその場面を「盗む」役割を与えられ、ちょっとだけ聴衆の目をくらませたあと、彼をフレームの外へと促すのだった。その結果、ソニー・シャーロックのファンであるということはハイエナのようなゴミ漁り的行為であるように感じることがあった。彼が演奏しているクレイジーなR&Bアルバムを聴いたことがあるだろうか? マイルスの作品に彼がクレジット無しでカメオ出演していることを知っていただろうか? ハービー・マンの作品を聴いていると、彼がその優雅なフルートを中断し、ソニーに大暴れさせるのをじっと待つことになる。

 そしてついに『Ask the Ages』の登場である。ともすると無秩序でしっかりと追うのが難しい彼のディスコグラフィーの中で、シャーロックのこの最後の作品は明らかに山頂である。この作品が1991年に発表された当時、彼は50歳で、ほとんど活動を行っていなかった10年間を経たのち、考えられないほど創作的な復活を遂げて5年ほど経過していた。彼はその人生の中で最も良好な状態にあり、ありえないほど優しい音を奏でたと思えば次の瞬間には我慢できないほどの力で次の音を奏でた。『Black Woman』以来初めて彼は自分と同等の力量を持ったアンサンブルを率いていた――彼の強烈さについていくことができ、そしてたしかな荘厳な重力を発揮し、彼の「マスター」と言う地位(それまでの数作ではその機会を逸していた)に見合う働きをするプレイヤーたちだ。60年代に彼に初めてのギグの機会を与えた火を吐くようなサックス奏者=ファラオ・サンダースジョン・コルトレーン・カルテットのドラマーで、その滝のようなシンバルさばきがこのギタリストのギターぎらいのアプローチの主要な初期の影響源となったエルヴィン・ジョーンズ。24歳の天才ダブル・ベース奏者で、これらの手練の中で前に出るべきときと後ろに下がるべきときをよく分かっていたチャーネット・モフェット。

 この『Ask the Ages』から3年後、シャーロックは心臓発作で亡くなってしまう。ある角度から見ると、このアルバムはまるで天啓のようだ:シャーロックのもつ芸術性の集大成であり、彼がこれまで組んできた精鋭たちと最後にもう一度集結し、彼の内側にあるサウンドを表現しきる機会を与えたのだ。スパーリング相手のように扱った楽器――彼の命を救った楽器――を置き、次のステップへと進むための最後の尊厳をかけた闘いであった。

 また別の角度から見ると、これはなんだか思いがけない僥倖のようにも思えるのだ。シャーロックとプロデューサーのビル・ロズウェルは、ベルリンのバーでの会話からこのアルバム、そしてタイトルの着想を得た。二人は、このギタリストが彼自身の歴史と向き合うような音楽を作りたいと思っていた。ロズウェルが回想するに、シャーロックはこう語ったという。「ジョン・コルトレーンの音楽と再び繋がりたいんだ。あのエネルギー、あの集中力、あのパワー。あのレベル、クオリティに戻りたい。なにかシリアスなものを作ろうよ」。このギタリストがこれらの年代に焦点を絞ったのが彼のツアー・グループであるSonny Sharrock Bandだった。二人の強力なドラマーを擁した、頑強なロック志向のバンドだった。彼らの音楽はまつりの山車のように有頂天で高揚させるものだった。それはジョン・コルトレーンサウンドとは似ても似つかないし、それを「シリアス」と捉える人もいないだろう。

 シャーロックは『Ask the Ages』の制作に際して明らかに興奮している様子だったが、その他のプレイヤーたちは長期的な計画を持っているわけではなかった。彼はこのアルバムを、普段のギグからは離れた、啓蒙的な気晴らしのようなものであると捉えていた。インタビュアーに次の作品について訊かれると、彼はSonny Sharrock Bandの次作について、ヒップホップに影響を受けた作品になるかも知れないと熱く語っていた。彼が死の直前に発表した音楽の一部はカートゥーン・ネットワークのカルト・クラシックなトークショウ・パロディ『Space Ghost Coast to Coast』で、それは『Ask the Ages』では必ずしも表現されきっていなかった遊び心溢れる作風が深く反映されたものだった(「アル・ディ・メオラのような猫ちゃんプレイヤーは、少し笑ったほうがいい演奏ができると思う。あれはそこまでシリアスなものではない」と彼は1989年インタビューアに語っている)。シャーロックの死によって『Ask the Ages』を代表作であると考えるのがたやすくなったが、彼はその考えに対して自分で抵抗していたかも知れない。彼は人生においてそんな真っ直ぐな線の上を歩くことは殆どなかった。

 ロズウェルとシャーロックは、このプロデューサーがこのギタリストの不本意な早期リタイアから復帰するのを手助けしたときから親しいコラボレーター同士だった。売れ線のポップ・ジャズ・フュージョン奏者のハービー・マンは1960年代後期から70年代初期にかけてシャーロックが最も信頼できる雇用主だった。二人の音楽性は著しく異なっていたが。二人が道を分かってから、シャーロックは再びリンダとアルバムを作った――1975年のシュールなファンク・エクスペリメンタル作品『Paradise』――が、その後枯れのキャリアは暗礁に乗り上げる。彼は自前のギグや、精神疾患を持つ子どもたちのための学校でのライブで糊口をしのぎ、何年もの間薪割りと作曲をし続けていたが、演奏するのは本当に限られた機会のみで、録音は決して行わなかった。

 ロズウェルが当時やっていたアート・パンク・ダンス・バンド、Materialの1981年作『Memory Serves』に参加しないかと招待した頃から、少しずつ物事が変わり始めた。ロズウェルはベースを弾いていたが、彼が果たした最も重要な役割はジャンルを超えた実験的なミュージシャンたちとのつながりであり、シャーロックをその後のプロジェクトにも頻繁に呼ぶようになった。その中の主だったものにはLast Exitがあった。毎夜なにもないところから即興で作り上げていく容赦ないほどに不協和音な音楽は、最先端のフリー・ジャズで聴かれるようなスウィングよりもパンクの直線的なリズムを好み、のちにノイズ・ロックと呼ばれるような音楽に近いものがあった。

 ジャズの海岸で洗い流されたシャーロックは、突如新しい世代の冒険的なロック・ミュージシャンやリスナーたちの間で先見の明を持ったパイオニアであると目されるようになった。サーストン・ムーアはハービー・マンのレコードを山のように買いあさり、シャーロックの全てのソロをそこから抜き出して、それを一本のカセットにダビングした。「僕が見聞き下もの中で最高のものの一つだった」と彼はKnitting FactoryでみたSonny Sharrock Bandの演奏についてこう語っている。「啓蒙的だった。僕がギターでやりたいと思っていることについて、僕の何歩も先のことを教えてくれるような演奏だった」。主に白人アーティストが称賛を浴びることが多い実験的なエレクトリック・ギターの演奏の世界は、シャーロックがいなければ今とは全く違ったものになっていただろう。

 『Ask the Ages』は、シャーロックとロズウェルのそれまでの共作のもつ強烈さを、わかりやすくジャズというサウンドに落とし込んだものだ。この作品の作曲を1人で手掛けたシャーロックは、彼のシンプルで直接的なメロディーへの偏向をそれぞれの楽曲の最初の音色に注ぎ込んでいる。それらのセクションでは、彼は互いに絡み合ったギターのラインをオーバーダブし、サンダースのテナーを共に何か流動的で金属的な、ミュータントのようなホーン・セクションへと拡張している。大抵の曲は最初の1分かそこらは、何なら古臭いと感じるほどにわかりやすくスウィングしている。そしてその後に炎がやってくる。

 “As We Used to Sing” では、頑なにマイナー調のテーマがある地点まで上昇していき、シャーロックのソロが炸裂する:最初は怒り狂った蛇のように、そして愉快なスタッカート、そして地平線を超えたどこかへと飛んでいく。(彼はマーシャルのアンプに直差しして、適度なボリュームで演奏することを好んだが、アンプやエフェクターといった部分にこだわりがなかったことが信じがたい音を奏でている)。彼がメロディーから旅立ち、ピュアなサウンドの波を召喚し始めても、そこには明確な感情の弾道がある。彼は自身の演奏の中でフィーリングを何よりも重んじていて、それ自体が目的化しているノイズには無関心であると公言していた。パッセージのピークでは、錐揉みに着地するのではなく、シャーロックは突然休止する。そしてそれによって出現するネガティヴ・スペース(空白)はその直前まで続いた不協和音と同じくらいの衝撃である。サンダースが入ってきてその管が鳥のような鳴き声を上げ始めると、それは災害が地球を一掃したあとにもう一度新しい命の兆しが芽生え始めているのを目撃しているような気分になる。

 シャーロックは晩年、与えられたメロディの確信に迫るために、余計なものを削ぎ落としてい演奏していると語っていた。その試みは『Ask the Ages』全編に渡って聴くことができるが、中でも顕著なのが “Who Does She Hope to Be?” である。このアルバムで最も短く、最も甘美な一曲。ジョーンズとサンダースは周縁へと後退し、ほぼ何も音を鳴らしていない。シャーロックのフレーズは空間をたっぷり使ったメランコリックなものだ。彼は特に何か不思議なことをやっているわけではなく、ただメロディーに語らせている。あなたの注意はモフェットへと向かうだろう。彼のベースの流れるような自己主張は、アレンジを覆すほどである。レガシーをテーマにしたアルバムであるにも関わらず、『Ask the Ages』はこの音楽が生きたものであることを感じさせない。“Who Does She Hope to Be?” はこのアティテュードを際立たせている。若きサイドマンが、ほんの一瞬リーダーとなる。

 このアルバムは “Many Mansions” で驚異的な頂点に達する。この楽曲はシャーロックのアヴァン・ロックへの短期滞在を最も呼び起こさせる。そのペンタトニックのテーマは『A Love Supureme』の “Acknowledgement” セクションと同じ自然の質を持っているが、それが9分間の間繰り返されるにあたって、段々とBlack Sabbathノリ付のようにも聞こえてくる。シャーロックの前にサンダースがソロを取り、進んでいくよりも先にクライマックスに達する。有頂天な調子で始まり、そこからただただ狂気を帯びていくのだ。一つの持続音が叫び声のように響き、2つの音の間の泡のようなトリルで、彼は人生を伝えている。エルヴィン・ジョーンズは60代なかばでありながら、若い頃よりも活発であり、このソロイストの高みを更新している。この数十年の間に録音の制度が向上したこともあり、彼のキットは感覚的なものになっていた:ベース・ドラムへの打音は胸を殴られるような感覚で、ライド・シンバルの輝きが目の前に見えるかのようである。シャーロックによれば、彼がジョーンズの「リズムの殺戮」によって一瞬落ち着きを失って明らかに間違った部分があったという。「彼がコルトレーンと演奏しているのを見たバードランドへとフラッシュバックしたような感覚だった。そしてミスったんだ。一瞬この違和感を感じるだろう。だって僕は完全にやられてしまっていたのだから」と語る。その部分を聞き取ることができるだろうか?

 『Ask the Ages』の美しさを言葉にするのは難しい。何か説明できないものを追い求めた作品だから。シャーロックはフィーリングを重視しない音楽――技巧や模倣に耽溺したり、聴き手を驚かせようとして自分の欲求を裏切ったり――から身を引くことに何のためらいもなかった。「それは音楽をつくるというよりは、パズルを組み立てることに近い」と彼は死の約1年前にインタビュアーに語っている。「音楽というのは自分の中から流れ出てくるもので、何らかの力であるべきだ。それはフィーリングであるべきだ。全てはフィーリングだ」。

 彼は同じインタビューで、「全ては何かを自分の中に入れて、それを吐き出すということだ。わかるだろう?リアルであること。それが君の中にあるうちは大丈夫だが、それを音楽にしなければそれはリアルではない」。自分の人生の終わり間際で、シャーロックはその「何か」に一番近づいていた。彼は引き続き彼がたまたま手にした楽器への憎しみを口にしてはばからなかったが、音楽への愛情はまごうことなき本物だった。彼のヒーローであるジョン・コルトレーンと同じように、彼はその才能の頂点で亡くなり、来たるべき黙示を予感させる作品を残して旅立った。「年齢のことを考えたこともない。いい演奏ができていればそれだけで幸せで、そんな事を気にする暇もない。まだまだ先は長い。まだ自分を発見したばかりなんだ。音楽的には僕はまだ始まったばかり。やっと自分で思う通りに演奏ができるようになったところだ」と別のインタビュアーに語っている。

 シャーロックはかつて、自分が宗教的であるというのはコルトレーンを神であると信じているという点においてだけだと語った。しかし、彼の演奏における表現の真実性の追求は、コルトレーンがより明確にスピリチュアルな方向へ向かっていたのとあまり変わらない。コルトレーンはより高次元の力を求めた:シャーロックはただフィーリングを求めた。彼と彼のバンドが『Ask the Ages』で異言(いげん)を唱えているのを聴けば、この2つは同じものを指し示す違う名前なのではないかと思い始めるだろう。

<Pitchfork Sunday Review和訳>Speaker Knockerz: Married to the Money II #MTTM2

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TALIBANDZ ENTERTAINMENT • 2014

 サウス・カロライナ州コロンビアに住むデレク・マカリスター・Jr.は16歳でお金がなく、ほかのティーンエイジャーたちと同じように、遊ぶお金が欲しいと思っていた。彼はファストフード・チェーンのZaxbysの仕事に応募していたが、そこからの電話が返ってこないとわかった時、彼はコンピューターに向き直った。彼はFruityLoopsというビート作成のプログラムを13歳のころから使っていた。それはセルフ・プロモーションの魔術師で10代のダンス・ラップ・アイコンであったSoulja Boyが同じものを使っていたからだ。彼はそれで作ったビートをSoundClickというサイトで販売し、ソーシャル・メディア上で果敢にそれを宣伝していた。

 2010年か2011年ころ、マカリスターのビートが初めて売れた。マイアミのラッパーが50ドルで買ってくれたのだ。そのお金で彼は手頃な値段のスピーカーを一組購入した。彼はMeek Millの『Dreamchasers』収録の ”Tony Montana”、そしてFrench Montana『Coke Boys 3』収録の ”Dope Got Me Rich” といったメジャーのリリースへの参加を達成した。彼のプロダクションを聞けば、アトランタのラップ・シーンからの影響が明らかに聴いて取れる:彼のピアノのメロディはびっくり箱にピッタリ合うほどにソフトで、Travis Porterの楽曲と並べても遜色ないだろう。彼の暗い808のサウンドやチクタクと刻むハイハットLex Lugerからの影響が感じられる。サウスカロライナの16歳の少年のベッドルームにあるパソコンで、違法ダウンロードしたFruityLoopsを用いて作成された彼のビートは、それでもFutureの『Pluto』に収録されている楽曲のようにきこえる。

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 翌年にかけて、マカリスターは250個ものビートをSoundClickのページにアップロードし、その全てを売ることに成功した。この新しいお小遣いで、彼は即座に彼の宝物となるものを購入した。黒一色の新車のカマロだ。後にその車は彼の楽曲の中で繰り返し言及され、ミュージック・ビデオにも登場することになる。その車はスローモーションで撮影されると、ますますバットモービルのように見えるのだった。

 ラップを始めたのは、ほとんどプロモーション上の戦略からだった。「ラップを始めた目的は、俺が自分でいい曲を作ることができると知っていたからだ」彼は2013年、まるでガラケーで録音されたような音質の悪いインタビューでそう語っている。「俺は自分をプロモートする方法を知っていたから、どんどん多くの人たちが俺のビートを甲斐に集まってきたんだ」。2012年の春、彼はSpeaker Knockerzという名前でYouTubeにメロディックなシングルをアップロードし始めた。彼の初期の楽曲の中でも最良の ”All I Know” はロボティックで無機質なメロディーを大量のオートチューンと明るいピアノのラインに乗せて聞かせるものだった。この融合が彼の音楽を決定づけ、やがて2013年にリリースされる2枚の重要なミックステープにもつながっていく。

 『Married to the Money』と『Finesse Father』は、サウスやミッドウェストで2010年代初期に流行していた人気のラップとそう変わりなく聞こえるが、それもそのはず、それ以上のものを目指して作られてはいないからだ。キラキラとしたプロダクション、無表情に歌われるキャッチーな歌声と細部へのこだわりによって、この2枚のミックステープはメロドラマ的な小さなサーガとしての地位を与えられた。中にはクラブでケツを振るためだけのクソみたいな曲もあった(”Freak Hoe” など)。しかし大抵の曲はほろ苦いアンチ・ラヴ・ポップとストリートのフィクションによって構成されていた。しかし彼の失恋、孤独、そしてパラノイアは、インターネットで崇拝するように見ていたミュージック・ビデオからこれらの感情を学んだ10代の若者の空想のように、奇妙なまでに取り除かれていた。

 彼は身の回りの音楽を研究した。まるでそれによって試されているかのように。(彼のYouTubeには彼がFutureの ”Same Damn Time” に合わせて踊る動画がある。彼は途中で音楽を止めてこうコメントしている。「なんでラッパーたちっていうのは中途半端に売れたことを自慢するんだ? それって本当に馬鹿げたことだと思う。俺なら半端なく売れたってことを自慢するけどな」)。特に彼が入れ込んでいたのがシカゴで現れつつあったドリル・ラップ・シーンの冷酷なスタイルだった:それは(Lil)Drukが試し始めていた禁欲的なメロディであれ、(Chief)Keefがトラウマをドラッグやアルコールで麻痺させることについて声を震わせる様であれ、ファンたちはそれらがトップ40のヒット曲であるかのように一緒になって歌うのであった。同じように、Speaker Knockerzは ”How Could You” で極悪で神経症的な感傷を、あるいは ”Rico Story” 三部作では希望のない犯罪の物語を、早口でまくしたてることができた。そしてその重苦しい雰囲気を、スキニージーンズを履いたティーンエイジャーたちが踊るために作られたような、太陽の光をまぶしたプロダクションと重ね合わせた。そうするとまさにそのとおりのことが起こったのである。

 サウスでブレイクを果たす代わりに、Speaker Knockerzの音楽はさらに北のシカゴで生き生きと聴かれるようになった。スピリチュアル的に、Future風の強化版オートチューンとドリルのブルータルな心象風景をブレンドした彼のスタイルは、Breezy Montanaの ”Ball Out”、Shawty Dooの ”Its Foreign”(プロデュースはSpeaker Knockerz)、そしてSicko Mobbによって制作された数々の曲のようなローカル・ヒットを次々に生み出していたシカゴのバップ・シーンとうまくマッチしたのだった。キング・オブ・バップと呼ばれるシカゴの重要なローカル・テイストメイカーであるKemoは、『Married to the Money』収録の ”Annoying” に合わせて自身がダンスする動画をアップロードした。Kemoのお墨付きによってSpeaker Knockerzはシーンの主役に躍り出た。やがて、Toni Romiti――短い動画を投稿するプラットフォーム=Vineで当時人気だった人物――がこれらのシングルをシカゴで耳にし、彼女の6秒動画のBGMとして用いた。Speaker Knockerzは少しずつバズり始めた。

 2013年の暮れ、Speaker Knockerzは彼の決定的なシングルとなる ”Lonely” をリリースする。彼のスタイルの完成形であった。矢継ぎ早に繰り出されるハイハットと心臓からの出血のようなピアノの上で、彼はまるでターミネーターのような冷酷さでこうつぶやく。「なにもないところから始めた、俺はハングリーだった/今ではビッチが着いてくる/クソが、俺はお前のホーミーになんかなりたくない/俺は俺ひとりで金を稼がなきゃな」。今回のバズは相当なもので、あのDrakeですらこの曲に合わせて歌う動画を上げるほどだった。Speaker Knockerzは ”Lonely” に続いて同じくダイナミックな ”Erica Kane” をリリースした。これは ”Rico Story” 三部作と並び彼の作詞の巧みさを伝えるものだった。”Erica Kane” は彼が生前リリースした最後の音源となった。2014年3月、まだ19歳だったSpeaker Knockerzはガレージの中で胸を抑えて倒れ込んでいるところを警察と父親によって発見された。死因は心臓発作だった。横たわる彼の横には黒塗りのカマロがあった。

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 Speaker Knockerzは確かにポップ風のラップ・ミュージックを作っていたが、彼が生きている間彼はポップ・スターではなかった。彼はいくつかのインタビューしか受けなかったし、彼について書かれたものもそれほど多くない。そしてAtlanticやUniversal Republicからの誘いにも関わらず、彼はレーベルと契約しなかった。彼の知名度はシカゴやニューヨーク、そしてミルウォーキーなど限られた地域だけのものだった。さらに彼が出てきたのはラップ・ブログが衰退し始めた頃だった:メディアが取り上げるのは、XXLのフレッシュマン特集の表紙を飾るような、バックにレーベルがついているスターばかりだった。彼が死んだあとでさえ、彼の家族はWondering Soundというウェブサイトのプロフィール以外は口をつぐんでいた。彼の死から半年後にリリースされ、”Lonely” ”Erica Kane” の両曲を収録した『Married to the Money II』がどのように完成されたのかは不明だったが、どうやら彼の家族、とりわけ彼の父親、デレク・マカリスター・シニアが大きな貢献を果たしたのだろうと考えるのが妥当だろう。

 マカリスターは当初、父親(同じく音楽プロデューサーだった)と母親と共にブロンクスで育った。マカリスター・ジュニアが5歳のころ、父親はドラッグ関連の罪で刑務所に送られた。その頃、母親はマカリスターとその妹をサウス・カロライナへと移したのだった。13歳のころ、Speaker KnockerzがFruityLoopsで遊び始めたころ、彼はそのつたないインストゥルメンタルを電話越しに父親に聴かせ、アドバイスと批評を求めた。マカリスター・シニアは出所後、息子と親しく一緒に作業するようになり、彼をスタジオに連れていったり、彼のキャリアが芽を出し始めると雑務関連の部分を手伝うようになった。

 近しい血縁のものが関与したにもかかわらず、その他多くの死後リリースされたラップ・アルバムと同じように、『Married to the Money II」は欠陥品だった。その構造は2020年のPop SmokeShoot for the Stars Aim for the Moon』と共通している部分がある。それは、メインストリームでの成功を目前にしていながらも突如失われた地方のスターのレガシーを受け継ぎながらも、新しくファンになる可能性のある人たちに向けた紹介でもある、という作品を目指して作られたという点だ。でも結局そんなたいそうな目標をいくつも目指したところで、とっ散らかったサウンドになってしまうのだ。

 土台となったあの2枚のミックステープと違い、『II』にはタイトなエディットというものは存在せず、再生時間は長い。Speaker Knockerzの見切りの良さは、まるで思い付きのようで、面白くカオティックだった。しかしここではいろんな選択が必要にかられたものになっていて、特にこれまでの作品ではあまり見られなかったコラボレーションにかなり比重が置かれている。これらの楽曲のうちかなり多くのそれが未完成であることは聴いてすぐに分かるだろう:”U Mad Bro” でのKevin Flumはかなりありきたりな白人早口ラッパーのように聞こえるし、幼馴染であるCapo Cheezeが ”Smoke It” や ”Double Count” で用いているオートチューンを聞けば、あの時のJAY-Zは正しかったと思ってしまうかも知れない。Speaker Knockerzの初期の名声に貢献したVineスター、Toi Romitiが歌う ”Scared Money” のフックはどうしようもなく酷い代物だ。

 粗が目立つ部分はあるものの、『~II』はSpeaker Knockerzのカタログへの出発地点として意図されたものである。特に特筆すべきは、引き続き当時のラップ・ミュージックのトレンドを最大化したような彼のプロダクションである。オートメーション風のハンド・クラップやフィンガースナップ、ブンブンと唸るドラム、そしてエレクトロニックなキーボードのメロディ。これらはリングトーン・ラップと、Rich Gangの『Tha Tour Pt. 1』やMigosの『Rich N***a Timeline』といった重要なミックステープの発表の間にぽっかりと空いた、非伝統的なATLラップの特徴である。もちろん “Lonely” と “Erica Kane” がピークではあるが、ポップなシンセサイザーの上に心臓のように弾むドラムがのっかる “Tattoos” や、オートチューンが深くかけられた彼による泣き叫ぶような歌声にぴったりの “Don't Know” もまたこの流れに連なるものだ。これほどバブリーでハーモニックなプロダクションを聴くと、もし彼が自身の手で――安価な用兵に頼るのではなく――ヴァースやフックを完成させるチャンスがあったなら、『~II』は彼の代表作になったのではないかと思わずにはいられない。

 彼のこれまでのミックステープにおける歌詞の構造と同じく、歌詞――楽しげなものから陰鬱なものまで――はナーサリーライムのように直截的である。”We Know” の歌詞はこんな風だ。“The phone, the phone is ringing/I’m ’bout to talk dis dumb n***a out all of his ching-ching/All dis finnessin’ now I got all of this bling-bling/N***a… I’m fuckin an’ smokin’ and drinking”。初歩的な単語たが、方向感覚を失わせるようなオートチューンの歌声と、気持ちを感じるということを初めて学んだAIのような不気味なエネルギーの融合がそれらを浮かび上がらせている。同じように、”On Me” は気の抜けたゲストのヴァースを無視すれば、Speaker Knockerzの短いキャリアの中でも随一の生き生きとしたメロディックなヴァースを聴くことが出きる。“She wanna ride in my black car, because I’ma star” と彼は軽快に歌う。まるで彼のカマロに乗らないかという誘いは跪くことと同義であるかのように。

 時がたつにつれ、Speaker Knockerzの物語を語るのは難しくなってきている。彼が成功を収めた地方のシーンは全く違うものになっているし、彼の音楽が芽を出したソーシャル・メディアのプラットフォームは今や遠い過去の記憶となった。彼を初期のヴァイラル・スターに仕立て上げたオリジナルのVine動画を探すのは難しくなっている。もしある日目覚めて彼のYouTubeページが閉鎖されていたら、我々が彼について知っていることの多くは失われてしまう。それはインターネット上だけに存在する物事がいかに儚いものであるかという事を、そしてビッグ・テック企業が明日にもその息の根を止めることができるプラットフォーム上にあるレガシーの脆弱性を、思い出させてくれる。

 しかしともかく、多くの記憶に残っているポップ・ミュージック同様、『Married to the Money II』はタイムカプセルのようなものだ(Speaker KnockerzのCDの隣にはスナップバックキャップ、トゥルーレリジョンのジーンズ、彼のお気に入りだったUrban OutfittersのグラフィックTシャツ、そして不必要なチャックがたくさんついた服なんかがあるだろう)。しかし彼の同胞であるFutureやChief Keefと同じく、この瞬間は重要であると同時に、この時期に偶然起こった時代を超えた物語の背景でもある。もっと伝統的なポップラップの楽曲は2010年代初期のその瞬間に永遠に閉じ込められているが(例えば:”Rack City” や ”Black and Yellow”)、”Lonely” のようなシングルはタイムレスに感じるような感傷を湛えている。Speaker Knockerzは、2010年代に自分のベッドルームに閉じこもってインターネットをしていたティーンたちに人気だったもの全てに大きな影響を受けているにも関わらず、彼自身が独自の存在であるかのように聞こえるのだ。

<Pitchfork Sunday Review和訳>Lync: These Are Not Fall Colors

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K RECORDS • 1994

 Lyncが活動していたのはたったの2年間であり、それは長い歴史に一瞬だけ現れた点のようなものである。1992年の暮れから1994年の間の短い活動の間に、ワシントン州オリンピアの3人組は4枚の7インチと、3つのコンピ盤参加曲、そして唯一のLPであり、皆に愛されることになる『These Are Not Fall Colors』をリリースしている。これらが彼らの公式の発表物の総計である(地元の友達や、フォード・エコノラインに乗って西海岸を上下して回った小旅行で出会った音楽関係者たちだけに配布された6曲入りのデモテープを除けば)。もしLyncが唯一のフル・アルバムを完成させる前に解散していたとしたら、1~2年の間DIY界隈で活動した後に解散し、もはやその存在を示す証拠となるのはいくつかのレコード盤のみ、というようなほかのバンドと同様に、鮮明に記憶されることはなかっただろう。

 しかしつむじ風のようなこのアルバムにおいて、Lyncは特別な何かを表現している:ものすごい速さで過ぎ去っていく、青年期のおぼろげで言葉にしがたい感情の発露。そしてこの作品を聴いてみると、その粗削りな渦巻きの中には何か他のものも感じられるはずだ:ロック・ミュージックがこの先向かう方向のいち提案。しかし――これはこの作品の親しみやすい魅力の大きな部分を占めるのであるが――この作品のデザインはそういった内容から想像するよりも大げさでもったいぶってはいないのである。『These Are Not Fall Colors』はマニフェストではなく個人的なステートメントであり、青のボールペンで書かれたしわだらけのノートブックをそのまま音にしたような作品である。明らかに計算や自意識といったものは入り込んでいないことから、この作品はなにか基準となるものを打ち立てようというたぐいのものではなかったことがわかる。これは単なる流血であり、熱中し、楽しんで、純粋に作られた作品である。

 シアトルから南に1時間ほど行ったところに位置する小さな町、オリンピアは、1980年代初期から独立系の音楽シーンの中心地であった。それは、一つには1967年に設立された公立の教育機関、Evergreen State Collegeのおかげでもある。伝統的なカリキュラムに縛られない自由な校風で知られる同校は急進的な学生たちにとって魅力的な場所だった。しかしこの学校の存在よりも、カルヴィン・ジョンソンの存在の方が重要であろう。ボルチモア生まれのジョンソンは1970年、彼が8歳の時にこの地域に家族と共に越してきた。比較的孤立したオリンピアの町にあって、彼はごく初期のパンクを発見した。1978年、まだ高校生だった彼はEvergreen Collegeの未熟なラジオ局=KAOSで番組を持ち、1982年には奇妙でありながら素朴な気風のカセット・レーベル=K Recordsを設立する。

 Kはジョンソンと彼の友人たち、Mecca Normal、Girl Trouble、そして彼自身によるBeat Happeningといったアーティストたちのための音楽作品の発表の場として始まった。レーベルのサウンドは当初からローファイであった。初期のリリース作品はラジカセで録音された。Beat Happeningは2作目である『Jmboree』(1987年)を玄関で録音している。このレーベルのとっ散らかった感じは一つにはジョンソンの趣味もあったが、そうせざるを得なかったという側面もある。彼らはレコードのスリーヴも白黒でコピーした後に手作業で色を付けた。そのほうが安かったからである。棒人間の絵をアートワークに使ったのも、そっちのほうが身の丈に合っているからであった。ほかのパンクスたちがスパイク付きのブーツで着飾るなか、ジョンソンは足首にピンクのバンダナを巻くだけだった(彼の友人であったイアン・マッケイは振り返って「こいつは変な奴だ」と思ったと語っている)。オリンピアのシーンを広く知らしめた6日間のフェスティバル、1991年に開催されたInternational Pop Underground Conventionにおいて、ジョンソンはヴィーガン用のキャンディを聴衆にばらまいた。

 Kの美学の中心には決して消し去ることのできない純粋さがあり、それは1979年、当時17歳だったジョンソンが『New York Rocker』に宛てて書いた手紙によく表れている。「僕は秘密を知っている。ロックンロールというのはティーンエイジャーのスポーツであり、すべての年齢のティーンエイジャーによって演奏される。べつに15歳でも、25歳でも、35歳でもいい。そのハートに愛があるか、美しいティーンエイジの精神を持っていればいいんだ」

 1990年代の初めには、Kはミュージシャン、アーティスト、そしてジン作成者たちの国際的ネットワークのハブとして機能するようになっていた。彼らは日本やイギリスの似たような考えの持ち主たちと関係性を築くとともに、ワシントンD.C.Dischordとは同志としてアーティストを交換したりツアーを一緒に回ったりしていた。オリンピアのシーンはシアトルのグランジ・ブームからは距離を取りながらも、独自の特異な特徴を発展させながら繁栄していった(Modest MouseのIsaac Brockはのちにこう語っている。「自分たちがイサクワ出身であるということにしたのは、シアトルやオリンピアのどちらにも縛られたくなかったからだ。シアトルの音楽シーン、つまりグランジはもっとわかりやすいロックやメタルって感じで、オリンピアはちょっと変わった感じだった」)。ライオット・ガールのムーヴメントは、Bikini KillBratmobileが活動を始動させたオリンピアにそのルーツがある。さらに言えば、ティーンの精神(”teen spirit”)について強い考えを持った若者がもう一人、オリンピアに短い間住んだあと、シアトルへ移って世界的に有名になった:カート・コバーンはK Recordsのロゴのスティックアンドポーク・タトゥーを二の腕に彫っているのだ。

 その間にも、Kill Rock Stars、Yoyo Recordings、Punk in My Vitaminsといった新興レーベルが街にあふれるバンドを収容するために次々に生まれていた。Lyncsのサム・ジェインはこう振り返る。「ただ通りを歩きながら人に話しかければそういう人と出会うんだ。そういう人たちは町の外からショウでプレイするためにやってくるんだけど、ほかにすることもないっていうんで、ここに1週間かそこら滞在することになるんだ。みんな短期滞在だったし、シーンで顔が広いキッズもたくさんいた。お互いの家に押しかけて泊まって、また次の町へ…という生活を送るキッズたちのネットワークが形成されていたんだ」。

 今振り返って、その時代が一枚岩のムーヴメントだったと考えるのはたやすい。しかし「グランジ」や「パシフィック・ノースウェスト」(あるいは「シアトル」)という用語は、なにか特定できないその他の勢力を表す換喩に過ぎない。1992年、パンクと今日で言うところのインディー・ロックが隆盛を極めていた:シーンは多様なアイデア、音楽スタイル、そして社会的ネットワークでで溢れかえっていた。ハードコア、ポップ・パンク、エモ、スクリーモ、ホワイトベルト、ピッグファック、メタル、スラッシュ、スラッジ、パワーヴァイオレンス、ライオット・ガール、インディー・ポップ、ローファイ、オルタナ・フォーク、オルタナティヴ、カレッジ・ロック、そしてグランジですら、それらはお互いに重なり合い、全く異なる者同士に思えてもお互いを支え合っていたのである。そしてLyncはその中から一つだけを選ぶのを拒み、その全ての美しい混沌の鏡像となったのである。

 サム・ジェイン、ジェームス・バートラム、デイヴ・シュナイダーはLyncを結成したときまだ10代だった。バンド初期の記録は殆ど残っていない:彼らのデビューはおそらく1992年10月にシアトルのExcursion Recordsから出たカセット・コンピレーション『This Is My World』で、真っ直ぐなUndertowや同じくNYHCにインスパイアされたBrotherhood(後にSunn O)))を結成するグレッグ・アンダーソンが在籍)といったバンドと並んで参加している。Lyncが1993年の『Julep: Another Yoyo Studio Compilation』にHeavens to BestySlant 6Kicking Giantといったグループとともに参加した際には、『SPIN』誌のその年の10月号で「期待の新鋭」と紹介された。1994年5月の『Punk Planet』誌の創刊号に掲載されたシアトルのシーンのリポートでは、「オリンピアの3大バンドはUnwoundMary Lou Lord、そしてLyncだ。それ以外には考えつかない」と記されている(市内でのライバル関係は明らかに存在したのである)。

 その希少さとは裏腹に、Lyncの1993年のデモ・カセット『Codename』は幸先の良いデビュー作と言えるものではない。音質も悪く、タイムキープはガタガタである。ジェインの声はまるで望遠鏡の逆側から聞こえてくるようであり、シュナイダーのドラムはクラッシュ・シンバルの音割れで何も聞こえず、バートラムのベースは聞き取ることすら難しい。スタイル的には、そこに収められた6曲は型通りのエモとポップ・パンクのミックスと行った趣で、底に金属的なガレージ・ロック的な音も付け加えられている。”Lightbulb Switch” は照明のスイッチに手が届かない少年の視点から歌われ、The Dead MilkmenがShel Siversteinをカバーしているようなうぶな雰囲気がある。

 Lyncが1993年2月にパット・マリーと彼のYoYo Studioで行ったセッションはよりシャープなサウンドとクリアなヴィジョンを生み出した。3曲入りのEP『Pigeons』では、彼らをJawbreakerのような熱のこもったポップ・パンクと、同じシーン出身のUnwound(厳密にはタムウォーター出身だが、そこはオリンピアからすぐのところである)の苦悶のポスト・ハードコアのちょうど中間に自分たちを位置づけた。スロウでたちこめるような ”Pigeons” のリフはリョコウバトの絶滅の暗喩であり、ジェインの声はボソボソとつぶやくようなスポークン・ワードと耳障りなシャウト風の歌い方を行き来しているが、後にそれは彼の得意技となる。水力発電の生態系への影響を歌う、エネルギッシュな ”Electricity” は、Green Dayも初期に所属していたベイ・エリアのLookout! Recordsから出ていてもおかしくないようなサウンドである。

 これらの歌詞のテーマが「ひどく」エモ的に聞こえるのであれば、音楽自体も時には数歩その方向に踏み入れている。”Friend” で「I'm sorry! I'm sorry! I'm sorry!」と叫ぶジェインの声はひび割れ、十代の怒りの生々しいサウンドは落ち着くには少しばかり演技がかりすぎている。Lyncがまだ自分たちのサウンドを模索していたことは明らかである。ジェインは後にこう振り返っている。「僕たちは自分たちが影響されたものから一歩でも踏み出して、それがどういうものなのかを客観的に見ることができていなかったんだと思う。Lyncがどういう音楽を作っているのか全く見当もつかなかった。誰かがそれをぼくに説明しようとしても、『でもそれが結局なんなのか理解できない』って感じだった」。

 Lyncは1993年の暮れにもう一度レコーディングを行う。今回はNation of Ulyssesのティム・グリーンと、Bratmobile、KarpUnwound、そしてSleater-Kinneyといったアーティストがその短い存続期間の間に作品を録音した、オリンピアにある控えめなスタジオ=The Red Houseで行われた。彼らは後にアルバムで聞かせることになるサウンドに近づきつつあった――ギターはより分厚くなり、オープン・コードと棘のある不協和音を交互に用いている。1994年、Kの「インターナショナル・ポップ・アンダーグラウンド・シリーズ」の一環としてリリースされたシングル ”Two Feet in Front” ではまずガラス細工士のようにきれいに音色を引き伸ばし、次に鍛冶屋が鉄を叩いて火花を散らすかのようにコードを曲げるような、そんなやり方で編曲にアプローチしている。”Lightbulb Switch” はB面に再録されているが、今回はダブル・タイム・ハードコアの2分間の疾風のようなアレンジに変わっている。

 1994年の5〜6月、LyncはシアトルのJohn & Stu's Placeにおいて、フィル・イークをプロデューサーに招いて作業を進めた。以前は食料店だったこのスタジオはグランジの歴史が息づく場所であった。Green River、Soundgarden、Mudhoney、そしてTADといったバンドたちがこの場所で重要な作品をレコーディングしている。またNirvanaがのちに『Bleach』となる、初期のレコーディングを行ったのもここである。イークはまだ音楽制作に携わるようになって2年ほどしかたっていなかったのにも関わらず、この『These Are Not Fall Colors』と同時期にBuilt to Spillの『There's Nothing Wrong With Love』のレコーディングもしていたと考えると驚くべきことである。この2つのバンドの歴史にはたしかに重なり合う部分があるが(1993年と1994年、ダグ・マーシュはカルヴィン・ジョンソンと共に何曲か録音をしているが、そのうちの一つにバートラムとシュナイダーがリズム隊として参加し、Kから『The Normal Years』としてリリースされている)、この2枚のアルバムには互いに類似点が一つもない。『There's Nothing Wrong With Love』がすべてレイヤーで重ねられていてライトである――近い音域でのハーモニー・ボーカルやクリーントーンのギターがマーシュの輝かしいソロ・プレイと対置されている――のに対し、『These Are Not Fall Colors』は濃密でジメジメしており、堆肥積みの中の枯れ葉のように粘り気のある作品である。

 アルバムの1曲目である ”B” は、これらの初期の7インチを録音していたバンドと言うよりは全く違うバンドの作品のようだ。まずはフィードバックの突風クモのような不協和音のギターから始まる:バートラムのベースが入ってきて、少しばかり調和するような兆しを見せたかと思うと、軸が回転し、そのハーモニーを混乱の中に投げ捨てる。シュナイダーのドラムは打ち鳴らされるシンバルの海であり、そこに句読点を打つように時折スネアが打ち鳴らされる。コーラスでもその混乱はマスばかりで、バートラムはまるで手にかけた局部麻酔が解けきっていないかのようにベースの弦をすりつぶしている。これほどまでに無定形なものをコーラスと呼んでもいいのだろうか?語りうるメロディーというものが存在しない:ベース、ギター、ドラムは、まるで岩滑りが不承不承ながらに山を登っていくかのように、あらっぽい調和の中でのたうち回っているだけである。ジェインはその前面でなにか真面目なことと連続殺人犯について歌いながら叫んでいる。その後方ではまた別の声が血みどろの殺人のような叫び声を上げている。

 急速な勢いで発展していったエモのサウンドによく注意を払っていたものならばこれらのサウンドをきちんと認識できたのかもしれない。Heroinはその前年にセルフタイトル作で似たようなアイデアを探求し、彼らの近いところではUnwoundがそれまでの3年間を費やして似たようなフィードバックの閃光とチューニングの狂った弦楽器の文法を作り上げていた。しかし『These Are Not Fall Colors』の次の曲 ”Perfect Shot” でLyncは、スクリーモを世界に紹介したサンディエゴのレーベル=Gravityが次に契約するようなバンドと単に連帯しているだけではないということを示したのだった。

 この曲は整った、なんなら楽しげですらあるようなギター・リフから始まる。束の間、まるでJawbreakerの領域に戻ったのかのようだ。そしてバートラムがベースでコードをかき鳴らすと、ジェインがなにか言葉にならない叫び声をあげ、シュナイダーがスネアを一度だけ思いっきり叩く。これがこのドラマーが好んで使う技である:そのライフルの射撃音と同じくらいの音量でヒビを入れるかのように叩かれるスネアは、その直後に変化が訪れることを示している。そして地獄の扉が開かれる。このアルバムそのものもそうであるが、”Perfect Shot” は常軌を逸したベクトルのぶつかり合いであり、互いに競い合っている衝動による綱引き合戦である。シュナイダーのタムは上昇気流に乗った枯れ葉のように舞い上がり、ジェインのギターとバートラムのベースは絶えず刺し合い、打ち合っている。このアルバムの編曲はあらなた境地の複雑さを誇るが、その変化はせっかちで、まるでナプキンの裏に走り書きをしたような計算に基づいていて、調和と不調和の間でよろめいている。

 この作品の真の特徴は、すぐにはそれと同定できないテクスチャと重量である:ボトム・ヘヴィな音像と響き渡るハーモニーが、汚れた銅製のランプのような重さと鈍い輝きを与えている。全てが過飽和している。ベースとギターを聞き分けるのが難しい部分がしばしば登場する:ジェインとバートラムはコードを発声するのではなく、コイルから絞り出すかのように鳴らしている。それは暗くけだるげなサウンドであるが、それがジェインの砂やすりで削ったかのような咆哮と少し鼻にかかった喋り歌いをより錯乱したものにしている。その混濁は意図的なものである:それは下手な録音によるものではなく、過剰の感覚である。部屋の中にあまりにも多くのサウンドや混乱、形のない感情が溢れかえっていたためにテープの回路をそれらが埋め尽くしているのである。

 これらの混沌にも関わらず、このアルバムにはアンセムがないわけではない。”Silverspoon Glasses” はポップ・パンクのフックとスクリーモの苦悶、一緒に叫ぶことのできるコーラス(「Bombs go! Krakakowkrakow!」)と陰謀めいたつぶやきの完璧なバランスを取っていて、ジェインのボーカル・パフォーマンスはこのアルバムの中でももっとも輝いている。”Cue Card” は舞い上がるコードと、聴手が思っているとおりに解釈できるほどに曖昧な歌詞が物悲しげな勝利を飾っている。”Heroes & Heroines” はUniversal Order of Armageddon風の混沌から、アルバムの中でも最もスウィートなコーラスへと沈み込んでいく:「It’s you, it’s you, it’s you/You know the sky’s the limit for you」。Lyncは彼らと同世代のバンドを映し出すこともあるが、『These Are Not Fall Colors』は更に広い網を広げている:”Cue Card” はSonic YouthHüsker Düのようなフルスペクトルのきらめきを聞かせ、”Turtle” はSlintの前身であるSquirrel Baitが1985年にHomestead RecordsからリリースしたデビューEPに収録されていた ”Sun God” を不気味なほどの正確さでなぞっている。この類似がどれほど偶然なものとは言え、この比較はどこか示唆的である。意識していたかどうかに関わらず、Lyncはな十年も前のパンクやインディー・ロックをさかのぼり、無視されることが多かった継父を拾い集めているのだ。

 愛らしい ”Pennies to Save” はアルバムの感情的なピークを担っているかもしれない。その歌詞の大部分を聞き取れなかったとしても、その懇願するようなコーラスは実に平易である:「Where has it gone?」。それはまるで、Lyncは自分たちの青年期の真っただ中にいながらも、無責任でいられる日々がどんどんと「成年期」へと凝り固まっていくのを感じられていたかのようだ。ある日目覚めて自分の若さが過去のものとなっていることに気が付いた大人の目線から歌われるこの曲は驚くべき共感性を持っている。パンクは「凄まじい速度で生きて、若く死ぬこと」を説いてきたジャンルであるが、ここでLyncは人生における避けられない難題としっかり向き合うことの重要性を理解している。

 アルバムのタイトルは、若さや絶望といったものがどれほど中心に据えられたアイデアであったのかを明らかにしている。その由来はアルバムのインナー・ジャケットの中で明かされている。見開き右側のページには当時9歳かそこらだったジェインが1983年1月5日に書いた日記がコピーされている。そして左側には木を描いた絵があり、上の部分は青い色でぐちゃっと塗られている。そして、大人と思われる字で「青ではなく、紅葉の色を使いましょう」とコメントが書かれている。これを知ったうえで聴くと、このアルバムの騒音もあまあましいものに聞こえてくる。全ての「間違った」音色や不協和音は、器の小さい教師や子供時代のトラウマに対する復讐なのである。

 アルバムは7月25日にリリースされた。レヴューはそれほど多くなかった――『CMJ』誌に一つ、そして『Orland Sentinel』紙の中で軽く触れられただけだった――が、それらはおおむね好意的なものだった。「彼らの音楽は時おり平穏から雪崩のようなノイズへと崩壊していくが、そこにはそこはかとない優雅さのようなものが感じられる」とシアトルの『Rocket』誌は書いている。「『These Are Not Fall Colors』 は彼らのこれまでの作品の中では最も優れており、さらにはK Recordsにおける新世界秩序の表れである:よく(間違って)レーベルに紐づけられるかわい子ぶったミニマリズムからの脱却である」。

 Lyncはその夏少なくとも両手で数えられるほどのショウで演奏している。その中にはオリンピアのYoYo A GoGo Festivalやバークリーの神聖なる924 Gilman Streetでのギグも含まれていた。そして1994年10月11日、全年齢向けのシアトルのクラブ、Velvet Elvisにおいて彼らは最後のショウを行った。ライヴの映像には壁から壁へとひしめき合うキッズたちの姿が映されている。ジェインはラップアラウンドのサングラスと黒いトラック・ジャケットをまとい、マイクの前に無表情で立っている。シュナイダーは彼の後ろでアーガイル柄のセーターを着て叫び声をあげ、バートラムはバンドメンバーたちと向かい合い、繰り返し飛び跳ねては地面に転げ落ちている。映像の画質はもともとぐちゃぐちゃである彼らのサウンドにはあまり関係ないが、この劣悪極まりないクオリティの映像からでも、彼らの演奏からはバイタリティがこちらに伝わってくる。

 「あれは、僕にありがちな向こう見ずで性急な決断の一つだった」とジェインは解散についてのちに述べている。「僕がLyncで思う存分にたくさん楽曲を書いていたとは思わない。僕はただオリンピアで一生懸命駆けずり回っていただけなんだ。自分で運転してみんなを熱狂させていた。それは僕にだれにも抑えられないエネルギーがみなぎっていたからだ」。ジェインは最初、ベッドルームで4トラックのレコーダーを使ってテープを録音し始めたが、やがていとこ(Alice in Chainsのレイン・ステイリー)からもらった8トラックのレコーダーになった。「僕はそこに座ってとにかくたくさんの音楽を録音していた」とジェインは振り返る。「そして僕は気まぐれでLyncをやめた。メンバーに対してイラついていたとか、たぶんそういう馬鹿気た理由だったと思う」。

 Love as Laughterというプロジェクトのおかげで、ジェインのテープはその後26年間、彼の人生を占めることになった。極端なローファイによる実験――SmogやSebadohの難解な初期作にも通じるもので、1994年にリリースされた1組のカセットにおさめられている――として始まったそれは、徐々に魅力的なベッドルーム・ガレージ・ポップへと成長し、Kから1996年と1998年に2枚のアルバムをリリースした。1999年に、彼はSub Popと契約し、先鋭的なパワー・ポップとクラシック・ロックのアルバムを3枚、このシアトルのレーベルのために録音することになった(シュナイダーは1999年の『Destination 2000』から復帰している)。一方、バートラムとシュナイダーはしばらくの間Built to Spillに加入した:バートラムはシアトルのギターとドラムの2人組で、ゆがんだメロディが明らかにLyncの影響を受けていると思われる764-HEROに拾われたのち、Red Stars Theoryへと移籍した。

 彼らの活動期間はこれほどまでに短かったのにもかかわらず、Lyncは痕跡を残した。ジェインが2020年末に46歳で亡くなった時、彼が10代の時にやっていたこのバンドの名前は彼が長年取り組んできたソロ・プロジェクトと並んで見出しに使われた。ジェインは12月半ばに失踪した。彼は数日後、自身のピックアップトラックの中で丸まっているところが発見された。彼の家族は、パシフィック・ノースウェストからのロード・トリップの帰り道に、診断されないままになっていた心臓の症状によって亡くなったと語っている。その直後、洪水のようにあふれだした追悼文の数々が彼の影響のタペストリーを描き出した。パシフィック・ノースウェストの同胞たち――フィル・エク、Modest Mouseカービィ・ジェイムズ・フェアフィールド、彼の元バンドメイトであるシュナイダー――や、Superchunkマック・マコーンDinosaur Jr.J・マスシス、さらにはコメディアンのフレッド・アーミセンも、2004年にModest Mouseが『Saturday Night Live』に出演した際、ジェインがステージに加わったのを述懐しているFleet Foxesのロビン・ペックノールドは簡潔にこう書き記している。「あなたは知らなかったかもしれないが、あなたは私を形成するつかみどころのないヒーローであり、私たちが愛する多くの人々の人生に影響を与た。まさにサム・ファッキン・ジェインだった。ファック」。
これらの追悼文を読んでいて共通するのは、彼の寛大さが強調されている点である。それらの多くは、子供のような無邪気さによる深夜のよもやま話を書いている。Lyncの1997ねに発表されたアンソロジーRemembering the Fireballs (Part 8)』を共同リリースしたTroubleman Unlimitedのマイク・シモネッティは、ニュー・ジャージー郊外でのショウの後、ジェインと夜明けまでバスケットボールをしたことを回想している。The Moldy Peachesのキンヤ・ドーソンは、ジェインが「Soda Jerks」という架空のギャングの指導者だったことを振り返り、セルフサービスのドリンクサーバーから紙コップにソフトドリンクを注ぐとドアからダッシュで外に駆け出して、「Soda Jerks!」と叫んでいたことを語っている。ルイ・マッフェオの追悼文にも砂糖が登場し、その中では中西部のコンビニエンスストアで綿菓子を買ったツアーメイトの2人が、洗車機のホースでお互いに水をかけ合い、濡れてベタベタになった紙のコーンを抱えて笑い崩れたという逸話が読める。
こういった思い出たちの純粋さも、『These Are Not Fall Colors』の本質と照らし合わせるとより実感できる。乱気流もあるけれども、希望に満ちたサウンドである。2020年の初め、ジェインは珍しくFacebookのグループ・ページに投稿を残している。「僕たちが子供のころにやっていたバンドは今でも愛されていて、全ての年齢の「キッズ」たちに聴かれている」と彼は驚いている。当時、彼はこのアルバムがいつかクラシックになるとは到底信じられなかっただろう。彼はただ自分や自分の友達のために音楽を作りたかっただけなのだ。しかしそれでも、彼はこれらの楽曲の中に何か残っていくものがあるのではないかという予感を持っていたと付け加えている。「僕が思っていたのは、未来の自分に若くあること、何かに立ち向かうということがどのようなものだったのか思い出してほしい、ということだった。たぶんそれはうまくいったんだと思う。だって、2020年の今、僕はこの子供をハグして、ありがとなと言いたいと思っている」。