<Pitchfork Sunday Review和訳>Sylvester: Step II
1986年の大晦日、シルヴェスターは「The Late Show With Joan Rivers」にそびえ立つように高く、オレンジのシャーベット用な色をしたウィッグに、装飾が施されたパンツスーツという姿で登場した。彼の出世作となったシングル、ミラーボール・ディスコ・ヒット曲 “You Make Me Feel (Mighty Real)” 、ひいては1978年の『Step II』からほとんど十年が経ち、両性具有的な魅力を持つことで有名なこのサンフランシスコ出身のシンガーはリヴァーズと密な信頼関係を築き上げていた:その世界的流行が国民の注意を集める前から行っていたAIDS支援の興行で舞台を共にもしていた。その会話は次第にお決まりの冷やかしへと着地していった:リヴァーズが訊く、「あなたがドラァグ・クイーンになりたいって言い出した時、家族はなんて言ったの?」
「私はドラァグ・クイーンなんかじゃない!」とそのシンガーはゲラゲラと笑い、その真っ赤なたてがみを揺らす。「私はシルヴェスター」。
簡潔でそっけないその返答は、彼が思い描いていたディスコのスターの姿のスナップショットであった。シルヴェスターという言葉でしか語れない、一つの言葉でくくられるようなものではない唯一無二の才能。その存在は、世界がそれに対して準備ができるずっと前からスターダムに輝く宿命にあった。彼はゴスペル、ファンク、ディスコを混合して、キラキラと光る、忘れがたい印象を70年代と80年代に付け加えた。そしてその間じゅうずっと、シルヴェスターは断固として自分自身で有り続けた。彼にまつわる属性は事あるごとに周縁化されてきたがーーブラックで、ゲイで、フェミニンであることーーその属性こそが彼を疑いようのないほどのスターに仕立て上げたのだ。
シルヴェスター・ジェームズという名でロサンゼルスのサウス・セントラルに生まれた彼は、彼を溺愛する祖母とペンテコステ派教会の聖歌隊によって幼少期の音楽教育を施された。そこで彼はアレサ・フランクリンの歌唱法を学び、その羽毛のように軽く、無比の美しさを誇るファルセットを磨いたのであった。シルヴェスターは10代の頃にDisquotaysという名前のドラァグ・クイーン集団の仲間入りを果たし、クルーのウィッグや衣装を直しながら、ドラァグか禁止されていたカリフォルニアの法律から隠れながら夜な夜なパーティを渡り歩いた。彼は1970年になると地元を離れサンフランシスコへと移る。シルヴェスターはそのクィアで流浪の、カストロ通りの坩堝の中でパフォーマンスを始めたのだった。
シルヴェスターはサンフランシスコで頭角を現し、その性的開放感からサンフランシスコはすぐに彼にとっての第二の故郷となった:彼を取り入れることは他の街には出来なかっただろう。彼は異端のドラァグ集団=The Cockettesに加わり彼らにゴスペルを教えたが、反対に彼らのタガの外れたスケッチ・コメディーと衝突することもあった。しかし彼とそのグループの存在ーー特に彼の舞い上がるようなソローーによってすぐさま、シルヴェスターはアンダーグラウンドのセンセーションとなった。1972年、デヴィッド・ボウイがサンフランシスコでの初めてのショウを完売させることが出来なかったことがあった。彼は記者に対し「ここの人たちは私を必要としていないんだ。だってシルヴェスターがいるからね」と語った。
種は植えられた。シルヴェスターはThe Cockettesにおいて当初請け負っていた、祖母からの影響であるジャズとソウルを基調としたペルソナ=ルビー・ブルーとしてソロ活動を始める。彼はチャイナタウンのThe Rickshaw LoungeでMa RaineyやBessie Smith、Lena Horneといった先人たちのスタンダードを披露していた。シルヴェスターの言葉を借りれば、ルビーが出現したのは「その不思議、その自由、その魅惑」を宿すためだった。ソウルやスピリチュアルの伝統、そして気の向くままに異なる女性的なヴォーカル・スタイルを試すことのできるハイ・テノールと共に、ここにシルヴェスターの音楽の源流が誕生した。
シルヴェスターのジェンダー・アイデンティティはわざと不可解なままとされていた。彼の衣装は極端なフェミニン性を打ち出したものの間で揺れ動き、ピカピカ光るチュチュとふわふわのウィッグを付けていたが、舞台を降りると飾らないものを着ていた。シルヴェスターはレザーパンツや短く借り揃えた髪といった「男っぽい」シンボルを身につけることにも同等の心地よさを感じていた:常に彼の中にはこの二面性が宿っていたのである。彼はステージ上での性アイデンティティについては考えたことがないと主張し、彼のアイドルであるジョセフィーヌ・ベイカーからのアドバイスを引用した。「あなたがステージ上で作り出すイリュージョンは“すべて”である」と。シルヴェスターはいかなる機会においても類型化されることを拒み、作品で聴かれるようなクールさ持ってそのまま彼を同定しようとするような質問に肩をすくめてきた。彼は1978年、詮索好きなレポーターを以下のように切り捨てた。「いいかい?ゲイであるということは、ストレートの人たち以外にはなんの意味もないんだよ」。
シルヴェスターがサンフランシスコのレーベル、Blue Thumbと契約し、自分の作品を製作しようと考え始めるころになっても、彼はまだ自分の立ち位置を決めかねていた。彼がシルヴェスターとしてThe Hot Bandと演奏していたロック・ファンクとでもいうべき音楽は、チャートや彼の行きつけのゲイ・クラブを席巻していたようなシンセがたっぷり聞いた形式的なディスコとは全然違うものだった。シルヴェスターはせいぜいカジュアルなディスコ音楽のファンであって、彼がそのヴィジョンに傾倒するようになるのはベテラン・プロデューサー=ハーヴィー・フーカのつてでジャズ系のレーベル=Fantasyと契約してからのことだった。シルヴェスターは1977年の夏にソウルフルなセルフタイトル作をリリースし、その翌年にキラキラと光る『Step II』をリリースした。この作品こそが、彼のもっとも的確で目映い作品であり続けている。
アルバム冒頭のワンツー・パンチ、“You Make Me Feel (Mighty Real)” と “Dance (Dicso Heat)” は共にシルヴェスターの音楽的天才さを誇示しているが、前者は彼の王冠に埋め込まれた宝石となった。ギタリストのジェイムス・“ティップ”・ウィリック率いるバンドと共に、このシンガーはこの曲を伝統的なバラードを念頭に置いて即席の歌詞を書いた。しかし、友人でありジョルジオ・モロダーやヨーロッパのエキセントリックなダンス・ミュージックに心酔していたプロデューサーであるパトリック・カウリーがこの曲にシンセサイザーを用いたディスコの鼓動を吹き込むと、その編曲によってこの曲は全く違うものへと変形した(「ピッタリのタイミングにいてくれたことに、一箇感謝と愛を感じています」とシルヴェスターは『Step II』のライナーノーツで謝辞を述べている)。“You Make Me Feel” はちょうど1年前にリリースされていたドナ・サマーの “I Feel Love” と同じスペース・エイジのDNAを持っていて、サマーのか細い声がシルヴェスターによる、当時のサンフランシスコの描写に取って代わられただけであった。「踊って、汗を書いて、車を流して、家に帰って、それを続けること、そしてそれを人がどう感じているのか」と彼は楽曲の内容を説明している。彼のファルセットは強烈なブレスのコントロールともつれ合い、やがて快楽の頂点に達したかのようなコーラスで叫び声を上げる。喉を前回にしたペンテコステ派の精神は一瞬でその場を沸かせるディスコの才能へと相成ったのである。
シルヴェスターは「この世には十分な子供がいるのと同じく、十分なラヴ・ソングが既に存在している」と信じていたが、『Step II』は情熱で満ち溢れている。シルヴェスターはバート・バカラックとハル・デヴィッドによる揺れるようなナンバー “I Took My Strength From You” をカヴァーし、自身のヴォーカルを蜘蛛の糸のように細く引き伸ばしこの曲を純粋な祈りの歌へと変えてしまっている。“Was It Something That I Said” はフーカと共作した転がるようなR&Bソングはシルヴェスターの愛するバックアップ・シンガー、マーサ・ウォッシュとイゾーラ・アームステッド(またの名をTwo Tons o' Fun、後にThe Weather Girlsを結成)の掛け合いから始まる。2人はクスクスと話す。「ねえねえ、あの話聞いた?」「え、何?シルヴェスターが破局したの?」彼は電話番号が書かれた手紙を受け取り、かけてみるとつながらなかったという思い出を語る。その悲しみはファンキーな鍵盤、ホーンのリック、そしてスポークン・ワードのブリッジで紡がれるミニチュアの悲劇として昇華されている。
『Step II』と “You Make Me Feel (Mighty Real)” によってシルヴェスターは世界的な大成功を収めた。アルバムはゴールド認定され(『Step II』のラベルが貼られたワイン・ボトルで祝福された)、シルヴェスターはテレビに多く出演し、その図々しいパフォーマンスを全国のオーディエンスにお届けした。彼はThe Commodores、The O'Jays、Chaka Khanといったアーティストの前座を務め、ヨーロッパをツアーで回り、海外のファンをビートルズ風の熱狂に陥れた。実質的に、シルヴェスターのスターダムの夢は一夜にして現実のものと成り、そこにたどり着くにあたって彼は自分のどの部分も切り捨てることはなかった。
シルヴェスターは1979年の3月11日に “The keys to San Francisco” を授与され、2018年には “You Make Me Feel” が全米議会図書館に所蔵されることとなり、シルヴェスターのアメリカ文化全般に対するインパクトが公的に認められることになった。どんなゲイ・クラブやプライド・イヴェントに行けばそのうち “You Make Me Feel” がスピーカーから鳴り響き、全員をダンスフロアに送り込んで饗宴が始まるだろう。バラード・ヴァージョンの名残は『Step II』の途中で再演されているが、サンフランシスコのWar Memorial Opera Houseで録音された1979年のライヴ・アルバム『Living Proof』での天にも登るようなゴスペル・ヴァージョンを聴けば、どんな形で演奏されようともこの曲が神聖な力を持っていることがわかるだろう。シルヴェスターは推進力のあるビートから出発し、クワイアに支えられたゆっくりとしたインタールードへ移行し、聞き手を吹き飛ばしてしまうほどの、天界のものとも思えるような高音域へと登っていく。
シルヴェスターは1988年に41歳の若さでAIDSで亡くなったが、それは彼の長年の夫、建築家のリック・クランマーが同じ死因でなくなってから1年後だった。カウリーも1982年にAIDSで亡くなっていて、それは2人がなめらかなハイエナジー疾風 “Do You Wanna Funk?” を録音したのと同じ年だった。カウリーはこのウイスルで亡くなった者の中でその死がいち早く広く報じられた一人であった。シルヴェスターも1988年のサンフランシスコ・プライド・パレードで車椅子に乗ったPeople With AIDSのグループを率いるなど、その危機と向き合った。「彼はまだ死ぬ前から自分の人生を祝うことを許してくれていました。そんな誠実さを持ったスターを私は他に知りません」と、小説家のアーミステッド・モーピンは後に振り返っている。
AIDSが我々のクィアの先人たちに課した犠牲は誇張しすぎることはないのだが、シルヴェスターを失ったことはその中でも特に我々の心に重くのしかかった。彼はよく、早い時期退職くらいのお金を稼いで、どこかの田舎に引っ越して、残りの人生は何もせずに過ごしたい、と語っていた。20年以上の美しさと成功にもかかわらず、そのような将来が手に入らなかったことはシルヴェスターを深く傷つけた。『Step II』が発表される年、彼はこう語っていた。「私はそれほど多くを望みません。ただ、素晴らしい時間を過ごせれば。ごく普通の感情の持ち主ですが、そのどれよりも興奮への欲求が少しだけ勝っているのです。私は私ですし、私がやりたいことをやります。私は自分が誰なのかわかっているし、自分の感じたままに生きているのです」。彼の類まれなスタイルと果てしない想像を通して、シルヴェスターは私達の中、彼と同じ生き方をする人たちのための道を惜しみなく切り開いてくれたのだ。
BY: ERIC TORRES
FEBRUARY 7 2021