初めて聴く人であっても、このトゥーソンを拠点とするロック・バンドであるXIXAがなぜ自分たちの音楽を「神秘的な砂漠のロック」と称しているのかを理解するのに掃除冠はかからないだろう。彼らの2作目となる『Genesis』の1曲目 “Thine Is the Kingdom” は謎めいていて壮大な雰囲気をすぐさまに作り上げる。羽ばたくようなギターと舞い上がるようなボーカルによって、この楽曲はソノラ州の広大な土地の広がり、白亜質の赤や灰色、乾いた低木やサボテンと言った光景を思い起こさせる。キビキビとしたシンバルに寄ってアクセントのつけられた、この楽曲のシャッフル・ビートはその二重性へのこだわりを表している。『Genesis』を通して、XIXAは活気と忍耐のバランスを近郊を見出していてーー居心地の良い、ダラダラとした雰囲気の『リオ・ブラボー』を想起させるーー、それは革新的な結果を生み出している。
このバンドの前作やソロ作とは対照的に、『Genesis』には深いコクが感じられる。“Land Where We Lie” でのまばゆい合唱隊のコーラスだったり、“Soma” での微かにきらめくサイケデリックな渦巻だったり、“Mat They Call Us Home” のサーク・ロック風のギターだったり、そういう楽曲のディテールがソングライティングのタイトさによって光り輝いている。『Genesis』は内省的でじわじわと盛り上がるカントリー風 “Feast of Ascension” の、騒々しいギターでクライマックスを迎える。やがて、それはゴボゴボと流れ出るようなヒス音へと崩壊していく。この焦げ付くような厳しい旅にはうってつけのシネマティックなエンディングである。
タンバラの半分作り話はその後雪だるま式に膨らんでいき、A.R. Kaneはロンドンのレーベル=One Little Independent(前・One Little Indian)と契約するに至る。彼らのファースト・シングルは密かに世に放たれることはなかった。その鮮烈なタイトルーー“You Push a Knife Into My Womb (When You're Sad)”ーーは検閲に引っかかりカッコ内のみが残された。その金切り声のようなギターのフィードバック・ノイズとシンプルなドラムのビート、そして気絶させるかのようなガール・グループのハーモニーによって、“When You're Sad” は前年に傑作『Psychocandy』を発表していたThe Jesus and Mary Chainと比較された。A.R. Kaneがリード兄弟のノイズ・ロックに直接的な家教を受けたかどうかに関わらず、彼らはそのサウンドにそれ以上固執しようとは思っていなかった。彼らは『Melody Maker』誌のサイモン・レイノルズに対し、こう語っている。「僕たちはこういったヨタヨタ歩きのバンドたちに感銘を受けたとは言えない。そのヨタヨタ歩きのサウンドはなんだか飾りのように感じるんだ」。そのシングルのめまいのするようなB面曲 “Haunting” でほのめかされていたように、A.R. Kaneはずっと広大なものを求めていたのだ。
4ADと契約した一方、A.R. Kaneはレーベル・メイトのColourboxと組んでM|A|R|R|Sという変名で活動を始める。この2組はすぐに方向性の違いに陥り、結局、一枚の両A面シングルとかすかな異花受粉の兆しだけを残して解散した。Colourboxのサンプルを多く用いたアシッド・ハウス “Pump Up the Volume” はこっそりとアユリとタンバラのギターをフィーチャーし、A.R. Kaneによる “Anitina” にはColourboxによるドラム・プログラミングが収められていた。関係者の誰もが予想していなかったことに、“Pump Up the Volume” はUKチャートのトップに急上昇し、4AD初となるNo. 1ヒットとなった。
”Spermwhale Trip Over” のような曲では、そのトリッピーな雰囲気が中央のヴァースで分かりやすく要約されている。「これが僕のLSDで見る夢/すべては見た目通り」。その間、かすかなグルーヴが水面下の洞窟をダイバーに案内するためのガイドラインのような役割を果たしている。アルバム後半の驚異的なハイライト ”The Sun Falls Into the Sea"は全く別の惑星から来たかのようだ。「私たちにとっての熱意とは、みんなが僕たちの音楽がサウンドトラックとなるような夢を見てくれることだ」とアユリは1987年、レイノルズに語っている。夢とは新たな現実の際限のない領域であり、『69』はその熱意、欠点への愛着、そして暗闇も喜びも包み込むことができる能力とともに、その領域すべてをとらえることを目標としていた。
ロサンゼルスを拠点とするエレクトロニック・ミュージック・プロデューサー=Kabir Kumarが作る音楽はどこか儚さを感じさせる。常にベッドルーム・ポップやサイケデリック・フォーク、ディスコ、ハウスと言ったジャンルを横断しているが、その土のラベルにも落ち着きすぎるということがない。彼はSun Kinとして10年以上もの間楽器やジャンルを用いて実験を行い、個人的な経験を音の中に蒸留してきた。その4枚めとなる『After the House』において、Kumarはハウスやディスコ、R&Bに加えて青年時代に聴いていた中東やインドのポップを取り入れ、それをリアルな親密さと脆弱性を持った四つ打ちのダンス・アンセムへと作り変えている。
この作品は “We Build Tiny Houses for the Dead” で幕を開ける。この曲ではダークなテクノのリズムとツルツルのループするシンセが曲の盛り上がりと共にグルーヴィーなディスコ&ファンクな音色に変わっていく。Kumarのプロダクションに対するアプローチには二面性があって、暗闇が徐々に光へと導いてくれるかのようである。それは “Trying to Trust” で前景化されている:起伏のあるシンセと90年代初期ハウス風のピアノがSun Kinの自衛本能と欲求に身を委ねてしまうことについての柔らかく、エモーショナルな告白を強調している。その声には疲れ切っている感覚と俗っぽさがあって、アルバムを通じて聞ける人当たりがよく晴れやかなリズムに対する裏切りになっている。その鮮明で複雑な雰囲気によって、『After the House』は深夜の内省のために作られたアルバムのようであり、ネオンライトの輝きの下精神を洗浄するという行為への招待状である。
セルフタイトルのアルバムには二種類ある。第一に、デビュー作というのがよくある(「自己紹介させてください」というようなもの)。第二にそれとはまったく異なり、もう一度自己紹介をするための手動リセット(「あなたは私を知っていると思っているだけ」というようなもの)。4作目となる『Tasjan! Tasjan! Tasjan!』において、イースト・ナッシュヴィルのカントリーから非カントリーシンガーへと変身を遂げたAaron Lee Tasjanは後者を試みている。その感嘆符が示すように、彼は自分の物語の輪郭を明確にしようとしているのだ。
このアルバムは自伝的要素を多分に含んでいるが(それは自身がバイセクシャルであるという言及という形となって現れている)、Tasjanの目的の探求が満たされているのは、彼が(それが良い動機に基づくものではあるが)享楽的な冷笑主義に適合するときである。テンポが早まるほど、シンセがギラつくほど、鍵盤が明るいほど、虚栄や堂々とした態度を見せる余裕があればあるほど、Tasjanのサウンドはくつろいでい聞こえる。それは2016年の『Silver Tears』のラインストーン・カウボーイのようなギャロップや2018年の『Karma For Cheap』での巨大なフックの連発のことを考えると必ずしも驚きではないーー後者の “If Not Now When” や “The Truth Is So Hard To Believe” は様々な方法でOasisを踏襲している。
Tasjanはそれを “Don't Overthink It” で、肉付きの良いベース、蜘蛛の糸のようなギター・ライン、そして明白な「悪いことはどんどん悪化していく/でもそんなの関係ない」というメッセージとともに、見事に決めている。彼はリード・シングル “Up All Night” でも同じようなアプローチを用いていて、80年代のSpringsteen風の楽観主義と向こう見ずなきらめきに貫かれている:「彼氏と別れて/女の子と付き合うんだ/だって愛って、愛って、愛ってそういうものだから」。じゃあ、そういうことなのだろう。
彼が “Computer of Love” のビデオで運転しているネオンカラーの車がなにかを指し示しているのだとしたら、Tasjanは別にそこまで考えすぎているわけでもないようだ。しかし彼は自分で仕掛けた、何かを言わなければいけないという罠に対して多感である。アルバムは3曲の曲がりくねったバラードで幕を閉じるが、それはまるでなにかポジティヴな個人的帰結を提示したいという思いからであるように感じられる。古き良き電子オルガンのトレロモでの巧みなマイナー・コードの進行が聞ける “Now You Know” はその3曲の中でも秀逸である。しかしTasjanが嬉しそうに、そして雑然に諦念を示すときこそが、この感嘆符がたくさん用いられたあるバウムにふさわしいメンタリティであるように感じられる。言い換えるならばこうだ:Nice to re-meet you.
1986年の大晦日、シルヴェスターは「The Late Show With Joan Rivers」にそびえ立つように高く、オレンジのシャーベット用な色をしたウィッグに、装飾が施されたパンツスーツという姿で登場した。彼の出世作となったシングル、ミラーボール・ディスコ・ヒット曲 “You Make Me Feel (Mighty Real)” 、ひいては1978年の『Step II』からほとんど十年が経ち、両性具有的な魅力を持つことで有名なこのサンフランシスコ出身のシンガーはリヴァーズと密な信頼関係を築き上げていた:その世界的流行が国民の注意を集める前から行っていたAIDS支援の興行で舞台を共にもしていた。その会話は次第にお決まりの冷やかしへと着地していった:リヴァーズが訊く、「あなたがドラァグ・クイーンになりたいって言い出した時、家族はなんて言ったの?」
シルヴェスターがサンフランシスコのレーベル、Blue Thumbと契約し、自分の作品を製作しようと考え始めるころになっても、彼はまだ自分の立ち位置を決めかねていた。彼がシルヴェスターとしてThe Hot Bandと演奏していたロック・ファンクとでもいうべき音楽は、チャートや彼の行きつけのゲイ・クラブを席巻していたようなシンセがたっぷり聞いた形式的なディスコとは全然違うものだった。シルヴェスターはせいぜいカジュアルなディスコ音楽のファンであって、彼がそのヴィジョンに傾倒するようになるのはベテラン・プロデューサー=ハーヴィー・フーカのつてでジャズ系のレーベル=Fantasyと契約してからのことだった。シルヴェスターは1977年の夏にソウルフルなセルフタイトル作をリリースし、その翌年にキラキラと光る『Step II』をリリースした。この作品こそが、彼のもっとも的確で目映い作品であり続けている。
アルバム冒頭のワンツー・パンチ、“You Make Me Feel (Mighty Real)” と “Dance (Dicso Heat)” は共にシルヴェスターの音楽的天才さを誇示しているが、前者は彼の王冠に埋め込まれた宝石となった。ギタリストのジェイムス・“ティップ”・ウィリック率いるバンドと共に、このシンガーはこの曲を伝統的なバラードを念頭に置いて即席の歌詞を書いた。しかし、友人でありジョルジオ・モロダーやヨーロッパのエキセントリックなダンス・ミュージックに心酔していたプロデューサーであるパトリック・カウリーがこの曲にシンセサイザーを用いたディスコの鼓動を吹き込むと、その編曲によってこの曲は全く違うものへと変形した(「ピッタリのタイミングにいてくれたことに、一箇感謝と愛を感じています」とシルヴェスターは『Step II』のライナーノーツで謝辞を述べている)。“You Make Me Feel” はちょうど1年前にリリースされていたドナ・サマーの “I Feel Love” と同じスペース・エイジのDNAを持っていて、サマーのか細い声がシルヴェスターによる、当時のサンフランシスコの描写に取って代わられただけであった。「踊って、汗を書いて、車を流して、家に帰って、それを続けること、そしてそれを人がどう感じているのか」と彼は楽曲の内容を説明している。彼のファルセットは強烈なブレスのコントロールともつれ合い、やがて快楽の頂点に達したかのようなコーラスで叫び声を上げる。喉を前回にしたペンテコステ派の精神は一瞬でその場を沸かせるディスコの才能へと相成ったのである。
シルヴェスターは「この世には十分な子供がいるのと同じく、十分なラヴ・ソングが既に存在している」と信じていたが、『Step II』は情熱で満ち溢れている。シルヴェスターはバート・バカラックとハル・デヴィッドによる揺れるようなナンバー “I Took My Strength From You” をカヴァーし、自身のヴォーカルを蜘蛛の糸のように細く引き伸ばしこの曲を純粋な祈りの歌へと変えてしまっている。“Was It Something That I Said” はフーカと共作した転がるようなR&Bソングはシルヴェスターの愛するバックアップ・シンガー、マーサ・ウォッシュとイゾーラ・アームステッド(またの名をTwo Tons o' Fun、後にThe Weather Girlsを結成)の掛け合いから始まる。2人はクスクスと話す。「ねえねえ、あの話聞いた?」「え、何?シルヴェスターが破局したの?」彼は電話番号が書かれた手紙を受け取り、かけてみるとつながらなかったという思い出を語る。その悲しみはファンキーな鍵盤、ホーンのリック、そしてスポークン・ワードのブリッジで紡がれるミニチュアの悲劇として昇華されている。
『Step II』と “You Make Me Feel (Mighty Real)” によってシルヴェスターは世界的な大成功を収めた。アルバムはゴールド認定され(『Step II』のラベルが貼られたワイン・ボトルで祝福された)、シルヴェスターはテレビに多く出演し、その図々しいパフォーマンスを全国のオーディエンスにお届けした。彼はThe Commodores、The O'Jays、Chaka Khanといったアーティストの前座を務め、ヨーロッパをツアーで回り、海外のファンをビートルズ風の熱狂に陥れた。実質的に、シルヴェスターのスターダムの夢は一夜にして現実のものと成り、そこにたどり着くにあたって彼は自分のどの部分も切り捨てることはなかった。
シルヴェスターは1979年の3月11日に “The keys to San Francisco” を授与され、2018年には “You Make Me Feel” が全米議会図書館に所蔵されることとなり、シルヴェスターのアメリカ文化全般に対するインパクトが公的に認められることになった。どんなゲイ・クラブやプライド・イヴェントに行けばそのうち “You Make Me Feel” がスピーカーから鳴り響き、全員をダンスフロアに送り込んで饗宴が始まるだろう。バラード・ヴァージョンの名残は『Step II』の途中で再演されているが、サンフランシスコのWar Memorial Opera Houseで録音された1979年のライヴ・アルバム『Living Proof』での天にも登るようなゴスペル・ヴァージョンを聴けば、どんな形で演奏されようともこの曲が神聖な力を持っていることがわかるだろう。シルヴェスターは推進力のあるビートから出発し、クワイアに支えられたゆっくりとしたインタールードへ移行し、聞き手を吹き飛ばしてしまうほどの、天界のものとも思えるような高音域へと登っていく。
シルヴェスターは1988年に41歳の若さでAIDSで亡くなったが、それは彼の長年の夫、建築家のリック・クランマーが同じ死因でなくなってから1年後だった。カウリーも1982年にAIDSで亡くなっていて、それは2人がなめらかなハイエナジー疾風 “Do You Wanna Funk?” を録音したのと同じ年だった。カウリーはこのウイスルで亡くなった者の中でその死がいち早く広く報じられた一人であった。シルヴェスターも1988年のサンフランシスコ・プライド・パレードで車椅子に乗ったPeople With AIDSのグループを率いるなど、その危機と向き合った。「彼はまだ死ぬ前から自分の人生を祝うことを許してくれていました。そんな誠実さを持ったスターを私は他に知りません」と、小説家のアーミステッド・モーピンは後に振り返っている。