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<Pitchfork Sunday Review和訳>Genesis: Duke

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CHARISMA • 1980

 1980年代、名声の有頂天にいたフィル・コリンズは、たくさんの、たくさんの批評家に向けて手紙を書くようになっていた。ドラマーからボーカルへと転向したジェネシスの一員として、そして一連のブロックバスター的ソロ作を通じて、彼ほどの人気を持っている人であればだれでも、この種のバックラッシュを食らうことは容易に想像できる。ソロ作のタイトルはすべて、まるで失脚したコメディアンの暴露本のようなタイトル――『Hello I Must Be Going』、『...But Seriously』、『Both Sides』――だったし、ジャケットには彼の顔のドアップが使われた。だって、それは彼の製品だから。彼の目を見つめ、その感情にどっぷりつかれば、あなたとフィル・コリンズの二人だけの世界がそこに広がる。

彼のパブリック・ペルソナのおかげで、彼は1976年にピーター・ガブリエルからボーカルの座を引き継いだ後、すぐさまこの芸術志向で本好きなプログレッシヴ・ロック・バンドを「フィル・コリンズ・ショー」に作り替えてしまったという誤解が存在している。そして今振り返ると、このバンドのスロウでダンサブルなバラード――1976年の ”Rippless...” と ”Your Own Special Way”、1978年の ”Follow You Follow Me”――の人気がどんどん高まる中で彼らは70年代の終わりを迎えたわけだが、それらの楽曲は名声へとつながるハイウェイへの出口標識のように、彼らのディスコグラフィーから出現したように思われるのだ。

ジェネシスプログレッシヴ・ロックからポップへと移行したこととコリンズのソロ・アーティストとしての浮上を同一視することは自然なことに思われるが、ジェネシスはずっとバンドであったのに対し、コリンズはずっと一つの声だけの存在だったというのが本当のところである。80年代のある地点で、コリンズとほかのバンドメンバーたち――キーボード奏者のトニー・バンクスとベーシスト/ギタリストであるマイク・ラザフォード――は、どのメンバーもスタジオに事前に準備した音楽的アイディアをもってきてはならない、というルールを決めたという。つまり、ジェネシスのアルバムに収録されるありとあらゆるものはグループ全員の参加によって作られなければならない、ということだ。このやり方によって、作られた音楽に対して一人のメンバーのみがクレジットされる(あるいは非難される)ということはなくなったのである。

このプロセスによって楽曲は3人の精神がジグソーパズルのように組み合わさったかのような(“Turn It on Again”)、あるいは挑戦的な実験を覗き見るような(“Mama”)、そして時には決して世に出るべきではなかった悪い類の冗談(“Illegal Alien”)のようなサウンドとなった。しかし何よりも、このルールはジェネシスに一つの指針を与えた:コラボレートの精神をたたえること、それぞれが個人で達成することのできる限界を超えること、そして、一緒になって何かを発見するような体験へと聞き手を招き入れること。

80年代に入る前から、このことは彼らの魅力であった。ジェネシスの楽曲では常に新しいものへのカーテンは開かれていた。“it” は未来的な機械が再起動するようなサウンドだし、“Supper’s Ready” は巨大な謎を少しずつ解き明かしていく。あるいは1980年の “Turn It on Again” だって、13/8拍子とテレビを見ている男についての歌詞、そしてまじりっ気のないリフが混ぜこぜになって何かラジオ・ヒット曲のようなサウンドに仕上がっている。それは聞き手を前のめりにさせることを目的としている。何度再生しても初めて聞くかのような体験を味わわせてくれる。

彼が批判されたのもそのおかげである。コリンズが言うには、彼を最もいらだたせたレビューというのは、サンフランシスコのジャーナリストがライブを酷評して彼を「ポップ界のマクドナルド」と呼んだものだったそうだ。しかし私が調べた限り、インターネット上にはこのような記事があったという記録はなかった。このフレーズをグーグルで調べたところで、コリンズ自身がそれを取材の際に繰り返しているものが出てくるだけである。

II

第1期のジェネシスは1967年に結成されたが、その名前もサウンドも彼らのものではなかった。イギリスのしゃれたチャーターハウス寄宿学校の友人たちが結成したムーディーで内省的なグループは、その学校の卒業生の中でももっとも高名な者の一人、音楽家でプロデューサーのジョナサン・キングにデモ・テープを手渡した。彼がThe Bee Geesのファンであることを知っていた10代のフロントマン=ピーター・ガブリエルは、精いっぱいロビン・ギブの物まねをして歌った。キングはその餌に見事引っ掛かり、彼らのデビュー・アルバムのプロデュースを申し出た。彼はバンドにジェネシスという名前を付け(もう一つの候補はGabriel's Angelsだった)、アルバムに『From Genesis to Revelation』というタイトルを付けたのも彼だった。そしてこのデビュー作は1969年3月にデッカからリリースされたが、合計で650枚しか売れなかった。「まあ、しょうがないね」とキングは考えて姿を消した。ガブリエルと彼の天使たち(Angels)は学校に戻った。

時を同じくして、Flaming Youthというイギリスの無名なバンドがスタジオに集まり、同じく最初で最後となるアルバムの制作に取り掛かっていた。彼らはケン・ハワードとアラン・ブレイクリーという二人の作曲家から、月面着陸に関するメディアの報道に関するコンセプト・アルバムを作らないかとアプローチをかけられていた。そのタイトルは『Ark 2』で、まず『Ark 1』を聞かなきゃいけないんじゃないかとリスナーを混乱させるようなタイトルだったし、筋書きは終末論、近代のメディアの危険性、愛の持つヒーリング・パワーといったものについてだった。バンドのメンバーは楽曲ごとに楽器をスイッチし、その作品の出来や自分たちのアイデンティティに関して不安を抱いていた。作品の中心には12分にわたる、惑星に捧げられた組曲が据えられた。それは笑えるほどに野心の暴走だったし、経験不足の演奏者たちは頭をかきむしるばかりであった。誰かこの曲を歌いたい人はいる?「僕がやるよ」、そう言ったのはドラマーだった。

III

セルアウトすることに関する覚書:ジェネシスがやった方法よりも簡単な方法はいくらでもある。彼らの転機はあまりにも自然に、そしてあまりにも簡単そうに見えた上、キャリアの最初の20年の間の中でこれほどの決定的なブレイクを経験したために、セルアウトすることと彼らが作った音楽には接点があるように感じられた。確かに、彼らは迎合し矮小化した。確かに、彼らはヒットを飛ばしたし、そのうちの一つTotoの “Hold the Line” に酷似していた。しかし70年代が終わったあと、多くの人気プログレ・バンドはヒッピーの聴衆に合わせて、より簡素な楽曲を作るのに腐心していたし、『アメリカン・サイコ』の主人公がたとえはJethro Tullの『Under Wraps』ではなくてフィル・コリンズに心酔していたかというのには理由があるのだ。

ジェネシスがやったことをやるには、自分のことを客観的に見れること、自分のことを批判的に見れること、そして適応する意思があることが必須となる。コリンズは自身の回顧録の中で、1970年にジェネシスに加入するためのオーディションを受けた際、バンドのやっている音楽に対してそこまで熱中はしていなかったと書いている:ちょっと凝っていて、少し優しいかな、といったくらいで。バンドに加入した後も、彼は必ずライブの演奏をテープで聞き返し、必死に間違えた個所を探していた。その10年間の間、彼は自分のことをゴールキーパーのような、後ろでどっしりと事態を落ち着ける役割を担っていると考えていた。彼が自分のアイデアを自信たっぷりにグループの中に提示することができるようになったのは、バンドメンバーとしては8枚目、リード・シンガーとしては4枚目となる『Duke』の制作からだった。製作期間中、彼はスタジオに最初に現れ、最後まで残っていた。「僕たちはいつもシングルを書こうと頑張っていた」彼はバンドの商業的成功のあと、どこか防御的な姿勢をとりながらこう語っていた。「でも今はどんどんうまくやれていると思うよ」。

IV

フィル・コリンズジェネシスのオーディションを受けた時のことを振り返って:

「フィルはちょっと早く着きすぎたので、彼の前のドラマーが片付けている間、プールに泳ぎに行かせたんだ」
―マイク・ラザーフォード『The Living Years: The First Geneis Memoir』より

「もしここ数年の間に何か教訓を得たとしたら、それは『すべての機会を無駄にするな』ということだ。田舎にあるプライベート温水プールに入ることができるなんて、そうそうあることじゃないからね」
フィル・コリンズ『Not Deat Yet: The Memoir』より

「フィルの番が回ってきたころには、彼は僕たちがオーディションに使っていたパートを聞いて覚えていたから、彼がキットの後ろに座れば、あとはどうなるか自明だった」
―ラザフォード

「彼は明るい性格でもあった。ジョークを言ったり、何でもできる感じの。僕たちとは違ったんだ」
トニー・バンクス『Sum of the Parts』より

「彼がドラム・ストゥールに座るのを見ただけで、こいつはいいぞ、と思った。自分がやることに自信が満ち溢れている人というのは見ただけでわかるんだ」
ピーター・ガブリエルPhil Collins: A Life Less Ordinary』より

V

初期のジェネシスについての記述ではいつも、ピーター・ガブリエルはまじめでシャイな人物として描かれている。一説によれば、彼はバンドメンバーのチューニングにあまりにも時間がかかるので、白けた空気をどうにかしようと、複雑なファンタジーの物語をステージの上で語り始めたのだという。やがて彼はステージ衣装をまとうようになるが、それは聴衆が多くなっていくにつれて自分の貧弱でぼんやりとした外見に不安を覚えたからだという。彼が妻の赤いドレスと狐のマスクを身に着けてステージ上に現れた時、バンドメンバーは何も知らされていなかった。もし彼らに事前に伝えていたら却下されるだろうということを知ってのことだった。

ガブリエル期はこのようにして進んでいった:23分の ”Supper's Ready” やブライアン・イーノの助力もあったアンビエント風の『The Lamb Lies Down on Broadway』など、疾風のようなビッグなアイデアと驚きを、長尺でコンセプチュアルな作品に落とし込むというやり方だ。その『The Lamb~』のツアー(アルバム全編を当時としては前代未聞のヴィジュアル・セットの中で演奏するという一大マルチメディア・イベントだった)の最中だった1974年、ガブリエルはソロに転向する時機であると決心した。彼の衣装の中には、あまりにも精巧にできているために着て歌うことができないものまであった。それは彼が直面していた行き詰まりの状況のメタファーとしてふさわしくないだろうか。

VI

偉大な、成功したバンドの中には拡張によって、あるいは大胆な再発明によって、あるいはその時期の需要を鋭く察知することによって進化を遂げた者たちがいる。しかし、私は引き算によってこれほどまでに柔軟に進化を遂げたバンドを、ジェネシス以外に知らない。ガイド役であり、商業的なヴィジョンを提供したプロデューサーのジョナサン・キングを切り捨てることで、ジェネシスアンソニー・フィリップスの12元ギターに焦点を当てた牧歌的なフォーク・グループとなった。フィリップが脱退した後は、ガブリエルのシアトリカルなヴィジョンに導かれるように、よりヘヴィなプログレ・バンドとなった。そしてガブリエルが脱退すると、彼らはよりアトモスフェリックなサウンドを発展させ、ギタリスト=スティーヴ・ハケットの斬新なスタイルを誇示した。そしてハケットが脱退すると、彼らはコリンズをボーカルに置いた3人組となり、メロディと作曲にフォーカスすることとなった。そしてすでに失うものなど何もない彼らは、世界で最もビッグなバンドの一つとなったのだ。

VII

「一瞬にして、清潔で、緑が多く、滑らかだった公園の地表は、汚く、茶色い色をした苦悶の物体で覆われてしまった。老マイケルは自分の肉体を地面にこすり続けている。今回はさらに幸せそうにすら見えた。そして彼は口笛で小さな音を奏で始めた。こんな風に…」
――1973年のジェネシスのコンサートでの、ピーター・ガブリエルによる ”Supper's Ready” の前口上

「オーディエンスに向かって何を話せばいいのか、それが一番不安だったことを覚えている。なぜなら、ピーターがやっていたことはコミュニケーションだったからだ。身近な隣人というよりは謎めいた旅人という感じではあったけど、それでも彼はオーディエンスとコミュニケーションをとっていた。そしてぼくはそれがすごい大事だと考えていた」
――初めてピーター・ガブリエルの代役を務めたショウについて、フィル・コリンズの回想。『Genesis: A History』より

VIII

 『Duke』という作品の制作が始まったのはフィル・コリンズの寝室でのことだった。短い活動休止期間を経て、コリンズ、ラザフォード、バンクスの3人は集まって新曲のデモを製作した。ラザフォードとバンクスはソロ・アルバムを製作し、コリンズは失敗した結婚の対処のためにカナダに飛び、家族を保つための最後の努力を行った。しかし結局それもうまくいかず、ほかのメンバーも各々の作業に没頭していたため、コリンズは不機嫌に飲んだくれるようになり、日本でのツアー中に送られたドラム・マシーンを使って一人で新曲を作り始めていた。

そして3人が再び集まった際に、コリンズは書き溜めていた曲のいくつかを披露した。バンクスとラザフォードはその中の2曲を気に入った。ヒット間違いなしの ”Misunderstanding” という曲と、優しいバラードの ”Please Don't Ask” という曲だった。そのほかの曲――その中には基本的なコード進行と、重たくスペーシーなアレンジが施された ”In the Air Tonight” も含まれていた――ははっきりとジェネシスらしくないと感じられた。コリンズはそれらを自分のソロ作のために取っておくことにした。

衰退と絶滅という主題が『Duke』の中を貫いている:バンクスによる ”Cul-de-sac” の偏執病的なコーラスでは「もう出口のそばまで来てしまったということに気がづいているだろう」と歌われる。”Duchess” という曲は、巨大な人気によって自分のアイデンティティが分裂してしまったミュージシャンについての曲のようだ。そして仮にこれらの歌詞が『Duke』に通底する感情を表しているのだとしたら、ジェネシスはそれを決して見せることを意図してない。『Duke』はブロック体の字と感嘆符を用いて書かれた、大胆で自信に満ちたアルバムなのである。メッセージは歌詞の中にではなく、音楽そのものに託されている。コリンズによる新こぺーとするリズムといつになく表現力豊かなボーカル、ラザフォードとバンクスによるギター・シンセとキーボード・トランペット――元の楽器の未来ヴァージョンとして鳴らされるために発明された楽器――にそれが感じられるだろう。ならされている音を聞いても、薄れていく関係性や失敗に終わった結婚生活のことを考えたりはしないだろう。彼らが自分たちのキャリアを長い組曲だと考えているとしたら、この作品はドラムのタムが打ち鳴らされ、再び活気を取り戻すような、そんなパートであろう。

IX

Duke』期のジェネシスのツアー映像を見ていると、まるでスーパーヒーローが初めて自分の持っている力に気が付き、まさに今信じられないことをやってのけた自分の手を呆然と見つめている、そんな場面を想像する。ドラムの演奏をツアー・メンバーのチェスター・トンプソン――Weather Reportやフランク・ザッパのMothers of Inventionでの活動で知られる――に任せたことで、29歳でひげ面のコリンズはマイクの前に立ち、聴衆が自分の掌の上であることに気が付いている。ヨーロッパやアメリカをツアーして、彼は満員のコンサート・ホールの観客たちがおり音楽と一体になっているのを感じていた。さらに観客の層も若く、多様なものになっていた。中にはフィル・コリンズジェネシスのフロントマンじゃなかったころを覚えていない人もいるように思えた。

 新曲を含むパートを始める際、コリンズは昔のことを懐かしく思うモノローグを披露した。彼はテレビに恋をした、アルバートというろくでなしの話を始める。すると、やがて彼をロマンス・コメディーの主役「マイアミ・バイス」のゲスト出演の座に導くことになる、彼の面白おかしいリズムで、彼は自分の言っていることは文字通りのことであることを明らかにした:「二日後、彼は病院に行き、アソコからガラスを取り除いてもらっていた」。その時観客が笑ったのは、彼のことを笑っていたのか、それともこの種の前口上を真剣に披露していた昔のジェネシスのことを笑っていたのだろうか。この話は『Duke』と関係があるのだろうか?とどのつまり、これらはジャーナリストに投げかけられた質問である。観客は雄たけびを上げる:バンドは今まさに新曲を演奏しようとしているところだ。

X

Duke』の中には80年代に向けたプログレの未来を垣間見ることができる。それはアルバムの一番最初ーートニー・バンクスが作曲したインストゥルメンタルの主題ーーに聞き取ることができる。高級そうなサウンドのシンセで演奏されるその音色は、スロット・マシーンの電光のように唐突できっぱりとしている。ジェネシスのトリオ編成が2007年に再結成ツアーを行った際、彼らはすべてのショウをこの楽曲のこのパートではじめ、残りの部分をオーディエンスの想像の中で演奏させた。

その “Behind the Lines” の残りの部分は、この作品の核となる相互に連結した組曲を指導させる役割を果たしている。バンドはこれをノンストップの、1面をまるまる使った組曲にすることを考えていたという噂もあった。それは、彼らのポップよりの方向性はレーベルのお偉方のヴィジョンとの妥協の産物、あるいはラジオにお熱を上げたフィル・コリンズがシングル曲を残そうと言い張ったからだと考えるような、裏切られた気分になっていたファンたちにしてみたら垂涎モノの話だった。しかし、音楽を分割することを決断したのも、プログレ・ロック的な仕草が古臭いものであまり刺激的ではないと判断したのもジェネシス内部でのことだったというのが本当のところである。

ある日、スタジオで “Behind the Lines” のテープを速度を変えて聞いていたコリンズは、それが少しマイケル・ジャクソン風に聞こえることに気がついた。おもしろい!しかし彼はそれをメモに書き留めておいた。数カ月後、彼はEarth, Wind, and Fireのホーン・セクションを招き、この速度を上げたヴァージョンを自身のソロ作のためにレコーディングした。それは『Face Value』というタイトルが付けられ、世界中で複数プラチナ・セールを記録することとなった。

楽曲のこれらの異なるヴァージョンーー一つはプログレユートピア的幻想、そしてもう一つは世界で最も有名なアーティストの跳ねるような模倣ーーによって初めて、コリンズのソロ曲とバンドの楽曲が明確に競合していることが示された。『Duke』のアルバム・ジャケットでは、一人の人物が窓の前に立ち、何かを見上げている:『Face Value』のジャケットに描かれた目は、その人物が何を見ていたかを伝えている。そこには実際の人間が立っていて、彼の未来こそが唯一の存在なのだ。

XI

プログレが生き生きと呼吸をし栄えていたところに、パンク・ロックがやってきてそれを殺してしまった、というのが批評界での通説である。この筋書きは、いつも私に一つの場面を想起させる。レザー・ジャケットを着た苛立ったキッズたちの集団がステージに押しかけ、年老いたイギリス人の帽子を奪い取り、オーディエンスが息を呑むうちにメロトロンのサウンドはプラグを抜かれてしまう、そんな場面を。

そこにはいくばくかの真実が含まれている。パンクが表象していたものーー怒り、政治、古い世代に飽き飽きしていた若い世代、より短い爆発的なエネルギーーーは、たしかにプログレが持っていた一つのヴィジョンとは正反対であるように思えた。しかしパンクに似たものがシーンに出てきた頃には既にプログレにも変化の兆しがあったし、ジェネシスはそのキャリアを通じて着実に変化を遂げていた。死刑宣告になってもおかしくなかったセルアウト的な動きは、もし彼らがなんにも起こらなかったかのように、同じような音楽を作り続け、既に好いてくれている人たちに媚びを売るようなことをやっていたら本当に死刑宣告となっていただろう。

Duke』はそれはとは正反対のアプローチを取った。それは分断を生む作品だった:もしあなたがジェネシスのファンだったら、彼らのこの10作目の作品はあなたが「降りる」と決める作品か、改めて注意を払う様になるかどちらかである。彼らの作品の中にはもっといいものがたくさんある(70年代の作品はほとんどすべてがそうである)し、商業的に更に成功を収めた作品もたくさんある(80年代の他の作品すべて)。しかし、彼ら自身の生存にとって最も重要であったのはこの作品である。ラザフォードは自身の回顧録の中で、このアルバムの成功の後バンドは改名することも考えたという。その会話からは何も生まれなかったーー代替案をブレイン・ストームすることもなかったーーが、それでよかった。なぜならメッセージは既に送られていたからだ:ジェネシスというバンドを知ったつもりでいるのなら、それは間違いである。彼らは常に団結し、互いに刺激しあい、そしていつだってここからが本番なのである。

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