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<Pitchfork Sunday Review和訳>Sigur Rós: Ágætis byrjun

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Sigur Rós: Ágætis byrjun Album Review | Pitchfork

点数:9.4/10
評者:Jayson Greene

枚目となるアルバム『Ágætis byrjun』でSigur Rósがわかっていたことは、自分たちはよりビッグなものを作りたいということだけだった。彼らのファースト『Von』(1997)はダークで、そして―彼らが有名になった基準からすると―いい意味で甲高い声だった。その当時、彼らはSmashing PumpkinsMy Bloody Valentineといった、不協和音から癒やしの手触りを発生させるようなバンドたちの勢いにインスパイアを受けていた。『Von』はアイスランドで300枚売れた。しかしこの散々なセールスは若きヨンシー・ビルギッソンの自信をへこませることはなかった。彼は『Ágætis』のリリース前にバンドのウェブサイトにこのような宣言を投稿した:「僕たちは音楽を永遠に変えてしまうつもりだ。みんなの音楽に対する考え方も」。

 2019年の今になっても、彼がこのミッションをどの程度成功させたのかということを考えるのは難しい。今私達が小さく柔らかでのどかな世界の中に生きていて、「Lush Lofi」「Ambient Chill」「Ethereal Vibes」といった刈り込まれた庭園の中で暮らしているのならば、私達はこうした状況の責任の少なくとも一部分を『Ágætis byrjun』が与えた衝撃に問うことができるだろう。これは我々の見る景色を一変させたアルバムである―日産のCM「プラネット・アース」のドキュメンタリー、そしてSigur Rósから許諾が得られなかったために彼らの音楽のレプリカを制作した広告の数々に至るまで、我々の生活の大部分はこの作品のような音で溢れている。

 『Ágætis』以前、ポスト・ロックはニッチな関心事だった。StereolabBark Psyhosisなどのロンドン勢、TortoiseGastr del Solといったシカゴ勢、モントリオールGodspeed You! Black Emperorといった1ダースほどの英国/北米のバンドたちを中心とした小さなサブ・サブ・ジャンルの一つだった。『Ágætis』以後、そのサウンド―巨大で、押し寄せるような勝利の音、メランコリックでなだめるようで大抵の場合メジャー・キーであり、ストリングスやホーンに囲まれ、メロドラマで満ちていて、聴き手を向こう側へ誘うようなサウンド―は世界的な現象になっている。彼らはRadioheadの始祖である:彼らが「Letterman」への出演を断ったのは司会者が十分な演奏時間を来れなかったからだ。彼らは「シンプソンズ」にも出演した。キャリア20年を数える彼らは、今やアリーナをツアーで回り、巨大なフォロワーたちを指揮している。彼らは文化的組織である。

 『Ágætis byrjun』がその後の大きな流れの変化のきっかけとなったのか、あるいはそのような変化はすでに起こりつつあり、その変化は自身を乗せて然るべき方向に向かわせる船を探していたのか、知ることは難しい。今日、Sigur Rósのキャリアは自然で理想的な弾道を描いているように思える。重要人物たちの耳に音楽を届け(Sigur Rósの場合、ブラッド・ピットグウィネス・パルトローといったセレブリティたちである)、そこからその音楽が大規模でいささか実験的な商業映画に使われ(トム・クルーズキャメロン・クロウの『バニラ・スカイ』)、勤勉な音楽監督の仕事を通じて世界中のいくつものテレビジョンに流れていく。しかしそれがSigur Rósに起こった時、それらはすべて新しいもので、音楽業界にも同時に同じことが起こっていたのだ。

 アルバムを制作するために、彼らはキャータン・スヴィーンソンという名のキーボーディストを雇った。彼はバンドが興味を持っている事柄についてバンドよりもよく知っていた。アレンジ、作曲、洞窟内のスパのように響く曲たちについて。プロデューサーにはケン・トーマスを迎えた。彼はQueenのアシスタントとして仕事を始めた後、Throbbing GristleEinstürzende Neubautenといった初期のインダストリアル・バンドたちを手がけた。彼はビョークが在籍していたSugarcubesのミックスも担当しており、その縁でSigur Rósとも仕事をすることになったのだ。

 そのトーマスと作り上げたこの作品は、まるで教会の鐘の中にハマっているような感覚を与える。この巨大なサウンドはサイズからではなく、スケールからやってくるものだ。「Svefn-g-englar」で8部音符を刻む小さいシンバルの音やビルギッソンのファルセットのような静かなノイズと、同曲の開始6分頃に聴こえてくるトールのハンマーのようなドラムやオルガンの音のようなラウドなノイズの間の距離は少なくとも1マイルはあるように感じられる。それは長く液状のサウンドであり、尖った場所がない。最も巨大でダイナミックな変化でさえ丸みを帯びたエッジを持っている。ドラムがとんでもないリヴァーヴの中にあるため、聴こえてくるのは衝撃の前にスネアの打面の周りに集まっていた空気の音だけである。ビルギッソンはチェロの弓を使ってエレキ・ギターを弾き、ピックに邪魔されることなくフィードバックのサウンドを鳴り響かせることができた。それは雷のようでありながら夢ここちであり、慰められるようで感動的である。マレット打楽器、ピアノ、ストリングス、甲高く甘美なヴォーカルが積み重なかった巨大でつややかなウェディング・ケーキである。これは聴き手を圧倒させるために設計された音楽であり、実際我々を圧倒する。英国のある批評家はこの音楽を「神が天国で黄金の涙を流しているようだ」とあえぎながら形容した。これほどのスケールを持った音楽が格式の高い人間と親和性を持ったことはなかったのだ。

 このアルバムは何よりもアレンジメントとエンジニアリングの面では大勝利を収めている。「Starálfur」でピアノが入ってくるところ(映画『ライフ・アクアティック』でジャガーザメを見つける場面で流れる部分と同じ)を聴くと、私は今でも感嘆の微笑みをこらえきれない。CGIのスーパーヒーロたちが攻めてくるところだったりとか、(私が思うに)高性能な車を目一杯ふかしてスピードメーターが上昇していくのを見ているような感覚である。音というよりは特別な効果を持ったもので、ドーパミンの洪水を起こすように脳とコミュニケートするのだ。

 気取った音楽を疑わしげに嗅ぎ回し、それが駄作かどうか確かめようとする人なら、そのような匂いがプンプンすることを誇りに思っているSigur Rósからほうほうの体で逃げ出したことだろう。これは彼らの別の面での魅力であり強みである。彼らの音楽は確かに複雑な手触りをしているが、感情面のフレームワークは意図的にシンプルで明快なのである。彼らは感情を発射することに見事なほどに恐れがない。ホーンとクワイアで倍増された、「Olsen Olsen」を締めくくるパイプのメロディはMannheim Steamrollerのクリスマス・アルバムから飛び出してきたかのようだ。

 ライヴでも、彼らは明瞭さを犠牲にすることなくこのような共同体的な感情を保つことができる。このライヴ録音は豪勢すぎるほどの20周年リイシューで聴くことができる。このギグは1999年6月12日、Reykjavík’s Íslenska Óperanで行われたアルバムリリース記念の模様である。リリースされたばかりだというのに、今現在と同じ程に堂々とした演奏を聞かせている。このボックスセットには他にも大量のデモ音源や半分完成した状態の『Ágætis byrjun』が含まれていて、ヴォーカルが入っていたり入っていなかったり、テンポが異なったりというような多数のヴァージョン違いを含む、彼らのオープンな制作のメソッドを覗き見るいい機会になっている。このような生の素材を聴くことはグーグル・ドキュメントの「ヴァージョン履歴」の機能を使うような気分になる。最終的なプロダクトが作られた過程を知ると共に、エディットの過程をより深く理解することになるだろう。

 再リリースを解剖しているうちに、私は再びそのアルバム自体に引き込まれた。苦労も、文脈を追加することもなく引き込まれたのだ。このアルバムの魅力は、それが純粋なまま、神秘的に空から降ってきたということにあるのだ。あなたがアイスランド人でもない限り、彼らが何を言っているのかはわからない―アイスランド人でもわからないことが多い。『Ágætis byrjun』の中で、ビルギッソンが道楽半分でホープランド語という言語を作り出したことは有名だ。「Olsen Olsen」の一部のほか、全体を通じて振りかけられている。このことはリスナーの一部に「彼が何を言っているのか」を突き止めるよう働きかけたが、大抵の人たちにとって、それは聴こえたままの音でしか無い。彼の言葉たちはメッセージではなく、鳥の鳴き声である。ビルギッソンが歌ってきた中で最も忘れられない単語は「tju」であり、意味不明な音節である。しかし「Svefn-g-nglar」の中で歌われるそれは当時も、そしてこれからも「It's you」と聴こえ続けることだろう。その他に解剖したり熟考したりするような意味はその中にはない―ただの素敵な音なのだ。我々はその中に自分自身を聴くのである。