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<Pitchfork和訳>Linkin Park: Hybrid Theory (20th Anniversary Edition)

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得点:7.6

筆者:Gabriel Szatan

 

聴いている人たちに打ち勝つよう語りかけ続けた、その闘いに遂にチェスター・ベニントン自身が負けてしまったのは、彼が41歳の時だった。Linkin Parkの音楽を形作る特徴とは、トラウマと向き合っていくための手段をリスナーのもとへ届けることであった。それはファンのためであったと同時に、ベニントン自身のためでもあった。2017年の彼の死は誰にとっても大きなショックだった:バンドにとっても、彼の家族にとっても、そして彼のシンガーとしての力のみならず、彼が見せてくれた回復することの尊厳、そしてまた再発してしまうことへの率直さによって彼のことをインスピレーション源として見ていた世界中のファンたちにとっても。彼はステージ上で、録音物の中で、そして地域社会への支援活動を通じて性的虐待、薬物中毒を乗り越えようとしてきた。死のわずか数週間前にステージ上で楽しそうに、そして自由に動き回っていたベニントンを見ていた人たちにとって、この存在の重圧は振り落とすことのできないものである。

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その全てが、2000年発表の『Hybrid Theory』――21世紀で最もポピュラーなヘヴィ・ミュージック――にずっしりと詰め込まれている。全世界で3200万枚――アメリカだけで1200万枚、そのうち100万枚はここ3年間の間のものだ――を売り上げているこの『Hybrid Theory』は、1988年の『Appetite For Destruction』以来、全ジャンルの中で最も高い売り上げを誇るデビュー・アルバムである。ミレニアム期のこの界隈で唯一光輝くロック・アルバムであることはいくばくかの権威をに値するだろう、と考える向きもあるだろう。しかしメタル、ハード・ロック、エモ、あるいはロック全般の「ベスト」のリストは、まるで斧を崇拝する少数部族がだれも受け入れようとしていないのかのように、この『Hybrid Theory』をことごとく無視しているのだ。

ニューメタルは明白なジャンルであるように思えるが、Linkin Parkは当時このポジションに腰かけていたとはいえ、それは少しぎこちないものであった。彼らはこの「ニュー」界隈が供給過多であることを知っていた。ラップ、スクリーム、そしてサーキットベンディングの融合という彼らのスタイルはやがて、上下デニムを着ているような古臭いロック評論家たちへの疑いへと変わった。彼らはチャットルームでストリート・チームを結成し、そこで落胆や失敗についてあけっぴろげに告白することの訓練をした。彼らはいら立ちに満ちた状態であること、光に裏切られた気分であること、そして消えてしまう方法があることを願うことについて歌った。彼らが自分たちを矮小化しようとするその方法によって、彼らは巨大となったのだ。

彼らが名声を得た時代を再・再・再評価するのではなく、この『Hybrid Theory』の20周年記念委リイシュー――50以上もの未発表曲、B面曲、リミックス、ライブ音源、そしてレア・トラックなどが収録されている――によって、このバンドがなぜ超新星爆発を起こしたのかをつまびらかにすることができるのではないだろうか。今日、ベニントンとマイク・シノダの二人のコンビが、Linkin Parkの魅力をより広い層のリスナーたちに向けて解放した鍵であることを無視することは難しい。しかし、これはもしかしたら起こっていなかったことかもしれないことなのだ。このバンドは1999年にオリジナル・シンガーであるマーク・ウェイクフィールド(のちにTaprootのマネージャーやSystem of a Downの『Toxicity』のジャケットをデザインすることになる)が脱退するまで3年の活動歴があった。そしてベニントンが加入してからも、『Hybrid Theory』に向けて制作されたデモ音源は、二人が何かシナジーのようなものを生み出すには程遠かったことを示している。“A Place for My Head” や “Points of Authority” の初期ヴァージョンでは、まるでベニントンとシノダが全く違う譜面を読んでいるかのようである。

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ひとたび血管を湧き立たせるようなカタルシスのなかのスウィート・スポットを見つけると、この二面性はLinkin Parkの音楽の心臓部となった。ベニントンとシノダは二枚舌、コントロール心理的そして肉体的虐待、さらには自殺願望といった、当時はあまり踏み込まれていなかったところまでのトピックと真正面から向き合った。毛布にくるまって、ポータブルCDプレイヤーを熱くさせながら音楽を聞いていた者たちにとって、これは啓示であった。二人は視点を変えながら互いのヴァースを巧みに織り合い、自我と超自我の間の小気味良い会話を演じている。ベニントンは自己分析にたけていて、彼の中にある不安の波が引いたかと思いきやまた押しつぶすような絶望の波となって戻ってくるさまや、脳内のセロトニンの最後の数滴がまるで真っ黒な水道水のように彼の脳内を循環するさまを見事に言語化している。

Linkin Parkは彼らの嗜好が単なる「リフ三昧」以上であることをリスナーに理解してもらうのに懸命だった。このアルバムが『Hybrid Theory』というタイトルになっているのには理由があるのだ(ほかの同名バンドに妨害されなければ、これは彼らのバンド名になっている予定だった)。ドラマーのロブ・ボードンはファンクやR&Bのミュージシャンの無限のグルーヴを信奉して育った。ギタリストのブラッド・デルソンとターンテーブリストのジョー・ハーンはグリッチ、ブームバップやトリップホップを好んで聴いていた。“Cure for the Itch” がDJ Shadowの “Organ Donor” とスクラッチ1回分しか離れていないのはそれが理由である。15歳のシノダが、友達の親に連れ添ってもらってAnthraxPublic Enemyのジョイント・コンサートを見に行った日、彼の心は吹き飛んでしまった。今回の『Hybrid Theory』に収められているエクストラ音源では、そんな彼らがそういった核融合を再現しようとしていた多くの試みを聴くことができる。たとえばX-Ecutionersの “It's Goin’ Down” や 2002年のリミックス・アルバム『Reanimation』でサンプルされることになる1999年の “Step Up” は、RJD2Rage Against the Machineを一つの屋根の下に入れようとするような雰囲気の、不格好ながらも気合の入った挑戦である。

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今回集められたエクストラ・トラックの中で『Hybrid Theory』の最も強力な楽曲たちーーつまり、最後の3曲に至るまでの全てであるがーーに敵うほどのものは数少ない。とはいえこのボックス・セットにはいくつかの勝者がいる。クリアされていなかったMos Defのサンプルによって長い間公式にリリースされていなかった “She Couldn't” はこのバンドの棘だった外骨格を取り除いてその中にある優しさを露わにしている。1997年に制作された “Rhinestone” はその進化形である “Forgotten” (『Hybrid Theory』の中で唯一、ニューメタルの負の側面を体現している楽曲だ)よりもうまく機能している。“Krwlng” は “Crawling” の中に隠されている感情を呼び覚まし、ベーシストのデイヴ・ファレルはオリジナルの速度を落としたイントロのそばでしぶとくチェロとヴァイオリンを奏でている。その音色は泥の中へと伸びていく鍾乳洞のように冷たい。トレント・レズナーは比較されることに憤るだろうが、『The Downward Spiral』収録の “A Warm Place” の代わりに “Krwlng” の冒頭を流したとしても誰も驚かないだろう。レズナーと同じく、ベニントンも一筋縄では行かない主題に取り組んだ代償を支払うことになった。重大の頃の薬物中毒の体験を歌ったと言われている “Crawling” は、よくオーティエンスの助けを借りて歌われていたことからもわかるように、彼にとっては平気な気持ちで歌える楽曲ではなかったようだ。

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Deftonesの『White Pony』の発売20周年を祝う中で、シノダは『Hybrid Theory』がなぜこれほどまでにショッキングな内容でありながらメインストリームのオーディエンスに受け入れられるほど聞きやすいサウンドになったのかについてこう示唆した。「(Deftonesの)ギターはものすごくヘヴィだけど、時々ディストーションがかかりすぎたことでコードの波のようになって、まるでキーボードのように聞こえることがあるんだ」。適切なレコーディングのプロセスがLinkin Parkの最良の部分を取り出したのだ。Dust Brothersとの共作は “With You” の低調なループとなって実を結んだ。とはいえこの楽曲のキモはそのダイナミックな変化であり、トラックの真ん中の重力があまりにも素早き切り替わるさまはまるで顎をぶん殴られるかのような感覚である。“Runaway” や “Papercut” のような曲の高くそびえ立つようなフックは手厳しいプロデューサーであったドン・ギルモアの共作によるものである。彼はバンドに対し、オルタナティヴ・ラジオでかかるようなメロディを思いつかなければ、君たちのとっちらかっていて幼稚なサウンドはたやすく「その他大勢」になるだろうとこともなげに言い放ったという。ケツに火がついた彼らは “One Step Closer” を新たに書き下ろすことで復讐を果たした。“shut up” と言われたギルモアが喜びのあまり飛び跳ねることまでは想像していなかっただろうが。後に行われたシンクロしたヘッドバンギングの撮影は、彼らをMTVでの永遠リピートが何年もやまないほどのレベルへと押し上げたのであった。

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そしてさらには王冠の宝石であるところの “In The End” がある。D'Angeloが同名の曲をビデオ・チャートで急上昇させるまではもともと “Untitled” という題がつけられていたこの曲は、いかにこのバンドの作曲能力が群れの中の他の勢力よりもずば抜けていたかを示す最も明瞭な説明である。まず聞こえてくるグリッチのかかったシャッフルを刻むドラムとムーディーなピアノは、まるで“Master of Puppets” のイントロのようにすぐさまそれとわかる。“it starts with” というフレーズで歌詞が始まる通りその動きを逐一こちらに伝えてくれるような曲でありながら、“In The End” はその爆発的に盛り上がるコーラスを10000回聴いた後でも、数え切れないほどの深夜のカラオケを経ても未だに興奮を味わうことができるという稀有な能力を持っている。シノダのローリスク・ミッドリターンのフロウも、ベニントンが「かわいそうな、かわいそうな俺」と自己批評した泣き叫ぶような歌声も、その他のメンバーによる脇を固めて隙間を埋めていくような演奏がなければこれほど魅力的なものになはらないだろう。

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StrokeやStripe、そしてその派生バンドたちの出現によって、とても使い勝手の良い物語のナラティヴが幅を利かせ始めた。かつてグランジがヘア・メタルの漫画のような速弾きギタリストたちを蒸発させてしまったように、インディー・ロックが地に生まれ落ちるとポスト・グランジやニュー・メタルのカビ臭い残りくずが吹き飛ばされてしまった、というものだ。Linkin Parkはこのヒットの流れを2003年の『Meteora』でも続けそれ、特に “Numb” の冒頭のMPCの打ち込みの音ーーそしてその延長線上にはJay-Zと組んだ “Numb/Encore” のモノカルチャー界における月面着陸があったーーはいくつもの成人式、卒業パーティー、そして食料品売場のスピーカーを貫いた。彼らは “What I've Done” でエッジに近づくことで(U2のジ・エッジとかけている?)スタジアム級の規模へと成長し、ハーンが監督したCGIバトル・ファンタジーのプロモをあからさまに感じさせる『トランスフォーマー』の映画のサウンドトラックを担当したことでその円環の環を閉じた。2010年代に発表された4枚のアルバムは彼ら内部の化学を蒸留してそれぞれに割り当てたような作品となった:一つはインダストリアル、次はエレクトロニカ、そして次はシンセポップ、という具合に。

しかし人々が繰り返し聴きに戻ってくるのはこの5枚のシングル入りの国際的ブロックバスターである『Hybrid Theory』なのだ。ここではありとあらゆるバンドの最もとんがった部分が融合し、魅力的ではない美的衝動が抑制されている。20年前には考えられないほどにポップ、ロック、ラップ、そしてその他すべてのジャンルにおいてヘヴィな軸を持ったメンタル・ヘルスについてのオープンな議論が当たり前となり、そのことについてLinkin Park(フロントマンを失ったが再び新しい音楽を制作しようと努めている)は一定の評価をされるべきである。『Hybrid Theory』で、ベニントンは波が彼を洗い流してしまうその時までその場で堂々と屹立している。