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<Pitchfork Sunday Review和訳>Genesis: Duke

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CHARISMA • 1980

 1980年代、名声の有頂天にいたフィル・コリンズは、たくさんの、たくさんの批評家に向けて手紙を書くようになっていた。ドラマーからボーカルへと転向したジェネシスの一員として、そして一連のブロックバスター的ソロ作を通じて、彼ほどの人気を持っている人であればだれでも、この種のバックラッシュを食らうことは容易に想像できる。ソロ作のタイトルはすべて、まるで失脚したコメディアンの暴露本のようなタイトル――『Hello I Must Be Going』、『...But Seriously』、『Both Sides』――だったし、ジャケットには彼の顔のドアップが使われた。だって、それは彼の製品だから。彼の目を見つめ、その感情にどっぷりつかれば、あなたとフィル・コリンズの二人だけの世界がそこに広がる。

彼のパブリック・ペルソナのおかげで、彼は1976年にピーター・ガブリエルからボーカルの座を引き継いだ後、すぐさまこの芸術志向で本好きなプログレッシヴ・ロック・バンドを「フィル・コリンズ・ショー」に作り替えてしまったという誤解が存在している。そして今振り返ると、このバンドのスロウでダンサブルなバラード――1976年の ”Rippless...” と ”Your Own Special Way”、1978年の ”Follow You Follow Me”――の人気がどんどん高まる中で彼らは70年代の終わりを迎えたわけだが、それらの楽曲は名声へとつながるハイウェイへの出口標識のように、彼らのディスコグラフィーから出現したように思われるのだ。

ジェネシスプログレッシヴ・ロックからポップへと移行したこととコリンズのソロ・アーティストとしての浮上を同一視することは自然なことに思われるが、ジェネシスはずっとバンドであったのに対し、コリンズはずっと一つの声だけの存在だったというのが本当のところである。80年代のある地点で、コリンズとほかのバンドメンバーたち――キーボード奏者のトニー・バンクスとベーシスト/ギタリストであるマイク・ラザフォード――は、どのメンバーもスタジオに事前に準備した音楽的アイディアをもってきてはならない、というルールを決めたという。つまり、ジェネシスのアルバムに収録されるありとあらゆるものはグループ全員の参加によって作られなければならない、ということだ。このやり方によって、作られた音楽に対して一人のメンバーのみがクレジットされる(あるいは非難される)ということはなくなったのである。

このプロセスによって楽曲は3人の精神がジグソーパズルのように組み合わさったかのような(“Turn It on Again”)、あるいは挑戦的な実験を覗き見るような(“Mama”)、そして時には決して世に出るべきではなかった悪い類の冗談(“Illegal Alien”)のようなサウンドとなった。しかし何よりも、このルールはジェネシスに一つの指針を与えた:コラボレートの精神をたたえること、それぞれが個人で達成することのできる限界を超えること、そして、一緒になって何かを発見するような体験へと聞き手を招き入れること。

80年代に入る前から、このことは彼らの魅力であった。ジェネシスの楽曲では常に新しいものへのカーテンは開かれていた。“it” は未来的な機械が再起動するようなサウンドだし、“Supper’s Ready” は巨大な謎を少しずつ解き明かしていく。あるいは1980年の “Turn It on Again” だって、13/8拍子とテレビを見ている男についての歌詞、そしてまじりっ気のないリフが混ぜこぜになって何かラジオ・ヒット曲のようなサウンドに仕上がっている。それは聞き手を前のめりにさせることを目的としている。何度再生しても初めて聞くかのような体験を味わわせてくれる。

彼が批判されたのもそのおかげである。コリンズが言うには、彼を最もいらだたせたレビューというのは、サンフランシスコのジャーナリストがライブを酷評して彼を「ポップ界のマクドナルド」と呼んだものだったそうだ。しかし私が調べた限り、インターネット上にはこのような記事があったという記録はなかった。このフレーズをグーグルで調べたところで、コリンズ自身がそれを取材の際に繰り返しているものが出てくるだけである。

II

第1期のジェネシスは1967年に結成されたが、その名前もサウンドも彼らのものではなかった。イギリスのしゃれたチャーターハウス寄宿学校の友人たちが結成したムーディーで内省的なグループは、その学校の卒業生の中でももっとも高名な者の一人、音楽家でプロデューサーのジョナサン・キングにデモ・テープを手渡した。彼がThe Bee Geesのファンであることを知っていた10代のフロントマン=ピーター・ガブリエルは、精いっぱいロビン・ギブの物まねをして歌った。キングはその餌に見事引っ掛かり、彼らのデビュー・アルバムのプロデュースを申し出た。彼はバンドにジェネシスという名前を付け(もう一つの候補はGabriel's Angelsだった)、アルバムに『From Genesis to Revelation』というタイトルを付けたのも彼だった。そしてこのデビュー作は1969年3月にデッカからリリースされたが、合計で650枚しか売れなかった。「まあ、しょうがないね」とキングは考えて姿を消した。ガブリエルと彼の天使たち(Angels)は学校に戻った。

時を同じくして、Flaming Youthというイギリスの無名なバンドがスタジオに集まり、同じく最初で最後となるアルバムの制作に取り掛かっていた。彼らはケン・ハワードとアラン・ブレイクリーという二人の作曲家から、月面着陸に関するメディアの報道に関するコンセプト・アルバムを作らないかとアプローチをかけられていた。そのタイトルは『Ark 2』で、まず『Ark 1』を聞かなきゃいけないんじゃないかとリスナーを混乱させるようなタイトルだったし、筋書きは終末論、近代のメディアの危険性、愛の持つヒーリング・パワーといったものについてだった。バンドのメンバーは楽曲ごとに楽器をスイッチし、その作品の出来や自分たちのアイデンティティに関して不安を抱いていた。作品の中心には12分にわたる、惑星に捧げられた組曲が据えられた。それは笑えるほどに野心の暴走だったし、経験不足の演奏者たちは頭をかきむしるばかりであった。誰かこの曲を歌いたい人はいる?「僕がやるよ」、そう言ったのはドラマーだった。

III

セルアウトすることに関する覚書:ジェネシスがやった方法よりも簡単な方法はいくらでもある。彼らの転機はあまりにも自然に、そしてあまりにも簡単そうに見えた上、キャリアの最初の20年の間の中でこれほどの決定的なブレイクを経験したために、セルアウトすることと彼らが作った音楽には接点があるように感じられた。確かに、彼らは迎合し矮小化した。確かに、彼らはヒットを飛ばしたし、そのうちの一つTotoの “Hold the Line” に酷似していた。しかし70年代が終わったあと、多くの人気プログレ・バンドはヒッピーの聴衆に合わせて、より簡素な楽曲を作るのに腐心していたし、『アメリカン・サイコ』の主人公がたとえはJethro Tullの『Under Wraps』ではなくてフィル・コリンズに心酔していたかというのには理由があるのだ。

ジェネシスがやったことをやるには、自分のことを客観的に見れること、自分のことを批判的に見れること、そして適応する意思があることが必須となる。コリンズは自身の回顧録の中で、1970年にジェネシスに加入するためのオーディションを受けた際、バンドのやっている音楽に対してそこまで熱中はしていなかったと書いている:ちょっと凝っていて、少し優しいかな、といったくらいで。バンドに加入した後も、彼は必ずライブの演奏をテープで聞き返し、必死に間違えた個所を探していた。その10年間の間、彼は自分のことをゴールキーパーのような、後ろでどっしりと事態を落ち着ける役割を担っていると考えていた。彼が自分のアイデアを自信たっぷりにグループの中に提示することができるようになったのは、バンドメンバーとしては8枚目、リード・シンガーとしては4枚目となる『Duke』の制作からだった。製作期間中、彼はスタジオに最初に現れ、最後まで残っていた。「僕たちはいつもシングルを書こうと頑張っていた」彼はバンドの商業的成功のあと、どこか防御的な姿勢をとりながらこう語っていた。「でも今はどんどんうまくやれていると思うよ」。

IV

フィル・コリンズジェネシスのオーディションを受けた時のことを振り返って:

「フィルはちょっと早く着きすぎたので、彼の前のドラマーが片付けている間、プールに泳ぎに行かせたんだ」
―マイク・ラザーフォード『The Living Years: The First Geneis Memoir』より

「もしここ数年の間に何か教訓を得たとしたら、それは『すべての機会を無駄にするな』ということだ。田舎にあるプライベート温水プールに入ることができるなんて、そうそうあることじゃないからね」
フィル・コリンズ『Not Deat Yet: The Memoir』より

「フィルの番が回ってきたころには、彼は僕たちがオーディションに使っていたパートを聞いて覚えていたから、彼がキットの後ろに座れば、あとはどうなるか自明だった」
―ラザフォード

「彼は明るい性格でもあった。ジョークを言ったり、何でもできる感じの。僕たちとは違ったんだ」
トニー・バンクス『Sum of the Parts』より

「彼がドラム・ストゥールに座るのを見ただけで、こいつはいいぞ、と思った。自分がやることに自信が満ち溢れている人というのは見ただけでわかるんだ」
ピーター・ガブリエルPhil Collins: A Life Less Ordinary』より

V

初期のジェネシスについての記述ではいつも、ピーター・ガブリエルはまじめでシャイな人物として描かれている。一説によれば、彼はバンドメンバーのチューニングにあまりにも時間がかかるので、白けた空気をどうにかしようと、複雑なファンタジーの物語をステージの上で語り始めたのだという。やがて彼はステージ衣装をまとうようになるが、それは聴衆が多くなっていくにつれて自分の貧弱でぼんやりとした外見に不安を覚えたからだという。彼が妻の赤いドレスと狐のマスクを身に着けてステージ上に現れた時、バンドメンバーは何も知らされていなかった。もし彼らに事前に伝えていたら却下されるだろうということを知ってのことだった。

ガブリエル期はこのようにして進んでいった:23分の ”Supper's Ready” やブライアン・イーノの助力もあったアンビエント風の『The Lamb Lies Down on Broadway』など、疾風のようなビッグなアイデアと驚きを、長尺でコンセプチュアルな作品に落とし込むというやり方だ。その『The Lamb~』のツアー(アルバム全編を当時としては前代未聞のヴィジュアル・セットの中で演奏するという一大マルチメディア・イベントだった)の最中だった1974年、ガブリエルはソロに転向する時機であると決心した。彼の衣装の中には、あまりにも精巧にできているために着て歌うことができないものまであった。それは彼が直面していた行き詰まりの状況のメタファーとしてふさわしくないだろうか。

VI

偉大な、成功したバンドの中には拡張によって、あるいは大胆な再発明によって、あるいはその時期の需要を鋭く察知することによって進化を遂げた者たちがいる。しかし、私は引き算によってこれほどまでに柔軟に進化を遂げたバンドを、ジェネシス以外に知らない。ガイド役であり、商業的なヴィジョンを提供したプロデューサーのジョナサン・キングを切り捨てることで、ジェネシスアンソニー・フィリップスの12元ギターに焦点を当てた牧歌的なフォーク・グループとなった。フィリップが脱退した後は、ガブリエルのシアトリカルなヴィジョンに導かれるように、よりヘヴィなプログレ・バンドとなった。そしてガブリエルが脱退すると、彼らはよりアトモスフェリックなサウンドを発展させ、ギタリスト=スティーヴ・ハケットの斬新なスタイルを誇示した。そしてハケットが脱退すると、彼らはコリンズをボーカルに置いた3人組となり、メロディと作曲にフォーカスすることとなった。そしてすでに失うものなど何もない彼らは、世界で最もビッグなバンドの一つとなったのだ。

VII

「一瞬にして、清潔で、緑が多く、滑らかだった公園の地表は、汚く、茶色い色をした苦悶の物体で覆われてしまった。老マイケルは自分の肉体を地面にこすり続けている。今回はさらに幸せそうにすら見えた。そして彼は口笛で小さな音を奏で始めた。こんな風に…」
――1973年のジェネシスのコンサートでの、ピーター・ガブリエルによる ”Supper's Ready” の前口上

「オーディエンスに向かって何を話せばいいのか、それが一番不安だったことを覚えている。なぜなら、ピーターがやっていたことはコミュニケーションだったからだ。身近な隣人というよりは謎めいた旅人という感じではあったけど、それでも彼はオーディエンスとコミュニケーションをとっていた。そしてぼくはそれがすごい大事だと考えていた」
――初めてピーター・ガブリエルの代役を務めたショウについて、フィル・コリンズの回想。『Genesis: A History』より

VIII

 『Duke』という作品の制作が始まったのはフィル・コリンズの寝室でのことだった。短い活動休止期間を経て、コリンズ、ラザフォード、バンクスの3人は集まって新曲のデモを製作した。ラザフォードとバンクスはソロ・アルバムを製作し、コリンズは失敗した結婚の対処のためにカナダに飛び、家族を保つための最後の努力を行った。しかし結局それもうまくいかず、ほかのメンバーも各々の作業に没頭していたため、コリンズは不機嫌に飲んだくれるようになり、日本でのツアー中に送られたドラム・マシーンを使って一人で新曲を作り始めていた。

そして3人が再び集まった際に、コリンズは書き溜めていた曲のいくつかを披露した。バンクスとラザフォードはその中の2曲を気に入った。ヒット間違いなしの ”Misunderstanding” という曲と、優しいバラードの ”Please Don't Ask” という曲だった。そのほかの曲――その中には基本的なコード進行と、重たくスペーシーなアレンジが施された ”In the Air Tonight” も含まれていた――ははっきりとジェネシスらしくないと感じられた。コリンズはそれらを自分のソロ作のために取っておくことにした。

衰退と絶滅という主題が『Duke』の中を貫いている:バンクスによる ”Cul-de-sac” の偏執病的なコーラスでは「もう出口のそばまで来てしまったということに気がづいているだろう」と歌われる。”Duchess” という曲は、巨大な人気によって自分のアイデンティティが分裂してしまったミュージシャンについての曲のようだ。そして仮にこれらの歌詞が『Duke』に通底する感情を表しているのだとしたら、ジェネシスはそれを決して見せることを意図してない。『Duke』はブロック体の字と感嘆符を用いて書かれた、大胆で自信に満ちたアルバムなのである。メッセージは歌詞の中にではなく、音楽そのものに託されている。コリンズによる新こぺーとするリズムといつになく表現力豊かなボーカル、ラザフォードとバンクスによるギター・シンセとキーボード・トランペット――元の楽器の未来ヴァージョンとして鳴らされるために発明された楽器――にそれが感じられるだろう。ならされている音を聞いても、薄れていく関係性や失敗に終わった結婚生活のことを考えたりはしないだろう。彼らが自分たちのキャリアを長い組曲だと考えているとしたら、この作品はドラムのタムが打ち鳴らされ、再び活気を取り戻すような、そんなパートであろう。

IX

Duke』期のジェネシスのツアー映像を見ていると、まるでスーパーヒーローが初めて自分の持っている力に気が付き、まさに今信じられないことをやってのけた自分の手を呆然と見つめている、そんな場面を想像する。ドラムの演奏をツアー・メンバーのチェスター・トンプソン――Weather Reportやフランク・ザッパのMothers of Inventionでの活動で知られる――に任せたことで、29歳でひげ面のコリンズはマイクの前に立ち、聴衆が自分の掌の上であることに気が付いている。ヨーロッパやアメリカをツアーして、彼は満員のコンサート・ホールの観客たちがおり音楽と一体になっているのを感じていた。さらに観客の層も若く、多様なものになっていた。中にはフィル・コリンズジェネシスのフロントマンじゃなかったころを覚えていない人もいるように思えた。

 新曲を含むパートを始める際、コリンズは昔のことを懐かしく思うモノローグを披露した。彼はテレビに恋をした、アルバートというろくでなしの話を始める。すると、やがて彼をロマンス・コメディーの主役「マイアミ・バイス」のゲスト出演の座に導くことになる、彼の面白おかしいリズムで、彼は自分の言っていることは文字通りのことであることを明らかにした:「二日後、彼は病院に行き、アソコからガラスを取り除いてもらっていた」。その時観客が笑ったのは、彼のことを笑っていたのか、それともこの種の前口上を真剣に披露していた昔のジェネシスのことを笑っていたのだろうか。この話は『Duke』と関係があるのだろうか?とどのつまり、これらはジャーナリストに投げかけられた質問である。観客は雄たけびを上げる:バンドは今まさに新曲を演奏しようとしているところだ。

X

Duke』の中には80年代に向けたプログレの未来を垣間見ることができる。それはアルバムの一番最初ーートニー・バンクスが作曲したインストゥルメンタルの主題ーーに聞き取ることができる。高級そうなサウンドのシンセで演奏されるその音色は、スロット・マシーンの電光のように唐突できっぱりとしている。ジェネシスのトリオ編成が2007年に再結成ツアーを行った際、彼らはすべてのショウをこの楽曲のこのパートではじめ、残りの部分をオーディエンスの想像の中で演奏させた。

その “Behind the Lines” の残りの部分は、この作品の核となる相互に連結した組曲を指導させる役割を果たしている。バンドはこれをノンストップの、1面をまるまる使った組曲にすることを考えていたという噂もあった。それは、彼らのポップよりの方向性はレーベルのお偉方のヴィジョンとの妥協の産物、あるいはラジオにお熱を上げたフィル・コリンズがシングル曲を残そうと言い張ったからだと考えるような、裏切られた気分になっていたファンたちにしてみたら垂涎モノの話だった。しかし、音楽を分割することを決断したのも、プログレ・ロック的な仕草が古臭いものであまり刺激的ではないと判断したのもジェネシス内部でのことだったというのが本当のところである。

ある日、スタジオで “Behind the Lines” のテープを速度を変えて聞いていたコリンズは、それが少しマイケル・ジャクソン風に聞こえることに気がついた。おもしろい!しかし彼はそれをメモに書き留めておいた。数カ月後、彼はEarth, Wind, and Fireのホーン・セクションを招き、この速度を上げたヴァージョンを自身のソロ作のためにレコーディングした。それは『Face Value』というタイトルが付けられ、世界中で複数プラチナ・セールを記録することとなった。

楽曲のこれらの異なるヴァージョンーー一つはプログレユートピア的幻想、そしてもう一つは世界で最も有名なアーティストの跳ねるような模倣ーーによって初めて、コリンズのソロ曲とバンドの楽曲が明確に競合していることが示された。『Duke』のアルバム・ジャケットでは、一人の人物が窓の前に立ち、何かを見上げている:『Face Value』のジャケットに描かれた目は、その人物が何を見ていたかを伝えている。そこには実際の人間が立っていて、彼の未来こそが唯一の存在なのだ。

XI

プログレが生き生きと呼吸をし栄えていたところに、パンク・ロックがやってきてそれを殺してしまった、というのが批評界での通説である。この筋書きは、いつも私に一つの場面を想起させる。レザー・ジャケットを着た苛立ったキッズたちの集団がステージに押しかけ、年老いたイギリス人の帽子を奪い取り、オーディエンスが息を呑むうちにメロトロンのサウンドはプラグを抜かれてしまう、そんな場面を。

そこにはいくばくかの真実が含まれている。パンクが表象していたものーー怒り、政治、古い世代に飽き飽きしていた若い世代、より短い爆発的なエネルギーーーは、たしかにプログレが持っていた一つのヴィジョンとは正反対であるように思えた。しかしパンクに似たものがシーンに出てきた頃には既にプログレにも変化の兆しがあったし、ジェネシスはそのキャリアを通じて着実に変化を遂げていた。死刑宣告になってもおかしくなかったセルアウト的な動きは、もし彼らがなんにも起こらなかったかのように、同じような音楽を作り続け、既に好いてくれている人たちに媚びを売るようなことをやっていたら本当に死刑宣告となっていただろう。

Duke』はそれはとは正反対のアプローチを取った。それは分断を生む作品だった:もしあなたがジェネシスのファンだったら、彼らのこの10作目の作品はあなたが「降りる」と決める作品か、改めて注意を払う様になるかどちらかである。彼らの作品の中にはもっといいものがたくさんある(70年代の作品はほとんどすべてがそうである)し、商業的に更に成功を収めた作品もたくさんある(80年代の他の作品すべて)。しかし、彼ら自身の生存にとって最も重要であったのはこの作品である。ラザフォードは自身の回顧録の中で、このアルバムの成功の後バンドは改名することも考えたという。その会話からは何も生まれなかったーー代替案をブレイン・ストームすることもなかったーーが、それでよかった。なぜならメッセージは既に送られていたからだ:ジェネシスというバンドを知ったつもりでいるのなら、それは間違いである。彼らは常に団結し、互いに刺激しあい、そしていつだってここからが本番なのである。

pitchfork.com

<Bandcamp Album of the Day>arious Artists, “J Jazz Volume 3: Deep Modern Jazz from Japan”

ジャズ熱愛家のTony HigginsとMikee Pedenによって編纂された、BBEの『J Jazz: Deep Modern Jazz From Japan』は、引き続き日本の豊かなジャズの歴史を熱心に紹介してくれている。シリーズ3作目となる今回、Peden、HigginsそしてBBEのクルーは更に音楽的レイヤーを引き剥がし、自主制作やレア盤を掘り起こしている。

アルバムの1曲目を飾るのはYasuhiro Kohno Trio + Oneによる野心的な “Song Of Island” だ。Kohnoは熱狂的で抽象的な演奏で舞台を設定し、情熱と複雑な技巧性を持って鍵盤の上を上下に滑空し、やがて楽曲の明るくメロディックなメイン・テーマへと着陸していく。峰厚介による “Morning Tide” はハードコア・バップ風のソロとインタープレイでスウィングしていく。Hideo Shirakiの “Groovy Samba” と村上裕&Dancing Sphinxの享楽的ジャズ・ファンク “Phoebus” がこの作品にスタイル面での広い幅を与え、うまくまとめている。『J Jazz Volume 3: Deep Modern Jazz From Japan』はリスナーへの贈り物であり、日本のジャズが持つ豊かさと多様性を再び証明した。

By John Morrison · February 25, 2021

daily.bandcamp.com

<Pitchfork Sunday Review和訳>Katy Parry: Teenage Dream

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Capitol / 2010

 勝負の時が来たならば、その時が勝負のときである:『Teenage Dream』は終わることのないサマー・バケイションを約束してくれる。それは仮死状態の中で生きていて、常に週末を楽しみにしていて、決して仕事に出かけることなどない。ケイティー・ペリーの2作目は虚飾にまみれていて、悪趣味で、音楽の内実が全然良くないときでも恐れ知らずなほどに楽観的である。永遠の若さを持ってはいるがーーティーンエイジャーがしばしばそうであるようにーーこれでもかというくらいその年齢が刻印されている。そしてこの作品は「スマッシュ」であった:5曲のNo.1ヒットはマイケル・ジャクソンの1987年作『Bad』に並ぶ記録となった。収録された曲の半分はトップ10にチャート・インした。『Teenage Dream』はギターの音色を用いたバブルガム・ポップの最後の一息だった。翌年、アデルの『21』が売上記録を塗り替え、ポップにおけるムーディーな新しい時代の幕開けを告げた。この作品を振り返ると、物事がいかに早く移り変わっていったのかということに気が付かされる。

Teenage Dream』の主題は、若者の生活の主題がそうであるように、「愛」である。アルバムの中にはペリー自身の人生に登場した男たちについて書かれたのであろう部分もある。その中には当時のフィアンセ、ラッセル・ブランド(“Hummingbird Heartbeat”、“Not Like the Movies”)、Gym Class Heroesのトラヴィー・マッコイ(“Circle the Drain”)、そして好青年ジョシュ・グローバン(“The One That Got Away”)も含まれている。しかしそのような捉え方は後付けのようなものである。これらの楽曲は別に何かを告白するようなものではないし、言ってしまえば2種類混合のカクテルであり、あなたが到着するのを待っているパーティーの前座なのである。『Teenage Dream』はペリーの作品の中でも強力なソングライティングを誇る。それはおそらく彼女がまだこれまでの自分を真似るほどの活動をしていなかったからだろうけれど。そしてその当時でさえ、ここには2種類のハリケーンしか存在しなかった。一つは若い頃の情熱を象徴し最後には虹がかかるもの、そしてもう一つも虹であるが、その端は巨大なペニスになっているのだ。

ペリーが一生懸命に挑戦しているように見えたのであれば、それは彼女が予想に反して成功したからである。彼女はカリフォルニアのサンタ・バーバラで育ち、ペンテコステ派の牧師であった両親は彼女を私立の宗教系の学校へと通わせた。彼女は1年生で中退し、ナッシュヴィルの小さなクリスチャン系のレーベルからケイティー・ハドソンとして初めて音楽作品を発表した。彼女はやがて軽薄で下品なポップ・スター=ケイティ・ペリーへと転向していくわけだが、それは彼女の衣装のように大胆なコントラストを生み、彼女はずっと挑戦しなければならなくなった。何年にも渡るメジャー・レーベルの煉獄。デフ・ジャムとコロンビアと続いて契約を結んだもののアルバムのリリースはなし。唯一参加したのは『旅するジーンズと16歳の夏』のサウンドトラック収録曲だけだった。彼女はロサンゼルス郊外の小さなレーベルで、送られてきたデモを論評する仕事をしていた時期もあった。彼女は後にこう振り返る。「あれはこれまでの人生で聞いてきた中で最悪の音楽だった。ビルから飛び降りるか、あるいは耳を切り落として幸いってやりたかった。「私はあなた達に何もしてあげられません!何を言えば良いんですか?あ、あと音が外れてるよ」って」

ペリーはついに、キャピトルの重役A&R=クリス・アノクテと組むことで幸運を手に入れた。このニュージャージー出身、20代そこそこのナイジェリア系移民の息子もまた、ホイットニー・ヒューストンの父親に公的な場で近づいたことで幸運を手に入れた男だった。2007年のグラミー賞のパーティーで、アノクテはコロンビアのパブリシスト、アンジェリカ・コブベーラーから内密の情報を聞きつけた。ペリーにはポテンシャルがあるが、レーベルは彼女との契約を解除するだろう、と。コブベーラーはコロンビアからキャピトル傘下への転職を考えていて、彼女はペリーを自分と一緒に連れて行こうと決心していた。「ケイティーのファイルを丸ごと盗んだ」と彼女は2012年のドキュメンタリー『Part of Me』の中で語っている。「それをただ手で掴んで、腕の下に隠してこっそりその場を離れたの」。アノクテとコブベーラーはキャピトルにもう一度チャンスを与えるように説得したが、あまり期待はしていなかった。「彼女は契約を来られるところだったからいい条件ではなかったし、多額の前金を払ってあげるみたいなことも出来なかった」とアノクテは後に『Billboard』誌に語っている。

ペリーはコロンビア所属時に既に、『Let Go』(Avril Lavigne、2002)や『Liz Phair』(Liz Phair、2003)などを手掛けたプロデューサー・トリオ=Matrixのプロデュースによるポップ・ロック・アルバムをレコーディングしていた。彼女はロックが好きだった:子供のことはMTVを見ることを禁止されていたが、シャーリー・マンソングウェン・ステファニーを好んで聴いていた。キャピトル移籍後、彼女はその残り物の楽曲のいくつかを手直しし、いくつかの新曲も書き足して彼女の公式デビュー作、2008年にリリースされたポップ・パンクに影響された『One of the Boys』と相成った。自分のことをもう一度世に知らしめるため、彼女はmp3ダウンロード・シングルをリリースした。「メトロセクシュアル(=外見や生活様式に多大なる時間の金を注ぎ込む男性のこと)」をこき下ろした、さり気なく同性愛嫌悪的な “Ur So Gay” はとらえどころのなく、よく出来ていて、断固として「ストレート」であるゼロ年代文化人類学的産物であった。マドンナがこの曲を気に入った。それがガソリンだったとしたら、“I Kissed a Girl” は発火装置だった。ペリーのバイセクシャル的嗜好を歌ったこのアンセムは少し交代のようにも感じられる出来だったが。それでもお高く止まった人たちを苛立たせるほどのには下品だったし、そういった曲は他にあまりなかった。目を大きく見開き、メディアにも精通していた彼女は、出来かけの悪評の上昇気流にのって自身初のNo.1ヒットを記録したのであった。

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『One of the Boys』はペリーをスターにしたが、それには証書ももれなくついてきた:比較的ノベルティ的に、急激にヒットした “I Kissed a Girl” によって彼女は一発屋の領域に接近し、更には快活なポップ・ロック・サウンドがその流行を終えようとしていた。ペリーは『Guardian』紙にこう語っている。「2作目を作るにあたってはより気を引き締めた。だって、どれだけの人が2作目でスランプに陥ると思う?十中八九そう。私は売れたいけど、いかにも「売れ線でござい」という感じではやりたくない。でもアリーナを完売させたいし何百万枚も売り上げたい」。彼女は発表されることのなかったプロジェクトに何年も費やしたのち、今や門の内側にいて、前進以外は失敗だと見なされる境地にいた。彼女はもう一度自分がなにかできるということを証明しなければならなかった。無視できない存在であることを。

ペリーは『Teenage Dream』のすべての作曲に参加しているが、ゼロ年代のポップ・プロダクションのビッグ・ネームたちの手も借りている:マックス・マーティン、スターゲート、そしてクリストファー・”トリッキー”・スチュワートである。さらには『One of the Boys』最大のヒット曲となった2曲、“I Kissed a Girl” と “Hot N Cold” を手掛けたドクター・ルークとベニー・ブランコとも再び手を組んだ。2010年、まだ性的虐待と暴行で訴えられる前、ルークのキャリアは上向きで、ケリー・クラークソンの “Since U Been Gone” や マイリー・サイラスの “Party in the USA” などを次々にヒットさせていた。当時、ブランコはルークの弟子のような存在で、ブリトニー・スピアーズやデビュー曲 “TiK ToK” が2010年代最初のNo.1ヒットとなったキーシャなどを手掛けていた。

Teenage Dream』の最後のピースは、ペリーがL.A.に越してきたころからの長年の友人、ボニー・マッキーであった。かつては自身もポップ・スターを目指していたマッキーはその後作曲業に転向していたが、ペリー同様業界の中で長年くすぶっていた。「二人ともレーベルから捨てられたときは、よく一緒にショウをやっていた」と彼女は振り返る。『Teenage Dream』はそんな彼女の人生を変えた。”Teenage Dream” はマッキーの発想によるものだった――曲全体ではなく、アルバムに数多く含まれている一度聴いたら忘れられないフックの中でも最初に聞こえてくる、そのフレーズである。ハイスクール物の映画のセックス・シーンや “...Baby One More Time”(ブリトニー・スピアーズ)のように、”Teenage Dream” はポップ・カルチャー特有の「ぎりぎりのライン」への強迫観念を逆なでしているが、ペリーとマッキーは見事にそれを成功させている。”Teenage Dream” はセクシーな曲だが、大人の目線から書かれている。ペリーが演じる主人公は(わずかながら)成熟した女性であり、それまでは遠い記憶のように感じられていた若くてバカバカしい恋を再び取り戻す。イントロの弾力のあるギターのコードにはノスタルジアが感じられ、まるで ”Good Vibration” がコーラスから始まったかのようであり、クライマックスの歌詞、「Don’t ever look back, don’t ever look back」は ”The Boys of Summer” の残響のように響く。ペリーはドン・ヘンリーを聞いたことがないかもしれないが、おそらくAtariによるポップ・パンク・カヴァー(トップ40入り)を聞いたのだろう。

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ペリーとマッキーのコンビは二人の若かりし頃のパーティー三昧の日々にインスパイアされた ”Last Friday Night (T.G.I.F.)”と、”California Gurls” で再び共作している。ビーチ・ボールよりも弾力のある ”California Gurls” は『Teenage Dream』の中でもそびえたつリード・シングルであり、「キャンディ・ランド」が主題となったヴィデオでは「シュガー・ダディ」と呼ばれているスヌープ・ドッグがウインクしたりうなずいたりする、主役を食う勢いのカメオ出演も印象的である。これこそがこのアルバムで最も重要な楽曲である。売り上げの点ではなく、この曲がアルバム全体の舞台背景を設定したという点において。『Teenage Dream』はカリフォルニアのレコードであり、ジャケットのアートワークからコンサート・ツアーに至るまで、すべてが「キャンディ・ランド」の中で行われた。”California Gurls” のビデオはこのアルバムで最も記憶に残る部分であり、その ”California Gurls” のビデオの中で最も記憶に残る部分は――まあ、みんなわかるだろう。マドンナのジャン=ポール・ゴルチエによる円錐型のブラと映画『ヴァーシティ・ブルース』風のアメリカーナをマッシュ・アップした、ペリーの生クリーム・ブラは『Teenage Dream』の世界観にとって決定的に重要であり、彼女はコンサートの締めくくりで紅白のバズーカから泡を観客席に振りまくほどだった。

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メディアに対し、ペリーはこの ”California Gurls” はその年5週連続で1位を獲得していたJay-Zアリシア・キーズによる ”Empire State of Mind” に対する、西海岸からの回答であると説明した。しかし ”Empire State of Mind” が野望についての歌であったのに対し、”California Gurls” は欲しいものをすべて持っているということについて歌っていた。それはBeach Boysの速度を上げて、酸味を増したアップデート版であり(Beach Boysのレーベルはアルバム・バージョンからスヌープがアドリブで入れたと思しき「I really wish you all could be California girls」というフレーズを取り除くことに成功したようだ)、2パックのストリート・アンセムCalifornia Love” の自由気ままなパーティー・ガールによるリプレイだった(トークボックスのフックがアウトロで聞こえてくる)。ペリーにとっては初となるヒップホップとの浮気は何よりも強気であり、だからこそ楽しい楽曲となっている――スヌープ・ドッグも彼女と同様に楽しそうにおどけている。

しかしそれよりも、『Teenage Dream』は今聴くと時代遅れのように聞こえることがある。それは “Teenage Dream” のビデオにおいて白人の女の子が羽毛の髪飾りをつけているかだとか、「That was such an epic fail」といった2010年モノのヴィンテージ的死語が踊る歌詞のせいというわけではない。皮肉なことに、歴史の中でより良い形で加齢を重ねたのは『One of the Boys』の生き生きとしたパワー・ポップの方であった。それよりもいい作品にしようという気概からこの作品はラウドで、しつこく、圧縮されているように感じる。アルバム収録曲は、陳腐な内容をあえて歌った歌謡曲を狙って失敗したような “Peacock” から急降下を始める。しかしそれでさえも、「真面目な人」に向けて書かれた悲しげなパワー・バラードで、Perryのそれ以降の歌詞の面での苦しみを予見していた “Who Am I Living For?” ほど厳しくはない。きらびやかなハード・ロック “Circle the Drain” は彼女の2008年のWarped Tourを想起させるが、元ネタとなったであろうアラニス・モリセットの “You Oughta Know” には敵うはずもなく。しかし『Teenage Dream』は早々に真面目ぶるのをやめている。叫ぶようなボーカルが特徴の、奇妙なSFロマンス “E.T.” では、もともとはThree 6 Maifaのために作られたというビートがその支離滅裂な歌詞を拡大している。No.1ヒットとなったシングル・ヴァージョンは馬鹿げた『アバター』風のビデオとふざけたSNSへの投稿のようなカニエ・ウェストのヴァースーー「次は何だ?エイリアンとのセックス?」ーーを採用しているが、これは後から振り返って説明することなどほとんど不可能な、奇妙なモノカルチャーの記念碑である。

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そうとはいえ、『Teenage Dream』の感情的なピークがやってくるのは “Firework” である。もう一つのNo.1ヒットであるこの厚かましく前向きなバンガーは、舞い上がるようなサビのメロディーがカラオケで歌う人たちに恥をかかせることを宿命付けられたような一曲だ。“Firework” に対して冷笑的になることはとても、とても、とても簡単だ。『Los Angeles Times』紙のアン・パワーズは当時、「彼女のキリスト教的生い立ちや、彼女の性的開放的内容における女性向け小説的限界よりも、ペリーがこれほどまでに物議を醸すアーティストとなったのは、彼女が本質的に抱えている空虚さゆえである」と書いている。彼女は一番馬鹿げていてファニーな歌詞や、『アメリカン・ビューティー』からそのまま出てきたかのような一行、そしてポップ・カルチャーの中にある「やる気を高めよう!日々前進!」的なブルシットが溜まった広大で味気ない大海に対する皮肉の効いた代喩として残ってきた疑問などを引用した。しかし、ペリーはこの曲を大統領の前でも歌っているのだ。Stargateによるストリングは趣味の良いシネマティックなアレンジに代えられているが、彼女その場で確かに歌ったのだ。「自分がレジ袋になったような気分になることはある?」と。

もちろん、あるさ。『Teenage Dream』を深々と見つめ、目をじっと凝らしていると、その一番下にレジ袋があるのだ。ここでもう一つとんでもないトリビアを:“Firework” のインスピレーションとなったのはジョン・ケルアックの『路上』であり、底に出てくる芸術家やティーンエイジャーに関する記述、とりわけケルアックによる語り手が「ぼくにとってかけがえのない人間とは、なによりも狂ったやつら、狂ったように生き、狂ったようにしゃべり、狂ったように救われたがっている、なんでも欲しがるやつら」であり、「あざやかな黄色の乱玉の花火のごとく、燃えて燃えて燃えて」いる人達であると主張する箇所である。“Firework” こそが『Teenage Dream』におけるアメリカン・ドリームであり、それは「自由」ではなく「欲望」なのだ。復讐、世間からの承認、そして必ず最後には自分自身すら破滅させてしまうであろうほどの、無人そうで必至な消費に対する欲望だ。ペリーは外見をかなり変えたが、彼女には一つだけ変わらない美学がある:それはけばけばしく、爆発するようなマキシマリズムであり、この『Teenage Dream』はその中でも最もマキシマリスト的作品である。

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だから、細かいニュアンスやケルアックのことは忘れてしまおう:両手を空に掲げ、プラスチックであることを誇ろう。『Teenage Dream』はいいタイミングで生まれ、と越もなく大きなヒットを体験した。“Teenage Dream”、“Last Friday Night”、“California Gurls”、“Firework” の4曲連続のNo.1である。ポップ・スターの中には一生かけてこれほどのヒットを残し、一生の財産にしようと試みるものもいる:ケイティー・ペリーはそれを最初の15分でやってのけてしまった。このアルバムは、彼女のキャリアだけではなく、この朱の音楽のスタイルにとっても戴冠の瞬間であった。EDM、ディスコ、そしてポップ。大胆でベルトのように頑丈で、完全に加工されてはいるがすぐにそれと分かり、強固でありながら安っぽい。2010年にあっては、これらをすべて持っているだけでも十分だったのだ。

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<Bandcamp Album of the Day>Jimmy Edgar, “Cheetah Bend”

Jimmy Edgarは常に予測不可能なアーティストである。このデトロイト出身の天才児は、多くのエレクトロニック・ミュージックのサブジャンルや多様なコラボレーターの間を行ったり来たりしながら、自身の創作の行く先が向くままに、長い間成功を収めてきた。彼のディスコグラフィーハウス・ミュージックからいなたいエレクトロ、車高の低いヒップホップ、そして霧がかったR&Bまでを包括する――これらすべてが一つの作品の中で現れることもあった。ここ数年間、Edgarはフューチャー・ベースのプロデューサー、Machinedrumとのコラボレーション=J-E-T-SやVince Staples、Adamn Killa、BANKSといったアーティストのプロデュースを手掛けるなど、ソロ活動にとどまらない多作な活動をしている。

ソロ作としてはほぼ9年ぶりとなる『Cheetah Bend』では、2012年の『Majenta』での夜の雰囲気たっぷりのベース・ミュージック~テクノとはかけ離れた作風を披露している。もちろんそれは悪いことではない。Hudson Mohawkeや偉大なる空想家=故・SOPHIEなどの似たような志を持ったエレクトロニック界の前衛たちとともに、Edgarは自身が過去数年間でヒップホップ界で作り上げてきたサウンドを拡張している。アトランタのラッパー、B La Bは ”TURN” の穏やかな鍵盤とぐちゃぐちゃのベースを縫い合わせ、”GET UP” ではEdgarは同郷、モーター・シティのレジェンド=Danny Brownとタッグを組み、Brownの無類のフロウのように落ちくぼんでいて弾力のあるサウンドを作り上げている。その一方でSOPHIEとのコラボ ”METAL” はこの二人のプロダクション・スタイルを完璧に融合したものである――予測不可能に曲がりくねっていて、まるでこの『Cheetah Bend』という最新の落ち着く場所にたどり着くための音の ”回り道” のようである。

By Larry Fitzmaurice · February 24, 2021

Jimmy Edgar, “Cheetah Bend” | Bandcamp Daily

<Bandcamp Album of the Day>Nightshift, “Zöe”

Nightshiftの『Zöe』を聴けば、自分のレコードコレクションを整理したいという気持ちになるだろう。しかし30分後、あなたは引っ張り出したアルバムを全く整頓できないまま、レコードに囲まれて座っているだろう。これは過剰に自意識が強かったりよそよそしく知的ぶったりしないアヴァンギャルドなインディー作品ではなく、温かみがあって靴よげるような、まるで共同運営している植物園に次の季節は何を植えるのか決めるグループ会議に呼び出されたかのような、そんな気分にさせるような作品である。もちろんそれは、この作品の「優美な死骸(=複数の作家が、互いにほかの人たちが何をしているのか知らない状態で協力して一つの作品を作り上げる手法)」的方法論、Eメールをリレーするような形で作られた作品であるということもあるだろうが、スコットランドポスト・パンクはいつも英国のそれよりも活発に感じられるのだ。英国勢は打ち捨てられた肉のパック工場に残響するような素晴らしくクールな楽曲を作ることができるが、実際の人間の温かみを感じられるようなパンクを探しているのであれば、グラスゴーを当たってみるべきだ。

しかし、Nightshiftはその温かいだけではなく奇妙であるというサウンドの特徴によって、ほかのグラスゴー勢と一線を画している。様々な冷たく、突き放したようなミニマリズムをよく用いるこのジャンルにおいて、『Zöe』は人間味あるキーボードと魅惑的な木管楽器で満たされていて、そこに思慮深く考え抜かれた歌詞が重ねられていく。この組み合わせが彼らの楽曲に深さと予測不可能性を付け加えている。”Make Kin” は心ひくクラリネットの音色が予想外に登場し、”Infinity Winner” の不協和音の重なりは、このバンドの意図的なくつろいだアプローチによって鎮静効果を生み出している。注意深く組み立てられた ”Spray Paint the Bridge” と ”Fences” はThurston Mooreの『Psychic Hearts』のゆっくりとしたヴァージョンのように感じられる。ここでは不協和音へと向かう傾向が、彼らが生まれ持っているメロウネスの感覚によって和らげられている。

Nightshiftの才能は、控えめなポスト・パンクやノー・ウェイヴの使い古されたトリックや修辞を、まるで古い友人たちとの心地よい集まりのような雰囲気に作り替える点だが、『Zöe』を通して彼らは政策におけるストレスフルな状況――言い換えれば私たちがこの1年を過ごしてきたやり方――にもかかわらず黙想的なバランスを見事に釣り合わせている。

By Sim Jackson · February 23, 2021

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<Bandcamp Album of the Day>Bunny Scott, “To Love Somebody”

ジャマイカキングストンにあるLee "Scratch" PerryのBlack Ark Studios――Bob Marley and The WailersJunior MurvinMax RomeoThe CongosThe Heptonesなどをもてなしたのと同じホール――で制作されたBunny Scottの『To Love Somebody』はジャマイカのロック界でも最高級の二人によって指揮された、海外のチャート・ヒット曲をアレンジする診療所のような作品である。この語Scottはバンド=Third Worldのフロントマン、Bunny Rugsとして、2014年にこの世を去るまで国際的な名声を手にした。そのグループに加入する1年前にScottはこのLP――今回Freestyle Recordsからリイシューされる運びとなった――をPerryのプロデュースで録音した。この二人によって、ロックステディやレゲエと、ポップ、ソウル、ファンクといった国際的なポップが見事に統合されている。

Scottによる ”To Love Somebody” のカバーは、The Bee Geesのオリジナルに忠実でありながら、ScottのコクのあるボーカルがBarry Gibbsの率直な歌唱を塗り替えている。それとは対照的に、Bill Withersの貧弱なファンク ”Use Me” はScottとPerryによって大胆に手が加えられていて、陽気でミッドテンポなトレンチタウン風に仕上げられている。そしてさらにはThe Upsettersの有名なインスト ”Return Of Django” (1969) の輪郭をリサイクルした ”Big May” は響き渡るオーケストラによるイントロが印象的だ。

この新しいリイシューには、William DeVaughnのクラシック ”Be Thankful for What You Got” を熱烈に作り替えた素晴らしいヴァージョン ”Be Thankful” (オリジナル未収録)も収録されている。「背中にはダイアモンド、サンルーフトップ/ギャングスタ・リーンでシーンを掘り下げる」Scottは彼の肺いっぱいを使って歌い上げる。彼の歌唱のアクセントは、Perryのサウンドには珍しく地域的な訛りが比較的希薄である。ここに収められたすべてがこれほど強力な瞬間を持っているわけではないが――例えば ”Sweet Caroline” は奇妙なチョイスである――、『To Love Somebody』はモータウンとモンテゴ・ベイをつなげる架け橋であり、双方のファンにとってかなり聞きやすい作品となっている。

By Dean Van Nguyen · February 22, 2021

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<Bandcamp Album of the Day>Senyawa, “Alkisah”

Wukier Suryadi自作楽器Rully Shabaraの多彩な声が特徴のインドネシアの二人組Senyawaは、ジャワのフォーク音楽――古代のメロディ、秘術的なリズム、弓でかき鳴らされる弦楽器――と即興演奏、過激なヴォーカルのスタイル、ヘヴィな雰囲気を溶け合わせることによって世界中の注目を集めてきた。2014年の『Acaraki』と2015年の『Menjadi』ではいかなり伝統への束縛からも解き放たれたようなサウンドを披露していたが、2018年の『Sujud』はドローン~ドゥーム・メタルからの影響が強く感じられた。そして二人の新作『Alkisah』では、Senwayaはまるで天空に上り、人類の崩壊を空から眺めているような、そんな音を鳴らしている。

「終末がこの手の中に握られているときに、力に何の意味があるのだろうか?」とShabaraは1曲目の ”Kekuasaan” で歌う。そこから、バンドは強欲、憎悪、破壊についての終末論的な物語を、キャッチ―なフックと不吉なノイズと対比させながら描き出していく。”Alkisah I” のブザーのような単音のパルスがSenyawaをエレクトロニック・ミュージックのようなものに引き寄せると、それはすぐにインダストリアルな機械音の嵐で囲われてしまう。”Istana” は心地よい、チャントされるハーモニーで始まるが30秒もすると窒息するような、ディストーションのかけられたリフとShabaraの地獄のような咆哮が後から追いついてくる。その後、二人はミナンの古いことわざの蒐集を迷走的なポップ・ソングへと作り替え(”Kabau”)、その後に4分間の雑音と暴力的な反乱を表象するスポークン・ワードを聞かせる(”Fasih”)。そして ”Alkisah II” では、Shabaraはオペラ歌手のように歌い、Suryadiは幾百万もの恐ろしい昆虫の行進をノイズで表現している。このようなスタイルや温度の衝突によって暗闇は晴れ渡り、Senyawaの最大の強みが発揮される――それはしっかりとチューニングされた緊張感のもとでの、冒険への確固たるコミットメントである。

By Ben Salmon · February 19, 2021

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