海外音楽評論・論文紹介

音楽に関するレビューや学術論文の和訳、紹介をするブログです。

<Bandcamp Album of the Day>Slowthai, “TYRON”

自身のデビュー作『Nothing Great About Britain』において、ノーサンプトンのラッパー=Slowthaiはネグレクトされてきた世代の怒りを無秩序でパンクに影響されたヒップホップへと昇華させた。このアルバムはSlowthaiの貧しい労働階級の出自だけではなく、英国政府の数々の失敗とともに取りざたされることが多かった。そしてこの作品が英国の中流社会の荒涼とした描写にもかかわらず魅力的に感じられたのは、Slowthaiの狡猾でコミカルなウィットがあったからである。『TYRON』はより広く、音楽的もより野心的である――Slowthaiの精神世界へと飛び込んでいく作品だとすれば自然な成り行きであるが。

アルバムの前半は、Slowthaiに対して期待するようなノイズと騒がしさで満ち溢れている。”45 SMOKE” は前作と同じようなカリスマ的な、「手に負えない」魅力が感じられるが、『TYRON』での彼のアティテュードはより厚かましく、よりパンクになっている。歌詞は希薄であり、楽曲の焦点はSlowthaiが808の鼓動の上で鳴らす、とりとめのないディストピア的なノイズに当てられている。しかしアルバムの後半はどこか哀愁めいたムードが漂う。霧のようなアトモスフェリックな ”feel away" では、そのようなノイズは取り払われ、Slowthaiはある関係性の終わりを迎える。ゲスト・ボーカリストのJames Blakeが亡霊がとりついたようなアウトロでこう歌う。「夢よ、ここにきて僕を救ってくれ/ここにきて、僕を見て/どこへだって連れて行ってくれ、喜んでついていくから」。

『TYRON』にはこのような瞬間が多く収められ、Slowthaiは彼の歌詞の切れ味を内側に向けている。「うんざりするような、何も変わったことのない一日/俺は頭の中で死んだような気分、電子レンジに入れられたような気分/路地で「サイモン・セイ」を遊んでいた/Tyronは橋から飛び降りたぜ、お前に同じことができるか?」と彼は ”nhs" のフックで繰り返す。彼のすり減ったような、砂利っ気の多いボーカルのトーンが歌詞の生々しい感情に重みを加えている。『Nothing Great~』でのSlowthaiは社会の病理にメスを入れていたが、小作では彼は自分自身が誰なのかということと折り合いをつけようとしている。彼は皮肉屋のいたづらっこというポーズをとってはいるが、『TYRON』では地震の悪魔としっかり向き合っている。それを完全に打ち負かすことはできていないかもしれないが、アルバムの終わりでは彼は問いよりも答えを多く持っているように思える。

By Jesse Bernard · February 10, 2021

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<Bandcamp Album of the Day>The Weather Station, “Ignorance”

11年前、The Weather Stationとして初めての作品を発表してから、Tamara Lindemanは自身のサウンドの境界線を広げ続けてきた。2011年の『All of It Was Mine』のようなアルバムでは赤裸々にそぎ落とされたフォーク・ミュージックに接近し、彼女の豊かなアルト・ボイスをアコースティック・ギターのさざ波に対置させていた。それに続くアルバムでは作を追うごとにより挑戦的になり、2017年のセルフタイトル作はギターこそ前景にあるものの、そのパレットにはパーカッションやストリングス、ピアノがより充実させられていた。それでも、そのような様々な装備の中においても、初期の彼女のフォークへと辿る線を引くことはたやすいことだった。彼女が付け足していった楽器的な装飾は音楽を補完するものでこそあれ、その形を完全に変えてしまうものではなかった。

そのすべてが今作、Lindemanがこの十年間を全て捧げて制作したようにすら感じられる精力的な楽曲が並ぶ『Ignorance』では異なっている。音楽的には、強烈なムードが漂っている:”Robber” ではぼんやりとしたストリングスがギザギザとした線でこの楽曲を切り裂き、つららのようなピアノが四方八方に散らばり、その上では必死にはばたくトランぺットが鳴らされている。”Tried To Tell You” ではクラウトロック風のビートの上で、Lindemenの声が音から音へと慎重に飛び移っていく。これまでの作品とは異なり、『Ignorance』ではギターがほぼ完全に後景の位置まで後退し、完璧に構築されたアレンジメントによってピアノやフルート、オルガンといった楽器に主役を譲っている。その楽曲は中期のDestroyer、Talk Talk、そしてScott Walkerの『Climate of Hunter』を思い出させるが、これらの作品はすべて晴れやかな音楽的環境の中に存在しているが、より半直感的な側面に傾倒している作品だ。”Parking Lot” のボーカル・メロディは優しく、際立っていて、直接的であるがLindemanは脈打つようなピアノの音像を何度も何度も前景へ押し出していて、それはまるで穏やかな水面をわざと乱しているかのようだ。一聴するとこの曲は柔らかで歓迎的な雰囲気に感じられるかもしれないが、それらすべての水面下には暗闇の底流が流れているのだ。

歌詞の面においては、Lindemanはこのアルバムが気候変動によって引き起こされる大災害についてであると語っている。そのような今日的な主題は、下手な人が書けば耳障りなスローガンになってしまうこともあるが、『Ignorance』の歌詞は美しくあいまいさを保っている。「私は思った。「なんて夕焼けなの」と」とLindemanは ”Atlantic” で歌っているが、それに続くのは「血の赤が大西洋を染め上げていく」というフレーズだ。楽曲は鳥や太陽の光、山といったイメージで埋め尽くされているが、環境的なものと同じく実存的な懸念も示している問うことが容易に考えられる。ほのくらいピアノ・バラード ”Subdivisions” では、彼女は恋愛の動揺と吹雪の中の高速道路を比べ、「道路が雪で覆われている/側溝にも高く積み上げられている/私はすべての区画を理解していないかのように/運転した/横たわる氷の狭い帯/中心的な計画の消滅」と歌う。彼女の詞は『Ignorance』を通じて詩的な神秘をもって書かれていて、短い一行の中に詳細豊かなイメージを詰め込んでいる。あなたはこの『Ignorance』にひかれていくのではなく、自分自身をこの作品の中に統合していくことだろう――そうすればLindemanの広大な世界は数えきれないほどの冒険を与えてくれるだろう。

By J. Edward Keyes · February 09, 2021

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<Bandcamp Album of the Day>Maria BC, “Devil’s Rain”

Maria BCが自身のデビューEP『Devil's Rain』を録音したのは、ロックダウン中に感じたアパートでの孤独からだった。その声を優しいささやきにとどめ、甘美なギターのループと柔らかいオペラ風の音楽の上で、そして孤独な生活の制限を利用して。その結果出来上がったこのアルバムには親密な感じとともに広がりを感じる。クラシック系のボーカル・トレーニングを受けていることは明らかであるが、力強さは切り取られていて、その代わりに繊細なアルペジオ、光沢のあるハミング、そして柔らかく、はちみつのような甘い歌声など、抑制の中にそれが堂々と現れているのだ。その結果、Norah Jonesのようでもあり、Annie Lennoxのようでもあり、『X-Files』のようでもある。

『Devil's Rain』というタイトルは、天気雨は邪悪な魂のなせる業であるという言い伝えがもとになっている。その通りというべきか、Maria BCはこのような類の矛盾――雲なしで降る雨、一人での合唱、置きながらに見る夢――の中を泳いでいく。歌詞的には、このEPはロマンスと宗教の間のバランスに攻撃し、これら二つを優しい手つきで融合しこれら二つが同じスペクトラムの中に存在するということを示唆している:”The One I’ll Ask” でMariaは「あなたこそ私が自分を裁くのをお願いする存在」と優しく歌い、その力を触れることのできない精霊から恋人の手へと手渡していく。肉体的な意味、そして比喩的な意味での「触れること」が今作で繰り返し提示される主題である――タイトル曲では太陽がMariaを「抱える」し、”Adelaide” における主体は「この歯を通じて」こちらに手を差し伸べることを拒否している。『Devil's Rain』では、人間同士のつながりによってもたらされる単純な充足が超越性を獲得している。

By Arielle Gordon · February 08, 2021

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<Bandcamp Album of the Day>Tele Novella, “Merlynn Belle”

「どこへいってしまったの/その行方を誰も知らない」テキサスのサイケ・ポップ・バンド、Tele Novellaの2作目となる『Merlynn Belle』の幕開けで、Natalie Ribbonsはこう歌う。爪弾かれるフラメンコ風のギターとぜんまい仕掛けのおもちゃでえんそうされているかのようなミニマルでぐらつくパーカッションの上で口ずさむように歌う彼女の声はなめらかで情感豊か。それは、喪失の経験そのものというよりも不在という恒久的な存在と、その結果陥ってしまう簡単に抜け落ちてしまったものを取り戻そうとする妄想に関する作品である本作にうってつけである。その曲のコーラスでは「ここにとどまってくれる言葉」とも歌われている。

『Merlynn Belle』を通じて、Tele Novella(今はRibbonsとマルチ奏者のJason Chronisの二人組である)は、もう過ぎ去ってしまったものの形を想起させるために絶妙にディテールの凝った、しばしば映画的とも言えるような想像力を用いている:前は絵がかけられていた壁に残る跡、寺院が「罪人に捧げられていて/蝋燭の明かりに照らされていて」ほしいという願い、シャンデリアから振り落とされてきた水晶を晩餐で食す冷徹な女魔法使いの物語。「この目が人の顔を探しているように、心は物語を追い求めている」と、Ribbonは繊細なバロック・ポップ・バラード “One Little Pearl” で歌い、置いていかれたものを列挙することで物語の輪郭を描き出す:ボンネット帽子、日記、そして古い歯。「小さな真珠/それを牡蠣の自叙伝に添える」Ribbonはこの曲の奪われた結末に置いて、少し声を震わせながら高音域へといきなり舞い上がっていく。

空想の領域というのはTele Novellaにとって未踏のものではない。2人の2016年のデビュー作『House of Souls』はシンボリズムと輝くようなシロフォン、虹のようなシンセ、リヴァーヴが深くかかったボーカルがふんだんに用いられた、奇妙な夢の世界を旅するアトモスフェリックな作品だった。今作でも同じようにティンパニ、ベル・チャイム、そして時折聞こえるファズのかかったエレクトリック・ギターなど奇妙でレトロなサウンドは使われているが、サイケデリックな装飾が本作では優しいパステル・カラーに置き換えられている。一つ一つの楽曲が個別で制作・録音されたというが、入念に作り込まれたインストゥルメンテーションの上で亡霊のようなメロディがゆっくりと前景化していくさまを聴くと、それがこの複雑さと開放感を与えているように感じる。Tele Novellaはさらにその音の絵の具箱の中に、20世紀中盤のカントリー・ウェスタンを少しばかり加えている。それは、姿見のこちら側から壊れた夢の断片をふるいにかけるにはうってつけの愛に満ちたジャンルではあるが、また二人のタロットカードような中世的なものへの強い偏向を、馬小屋で行われるオカルトの儀式やルネッサンス・フェアーをさまようLee Hazlewoodの魂のような、気まぐれな時代錯誤へと変えてしまう要素でもある。

その気まぐれさを抜きにすれば、二人の謎めいたワゴンを意図的により三次元世界へと近づけることによって、Tele Novellaの音楽は、特に感情のひび割れをこちらに見せてくる時などには、心が引き裂けるほどの優しさを持ちうるような人間的な優雅さを獲得している。松明のような ”Desiree” では、RibbonsはFrançoise Hardyの煙たい亡霊を呼び出し、漠然と告白を始める。「私はまだ、それが自分であると信じている/あなたは生きていくために私の元へ戻ってくると/だから何年もドアに鍵は閉めていない」と。その1曲後には彼女は悲しみが結晶化したような泣き声を解き放つ。それはこのバンドの本拠地であるテキサス州の小さな町の荒涼とした丘に響き渡るかのようである。この作品の最後にとどめられた言葉は、魔法は自分の欲望を結晶やろうそくでこの世界に押し付けるものでなくてもいいということを明らかにしてくれる。だって、自分のこのちっぽけな心の回復ほど魔法のような出来事なんてこの世界にないのだから。

By Mariana Timony · February 05, 2021

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<Bandcamp Album of the Day>Star Lovers, “Boafo Ne Nyame”

1987年、シンガーのK. Aduseiとやがて有名なレコード・プロデューサーとなるFrimpong Mansoは、多くの偉大なハイライフ・ミュージシャンがスターダムへの階段を駆け上がったAccraの音楽スタジオで出会った。その2人は共に、ガーナで最も広範なハイライフのアルバムの一つである『Boafo Ne Nyame』を作り上げることになる。この作品は植民地支配時代以前の伝統的なスタイルと、アフリカ大陸を飲み込んでいったファンク、ポップ、レゲエ、そしてシンセの影響を統合したノスタルジックな作品だった。ハイライフという名前の由来は植民地支配期にその音楽がガーナのエリート階級のために演奏されたからである。高級ジャズ・クラブでこのアフリカと西洋の折衷的な音楽を聞くためにはフォーマルな格好をすることが求められたのである。その後1957年にガーナが独立すると、この音楽はセプレワなどの伝統的弦楽器の代わりにギターを用いてガーナ的なサウンドを作り出そうとする「ギター・バンド・スタイル」によって大衆のものとして再生した。『Boafo Ne Nyame』において、K. Aduseiはハイライフのリスナーが好む3つのトピック、つまり信仰と家族、そしてお金についての機知に富んでいて哀愁のある歌詞と共にそのサウンドを体現している。

タイトル曲である “Boafo Ne Nyame”(“God is a Helper” の意)は、人間の破壊的な行動に対して神の介入を願うスロウなレゲエ〜ファンク〜ゴスペル・バラードである。Aduseiのくだけた口調で歌うスタイルの中で、彼は「お金がこの手に落ちてきたかと思えばそれは燃えてしまって、私は神にこの私を追いかけてくる炎を消してくれとお願いするのです」と叫ぶ。ドラム、シンセ、ギターの弦による鼓舞するようなビートは、彼の歌詞の中の自暴自棄な雰囲気と比べるとユーモラスである。“Asem De Ye So” (“Our Problems Are On Us” の意)はファンクやソウルに深くルーツを持つ(ギターリフにその影響を聞いて取ることができる)、速いペースのダンス・ジャムであり、そこにディスコ的なテーマやハイトーンでメロディックなバッキング・ボーカルが乗っかる。冒頭の2音のドラムのフィルに続いてエレクトリック・ギターのメロディックな2フィンガー・ピッキングの音色は、アフロ・ヘアーとベルボトムで溢れかえっていた当時のダンスフロアを沸かしたであろうということを容易に想像させる。8分間のこの楽曲はこのアルバムの中で最も長く、最もアップビートな楽曲である。

ボーナス・トラックの一つ “Abusua”(“Family” の意)では、Aduseiは少しばかりのポップさと共にファンクとソウルを再び持ち出している。Asieduは歌う、「お金を持っていればいるほど、家の中から多くの家族が出てくるようになる」と。これがハイライフの美しさである:ファンキーなリズムと面白おかしい歌詞が社会の姿を映し出し、もっと良くなろうという気持ちにさせてくれるのである。

By Ama Adi-Dako · February 04, 2021

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<Pitchfork Sunday Review和訳>Devin the Dude: Just Tryin’ Ta Live

 

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Rap-A-Lot / 2002

Devin Copelandはラップよりもブレイクダンスに熱中していた。テキサスを渡り歩いていた1980年代中盤、彼は目に入ったダンス・クルーであればどのクルーとでも繋がりを持つことが出来た。ありのままの彼自身でいることは、彼が思いつくようなどんな誇大なペルソナにも勝るものであった。彼は落ち着き払った、愛すべきならず者であったが、ヒューストンの友人たちが知っているところのこのDevinはScarfaceの “Hand of the Dead Body” のミュージック・ビデオによって全米に紹介される人間とは異なっていた。そこに映っているDevinは、ScarfaceとIce Cubeを擁護するプロテストが一帯で起こっている中、卑劣な強盗としてパトカーの横に立っている。これがDevin The Dudeが今後7年間の間で最もシリアスになっている瞬間である。

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Devinは常に「the dude(=やつ)」だった。カラフルなキャラクターが多く在籍したRap-A-Lot Recordsの長い歴史の中で、ヒップホップにおける理想的なスター像に決してフィットすることのない、ただのキャスト・メンバーであった。彼はScarfaceのような謎めいた雰囲気も、Bushwick Billのような爆発的なステージ上の人格も、Big Mikeのようなブラント裁きも持ち合わせていなかった。彼と彼のグループであるOdd SquadーーJugg Mugと盲目のラッパー、DJ Rob Questが参加した、不適合者たちが親友と鳴って結成されたパンピー3人組ーーはRap-A-Lotのすべての伝統的論理を拒み、挑戦した。彼らは面白おかしいクラスのお調子者で、サンプルやインストゥルメンタルをいじくり回して愉快な唯一のアルバム、『Fadanuf Fa Erybody』(1994)を発表した。The Odd Squadのサウンドはヒューストンのざらついた雰囲気に接近することはなく、代わりにMilt JacksonやThe Crusaders、The Five Stairstepsの知る人ぞ知るサンプルを用いていた。東海岸のブーン・バップのようでもあり、セックス(“Your Pussy's Like Dope”)やウィード(“Rev. Puff”)についてのジュヴナイル・ラップでもあった。アルバムは大失敗に終わり、Rap-A-Lotはその後、Scarfaceの『The Diary』に全リソースを注入していくことになる。Odd Squadの2作目の夢がレーベルによって立ち消えさせられると、Devinは自分の力だけで十分だと決心するに至ったのである。

わざとらしく、絶妙に名付けられたDevin the Dudeのセカンド・ソロ・アルバム『Just Tryin' Ta Live』発表への道のりは、まるで彼がスターダムへの準備をしているかのようだった。Scarfaceが1998年に発表し、やがてカルト・クラシックとなっていく『My Homies』に収められたセックス・アンセムである “Fuck Faces” のコーラスに参加し、その一年後にはDr. Dreの弟子であるMel-Manと一緒になったライブでDevinを見かけたDreが、爆発的ヒットを収めたアルバム『2001』の “Fuck You” に参加してくれと声をかけた。ストーナー・コメディのサウンドトラックに引っ張りだこだったヒューストンで人気のウィード・ヘッドは、いきなり街の外側でも知られるようになったのだ。彼は2017年Noiseyの取材に対し、「自分のことをスターだと思ったことはなかった。みんなと一緒だと思ってたし、女をゲットできないときだってあった」と語っている。

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Devinのデビュー作『The Dude』(1998)は『Fadanuf』のひょうきんな雰囲気を、ScarfaceやOdd Squadその他のヴァースでくるんでパッケージしたものだった。作品にな “Fuck Faces” でDevinをスターに仕立て上げたような、粗野でセクシュアルなユーモアをすべて持ち合わせていたが、アルバムが進むにつれて平らにならされてしまっていた。Devinはこの『Just Tryin' Ta Live』でユーモアよりも音楽に重きを置こうと考えていたようで、2002年のMTVとのインタビューの中でアルバムにはもっと「シリアスなリフ」が含まれていることをほのめかせていた。Devinのサウンドの世界観――グリーンで、靄がかっていてファンキーな――には、よりディープな意味を含むスペースも持ち合わせていた。

そしてよりシリアスになろうとする試みの中で、Devin the Dudeは彼の隠された力をアンロックした:ヒューストンの同期たちのだれよりもリアリスティックな瞬間を作り上げる力だ。『Just Tryin' Ta Live』は聞いているあなたがDevinのようになりたいと切望する必要すらない種類のラップ・アルバムである――だって彼はハイになっていて、魅力的な存在ではないからだ。これは穀つぶしによる60分間に及ぶ音楽作品で、ナレーターは日がわりでだれが務めたっていい。チャーミングさと自信によって、Devinはくそみたいな車を持つことですら肯定してくれるのだ――車を持っていさえいれば、その時点で勝ちだ。ほかのヒューストンのラッパーたちはマフィオーソのファンタジーに耽溺し、資本主義的なフレックスに終始していた。Devinが生きる世界は過酷なものだったが、それでも彼はそれをのんきにやり過ごしていたのだ。

アルバムの最初では、『Just Tryin' Ta Live』はDevinの将来のすーたースターというステータスと、彼の親しみやすい怠け者という性格のバランスを取ろうと試みている。そこでは世界で一番、ましてや近所で一番のラッパーになることよりも「ハッパとビール」で頭がいっぱいな男、というDevinの平平凡凡な青年というペルソナが磨き上げられ、拡張されていた。そのことを作品にしたり、そういうアプローチをとることのできるアーティストは限られていた中で、Devinはアルバムを丸々一枚使ってそれに取り組んだのである。1曲目の “Zeldar” は空間と時間を超えて旅をするエイリアンが、ウィードを吸って不安を解消しながら浮浪人であり続けるさまを想像している。「フッドに入れば/歓迎はされるが全然平気じゃいられない/いろんな肌の色が様々、俺のことを変人のように見てくるんだ」。Devinが楽しみを振りまく中、その周りをプロデューサー=Domoのピアノとカートゥーンサウンドエフェクトが飛び交う。「俺の名前はZeldar、買い物はWalmartに行く」。

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彼は名声の持つ高みに憧れているかも知れないが、平凡な生活にも楽しみを見出している。ゆったりとしたテンポのファンク・オデッセイ “Lacville '79” は、Devinが近所のゴシップを小耳に挟みつつ、彼の愛らしいオンボロ車のせいで疎まれるという展開を見せる。1979年式キャデラック・セヴィルという彼にとっての外世界への出入り口がある限り、彼は頑張ることができるーーたとえ汚い警官が彼のダッシュの下の隠し場所をしっていたとしても、通行人がそのボロボロの車をジロジロと見てきたとしても。“Go Somewhere” で、彼は自分がDr. Dreのアルバムに参加している人間であるにも関わらずクラブのエントランスで止められて中に入れさせてもらえなかった夜のことを酔っ払いながら愚痴る。「ドアのバウンサーは俺が入るために嘘をついていると思ったのさ」とラップし、やがて「お前がラッパーなわけない、だってゴールド・チェーンやダイアモンドはどこなのさ?」と詰め寄られる。

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『Just Tryin' Ta Live』が外部の視点を取り入れようとする瞬間は、中途半端で自虐的なラップと比べてより耳障りなものだ。“Some of 'Em” では、Xzibitが特定の名前を挙げずに敵を攻撃し、Nasは3人の有名なMikeーーJordan、Jackson、そしてTyosnーーに対するメディアの詮索やレイシズムを糾弾する。そのような野心がDevinには欠けている。彼の世界観は自分の生存を中心に形成されている。彼の世界の主人公は、ただそれが楽しい仕事だからラップが好きなのである:吸って、ヤッて、飲むこと。ときに彼はその3つすべてを遂行することに成功した。

Devinは自身を、何にも繋がれていないフリー・セックスを愛する罪人、一つのものにずっとコミットすることのない放浪者として描いている。しかしそれがパーティー・アンセムのように聞こえないのは、その直ぐそばにリッチであることと貧乏であること、そして幸せの媒介物を探し求める彼のリアルタイムな苦しみがあるからだ。これらのすべてが表現されているのがアルバムの象徴的な瞬間、DJ Premierがプロデュースした “Doobie Ashtray” だ。彼のトレードマークであるスクラッチ、眠たいギターの音色、そして深海のようなベースラインの中で、Preemoは子供時代を過ごしたテキサスのルーツを使って、Devinと一緒にモダン・ブルースを奏でている。「リッチなやつは一気に全てを失って、どこにも行き場がないように感じることがある」Devinは2002年、MTVにそう語っている。「でもそれほど多くを持っていないやつは、一本のジョイントを失っただけで自分が取り残されたかのように感じるかも知れない。この曲はその事跡どう向き合うかということを問うているんだ。お前の次のステップはなんだ?って」紛うことなきストーナー・クラシックである “Doobie Ashtray” は、Devinの哲学の中心にある問いを投げかけている:Are you more with less or less with more?

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平凡な人間としてのラップスターになりたいというDevinの欲求はScarfaceに由来する。Odd Squadの唯一のアルバム『Fadanuf Fa Erybdody』をオールタイム・フェイヴァレットに挙げてくれる彼の存在なくしては、Devin the Dudeのソロ作は生まれなかった。それこそがこの二人の男の物語ーー一人はこの世界に引力と裏切りを見て、もうひとりはそれによってだめになった者を見て、その消耗を望まなかったーーが絡み合っている理由である。それがヒューストン・ラップの<道>である:社会の闇を歌い、それが自分にどう影響しているかを語りたがる頑固なラッパーもいれば、ただその社会の内部で生きて満足したいと思う者もいるのである。

ウィードの霧の中で一匹狼として生きる諦められた日々の楽観主義はタイトル曲と最後の曲で急に終りを迎える。膨れ上がったギターとドラムの上で、Devinはその安全地帯から飛び出してたいという欲求をラップし、最後になってまた態度を和らげる。「俺はただ、ヒットを飛ばして生活ができればいいと思って書いていたんだ/でもそれを嫌がるやつもいた」と彼は振り返る。「でも…そんなことはマジで関係ねえ」。これは映画のクライマックスであり、誰にも邪魔されず悪癖の中で人生を楽しむことを心情としていたDevinはそのプレッシャーに潰されることを拒むのだ。彼は決心する。自分自身でいることで、誰かになろうとするよりももっとクリアな状態になれるのだと。

『Just Tryin' Ta Live』はDevin the Dudeが自分の信じることを信じぬく物語である。運命は彼の友達でありファンであるDr. Dreや彼のアイドルの一人、Too $hortを見つけたのと同じようにはDevinのことを見つけてはくれなかった。このアルバムの作者は名声のことを、昼の仕事の副産物に過ぎないと捉えている。彼はキャリアの中でその明確なアウトラインを持ち続けていく:ラップを謎めいたペルソナとしてではなく、職業と考えることの簡潔さ。そのスタイルは、Larry June、Curren$y、Le$といった、ラップして、吸って、クールなシットを楽しむだけの自立した男たちという弟子たちを巻き込んでいった。『Just Tryin' Ta Live』でのDevin the Dudeは誰しもの手が届くところにいる:人民による人民のための男であることこそがお金では買えない名声であることを彼は知っていたのだ。

BY: BRANDON CALDWELL
JANUARY 31 2021

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<Bandcamp Album of the Day>Ploho, “Фантомные Чувства”

ロシアのバンドPlohoの最新作『Фантомные Чувства』は、英語で“phantom feelings(=“幻の感覚”)” を意味する。作品に相応しいタイトルである:このシベリアに拠点を置くバンドは、メランコリーの香りのするクラブ・ミュージックを好む人でごった返す、潜るような空間の亡霊のようなイメージを想起させる。

『Фантомные Чувства』に収録された楽曲には、その後数十年の間にゴスやダークウェーヴのシーンを形成することになった音楽である初期のポスト・パンクNew Orderの『Movement』とClan of Xymoxの『Medusa』がいい参照点になるだろう)から影響を受けた、冷酷で外科医のようなシンセ・ポップと、グイグイと引っ張るようなリズムが混在している。“Танцы в темноте(ロシア語で “dancing in the dark” を意味する)” の中心にあるリフは80年代のゴス・ポップの泣き叫ぶようなギターを思い起こさせるし、その運動直線は “Старые фильмы” で頂点を迎え、その後 “Песни окон и стен” で満足げに去っていく。それは記憶に残る一夜の最後のダンスのような、ほのかに暗く、すぐにでも口ずさめるような一曲であり、過ぎ去ってしまった夜へのノスタルジアへといざなうとともに、また再び訪れるそれへの希望も残していく。

By Liz Ohanesian · February 03, 2021

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