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<Pitchfork Sunday Review和訳>Katy Parry: Teenage Dream

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Capitol / 2010

 勝負の時が来たならば、その時が勝負のときである:『Teenage Dream』は終わることのないサマー・バケイションを約束してくれる。それは仮死状態の中で生きていて、常に週末を楽しみにしていて、決して仕事に出かけることなどない。ケイティー・ペリーの2作目は虚飾にまみれていて、悪趣味で、音楽の内実が全然良くないときでも恐れ知らずなほどに楽観的である。永遠の若さを持ってはいるがーーティーンエイジャーがしばしばそうであるようにーーこれでもかというくらいその年齢が刻印されている。そしてこの作品は「スマッシュ」であった:5曲のNo.1ヒットはマイケル・ジャクソンの1987年作『Bad』に並ぶ記録となった。収録された曲の半分はトップ10にチャート・インした。『Teenage Dream』はギターの音色を用いたバブルガム・ポップの最後の一息だった。翌年、アデルの『21』が売上記録を塗り替え、ポップにおけるムーディーな新しい時代の幕開けを告げた。この作品を振り返ると、物事がいかに早く移り変わっていったのかということに気が付かされる。

Teenage Dream』の主題は、若者の生活の主題がそうであるように、「愛」である。アルバムの中にはペリー自身の人生に登場した男たちについて書かれたのであろう部分もある。その中には当時のフィアンセ、ラッセル・ブランド(“Hummingbird Heartbeat”、“Not Like the Movies”)、Gym Class Heroesのトラヴィー・マッコイ(“Circle the Drain”)、そして好青年ジョシュ・グローバン(“The One That Got Away”)も含まれている。しかしそのような捉え方は後付けのようなものである。これらの楽曲は別に何かを告白するようなものではないし、言ってしまえば2種類混合のカクテルであり、あなたが到着するのを待っているパーティーの前座なのである。『Teenage Dream』はペリーの作品の中でも強力なソングライティングを誇る。それはおそらく彼女がまだこれまでの自分を真似るほどの活動をしていなかったからだろうけれど。そしてその当時でさえ、ここには2種類のハリケーンしか存在しなかった。一つは若い頃の情熱を象徴し最後には虹がかかるもの、そしてもう一つも虹であるが、その端は巨大なペニスになっているのだ。

ペリーが一生懸命に挑戦しているように見えたのであれば、それは彼女が予想に反して成功したからである。彼女はカリフォルニアのサンタ・バーバラで育ち、ペンテコステ派の牧師であった両親は彼女を私立の宗教系の学校へと通わせた。彼女は1年生で中退し、ナッシュヴィルの小さなクリスチャン系のレーベルからケイティー・ハドソンとして初めて音楽作品を発表した。彼女はやがて軽薄で下品なポップ・スター=ケイティ・ペリーへと転向していくわけだが、それは彼女の衣装のように大胆なコントラストを生み、彼女はずっと挑戦しなければならなくなった。何年にも渡るメジャー・レーベルの煉獄。デフ・ジャムとコロンビアと続いて契約を結んだもののアルバムのリリースはなし。唯一参加したのは『旅するジーンズと16歳の夏』のサウンドトラック収録曲だけだった。彼女はロサンゼルス郊外の小さなレーベルで、送られてきたデモを論評する仕事をしていた時期もあった。彼女は後にこう振り返る。「あれはこれまでの人生で聞いてきた中で最悪の音楽だった。ビルから飛び降りるか、あるいは耳を切り落として幸いってやりたかった。「私はあなた達に何もしてあげられません!何を言えば良いんですか?あ、あと音が外れてるよ」って」

ペリーはついに、キャピトルの重役A&R=クリス・アノクテと組むことで幸運を手に入れた。このニュージャージー出身、20代そこそこのナイジェリア系移民の息子もまた、ホイットニー・ヒューストンの父親に公的な場で近づいたことで幸運を手に入れた男だった。2007年のグラミー賞のパーティーで、アノクテはコロンビアのパブリシスト、アンジェリカ・コブベーラーから内密の情報を聞きつけた。ペリーにはポテンシャルがあるが、レーベルは彼女との契約を解除するだろう、と。コブベーラーはコロンビアからキャピトル傘下への転職を考えていて、彼女はペリーを自分と一緒に連れて行こうと決心していた。「ケイティーのファイルを丸ごと盗んだ」と彼女は2012年のドキュメンタリー『Part of Me』の中で語っている。「それをただ手で掴んで、腕の下に隠してこっそりその場を離れたの」。アノクテとコブベーラーはキャピトルにもう一度チャンスを与えるように説得したが、あまり期待はしていなかった。「彼女は契約を来られるところだったからいい条件ではなかったし、多額の前金を払ってあげるみたいなことも出来なかった」とアノクテは後に『Billboard』誌に語っている。

ペリーはコロンビア所属時に既に、『Let Go』(Avril Lavigne、2002)や『Liz Phair』(Liz Phair、2003)などを手掛けたプロデューサー・トリオ=Matrixのプロデュースによるポップ・ロック・アルバムをレコーディングしていた。彼女はロックが好きだった:子供のことはMTVを見ることを禁止されていたが、シャーリー・マンソングウェン・ステファニーを好んで聴いていた。キャピトル移籍後、彼女はその残り物の楽曲のいくつかを手直しし、いくつかの新曲も書き足して彼女の公式デビュー作、2008年にリリースされたポップ・パンクに影響された『One of the Boys』と相成った。自分のことをもう一度世に知らしめるため、彼女はmp3ダウンロード・シングルをリリースした。「メトロセクシュアル(=外見や生活様式に多大なる時間の金を注ぎ込む男性のこと)」をこき下ろした、さり気なく同性愛嫌悪的な “Ur So Gay” はとらえどころのなく、よく出来ていて、断固として「ストレート」であるゼロ年代文化人類学的産物であった。マドンナがこの曲を気に入った。それがガソリンだったとしたら、“I Kissed a Girl” は発火装置だった。ペリーのバイセクシャル的嗜好を歌ったこのアンセムは少し交代のようにも感じられる出来だったが。それでもお高く止まった人たちを苛立たせるほどのには下品だったし、そういった曲は他にあまりなかった。目を大きく見開き、メディアにも精通していた彼女は、出来かけの悪評の上昇気流にのって自身初のNo.1ヒットを記録したのであった。

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『One of the Boys』はペリーをスターにしたが、それには証書ももれなくついてきた:比較的ノベルティ的に、急激にヒットした “I Kissed a Girl” によって彼女は一発屋の領域に接近し、更には快活なポップ・ロック・サウンドがその流行を終えようとしていた。ペリーは『Guardian』紙にこう語っている。「2作目を作るにあたってはより気を引き締めた。だって、どれだけの人が2作目でスランプに陥ると思う?十中八九そう。私は売れたいけど、いかにも「売れ線でござい」という感じではやりたくない。でもアリーナを完売させたいし何百万枚も売り上げたい」。彼女は発表されることのなかったプロジェクトに何年も費やしたのち、今や門の内側にいて、前進以外は失敗だと見なされる境地にいた。彼女はもう一度自分がなにかできるということを証明しなければならなかった。無視できない存在であることを。

ペリーは『Teenage Dream』のすべての作曲に参加しているが、ゼロ年代のポップ・プロダクションのビッグ・ネームたちの手も借りている:マックス・マーティン、スターゲート、そしてクリストファー・”トリッキー”・スチュワートである。さらには『One of the Boys』最大のヒット曲となった2曲、“I Kissed a Girl” と “Hot N Cold” を手掛けたドクター・ルークとベニー・ブランコとも再び手を組んだ。2010年、まだ性的虐待と暴行で訴えられる前、ルークのキャリアは上向きで、ケリー・クラークソンの “Since U Been Gone” や マイリー・サイラスの “Party in the USA” などを次々にヒットさせていた。当時、ブランコはルークの弟子のような存在で、ブリトニー・スピアーズやデビュー曲 “TiK ToK” が2010年代最初のNo.1ヒットとなったキーシャなどを手掛けていた。

Teenage Dream』の最後のピースは、ペリーがL.A.に越してきたころからの長年の友人、ボニー・マッキーであった。かつては自身もポップ・スターを目指していたマッキーはその後作曲業に転向していたが、ペリー同様業界の中で長年くすぶっていた。「二人ともレーベルから捨てられたときは、よく一緒にショウをやっていた」と彼女は振り返る。『Teenage Dream』はそんな彼女の人生を変えた。”Teenage Dream” はマッキーの発想によるものだった――曲全体ではなく、アルバムに数多く含まれている一度聴いたら忘れられないフックの中でも最初に聞こえてくる、そのフレーズである。ハイスクール物の映画のセックス・シーンや “...Baby One More Time”(ブリトニー・スピアーズ)のように、”Teenage Dream” はポップ・カルチャー特有の「ぎりぎりのライン」への強迫観念を逆なでしているが、ペリーとマッキーは見事にそれを成功させている。”Teenage Dream” はセクシーな曲だが、大人の目線から書かれている。ペリーが演じる主人公は(わずかながら)成熟した女性であり、それまでは遠い記憶のように感じられていた若くてバカバカしい恋を再び取り戻す。イントロの弾力のあるギターのコードにはノスタルジアが感じられ、まるで ”Good Vibration” がコーラスから始まったかのようであり、クライマックスの歌詞、「Don’t ever look back, don’t ever look back」は ”The Boys of Summer” の残響のように響く。ペリーはドン・ヘンリーを聞いたことがないかもしれないが、おそらくAtariによるポップ・パンク・カヴァー(トップ40入り)を聞いたのだろう。

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ペリーとマッキーのコンビは二人の若かりし頃のパーティー三昧の日々にインスパイアされた ”Last Friday Night (T.G.I.F.)”と、”California Gurls” で再び共作している。ビーチ・ボールよりも弾力のある ”California Gurls” は『Teenage Dream』の中でもそびえたつリード・シングルであり、「キャンディ・ランド」が主題となったヴィデオでは「シュガー・ダディ」と呼ばれているスヌープ・ドッグがウインクしたりうなずいたりする、主役を食う勢いのカメオ出演も印象的である。これこそがこのアルバムで最も重要な楽曲である。売り上げの点ではなく、この曲がアルバム全体の舞台背景を設定したという点において。『Teenage Dream』はカリフォルニアのレコードであり、ジャケットのアートワークからコンサート・ツアーに至るまで、すべてが「キャンディ・ランド」の中で行われた。”California Gurls” のビデオはこのアルバムで最も記憶に残る部分であり、その ”California Gurls” のビデオの中で最も記憶に残る部分は――まあ、みんなわかるだろう。マドンナのジャン=ポール・ゴルチエによる円錐型のブラと映画『ヴァーシティ・ブルース』風のアメリカーナをマッシュ・アップした、ペリーの生クリーム・ブラは『Teenage Dream』の世界観にとって決定的に重要であり、彼女はコンサートの締めくくりで紅白のバズーカから泡を観客席に振りまくほどだった。

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メディアに対し、ペリーはこの ”California Gurls” はその年5週連続で1位を獲得していたJay-Zアリシア・キーズによる ”Empire State of Mind” に対する、西海岸からの回答であると説明した。しかし ”Empire State of Mind” が野望についての歌であったのに対し、”California Gurls” は欲しいものをすべて持っているということについて歌っていた。それはBeach Boysの速度を上げて、酸味を増したアップデート版であり(Beach Boysのレーベルはアルバム・バージョンからスヌープがアドリブで入れたと思しき「I really wish you all could be California girls」というフレーズを取り除くことに成功したようだ)、2パックのストリート・アンセムCalifornia Love” の自由気ままなパーティー・ガールによるリプレイだった(トークボックスのフックがアウトロで聞こえてくる)。ペリーにとっては初となるヒップホップとの浮気は何よりも強気であり、だからこそ楽しい楽曲となっている――スヌープ・ドッグも彼女と同様に楽しそうにおどけている。

しかしそれよりも、『Teenage Dream』は今聴くと時代遅れのように聞こえることがある。それは “Teenage Dream” のビデオにおいて白人の女の子が羽毛の髪飾りをつけているかだとか、「That was such an epic fail」といった2010年モノのヴィンテージ的死語が踊る歌詞のせいというわけではない。皮肉なことに、歴史の中でより良い形で加齢を重ねたのは『One of the Boys』の生き生きとしたパワー・ポップの方であった。それよりもいい作品にしようという気概からこの作品はラウドで、しつこく、圧縮されているように感じる。アルバム収録曲は、陳腐な内容をあえて歌った歌謡曲を狙って失敗したような “Peacock” から急降下を始める。しかしそれでさえも、「真面目な人」に向けて書かれた悲しげなパワー・バラードで、Perryのそれ以降の歌詞の面での苦しみを予見していた “Who Am I Living For?” ほど厳しくはない。きらびやかなハード・ロック “Circle the Drain” は彼女の2008年のWarped Tourを想起させるが、元ネタとなったであろうアラニス・モリセットの “You Oughta Know” には敵うはずもなく。しかし『Teenage Dream』は早々に真面目ぶるのをやめている。叫ぶようなボーカルが特徴の、奇妙なSFロマンス “E.T.” では、もともとはThree 6 Maifaのために作られたというビートがその支離滅裂な歌詞を拡大している。No.1ヒットとなったシングル・ヴァージョンは馬鹿げた『アバター』風のビデオとふざけたSNSへの投稿のようなカニエ・ウェストのヴァースーー「次は何だ?エイリアンとのセックス?」ーーを採用しているが、これは後から振り返って説明することなどほとんど不可能な、奇妙なモノカルチャーの記念碑である。

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そうとはいえ、『Teenage Dream』の感情的なピークがやってくるのは “Firework” である。もう一つのNo.1ヒットであるこの厚かましく前向きなバンガーは、舞い上がるようなサビのメロディーがカラオケで歌う人たちに恥をかかせることを宿命付けられたような一曲だ。“Firework” に対して冷笑的になることはとても、とても、とても簡単だ。『Los Angeles Times』紙のアン・パワーズは当時、「彼女のキリスト教的生い立ちや、彼女の性的開放的内容における女性向け小説的限界よりも、ペリーがこれほどまでに物議を醸すアーティストとなったのは、彼女が本質的に抱えている空虚さゆえである」と書いている。彼女は一番馬鹿げていてファニーな歌詞や、『アメリカン・ビューティー』からそのまま出てきたかのような一行、そしてポップ・カルチャーの中にある「やる気を高めよう!日々前進!」的なブルシットが溜まった広大で味気ない大海に対する皮肉の効いた代喩として残ってきた疑問などを引用した。しかし、ペリーはこの曲を大統領の前でも歌っているのだ。Stargateによるストリングは趣味の良いシネマティックなアレンジに代えられているが、彼女その場で確かに歌ったのだ。「自分がレジ袋になったような気分になることはある?」と。

もちろん、あるさ。『Teenage Dream』を深々と見つめ、目をじっと凝らしていると、その一番下にレジ袋があるのだ。ここでもう一つとんでもないトリビアを:“Firework” のインスピレーションとなったのはジョン・ケルアックの『路上』であり、底に出てくる芸術家やティーンエイジャーに関する記述、とりわけケルアックによる語り手が「ぼくにとってかけがえのない人間とは、なによりも狂ったやつら、狂ったように生き、狂ったようにしゃべり、狂ったように救われたがっている、なんでも欲しがるやつら」であり、「あざやかな黄色の乱玉の花火のごとく、燃えて燃えて燃えて」いる人達であると主張する箇所である。“Firework” こそが『Teenage Dream』におけるアメリカン・ドリームであり、それは「自由」ではなく「欲望」なのだ。復讐、世間からの承認、そして必ず最後には自分自身すら破滅させてしまうであろうほどの、無人そうで必至な消費に対する欲望だ。ペリーは外見をかなり変えたが、彼女には一つだけ変わらない美学がある:それはけばけばしく、爆発するようなマキシマリズムであり、この『Teenage Dream』はその中でも最もマキシマリスト的作品である。

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だから、細かいニュアンスやケルアックのことは忘れてしまおう:両手を空に掲げ、プラスチックであることを誇ろう。『Teenage Dream』はいいタイミングで生まれ、と越もなく大きなヒットを体験した。“Teenage Dream”、“Last Friday Night”、“California Gurls”、“Firework” の4曲連続のNo.1である。ポップ・スターの中には一生かけてこれほどのヒットを残し、一生の財産にしようと試みるものもいる:ケイティー・ペリーはそれを最初の15分でやってのけてしまった。このアルバムは、彼女のキャリアだけではなく、この朱の音楽のスタイルにとっても戴冠の瞬間であった。EDM、ディスコ、そしてポップ。大胆でベルトのように頑丈で、完全に加工されてはいるがすぐにそれと分かり、強固でありながら安っぽい。2010年にあっては、これらをすべて持っているだけでも十分だったのだ。

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<Bandcamp Album of the Day>Jimmy Edgar, “Cheetah Bend”

Jimmy Edgarは常に予測不可能なアーティストである。このデトロイト出身の天才児は、多くのエレクトロニック・ミュージックのサブジャンルや多様なコラボレーターの間を行ったり来たりしながら、自身の創作の行く先が向くままに、長い間成功を収めてきた。彼のディスコグラフィーハウス・ミュージックからいなたいエレクトロ、車高の低いヒップホップ、そして霧がかったR&Bまでを包括する――これらすべてが一つの作品の中で現れることもあった。ここ数年間、Edgarはフューチャー・ベースのプロデューサー、Machinedrumとのコラボレーション=J-E-T-SやVince Staples、Adamn Killa、BANKSといったアーティストのプロデュースを手掛けるなど、ソロ活動にとどまらない多作な活動をしている。

ソロ作としてはほぼ9年ぶりとなる『Cheetah Bend』では、2012年の『Majenta』での夜の雰囲気たっぷりのベース・ミュージック~テクノとはかけ離れた作風を披露している。もちろんそれは悪いことではない。Hudson Mohawkeや偉大なる空想家=故・SOPHIEなどの似たような志を持ったエレクトロニック界の前衛たちとともに、Edgarは自身が過去数年間でヒップホップ界で作り上げてきたサウンドを拡張している。アトランタのラッパー、B La Bは ”TURN” の穏やかな鍵盤とぐちゃぐちゃのベースを縫い合わせ、”GET UP” ではEdgarは同郷、モーター・シティのレジェンド=Danny Brownとタッグを組み、Brownの無類のフロウのように落ちくぼんでいて弾力のあるサウンドを作り上げている。その一方でSOPHIEとのコラボ ”METAL” はこの二人のプロダクション・スタイルを完璧に融合したものである――予測不可能に曲がりくねっていて、まるでこの『Cheetah Bend』という最新の落ち着く場所にたどり着くための音の ”回り道” のようである。

By Larry Fitzmaurice · February 24, 2021

Jimmy Edgar, “Cheetah Bend” | Bandcamp Daily

<Bandcamp Album of the Day>Nightshift, “Zöe”

Nightshiftの『Zöe』を聴けば、自分のレコードコレクションを整理したいという気持ちになるだろう。しかし30分後、あなたは引っ張り出したアルバムを全く整頓できないまま、レコードに囲まれて座っているだろう。これは過剰に自意識が強かったりよそよそしく知的ぶったりしないアヴァンギャルドなインディー作品ではなく、温かみがあって靴よげるような、まるで共同運営している植物園に次の季節は何を植えるのか決めるグループ会議に呼び出されたかのような、そんな気分にさせるような作品である。もちろんそれは、この作品の「優美な死骸(=複数の作家が、互いにほかの人たちが何をしているのか知らない状態で協力して一つの作品を作り上げる手法)」的方法論、Eメールをリレーするような形で作られた作品であるということもあるだろうが、スコットランドポスト・パンクはいつも英国のそれよりも活発に感じられるのだ。英国勢は打ち捨てられた肉のパック工場に残響するような素晴らしくクールな楽曲を作ることができるが、実際の人間の温かみを感じられるようなパンクを探しているのであれば、グラスゴーを当たってみるべきだ。

しかし、Nightshiftはその温かいだけではなく奇妙であるというサウンドの特徴によって、ほかのグラスゴー勢と一線を画している。様々な冷たく、突き放したようなミニマリズムをよく用いるこのジャンルにおいて、『Zöe』は人間味あるキーボードと魅惑的な木管楽器で満たされていて、そこに思慮深く考え抜かれた歌詞が重ねられていく。この組み合わせが彼らの楽曲に深さと予測不可能性を付け加えている。”Make Kin” は心ひくクラリネットの音色が予想外に登場し、”Infinity Winner” の不協和音の重なりは、このバンドの意図的なくつろいだアプローチによって鎮静効果を生み出している。注意深く組み立てられた ”Spray Paint the Bridge” と ”Fences” はThurston Mooreの『Psychic Hearts』のゆっくりとしたヴァージョンのように感じられる。ここでは不協和音へと向かう傾向が、彼らが生まれ持っているメロウネスの感覚によって和らげられている。

Nightshiftの才能は、控えめなポスト・パンクやノー・ウェイヴの使い古されたトリックや修辞を、まるで古い友人たちとの心地よい集まりのような雰囲気に作り替える点だが、『Zöe』を通して彼らは政策におけるストレスフルな状況――言い換えれば私たちがこの1年を過ごしてきたやり方――にもかかわらず黙想的なバランスを見事に釣り合わせている。

By Sim Jackson · February 23, 2021

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<Bandcamp Album of the Day>Bunny Scott, “To Love Somebody”

ジャマイカキングストンにあるLee "Scratch" PerryのBlack Ark Studios――Bob Marley and The WailersJunior MurvinMax RomeoThe CongosThe Heptonesなどをもてなしたのと同じホール――で制作されたBunny Scottの『To Love Somebody』はジャマイカのロック界でも最高級の二人によって指揮された、海外のチャート・ヒット曲をアレンジする診療所のような作品である。この語Scottはバンド=Third Worldのフロントマン、Bunny Rugsとして、2014年にこの世を去るまで国際的な名声を手にした。そのグループに加入する1年前にScottはこのLP――今回Freestyle Recordsからリイシューされる運びとなった――をPerryのプロデュースで録音した。この二人によって、ロックステディやレゲエと、ポップ、ソウル、ファンクといった国際的なポップが見事に統合されている。

Scottによる ”To Love Somebody” のカバーは、The Bee Geesのオリジナルに忠実でありながら、ScottのコクのあるボーカルがBarry Gibbsの率直な歌唱を塗り替えている。それとは対照的に、Bill Withersの貧弱なファンク ”Use Me” はScottとPerryによって大胆に手が加えられていて、陽気でミッドテンポなトレンチタウン風に仕上げられている。そしてさらにはThe Upsettersの有名なインスト ”Return Of Django” (1969) の輪郭をリサイクルした ”Big May” は響き渡るオーケストラによるイントロが印象的だ。

この新しいリイシューには、William DeVaughnのクラシック ”Be Thankful for What You Got” を熱烈に作り替えた素晴らしいヴァージョン ”Be Thankful” (オリジナル未収録)も収録されている。「背中にはダイアモンド、サンルーフトップ/ギャングスタ・リーンでシーンを掘り下げる」Scottは彼の肺いっぱいを使って歌い上げる。彼の歌唱のアクセントは、Perryのサウンドには珍しく地域的な訛りが比較的希薄である。ここに収められたすべてがこれほど強力な瞬間を持っているわけではないが――例えば ”Sweet Caroline” は奇妙なチョイスである――、『To Love Somebody』はモータウンとモンテゴ・ベイをつなげる架け橋であり、双方のファンにとってかなり聞きやすい作品となっている。

By Dean Van Nguyen · February 22, 2021

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<Bandcamp Album of the Day>Senyawa, “Alkisah”

Wukier Suryadi自作楽器Rully Shabaraの多彩な声が特徴のインドネシアの二人組Senyawaは、ジャワのフォーク音楽――古代のメロディ、秘術的なリズム、弓でかき鳴らされる弦楽器――と即興演奏、過激なヴォーカルのスタイル、ヘヴィな雰囲気を溶け合わせることによって世界中の注目を集めてきた。2014年の『Acaraki』と2015年の『Menjadi』ではいかなり伝統への束縛からも解き放たれたようなサウンドを披露していたが、2018年の『Sujud』はドローン~ドゥーム・メタルからの影響が強く感じられた。そして二人の新作『Alkisah』では、Senwayaはまるで天空に上り、人類の崩壊を空から眺めているような、そんな音を鳴らしている。

「終末がこの手の中に握られているときに、力に何の意味があるのだろうか?」とShabaraは1曲目の ”Kekuasaan” で歌う。そこから、バンドは強欲、憎悪、破壊についての終末論的な物語を、キャッチ―なフックと不吉なノイズと対比させながら描き出していく。”Alkisah I” のブザーのような単音のパルスがSenyawaをエレクトロニック・ミュージックのようなものに引き寄せると、それはすぐにインダストリアルな機械音の嵐で囲われてしまう。”Istana” は心地よい、チャントされるハーモニーで始まるが30秒もすると窒息するような、ディストーションのかけられたリフとShabaraの地獄のような咆哮が後から追いついてくる。その後、二人はミナンの古いことわざの蒐集を迷走的なポップ・ソングへと作り替え(”Kabau”)、その後に4分間の雑音と暴力的な反乱を表象するスポークン・ワードを聞かせる(”Fasih”)。そして ”Alkisah II” では、Shabaraはオペラ歌手のように歌い、Suryadiは幾百万もの恐ろしい昆虫の行進をノイズで表現している。このようなスタイルや温度の衝突によって暗闇は晴れ渡り、Senyawaの最大の強みが発揮される――それはしっかりとチューニングされた緊張感のもとでの、冒険への確固たるコミットメントである。

By Ben Salmon · February 19, 2021

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<Bandcamp Album of the Day>Ivo Perelman and Nate Wooley, “Polarity”

テナー・サックス奏者=Ivo Perelmanとトランペッター=Nate Wooleyが共作した『Polarity』は二重即興奏の可能性を探求する1枚である。これまでに、WooleyはAnthony BraxtonJohn ZornIngrid Larubrockといった面々と演奏し、Perelmanは自身のアンサンブルを率いてWilliam ParkerMatthew Shippといった現代ジャズの巨人と演奏し名を上げてきた。今回この2人は音楽の自然発生という営為を深く掘り下げるために手を組んだ。

アルバムのオープニングを飾る “One A” では、この2人のミュージシャンが楽器を使って部屋の中の空間を探り、感じ取っている。WooleyとPerelmanのメロディー・ラインはお互いに向けて突進していき、やがてもつれ合って螺旋を作り上げていく。“Two A” では、Perelmanがスウィングしたシンコペーションの効いたモチーフを持ち出し、そこにWooleyが加わって、互いに撃ち合いながらやがてそれぞれの楽器の最高音へと上り詰めていく。

『Polarity』には好奇心のような感覚が常に流れている。PerelmanとWooleyは音を使って互いにコミュニケーションを取っている。ふたりとも積極的に聞き手にまわり、それに反応し、リアルタイムでお互いに返信しあっている。ここには「リーダー」はいない。音楽を演奏するという行為自体が導きとなり、2人の演奏家たちは自然の力に身を任せている。

 

<Bandcamp Album of the Day>XIXA, “Genesis”

初めて聴く人であっても、このトゥーソンを拠点とするロック・バンドであるXIXAがなぜ自分たちの音楽を「神秘的な砂漠のロック」と称しているのかを理解するのに掃除冠はかからないだろう。彼らの2作目となる『Genesis』の1曲目 “Thine Is the Kingdom” は謎めいていて壮大な雰囲気をすぐさまに作り上げる。羽ばたくようなギターと舞い上がるようなボーカルによって、この楽曲はソノラ州の広大な土地の広がり、白亜質の赤や灰色、乾いた低木やサボテンと言った光景を思い起こさせる。キビキビとしたシンバルに寄ってアクセントのつけられた、この楽曲のシャッフル・ビートはその二重性へのこだわりを表している。『Genesis』を通して、XIXAは活気と忍耐のバランスを近郊を見出していてーー居心地の良い、ダラダラとした雰囲気の『リオ・ブラボー』を想起させるーー、それは革新的な結果を生み出している。

XIXAはChicha(ペルーのサイケデリックなクンビア)からTejanoといった多くのラテン音楽参照元として引っ張ってきているが、それらの全てはたとえアップテンポな曲であったとしても考え抜かれたシリアスなサウンドとしてインストールとしている。それによってライトでアップテンポなLos PirañasSonido Gallo Negroといったアクトとの差別化として働いている。そのムードのいち要因としてあげられるのがGabriel Sullivanのボーカルである。“Nights Plutonian Shore” では、彼の低音域のクルーンの砂利ついた感じが、このハンド・パーカッションとピアノの装飾で満ちた楽曲に生き生きとしたドラマの感覚を付け加えている。

このバンドの前作やソロとは対照的に、『Genesis』には深いコクが感じられる。“Land Where We Lie” でのまばゆい合唱隊のコーラスだったり、“Soma” での微かにきらめくサイケデリックな渦巻だったり、“Mat They Call Us Home” のサーク・ロック風のギターだったり、そういう楽曲のディテールがソングライティングのタイトさによって光り輝いている。『Genesis』は内省的でじわじわと盛り上がるカントリー風 “Feast of Ascension” の、騒々しいギターでクライマックスを迎える。やがて、それはゴボゴボと流れ出るようなヒス音へと崩壊していく。この焦げ付くような厳しい旅にはうってつけのシネマティックなエンディングである。

By Joshua Minsoo Kim · February 17, 2021

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