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<Pitchfork Sunday Review和訳>A.R. Kane “69”

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Rough Trade / 1988

 1985年のある晩、The Cocteau Twinsが珍しくテレビに出演した。橙色の輝きに包まれながら、その年に発表された『Tiny Dynamine EP』に収録された “Pink Orange Red” を演奏していた彼らはどこか別の世界の住人のようなオーラを放出していた。その演奏のさなか、アレックス・アユリとルディ・タンバラはロンドンでそれぞれテレビの前にかじりついていた。そのセクションが終わると、この演奏にやられてしまったこの親しい友人2人はすぐさまお互いに電話をかけた。2人はこの音楽に夢中になった。特にロビン・ガーシーの旋回するようなギターと、ドラマーの代わりにテープ・マシンを使っていることについて。しかしこの二人が最も刺激されていたのは、The Cocteau Twinsが何を象徴しているかということについてだった:それは、際限ない創作の自由だった。その後すぐにタンバラとアユリはエレキ・ギター、ドラム・マシン、そしていくつかのエフェクターを購入し実験を始めた。ミュージシャンになるには高額な機材と形式ばった訓練が必要だという幻想は崩れ去ったのだ。

伝えられるところによれば、その後のパーティーの席で、タンバラはどうやって彼と、当時高名だった広告代理店=Saatchi & Saathchiでコピーライターをやっていたアユリが出会ったのかと訊かれたのだという。少しハイになっていたのであろうタンバラは冗談めかしてこう言った。「あいつとは一緒のバンドをやっていたんだ。ちょっとVelvet Undergroundっぽくて、そしてちょっとCocteau Twinsっぽくて、あとマイルス・デイヴィスとかジョニ・ミッチェルみたいな感じの」。彼が説明するには、そのバンドの名前も同じようにいろんな影響源から取られたものだったそうだ。「A.R.」の部分は二人のイニシャルから、そして「Kane」の部分は『市民ケーン』と、ヘルマン・ヘッセの小説『デミアン』の中で描写されている「カイン」から取っているそうだ。しかしそれを超えに出して読んでみると一つの単語が生まれる:「arcane(=神秘的な)」。

タンバラの半分作り話はその後雪だるま式に膨らんでいき、A.R. Kaneはロンドンのレーベル=One Little Independent(前・One Little Indian)と契約するに至る。彼らのファースト・シングルは密かに世に放たれることはなかった。その鮮烈なタイトルーー“You Push a Knife Into My Womb (When You're Sad)”ーーは検閲に引っかかりカッコ内のみが残された。その金切り声のようなギターのフィードバック・ノイズとシンプルなドラムのビート、そして気絶させるかのようなガール・グループのハーモニーによって、“When You're Sad” は前年に傑作『Psychocandy』を発表していたThe Jesus and Mary Chainと比較された。A.R. Kaneがリード兄弟のノイズ・ロックに直接的な家教を受けたかどうかに関わらず、彼らはそのサウンドにそれ以上固執しようとは思っていなかった。彼らは『Melody Maker』誌のサイモン・レイノルズに対し、こう語っている。「僕たちはこういったヨタヨタ歩きのバンドたちに感銘を受けたとは言えない。そのヨタヨタ歩きのサウンドはなんだか飾りのように感じるんだ」。そのシングルのめまいのするようなB面曲 “Haunting” でほのめかされていたように、A.R. Kaneはずっと広大なものを求めていたのだ。

タンバラとアユリはその以前10年ほどかけて、2人が共に作り上げる音楽を直接形付けるような、2人の間で共有された語彙を作り上げてきた。小学校の頃からの友人である2人は、共に移民の子供であった。アユリの家族はナイジェリアから移住してきた家族で、タンバラの父親はマラウイ出身だった。イースト・ロンドンのストラットフォードで育った2人は「ずっとよそ者だった」が「俺たちが支配者だ、というアフリカ由来の自信と尊大さを滲み出していた」とタンバラは後に述懐している。10代の頃、アユリはダブ・ミュージックに傾倒しタンバラはソウルやジャズ・ファンクに夢中になっていたが、2人はロンドンで生まれていたハウスやポスト・パンク、ヒップホップと言ったすべてのサウンドを吸収していた。

後にジャーナリストたちがA.R. Kaneに影響源を訊いたとき、彼らは決して『NME』誌の表紙を飾るようなバンドを答えなかった。その代わりに彼らはフュージョン・ロック・バンドのWeather Reportやブラジルの3人組Azymuth、ダブ・パンクのBasement 5やミスター・フィードバックその人=Jimi Hendrixの名前を挙げた。だが、一つの特定のインスピレーションの名前を挙げ続けた。「僕らが聴いていたのはマイルス・デイヴィスだけだった」とアユリはと答えている。「僕たちはジャズ・ミュージシャンではないけれど、ジャズっぽいアティテュードを持っていると思うよ」と。アユリとタンバラは導管のように、世界を自分たちの方法で吸収し、濾過し、再解釈していたのだ。

1987年、A.R. Kaneは4ADへと移籍した。当時、Pixies、This Mortal Coil、そして彼らが愛するCocteau Twinsなど、野心的なグループが多く所属していたレーベルだ。ガーシーとともに彼らは『Lollita EP』を作り上げたが、そこに収められた楽曲はついに取り憑かれたようなサイケデリアへと足を踏み入れていた。“Sad-Masochism Is a Must” といった楽曲のタイトルや、裸の女性が背後にナイフを隠し持っている、ファッション系の写真家ジョエルゲン・テラーによるアートワークなど、このEPは臆面もなく性愛や狂気、暴力をファンタジーとして描いていた。“Butterfly Collector” の終盤ではすり減らすようなシューゲイズのカクテルが榴散弾として破裂する。ライヴではそのフィードバックの轟音が観客を出口へと小走りにさせたという。

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4ADと契約した一方、A.R. Kaneはレーベル・メイトのColourboxと組んでM|A|R|R|Sという変名で活動を始める。この2組はすぐに方向性の違いに陥り、結局、一枚の両A面シングルとかすかな異花受粉の兆しだけを残して解散した。Colourboxのサンプルを多く用いたアシッド・ハウス “Pump Up the Volume” はこっそりとアユリとタンバラのギターをフィーチャーし、A.R. Kaneによる “Anitina” にはColourboxによるドラム・プログラミングが収められていた。関係者の誰もが予想していなかったことに、“Pump Up the Volume” はUKチャートのトップに急上昇し、4AD初となるNo. 1ヒットとなった。

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A.R. Kaneがデビュー作『69』の制作を行ったのは、この奇妙で予想だにしなかった成功の直後のことであった。Rough Tradeと契約を結び、アユリとタンバラは、今回の制作ではガーシーのようなプロデューサーと一緒に作業をしていたプロフェッショナルなスタジオを使わないことを決断した。その代わり、二人はアユリの母親宅の地下に空間を作り、あらかじめ決められたシステムに合わせて自分たちの野望を調整するのではなく、自分たちの手で一から遊び場を構築することにしたのだ。自分たちの機材と、プロデューサーのレイ・シュールマンの時おりの援助によってA.R. Kaneは自分たちの自由を全うした。

二人は自分たちの音楽をぼんやりと説明するために新たな言葉を生み出した:ドリーム・ポップだ。二人が『69』のリリース時に発表した文章によると、「ドリーム・ポップとは、我々が考える純粋なフック、純粋なポップ・チューンに少し激しいメロディの伴奏をつけたものである」と説明されている。二人は夢見ることが作品にとって「必要不可欠である」という点で同意していた。そして二人が目指したのはそのような夢心地のような感覚がいとも簡単に悪夢的になってしまうということを提示することだった。バンドが用いているテープ・エコーは、このセルフ・プロデュースによる『69』の楽曲をちょうど手の届かないところへ運んでいく。それは、見ていた夢の最後の一片がすり抜けていく前に懸命に手繰り寄せようとする感覚に近い。リー・”スクラッチ”・ペリーキング・タビーといったダブの先駆者たちに倣い、二人は機材の論理的な限界を疑い、すべてのアイデアを折り曲げ、サンプルし、操作し、引き延ばし、フィルターをかけ、ディストーションをかけ、逆再生した。二人はこれらのパーツを組み合わせ、複雑に絡み合った直観にすべてを託し――二人は陰と陽、つまり6と9のように対をなす存在だった――曲が立ち現れてくるまで徹底的に脂肪分をそぎ落とした。

A.R. Kaneはノイズの持つ快楽的なポテンシャルに気が付いていた。ギターの音をどんどんと上げていって個々の要素を一つの空虚なサウンドへと溶け合わせたとき、何か新しい扉が開くかもしれない。「僕たちの音楽を、スピーカーからリスナーに向けて飛び出す奔流のようなものにしたかったんだ。その量が多すぎて、とてもじゃないけど精神が追い付かないくらいのね」とタンバラはレイノルズに語っている。「赤ちゃんがガラガラヘビを初めて見るときのような、全く予想もしていないようなものにしたかった」と。それこそがまさに ”Baby Milk Snatcher” の聴取体験そのものである。そのタイトルはオーラル・セックス、授乳、そしてマーガレット・サッチャーの暗喩となっている。グリッチーなトリップ・ホップ、昏睡作用のあるサイケデリア、そして肉体的なポスト・パンクのような趣があるこの曲はワクワクするほど無秩序なのだ。

『69』はつかみどころのない作品だ。ドリーム・ポップであるということは自然とそれについて語る言葉も夢心地になってしまう。ぎょっとするような不協和音の ”Crazy Blue”、”Suicide Kiss” で幕を開けたのち、このアルバムは遠く離れた、無気力な洞窟のようなサウンドの ”Scab” ”Sulliday” に向かって降下していく。この最後の2曲は、温度を発しているのが二人の人間の肉体だけであるような地下室で録音したのがよくわかるようなサウンドになっている。その一方で、”Dizzy” はアーサー・ラッセル風の優雅なチェロのメロディと、排水溝に吸い込まれていく悪霊の最後の咆哮のような、遠くから聞こえてくるような叫び声が対置されている。

”Spermwhale Trip Over” のような曲では、そのトリッピーな雰囲気が中央のヴァースで分かりやすく要約されている。「これが僕のLSDで見る夢/すべては見た目通り」。その間、かすかなグルーヴが水面下の洞窟をダイバーに案内するためのガイドラインのような役割を果たしている。アルバム後半の驚異的なハイライト ”The Sun Falls Into the Sea"は全く別の惑星から来たかのようだ。「私たちにとっての熱意とは、みんなが僕たちの音楽がサウンドトラックとなるような夢を見てくれることだ」とアユリは1987年、レイノルズに語っている。夢とは新たな現実の際限のない領域であり、『69』はその熱意、欠点への愛着、そして暗闇も喜びも包み込むことができる能力とともに、その領域すべてをとらえることを目標としていた。

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2020年の夏、制度的レイシズムに対する抗議が全米で沸き起こる中、「シューゲイズにおける黒人の影響を検証する」と題されたインフォグラフィックがインスタグラムのフィードに出現し、A.R. Kaneはその中で、これまでその功績をほぼ白人男性(と柳のように細い白人女性の後知恵)が独占してきたこのサウンドのパイオニアであると主張されていた。A.R. Kaneの音楽はシューゲイズの範疇を超えて広がっていったし、彼らは自分たちのことを「インディー」バンドだと思ったことはないだろうが、この主張は的を得ている。A.R. Kaneは独自の道を切り開き、そのレガシーはVeldt、SlowdiveFlying Saucer Attackといったグループの中に聴いてとることができる。A.R. Kaneの二人は活動中、自分の人種的アイデンティティや、インディー・シーンから疎外されていると思っている人たちの首長としての役割について深く語ることはなかった(公平を期するために言うと、二人はこの問題に限らず大体のことについてあまり語りたがらなかった)。しかし、アユリは1999年のインタヴューの中でこう語っている。「僕たちはアイデアの原動力だった。僕たちはステレオタイプを取り除くのに貢献していた。80年代は、黒人はソウル、レゲエ、ラップなんかをやっていて、サイケデリックなドリーム・ロックをやっている奴なんかいなかった。僕たちはもっとエクスペリメンタルなことをしたいと思っているバンドたちの扉を開いたんだ」。また、2012年には同じくタンバラも、このバンドのような存在がショッキングに感じられるかもしれないという見方に反撃している。「なんであいつらが僕たちの音楽を聴いて驚くのか理解できなかった。ロックも、ダンス・ミュージックも、フリー・ジャズも、そしてサイケデリアだって発明したのは黒人だった。少なくとも僕の母親はそう言っていたよ」。

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