海外音楽評論・論文紹介

音楽に関するレビューや学術論文の和訳、紹介をするブログです。

<Bandcamp Album of the Day>Ivo Perelman and Nate Wooley, “Polarity”

テナー・サックス奏者=Ivo Perelmanとトランペッター=Nate Wooleyが共作した『Polarity』は二重即興奏の可能性を探求する1枚である。これまでに、WooleyはAnthony BraxtonJohn ZornIngrid Larubrockといった面々と演奏し、Perelmanは自身のアンサンブルを率いてWilliam ParkerMatthew Shippといった現代ジャズの巨人と演奏し名を上げてきた。今回この2人は音楽の自然発生という営為を深く掘り下げるために手を組んだ。

アルバムのオープニングを飾る “One A” では、この2人のミュージシャンが楽器を使って部屋の中の空間を探り、感じ取っている。WooleyとPerelmanのメロディー・ラインはお互いに向けて突進していき、やがてもつれ合って螺旋を作り上げていく。“Two A” では、Perelmanがスウィングしたシンコペーションの効いたモチーフを持ち出し、そこにWooleyが加わって、互いに撃ち合いながらやがてそれぞれの楽器の最高音へと上り詰めていく。

『Polarity』には好奇心のような感覚が常に流れている。PerelmanとWooleyは音を使って互いにコミュニケーションを取っている。ふたりとも積極的に聞き手にまわり、それに反応し、リアルタイムでお互いに返信しあっている。ここには「リーダー」はいない。音楽を演奏するという行為自体が導きとなり、2人の演奏家たちは自然の力に身を任せている。

 

<Bandcamp Album of the Day>XIXA, “Genesis”

初めて聴く人であっても、このトゥーソンを拠点とするロック・バンドであるXIXAがなぜ自分たちの音楽を「神秘的な砂漠のロック」と称しているのかを理解するのに掃除冠はかからないだろう。彼らの2作目となる『Genesis』の1曲目 “Thine Is the Kingdom” は謎めいていて壮大な雰囲気をすぐさまに作り上げる。羽ばたくようなギターと舞い上がるようなボーカルによって、この楽曲はソノラ州の広大な土地の広がり、白亜質の赤や灰色、乾いた低木やサボテンと言った光景を思い起こさせる。キビキビとしたシンバルに寄ってアクセントのつけられた、この楽曲のシャッフル・ビートはその二重性へのこだわりを表している。『Genesis』を通して、XIXAは活気と忍耐のバランスを近郊を見出していてーー居心地の良い、ダラダラとした雰囲気の『リオ・ブラボー』を想起させるーー、それは革新的な結果を生み出している。

XIXAはChicha(ペルーのサイケデリックなクンビア)からTejanoといった多くのラテン音楽参照元として引っ張ってきているが、それらの全てはたとえアップテンポな曲であったとしても考え抜かれたシリアスなサウンドとしてインストールとしている。それによってライトでアップテンポなLos PirañasSonido Gallo Negroといったアクトとの差別化として働いている。そのムードのいち要因としてあげられるのがGabriel Sullivanのボーカルである。“Nights Plutonian Shore” では、彼の低音域のクルーンの砂利ついた感じが、このハンド・パーカッションとピアノの装飾で満ちた楽曲に生き生きとしたドラマの感覚を付け加えている。

このバンドの前作やソロとは対照的に、『Genesis』には深いコクが感じられる。“Land Where We Lie” でのまばゆい合唱隊のコーラスだったり、“Soma” での微かにきらめくサイケデリックな渦巻だったり、“Mat They Call Us Home” のサーク・ロック風のギターだったり、そういう楽曲のディテールがソングライティングのタイトさによって光り輝いている。『Genesis』は内省的でじわじわと盛り上がるカントリー風 “Feast of Ascension” の、騒々しいギターでクライマックスを迎える。やがて、それはゴボゴボと流れ出るようなヒス音へと崩壊していく。この焦げ付くような厳しい旅にはうってつけのシネマティックなエンディングである。

By Joshua Minsoo Kim · February 17, 2021

daily.bandcamp.com

<Bandcamp Album of the Day>Kizis, “Tidibàbide / Turn”

Kizisが『Tidibàbide / Turn』でコラボレートしたアーティストは膨大な数である。多岐にわたる、3時間半の大作の中で、Kizisーー以前はMich Cotaとして活動していた、アルゴンキン語族の「Two-Spirit(先住民の“第三の性”)」のアーティストーーはタイトなエレクトロニック・ポップからルースな実験的な物語上の装飾に至るまで、その中で自身の声を操作している。彼女が自分のボーカルを歌って、切り貼りして、ピッチを変えて、ループさせる一方で、彼女は他のボーカリストのプリズムのようなコーラスにも加わっている。その中にはカナダのシンガー/シンセサイザー奏者=Beverly Glenn-Copelandも含まれている。最近のColin SelfやElysia Cramptonの作品のように、『Tidibàbide / Turn』はトランスジェンダーの自己の内部の安全と楽しみを確保する過程を研究している。そしてその先、その豊穣がどこに行き着くのか、そしてそれが集団の中に復帰した際にいかに交互に満ちたり引いたりするのかをも射程に入れている。

アルバムの中ではほろ苦い記憶の端々が立ち上がる。例えば “Brianna” ではトランスジェンダーとして過ごした幼少期に友情関係を作り上げていく心を打つような物語が語られる。また、ダンス・ポップの奔流 “In Our House” のように、キラキラと煌めく放蕩の瞬間もあったりする。「ハーモニーの中で砕け散るために/私達は自分の形を結晶にする」と歌う彼女は、達成の喜びと崩壊の苦しみを同時に表現している。『Tidibàbide / Turn』はその捉えがたい、人生をかけて我々が経験するプロセスを追い求めている:自己を作り上げては作り直すこと、自分を作り上げては他者と関わろうとする試みの中で打ち砕かれること。そしてその中で単一の、そして共有された意識の謎を解き明かし得てもいるのだ。

By Sasha Geffen · February 16, 2021

daily.bandcamp.com

<Pitchfork Sunday Review和訳>A.R. Kane “69”

f:id:curefortheitch:20210215205937p:plain

Rough Trade / 1988

 1985年のある晩、The Cocteau Twinsが珍しくテレビに出演した。橙色の輝きに包まれながら、その年に発表された『Tiny Dynamine EP』に収録された “Pink Orange Red” を演奏していた彼らはどこか別の世界の住人のようなオーラを放出していた。その演奏のさなか、アレックス・アユリとルディ・タンバラはロンドンでそれぞれテレビの前にかじりついていた。そのセクションが終わると、この演奏にやられてしまったこの親しい友人2人はすぐさまお互いに電話をかけた。2人はこの音楽に夢中になった。特にロビン・ガーシーの旋回するようなギターと、ドラマーの代わりにテープ・マシンを使っていることについて。しかしこの二人が最も刺激されていたのは、The Cocteau Twinsが何を象徴しているかということについてだった:それは、際限ない創作の自由だった。その後すぐにタンバラとアユリはエレキ・ギター、ドラム・マシン、そしていくつかのエフェクターを購入し実験を始めた。ミュージシャンになるには高額な機材と形式ばった訓練が必要だという幻想は崩れ去ったのだ。

伝えられるところによれば、その後のパーティーの席で、タンバラはどうやって彼と、当時高名だった広告代理店=Saatchi & Saathchiでコピーライターをやっていたアユリが出会ったのかと訊かれたのだという。少しハイになっていたのであろうタンバラは冗談めかしてこう言った。「あいつとは一緒のバンドをやっていたんだ。ちょっとVelvet Undergroundっぽくて、そしてちょっとCocteau Twinsっぽくて、あとマイルス・デイヴィスとかジョニ・ミッチェルみたいな感じの」。彼が説明するには、そのバンドの名前も同じようにいろんな影響源から取られたものだったそうだ。「A.R.」の部分は二人のイニシャルから、そして「Kane」の部分は『市民ケーン』と、ヘルマン・ヘッセの小説『デミアン』の中で描写されている「カイン」から取っているそうだ。しかしそれを超えに出して読んでみると一つの単語が生まれる:「arcane(=神秘的な)」。

タンバラの半分作り話はその後雪だるま式に膨らんでいき、A.R. Kaneはロンドンのレーベル=One Little Independent(前・One Little Indian)と契約するに至る。彼らのファースト・シングルは密かに世に放たれることはなかった。その鮮烈なタイトルーー“You Push a Knife Into My Womb (When You're Sad)”ーーは検閲に引っかかりカッコ内のみが残された。その金切り声のようなギターのフィードバック・ノイズとシンプルなドラムのビート、そして気絶させるかのようなガール・グループのハーモニーによって、“When You're Sad” は前年に傑作『Psychocandy』を発表していたThe Jesus and Mary Chainと比較された。A.R. Kaneがリード兄弟のノイズ・ロックに直接的な家教を受けたかどうかに関わらず、彼らはそのサウンドにそれ以上固執しようとは思っていなかった。彼らは『Melody Maker』誌のサイモン・レイノルズに対し、こう語っている。「僕たちはこういったヨタヨタ歩きのバンドたちに感銘を受けたとは言えない。そのヨタヨタ歩きのサウンドはなんだか飾りのように感じるんだ」。そのシングルのめまいのするようなB面曲 “Haunting” でほのめかされていたように、A.R. Kaneはずっと広大なものを求めていたのだ。

タンバラとアユリはその以前10年ほどかけて、2人が共に作り上げる音楽を直接形付けるような、2人の間で共有された語彙を作り上げてきた。小学校の頃からの友人である2人は、共に移民の子供であった。アユリの家族はナイジェリアから移住してきた家族で、タンバラの父親はマラウイ出身だった。イースト・ロンドンのストラットフォードで育った2人は「ずっとよそ者だった」が「俺たちが支配者だ、というアフリカ由来の自信と尊大さを滲み出していた」とタンバラは後に述懐している。10代の頃、アユリはダブ・ミュージックに傾倒しタンバラはソウルやジャズ・ファンクに夢中になっていたが、2人はロンドンで生まれていたハウスやポスト・パンク、ヒップホップと言ったすべてのサウンドを吸収していた。

後にジャーナリストたちがA.R. Kaneに影響源を訊いたとき、彼らは決して『NME』誌の表紙を飾るようなバンドを答えなかった。その代わりに彼らはフュージョン・ロック・バンドのWeather Reportやブラジルの3人組Azymuth、ダブ・パンクのBasement 5やミスター・フィードバックその人=Jimi Hendrixの名前を挙げた。だが、一つの特定のインスピレーションの名前を挙げ続けた。「僕らが聴いていたのはマイルス・デイヴィスだけだった」とアユリはと答えている。「僕たちはジャズ・ミュージシャンではないけれど、ジャズっぽいアティテュードを持っていると思うよ」と。アユリとタンバラは導管のように、世界を自分たちの方法で吸収し、濾過し、再解釈していたのだ。

1987年、A.R. Kaneは4ADへと移籍した。当時、Pixies、This Mortal Coil、そして彼らが愛するCocteau Twinsなど、野心的なグループが多く所属していたレーベルだ。ガーシーとともに彼らは『Lollita EP』を作り上げたが、そこに収められた楽曲はついに取り憑かれたようなサイケデリアへと足を踏み入れていた。“Sad-Masochism Is a Must” といった楽曲のタイトルや、裸の女性が背後にナイフを隠し持っている、ファッション系の写真家ジョエルゲン・テラーによるアートワークなど、このEPは臆面もなく性愛や狂気、暴力をファンタジーとして描いていた。“Butterfly Collector” の終盤ではすり減らすようなシューゲイズのカクテルが榴散弾として破裂する。ライヴではそのフィードバックの轟音が観客を出口へと小走りにさせたという。

www.youtube.com

4ADと契約した一方、A.R. Kaneはレーベル・メイトのColourboxと組んでM|A|R|R|Sという変名で活動を始める。この2組はすぐに方向性の違いに陥り、結局、一枚の両A面シングルとかすかな異花受粉の兆しだけを残して解散した。Colourboxのサンプルを多く用いたアシッド・ハウス “Pump Up the Volume” はこっそりとアユリとタンバラのギターをフィーチャーし、A.R. Kaneによる “Anitina” にはColourboxによるドラム・プログラミングが収められていた。関係者の誰もが予想していなかったことに、“Pump Up the Volume” はUKチャートのトップに急上昇し、4AD初となるNo. 1ヒットとなった。

www.youtube.com

A.R. Kaneがデビュー作『69』の制作を行ったのは、この奇妙で予想だにしなかった成功の直後のことであった。Rough Tradeと契約を結び、アユリとタンバラは、今回の制作ではガーシーのようなプロデューサーと一緒に作業をしていたプロフェッショナルなスタジオを使わないことを決断した。その代わり、二人はアユリの母親宅の地下に空間を作り、あらかじめ決められたシステムに合わせて自分たちの野望を調整するのではなく、自分たちの手で一から遊び場を構築することにしたのだ。自分たちの機材と、プロデューサーのレイ・シュールマンの時おりの援助によってA.R. Kaneは自分たちの自由を全うした。

二人は自分たちの音楽をぼんやりと説明するために新たな言葉を生み出した:ドリーム・ポップだ。二人が『69』のリリース時に発表した文章によると、「ドリーム・ポップとは、我々が考える純粋なフック、純粋なポップ・チューンに少し激しいメロディの伴奏をつけたものである」と説明されている。二人は夢見ることが作品にとって「必要不可欠である」という点で同意していた。そして二人が目指したのはそのような夢心地のような感覚がいとも簡単に悪夢的になってしまうということを提示することだった。バンドが用いているテープ・エコーは、このセルフ・プロデュースによる『69』の楽曲をちょうど手の届かないところへ運んでいく。それは、見ていた夢の最後の一片がすり抜けていく前に懸命に手繰り寄せようとする感覚に近い。リー・”スクラッチ”・ペリーキング・タビーといったダブの先駆者たちに倣い、二人は機材の論理的な限界を疑い、すべてのアイデアを折り曲げ、サンプルし、操作し、引き延ばし、フィルターをかけ、ディストーションをかけ、逆再生した。二人はこれらのパーツを組み合わせ、複雑に絡み合った直観にすべてを託し――二人は陰と陽、つまり6と9のように対をなす存在だった――曲が立ち現れてくるまで徹底的に脂肪分をそぎ落とした。

A.R. Kaneはノイズの持つ快楽的なポテンシャルに気が付いていた。ギターの音をどんどんと上げていって個々の要素を一つの空虚なサウンドへと溶け合わせたとき、何か新しい扉が開くかもしれない。「僕たちの音楽を、スピーカーからリスナーに向けて飛び出す奔流のようなものにしたかったんだ。その量が多すぎて、とてもじゃないけど精神が追い付かないくらいのね」とタンバラはレイノルズに語っている。「赤ちゃんがガラガラヘビを初めて見るときのような、全く予想もしていないようなものにしたかった」と。それこそがまさに ”Baby Milk Snatcher” の聴取体験そのものである。そのタイトルはオーラル・セックス、授乳、そしてマーガレット・サッチャーの暗喩となっている。グリッチーなトリップ・ホップ、昏睡作用のあるサイケデリア、そして肉体的なポスト・パンクのような趣があるこの曲はワクワクするほど無秩序なのだ。

『69』はつかみどころのない作品だ。ドリーム・ポップであるということは自然とそれについて語る言葉も夢心地になってしまう。ぎょっとするような不協和音の ”Crazy Blue”、”Suicide Kiss” で幕を開けたのち、このアルバムは遠く離れた、無気力な洞窟のようなサウンドの ”Scab” ”Sulliday” に向かって降下していく。この最後の2曲は、温度を発しているのが二人の人間の肉体だけであるような地下室で録音したのがよくわかるようなサウンドになっている。その一方で、”Dizzy” はアーサー・ラッセル風の優雅なチェロのメロディと、排水溝に吸い込まれていく悪霊の最後の咆哮のような、遠くから聞こえてくるような叫び声が対置されている。

”Spermwhale Trip Over” のような曲では、そのトリッピーな雰囲気が中央のヴァースで分かりやすく要約されている。「これが僕のLSDで見る夢/すべては見た目通り」。その間、かすかなグルーヴが水面下の洞窟をダイバーに案内するためのガイドラインのような役割を果たしている。アルバム後半の驚異的なハイライト ”The Sun Falls Into the Sea"は全く別の惑星から来たかのようだ。「私たちにとっての熱意とは、みんなが僕たちの音楽がサウンドトラックとなるような夢を見てくれることだ」とアユリは1987年、レイノルズに語っている。夢とは新たな現実の際限のない領域であり、『69』はその熱意、欠点への愛着、そして暗闇も喜びも包み込むことができる能力とともに、その領域すべてをとらえることを目標としていた。

www.youtube.com

2020年の夏、制度的レイシズムに対する抗議が全米で沸き起こる中、「シューゲイズにおける黒人の影響を検証する」と題されたインフォグラフィックがインスタグラムのフィードに出現し、A.R. Kaneはその中で、これまでその功績をほぼ白人男性(と柳のように細い白人女性の後知恵)が独占してきたこのサウンドのパイオニアであると主張されていた。A.R. Kaneの音楽はシューゲイズの範疇を超えて広がっていったし、彼らは自分たちのことを「インディー」バンドだと思ったことはないだろうが、この主張は的を得ている。A.R. Kaneは独自の道を切り開き、そのレガシーはVeldt、SlowdiveFlying Saucer Attackといったグループの中に聴いてとることができる。A.R. Kaneの二人は活動中、自分の人種的アイデンティティや、インディー・シーンから疎外されていると思っている人たちの首長としての役割について深く語ることはなかった(公平を期するために言うと、二人はこの問題に限らず大体のことについてあまり語りたがらなかった)。しかし、アユリは1999年のインタヴューの中でこう語っている。「僕たちはアイデアの原動力だった。僕たちはステレオタイプを取り除くのに貢献していた。80年代は、黒人はソウル、レゲエ、ラップなんかをやっていて、サイケデリックなドリーム・ロックをやっている奴なんかいなかった。僕たちはもっとエクスペリメンタルなことをしたいと思っているバンドたちの扉を開いたんだ」。また、2012年には同じくタンバラも、このバンドのような存在がショッキングに感じられるかもしれないという見方に反撃している。「なんであいつらが僕たちの音楽を聴いて驚くのか理解できなかった。ロックも、ダンス・ミュージックも、フリー・ジャズも、そしてサイケデリアだって発明したのは黒人だった。少なくとも僕の母親はそう言っていたよ」。

www.instagram.com

<Bandcamp Album of the Day>Sun Kin, “After the House”

ロサンゼルスを拠点とするエレクトロニック・ミュージック・プロデューサー=Kabir Kumarが作る音楽はどこか儚さを感じさせる。常にベッドルーム・ポップやサイケデリック・フォーク、ディスコ、ハウスと言ったジャンルを横断しているが、その土のラベルにも落ち着きすぎるということがない。彼はSun Kinとして10年以上もの間楽器やジャンルを用いて実験を行い、個人的な経験を音の中に蒸留してきた。その4枚めとなる『After the House』において、Kumarはハウスやディスコ、R&Bに加えて青年時代に聴いていた中東やインドのポップを取り入れ、それをリアルな親密さと脆弱性を持った四つ打ちのダンス・アンセムへと作り変えている。

この作品は “We Build Tiny Houses for the Dead” で幕を開ける。この曲ではダークなテクノのリズムとツルツルのループするシンセが曲の盛り上がりと共にグルーヴィーなディスコ&ファンクな音色に変わっていく。Kumarのプロダクションに対するアプローチには二面性があって、暗闇が徐々に光へと導いてくれるかのようである。それは “Trying to Trust” で前景化されている:起伏のあるシンセと90年代初期ハウス風のピアノがSun Kinの自衛本能と欲求に身を委ねてしまうことについての柔らかく、エモーショナルな告白を強調している。その声には疲れ切っている感覚と俗っぽさがあって、アルバムを通じて聞ける人当たりがよく晴れやかなリズムに対する裏切りになっている。その鮮明で複雑な雰囲気によって、『After the House』は深夜の内省のために作られたアルバムのようであり、ネオンライトの輝きの下精神を洗浄するという行為への招待状である。

By Amaya Garcia · February 12

https://daily.bandcamp.com/album-of-the-day/sun-kin-after-the-house-review

<Bandcamp Album of the Day>Aaron Lee Tasjan, “Tasjan! Tasjan! Tasjan!”

セルフタイトルのアルバムには二種類ある。第一に、デビュー作というのがよくある(「自己紹介させてください」というようなもの)。第二にそれとはまったく異なり、もう一度自己紹介をするための手動リセット(「あなたは私を知っていると思っているだけ」というようなもの)。4作目となる『Tasjan! Tasjan! Tasjan!』において、イースト・ナッシュヴィルのカントリーから非カントリーシンガーへと変身を遂げたAaron Lee Tasjanは後者を試みている。その感嘆符が示すように、彼は自分の物語の輪郭を明確にしようとしているのだ。

 このアルバムは自伝的要素を多分に含んでいるが(それは自身がバイセクシャルであるという言及という形となって現れている)、Tasjanの目的の探求が満たされているのは、彼が(それが良い動機に基づくものではあるが)享楽的な冷笑主義に適合するときである。テンポが早まるほど、シンセがギラつくほど、鍵盤が明るいほど、虚栄や堂々とした態度を見せる余裕があればあるほど、Tasjanのサウンドはくつろいでい聞こえる。それは2016年の『Silver Tears』のラインストーン・カウボーイのようなギャロップや2018年の『Karma For Cheap』での巨大なフックの連発のことを考えると必ずしも驚きではないーー後者の “If Not Now When” や “The Truth Is So Hard To Believe” は様々な方法でOasisを踏襲している。

Tasjanはそれを “Don't Overthink It” で、肉付きの良いベース、蜘蛛の糸のようなギター・ライン、そして明白な「悪いことはどんどん悪化していく/でもそんなの関係ない」というメッセージとともに、見事に決めている。彼はリード・シングル “Up All Night” でも同じようなアプローチを用いていて、80年代のSpringsteen風の楽観主義と向こう見ずなきらめきに貫かれている:「彼氏と別れて/女の子と付き合うんだ/だって愛って、愛って、愛ってそういうものだから」。じゃあ、そういうことなのだろう。

彼が “Computer of Love” のビデオで運転しているネオンカラーの車がなにかを指し示しているのだとしたら、Tasjanは別にそこまで考えすぎているわけでもないようだ。しかし彼は自分で仕掛けた、何かを言わなければいけないという罠に対して多感である。アルバムは3曲の曲がりくねったバラードで幕を閉じるが、それはまるでなにかポジティヴな個人的帰結を提示したいという思いからであるように感じられる。古き良き電子オルガンのトレロモでの巧みなマイナー・コードの進行が聞ける “Now You Know” はその3曲の中でも秀逸である。しかしTasjanが嬉しそうに、そして雑然に諦念を示すときこそが、この感嘆符がたくさん用いられたあるバウムにふさわしいメンタリティであるように感じられる。言い換えるならばこうだ:Nice to re-meet you.

By Elle Carroll · February 11, 2021

daily.bandcamp.com

<Pitchfork Sunday Review和訳>Sylvester: Step II

f:id:curefortheitch:20210210223530p:plain

Fantasy / 1978

1986年の大晦日、シルヴェスターは「The Late Show With Joan Rivers」にそびえ立つように高く、オレンジのシャーベット用な色をしたウィッグに、装飾が施されたパンツスーツという姿で登場した。彼の出世作となったシングル、ミラーボール・ディスコ・ヒット曲 “You Make Me Feel (Mighty Real)” 、ひいては1978年の『Step II』からほとんど十年が経ち、両性具有的な魅力を持つことで有名なこのサンフランシスコ出身のシンガーはリヴァーズと密な信頼関係を築き上げていた:その世界的流行が国民の注意を集める前から行っていたAIDS支援の興行で舞台を共にもしていた。その会話は次第にお決まりの冷やかしへと着地していった:リヴァーズが訊く、「あなたがドラァグ・クイーンになりたいって言い出した時、家族はなんて言ったの?」

「私はドラァグ・クイーンなんかじゃない!」とそのシンガーはゲラゲラと笑い、その真っ赤なたてがみを揺らす。「私はシルヴェスター」。

簡潔でそっけないその返答は、彼が思い描いていたディスコのスターの姿のスナップショットであった。シルヴェスターという言葉でしか語れない、一つの言葉でくくられるようなものではない唯一無二の才能。その存在は、世界がそれに対して準備ができるずっと前からスターダムに輝く宿命にあった。彼はゴスペル、ファンク、ディスコを混合して、キラキラと光る、忘れがたい印象を70年代と80年代に付け加えた。そしてその間じゅうずっと、シルヴェスターは断固として自分自身で有り続けた。彼にまつわる属性は事あるごとに周縁化されてきたがーーブラックで、ゲイで、フェミニンであることーーその属性こそが彼を疑いようのないほどのスターに仕立て上げたのだ。

 シルヴェスター・ジェームズという名でロサンゼルスのサウス・セントラルに生まれた彼は、彼を溺愛する祖母とペンテコステ派教会の聖歌隊によって幼少期の音楽教育を施された。そこで彼はアレサ・フランクリンの歌唱法を学び、その羽毛のように軽く、無比の美しさを誇るファルセットを磨いたのであった。シルヴェスターは10代の頃にDisquotaysという名前のドラァグ・クイーン集団の仲間入りを果たし、クルーのウィッグや衣装を直しながら、ドラァグか禁止されていたカリフォルニアの法律から隠れながら夜な夜なパーティを渡り歩いた。彼は1970年になると地元を離れサンフランシスコへと移る。シルヴェスターはそのクィアで流浪の、カストロ通りの坩堝の中でパフォーマンスを始めたのだった。

シルヴェスターはサンフランシスコで頭角を現し、その性的開放感からサンフランシスコはすぐに彼にとっての第二の故郷となった:彼を取り入れることは他の街には出来なかっただろう。彼は異端のドラァグ集団=The Cockettesに加わり彼らにゴスペルを教えたが、反対に彼らのタガの外れたスケッチ・コメディーと衝突することもあった。しかし彼とそのグループの存在ーー特に彼の舞い上がるようなソローーによってすぐさま、シルヴェスターはアンダーグラウンドのセンセーションとなった。1972年、デヴィッド・ボウイがサンフランシスコでの初めてのショウを完売させることが出来なかったことがあった。彼は記者に対し「ここの人たちは私を必要としていないんだ。だってシルヴェスターがいるからね」と語った。

種は植えられた。シルヴェスターはThe Cockettesにおいて当初請け負っていた、祖母からの影響であるジャズとソウルを基調としたペルソナ=ルビー・ブルーとしてソロ活動を始める。彼はチャイナタウンのThe Rickshaw LoungeでMa RaineyやBessie Smith、Lena Horneといった先人たちのスタンダードを披露していた。シルヴェスターの言葉を借りれば、ルビーが出現したのは「その不思議、その自由、その魅惑」を宿すためだった。ソウルやスピリチュアルの伝統、そして気の向くままに異なる女性的なヴォーカル・スタイルを試すことのできるハイ・テノールと共に、ここにシルヴェスターの音楽の源流が誕生した。

シルヴェスターのジェンダーアイデンティティはわざと不可解なままとされていた。彼の衣装は極端なフェミニン性を打ち出したものの間で揺れ動き、ピカピカ光るチュチュとふわふわのウィッグを付けていたが、舞台を降りると飾らないものを着ていた。シルヴェスターはレザーパンツや短く借り揃えた髪といった「男っぽい」シンボルを身につけることにも同等の心地よさを感じていた:常に彼の中にはこの二面性が宿っていたのである。彼はステージ上での性アイデンティティについては考えたことがないと主張し、彼のアイドルであるジョセフィーヌ・ベイカーからのアドバイスを引用した。「あなたがステージ上で作り出すイリュージョンは“すべて”である」と。シルヴェスターはいかなる機会においても類型化されることを拒み、作品で聴かれるようなクールさ持ってそのまま彼を同定しようとするような質問に肩をすくめてきた。彼は1978年、詮索好きなレポーターを以下のように切り捨てた。「いいかい?ゲイであるということは、ストレートの人たち以外にはなんの意味もないんだよ」。

シルヴェスターがサンフランシスコのレーベル、Blue Thumbと契約し、自分の作品を製作しようと考え始めるころになっても、彼はまだ自分の立ち位置を決めかねていた。彼がシルヴェスターとしてThe Hot Bandと演奏していたロック・ファンクとでもいうべき音楽は、チャートや彼の行きつけのゲイ・クラブを席巻していたようなシンセがたっぷり聞いた形式的なディスコとは全然違うものだった。シルヴェスターはせいぜいカジュアルなディスコ音楽のファンであって、彼がそのヴィジョンに傾倒するようになるのはベテラン・プロデューサー=ハーヴィー・フーカのつてでジャズ系のレーベル=Fantasyと契約してからのことだった。シルヴェスターは1977年の夏にソウルフルなセルフタイトル作をリリースし、その翌年にキラキラと光る『Step II』をリリースした。この作品こそが、彼のもっとも的確で目映い作品であり続けている。

アルバム冒頭のワンツー・パンチ、“You Make Me Feel (Mighty Real)” と “Dance (Dicso Heat)” は共にシルヴェスターの音楽的天才さを誇示しているが、前者は彼の王冠に埋め込まれた宝石となった。ギタリストのジェイムス・“ティップ”・ウィリック率いるバンドと共に、このシンガーはこの曲を伝統的なバラードを念頭に置いて即席の歌詞を書いた。しかし、友人でありジョルジオ・モロダーやヨーロッパのエキセントリックなダンス・ミュージックに心酔していたプロデューサーであるパトリック・カウリーがこの曲にシンセサイザーを用いたディスコの鼓動を吹き込むと、その編曲によってこの曲は全く違うものへと変形した(「ピッタリのタイミングにいてくれたことに、一箇感謝と愛を感じています」とシルヴェスターは『Step II』のライナーノーツで謝辞を述べている)。“You Make Me Feel” はちょうど1年前にリリースされていたドナ・サマーの “I Feel Love” と同じスペース・エイジのDNAを持っていて、サマーのか細い声がシルヴェスターによる、当時のサンフランシスコの描写に取って代わられただけであった。「踊って、汗を書いて、車を流して、家に帰って、それを続けること、そしてそれを人がどう感じているのか」と彼は楽曲の内容を説明している。彼のファルセットは強烈なブレスのコントロールともつれ合い、やがて快楽の頂点に達したかのようなコーラスで叫び声を上げる。喉を前回にしたペンテコステ派の精神は一瞬でその場を沸かせるディスコの才能へと相成ったのである。

www.youtube.com

シルヴェスターは「この世には十分な子供がいるのと同じく、十分なラヴ・ソングが既に存在している」と信じていたが、『Step II』は情熱で満ち溢れている。シルヴェスターはバート・バカラックとハル・デヴィッドによる揺れるようなナンバー “I Took My Strength From You” をカヴァーし、自身のヴォーカルを蜘蛛の糸のように細く引き伸ばしこの曲を純粋な祈りの歌へと変えてしまっている。“Was It Something That I Said” はフーカと共作した転がるようなR&Bソングはシルヴェスターの愛するバックアップ・シンガー、マーサ・ウォッシュとイゾーラ・アームステッド(またの名をTwo Tons o' Fun、後にThe Weather Girlsを結成)の掛け合いから始まる。2人はクスクスと話す。「ねえねえ、あの話聞いた?」「え、何?シルヴェスターが破局したの?」彼は電話番号が書かれた手紙を受け取り、かけてみるとつながらなかったという思い出を語る。その悲しみはファンキーな鍵盤、ホーンのリック、そしてスポークン・ワードのブリッジで紡がれるミニチュアの悲劇として昇華されている。

www.youtube.com

『Step II』と “You Make Me Feel (Mighty Real)” によってシルヴェスターは世界的な大成功を収めた。アルバムはゴールド認定され(『Step II』のラベルが貼られたワイン・ボトルで祝福された)、シルヴェスターはテレビに多く出演し、その図々しいパフォーマンスを全国のオーディエンスにお届けした。彼はThe Commodores、The O'Jays、Chaka Khanといったアーティストの前座を務め、ヨーロッパをツアーで回り、海外のファンをビートルズ風の熱狂に陥れた。実質的に、シルヴェスターのスターダムの夢は一夜にして現実のものと成り、そこにたどり着くにあたって彼は自分のどの部分も切り捨てることはなかった。

シルヴェスターは1979年の3月11日に “The keys to San Francisco” を授与され、2018年には “You Make Me Feel” が全米議会図書館に所蔵されることとなり、シルヴェスターのアメリカ文化全般に対するインパクトが公的に認められることになった。どんなゲイ・クラブやプライド・イヴェントに行けばそのうち “You Make Me Feel” がスピーカーから鳴り響き、全員をダンスフロアに送り込んで饗宴が始まるだろう。バラード・ヴァージョンの名残は『Step II』の途中で再演されているが、サンフランシスコのWar Memorial Opera Houseで録音された1979年のライヴ・アルバム『Living Proof』での天にも登るようなゴスペル・ヴァージョンを聴けば、どんな形で演奏されようともこの曲が神聖な力を持っていることがわかるだろう。シルヴェスターは推進力のあるビートから出発し、クワイアに支えられたゆっくりとしたインタールードへ移行し、聞き手を吹き飛ばしてしまうほどの、天界のものとも思えるような高音域へと登っていく。

シルヴェスターは1988年に41歳の若さでAIDSで亡くなったが、それは彼の長年の夫、建築家のリック・クランマーが同じ死因でなくなってから1年後だった。カウリーも1982年にAIDSで亡くなっていて、それは2人がなめらかなハイエナジー疾風 “Do You Wanna Funk?” を録音したのと同じ年だった。カウリーはこのウイスルで亡くなった者の中でその死がいち早く広く報じられた一人であった。シルヴェスターも1988年のサンフランシスコ・プライド・パレードで車椅子に乗ったPeople With AIDSのグループを率いるなど、その危機と向き合った。「彼はまだ死ぬ前から自分の人生を祝うことを許してくれていました。そんな誠実さを持ったスターを私は他に知りません」と、小説家のアーミステッド・モーピンは後に振り返っている。

AIDSが我々のクィアの先人たちに課した犠牲は誇張しすぎることはないのだが、シルヴェスターを失ったことはその中でも特に我々の心に重くのしかかった。彼はよく、早い時期退職くらいのお金を稼いで、どこかの田舎に引っ越して、残りの人生は何もせずに過ごしたい、と語っていた。20年以上の美しさと成功にもかかわらず、そのような将来が手に入らなかったことはシルヴェスターを深く傷つけた。『Step II』が発表される年、彼はこう語っていた。「私はそれほど多くを望みません。ただ、素晴らしい時間を過ごせれば。ごく普通の感情の持ち主ですが、そのどれよりも興奮への欲求が少しだけ勝っているのです。私は私ですし、私がやりたいことをやります。私は自分が誰なのかわかっているし、自分の感じたままに生きているのです」。彼の類まれなスタイルと果てしない想像を通して、シルヴェスターは私達の中、彼と同じ生き方をする人たちのための道を惜しみなく切り開いてくれたのだ。

BY: ERIC TORRES
FEBRUARY 7 2021

pitchfork.com