海外音楽評論・論文紹介

音楽に関するレビューや学術論文の和訳、紹介をするブログです。

<Bandcamp Album of the Day>Maria BC, “Devil’s Rain”

Maria BCが自身のデビューEP『Devil's Rain』を録音したのは、ロックダウン中に感じたアパートでの孤独からだった。その声を優しいささやきにとどめ、甘美なギターのループと柔らかいオペラ風の音楽の上で、そして孤独な生活の制限を利用して。その結果出来上がったこのアルバムには親密な感じとともに広がりを感じる。クラシック系のボーカル・トレーニングを受けていることは明らかであるが、力強さは切り取られていて、その代わりに繊細なアルペジオ、光沢のあるハミング、そして柔らかく、はちみつのような甘い歌声など、抑制の中にそれが堂々と現れているのだ。その結果、Norah Jonesのようでもあり、Annie Lennoxのようでもあり、『X-Files』のようでもある。

『Devil's Rain』というタイトルは、天気雨は邪悪な魂のなせる業であるという言い伝えがもとになっている。その通りというべきか、Maria BCはこのような類の矛盾――雲なしで降る雨、一人での合唱、置きながらに見る夢――の中を泳いでいく。歌詞的には、このEPはロマンスと宗教の間のバランスに攻撃し、これら二つを優しい手つきで融合しこれら二つが同じスペクトラムの中に存在するということを示唆している:”The One I’ll Ask” でMariaは「あなたこそ私が自分を裁くのをお願いする存在」と優しく歌い、その力を触れることのできない精霊から恋人の手へと手渡していく。肉体的な意味、そして比喩的な意味での「触れること」が今作で繰り返し提示される主題である――タイトル曲では太陽がMariaを「抱える」し、”Adelaide” における主体は「この歯を通じて」こちらに手を差し伸べることを拒否している。『Devil's Rain』では、人間同士のつながりによってもたらされる単純な充足が超越性を獲得している。

By Arielle Gordon · February 08, 2021

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<Bandcamp Album of the Day>Tele Novella, “Merlynn Belle”

「どこへいってしまったの/その行方を誰も知らない」テキサスのサイケ・ポップ・バンド、Tele Novellaの2作目となる『Merlynn Belle』の幕開けで、Natalie Ribbonsはこう歌う。爪弾かれるフラメンコ風のギターとぜんまい仕掛けのおもちゃでえんそうされているかのようなミニマルでぐらつくパーカッションの上で口ずさむように歌う彼女の声はなめらかで情感豊か。それは、喪失の経験そのものというよりも不在という恒久的な存在と、その結果陥ってしまう簡単に抜け落ちてしまったものを取り戻そうとする妄想に関する作品である本作にうってつけである。その曲のコーラスでは「ここにとどまってくれる言葉」とも歌われている。

『Merlynn Belle』を通じて、Tele Novella(今はRibbonsとマルチ奏者のJason Chronisの二人組である)は、もう過ぎ去ってしまったものの形を想起させるために絶妙にディテールの凝った、しばしば映画的とも言えるような想像力を用いている:前は絵がかけられていた壁に残る跡、寺院が「罪人に捧げられていて/蝋燭の明かりに照らされていて」ほしいという願い、シャンデリアから振り落とされてきた水晶を晩餐で食す冷徹な女魔法使いの物語。「この目が人の顔を探しているように、心は物語を追い求めている」と、Ribbonは繊細なバロック・ポップ・バラード “One Little Pearl” で歌い、置いていかれたものを列挙することで物語の輪郭を描き出す:ボンネット帽子、日記、そして古い歯。「小さな真珠/それを牡蠣の自叙伝に添える」Ribbonはこの曲の奪われた結末に置いて、少し声を震わせながら高音域へといきなり舞い上がっていく。

空想の領域というのはTele Novellaにとって未踏のものではない。2人の2016年のデビュー作『House of Souls』はシンボリズムと輝くようなシロフォン、虹のようなシンセ、リヴァーヴが深くかかったボーカルがふんだんに用いられた、奇妙な夢の世界を旅するアトモスフェリックな作品だった。今作でも同じようにティンパニ、ベル・チャイム、そして時折聞こえるファズのかかったエレクトリック・ギターなど奇妙でレトロなサウンドは使われているが、サイケデリックな装飾が本作では優しいパステル・カラーに置き換えられている。一つ一つの楽曲が個別で制作・録音されたというが、入念に作り込まれたインストゥルメンテーションの上で亡霊のようなメロディがゆっくりと前景化していくさまを聴くと、それがこの複雑さと開放感を与えているように感じる。Tele Novellaはさらにその音の絵の具箱の中に、20世紀中盤のカントリー・ウェスタンを少しばかり加えている。それは、姿見のこちら側から壊れた夢の断片をふるいにかけるにはうってつけの愛に満ちたジャンルではあるが、また二人のタロットカードような中世的なものへの強い偏向を、馬小屋で行われるオカルトの儀式やルネッサンス・フェアーをさまようLee Hazlewoodの魂のような、気まぐれな時代錯誤へと変えてしまう要素でもある。

その気まぐれさを抜きにすれば、二人の謎めいたワゴンを意図的により三次元世界へと近づけることによって、Tele Novellaの音楽は、特に感情のひび割れをこちらに見せてくる時などには、心が引き裂けるほどの優しさを持ちうるような人間的な優雅さを獲得している。松明のような ”Desiree” では、RibbonsはFrançoise Hardyの煙たい亡霊を呼び出し、漠然と告白を始める。「私はまだ、それが自分であると信じている/あなたは生きていくために私の元へ戻ってくると/だから何年もドアに鍵は閉めていない」と。その1曲後には彼女は悲しみが結晶化したような泣き声を解き放つ。それはこのバンドの本拠地であるテキサス州の小さな町の荒涼とした丘に響き渡るかのようである。この作品の最後にとどめられた言葉は、魔法は自分の欲望を結晶やろうそくでこの世界に押し付けるものでなくてもいいということを明らかにしてくれる。だって、自分のこのちっぽけな心の回復ほど魔法のような出来事なんてこの世界にないのだから。

By Mariana Timony · February 05, 2021

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<Bandcamp Album of the Day>Star Lovers, “Boafo Ne Nyame”

1987年、シンガーのK. Aduseiとやがて有名なレコード・プロデューサーとなるFrimpong Mansoは、多くの偉大なハイライフ・ミュージシャンがスターダムへの階段を駆け上がったAccraの音楽スタジオで出会った。その2人は共に、ガーナで最も広範なハイライフのアルバムの一つである『Boafo Ne Nyame』を作り上げることになる。この作品は植民地支配時代以前の伝統的なスタイルと、アフリカ大陸を飲み込んでいったファンク、ポップ、レゲエ、そしてシンセの影響を統合したノスタルジックな作品だった。ハイライフという名前の由来は植民地支配期にその音楽がガーナのエリート階級のために演奏されたからである。高級ジャズ・クラブでこのアフリカと西洋の折衷的な音楽を聞くためにはフォーマルな格好をすることが求められたのである。その後1957年にガーナが独立すると、この音楽はセプレワなどの伝統的弦楽器の代わりにギターを用いてガーナ的なサウンドを作り出そうとする「ギター・バンド・スタイル」によって大衆のものとして再生した。『Boafo Ne Nyame』において、K. Aduseiはハイライフのリスナーが好む3つのトピック、つまり信仰と家族、そしてお金についての機知に富んでいて哀愁のある歌詞と共にそのサウンドを体現している。

タイトル曲である “Boafo Ne Nyame”(“God is a Helper” の意)は、人間の破壊的な行動に対して神の介入を願うスロウなレゲエ〜ファンク〜ゴスペル・バラードである。Aduseiのくだけた口調で歌うスタイルの中で、彼は「お金がこの手に落ちてきたかと思えばそれは燃えてしまって、私は神にこの私を追いかけてくる炎を消してくれとお願いするのです」と叫ぶ。ドラム、シンセ、ギターの弦による鼓舞するようなビートは、彼の歌詞の中の自暴自棄な雰囲気と比べるとユーモラスである。“Asem De Ye So” (“Our Problems Are On Us” の意)はファンクやソウルに深くルーツを持つ(ギターリフにその影響を聞いて取ることができる)、速いペースのダンス・ジャムであり、そこにディスコ的なテーマやハイトーンでメロディックなバッキング・ボーカルが乗っかる。冒頭の2音のドラムのフィルに続いてエレクトリック・ギターのメロディックな2フィンガー・ピッキングの音色は、アフロ・ヘアーとベルボトムで溢れかえっていた当時のダンスフロアを沸かしたであろうということを容易に想像させる。8分間のこの楽曲はこのアルバムの中で最も長く、最もアップビートな楽曲である。

ボーナス・トラックの一つ “Abusua”(“Family” の意)では、Aduseiは少しばかりのポップさと共にファンクとソウルを再び持ち出している。Asieduは歌う、「お金を持っていればいるほど、家の中から多くの家族が出てくるようになる」と。これがハイライフの美しさである:ファンキーなリズムと面白おかしい歌詞が社会の姿を映し出し、もっと良くなろうという気持ちにさせてくれるのである。

By Ama Adi-Dako · February 04, 2021

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<Pitchfork Sunday Review和訳>Devin the Dude: Just Tryin’ Ta Live

 

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Rap-A-Lot / 2002

Devin Copelandはラップよりもブレイクダンスに熱中していた。テキサスを渡り歩いていた1980年代中盤、彼は目に入ったダンス・クルーであればどのクルーとでも繋がりを持つことが出来た。ありのままの彼自身でいることは、彼が思いつくようなどんな誇大なペルソナにも勝るものであった。彼は落ち着き払った、愛すべきならず者であったが、ヒューストンの友人たちが知っているところのこのDevinはScarfaceの “Hand of the Dead Body” のミュージック・ビデオによって全米に紹介される人間とは異なっていた。そこに映っているDevinは、ScarfaceとIce Cubeを擁護するプロテストが一帯で起こっている中、卑劣な強盗としてパトカーの横に立っている。これがDevin The Dudeが今後7年間の間で最もシリアスになっている瞬間である。

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Devinは常に「the dude(=やつ)」だった。カラフルなキャラクターが多く在籍したRap-A-Lot Recordsの長い歴史の中で、ヒップホップにおける理想的なスター像に決してフィットすることのない、ただのキャスト・メンバーであった。彼はScarfaceのような謎めいた雰囲気も、Bushwick Billのような爆発的なステージ上の人格も、Big Mikeのようなブラント裁きも持ち合わせていなかった。彼と彼のグループであるOdd SquadーーJugg Mugと盲目のラッパー、DJ Rob Questが参加した、不適合者たちが親友と鳴って結成されたパンピー3人組ーーはRap-A-Lotのすべての伝統的論理を拒み、挑戦した。彼らは面白おかしいクラスのお調子者で、サンプルやインストゥルメンタルをいじくり回して愉快な唯一のアルバム、『Fadanuf Fa Erybody』(1994)を発表した。The Odd Squadのサウンドはヒューストンのざらついた雰囲気に接近することはなく、代わりにMilt JacksonやThe Crusaders、The Five Stairstepsの知る人ぞ知るサンプルを用いていた。東海岸のブーン・バップのようでもあり、セックス(“Your Pussy's Like Dope”)やウィード(“Rev. Puff”)についてのジュヴナイル・ラップでもあった。アルバムは大失敗に終わり、Rap-A-Lotはその後、Scarfaceの『The Diary』に全リソースを注入していくことになる。Odd Squadの2作目の夢がレーベルによって立ち消えさせられると、Devinは自分の力だけで十分だと決心するに至ったのである。

わざとらしく、絶妙に名付けられたDevin the Dudeのセカンド・ソロ・アルバム『Just Tryin' Ta Live』発表への道のりは、まるで彼がスターダムへの準備をしているかのようだった。Scarfaceが1998年に発表し、やがてカルト・クラシックとなっていく『My Homies』に収められたセックス・アンセムである “Fuck Faces” のコーラスに参加し、その一年後にはDr. Dreの弟子であるMel-Manと一緒になったライブでDevinを見かけたDreが、爆発的ヒットを収めたアルバム『2001』の “Fuck You” に参加してくれと声をかけた。ストーナー・コメディのサウンドトラックに引っ張りだこだったヒューストンで人気のウィード・ヘッドは、いきなり街の外側でも知られるようになったのだ。彼は2017年Noiseyの取材に対し、「自分のことをスターだと思ったことはなかった。みんなと一緒だと思ってたし、女をゲットできないときだってあった」と語っている。

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Devinのデビュー作『The Dude』(1998)は『Fadanuf』のひょうきんな雰囲気を、ScarfaceやOdd Squadその他のヴァースでくるんでパッケージしたものだった。作品にな “Fuck Faces” でDevinをスターに仕立て上げたような、粗野でセクシュアルなユーモアをすべて持ち合わせていたが、アルバムが進むにつれて平らにならされてしまっていた。Devinはこの『Just Tryin' Ta Live』でユーモアよりも音楽に重きを置こうと考えていたようで、2002年のMTVとのインタビューの中でアルバムにはもっと「シリアスなリフ」が含まれていることをほのめかせていた。Devinのサウンドの世界観――グリーンで、靄がかっていてファンキーな――には、よりディープな意味を含むスペースも持ち合わせていた。

そしてよりシリアスになろうとする試みの中で、Devin the Dudeは彼の隠された力をアンロックした:ヒューストンの同期たちのだれよりもリアリスティックな瞬間を作り上げる力だ。『Just Tryin' Ta Live』は聞いているあなたがDevinのようになりたいと切望する必要すらない種類のラップ・アルバムである――だって彼はハイになっていて、魅力的な存在ではないからだ。これは穀つぶしによる60分間に及ぶ音楽作品で、ナレーターは日がわりでだれが務めたっていい。チャーミングさと自信によって、Devinはくそみたいな車を持つことですら肯定してくれるのだ――車を持っていさえいれば、その時点で勝ちだ。ほかのヒューストンのラッパーたちはマフィオーソのファンタジーに耽溺し、資本主義的なフレックスに終始していた。Devinが生きる世界は過酷なものだったが、それでも彼はそれをのんきにやり過ごしていたのだ。

アルバムの最初では、『Just Tryin' Ta Live』はDevinの将来のすーたースターというステータスと、彼の親しみやすい怠け者という性格のバランスを取ろうと試みている。そこでは世界で一番、ましてや近所で一番のラッパーになることよりも「ハッパとビール」で頭がいっぱいな男、というDevinの平平凡凡な青年というペルソナが磨き上げられ、拡張されていた。そのことを作品にしたり、そういうアプローチをとることのできるアーティストは限られていた中で、Devinはアルバムを丸々一枚使ってそれに取り組んだのである。1曲目の “Zeldar” は空間と時間を超えて旅をするエイリアンが、ウィードを吸って不安を解消しながら浮浪人であり続けるさまを想像している。「フッドに入れば/歓迎はされるが全然平気じゃいられない/いろんな肌の色が様々、俺のことを変人のように見てくるんだ」。Devinが楽しみを振りまく中、その周りをプロデューサー=Domoのピアノとカートゥーンサウンドエフェクトが飛び交う。「俺の名前はZeldar、買い物はWalmartに行く」。

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彼は名声の持つ高みに憧れているかも知れないが、平凡な生活にも楽しみを見出している。ゆったりとしたテンポのファンク・オデッセイ “Lacville '79” は、Devinが近所のゴシップを小耳に挟みつつ、彼の愛らしいオンボロ車のせいで疎まれるという展開を見せる。1979年式キャデラック・セヴィルという彼にとっての外世界への出入り口がある限り、彼は頑張ることができるーーたとえ汚い警官が彼のダッシュの下の隠し場所をしっていたとしても、通行人がそのボロボロの車をジロジロと見てきたとしても。“Go Somewhere” で、彼は自分がDr. Dreのアルバムに参加している人間であるにも関わらずクラブのエントランスで止められて中に入れさせてもらえなかった夜のことを酔っ払いながら愚痴る。「ドアのバウンサーは俺が入るために嘘をついていると思ったのさ」とラップし、やがて「お前がラッパーなわけない、だってゴールド・チェーンやダイアモンドはどこなのさ?」と詰め寄られる。

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『Just Tryin' Ta Live』が外部の視点を取り入れようとする瞬間は、中途半端で自虐的なラップと比べてより耳障りなものだ。“Some of 'Em” では、Xzibitが特定の名前を挙げずに敵を攻撃し、Nasは3人の有名なMikeーーJordan、Jackson、そしてTyosnーーに対するメディアの詮索やレイシズムを糾弾する。そのような野心がDevinには欠けている。彼の世界観は自分の生存を中心に形成されている。彼の世界の主人公は、ただそれが楽しい仕事だからラップが好きなのである:吸って、ヤッて、飲むこと。ときに彼はその3つすべてを遂行することに成功した。

Devinは自身を、何にも繋がれていないフリー・セックスを愛する罪人、一つのものにずっとコミットすることのない放浪者として描いている。しかしそれがパーティー・アンセムのように聞こえないのは、その直ぐそばにリッチであることと貧乏であること、そして幸せの媒介物を探し求める彼のリアルタイムな苦しみがあるからだ。これらのすべてが表現されているのがアルバムの象徴的な瞬間、DJ Premierがプロデュースした “Doobie Ashtray” だ。彼のトレードマークであるスクラッチ、眠たいギターの音色、そして深海のようなベースラインの中で、Preemoは子供時代を過ごしたテキサスのルーツを使って、Devinと一緒にモダン・ブルースを奏でている。「リッチなやつは一気に全てを失って、どこにも行き場がないように感じることがある」Devinは2002年、MTVにそう語っている。「でもそれほど多くを持っていないやつは、一本のジョイントを失っただけで自分が取り残されたかのように感じるかも知れない。この曲はその事跡どう向き合うかということを問うているんだ。お前の次のステップはなんだ?って」紛うことなきストーナー・クラシックである “Doobie Ashtray” は、Devinの哲学の中心にある問いを投げかけている:Are you more with less or less with more?

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平凡な人間としてのラップスターになりたいというDevinの欲求はScarfaceに由来する。Odd Squadの唯一のアルバム『Fadanuf Fa Erybdody』をオールタイム・フェイヴァレットに挙げてくれる彼の存在なくしては、Devin the Dudeのソロ作は生まれなかった。それこそがこの二人の男の物語ーー一人はこの世界に引力と裏切りを見て、もうひとりはそれによってだめになった者を見て、その消耗を望まなかったーーが絡み合っている理由である。それがヒューストン・ラップの<道>である:社会の闇を歌い、それが自分にどう影響しているかを語りたがる頑固なラッパーもいれば、ただその社会の内部で生きて満足したいと思う者もいるのである。

ウィードの霧の中で一匹狼として生きる諦められた日々の楽観主義はタイトル曲と最後の曲で急に終りを迎える。膨れ上がったギターとドラムの上で、Devinはその安全地帯から飛び出してたいという欲求をラップし、最後になってまた態度を和らげる。「俺はただ、ヒットを飛ばして生活ができればいいと思って書いていたんだ/でもそれを嫌がるやつもいた」と彼は振り返る。「でも…そんなことはマジで関係ねえ」。これは映画のクライマックスであり、誰にも邪魔されず悪癖の中で人生を楽しむことを心情としていたDevinはそのプレッシャーに潰されることを拒むのだ。彼は決心する。自分自身でいることで、誰かになろうとするよりももっとクリアな状態になれるのだと。

『Just Tryin' Ta Live』はDevin the Dudeが自分の信じることを信じぬく物語である。運命は彼の友達でありファンであるDr. Dreや彼のアイドルの一人、Too $hortを見つけたのと同じようにはDevinのことを見つけてはくれなかった。このアルバムの作者は名声のことを、昼の仕事の副産物に過ぎないと捉えている。彼はキャリアの中でその明確なアウトラインを持ち続けていく:ラップを謎めいたペルソナとしてではなく、職業と考えることの簡潔さ。そのスタイルは、Larry June、Curren$y、Le$といった、ラップして、吸って、クールなシットを楽しむだけの自立した男たちという弟子たちを巻き込んでいった。『Just Tryin' Ta Live』でのDevin the Dudeは誰しもの手が届くところにいる:人民による人民のための男であることこそがお金では買えない名声であることを彼は知っていたのだ。

BY: BRANDON CALDWELL
JANUARY 31 2021

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<Bandcamp Album of the Day>Ploho, “Фантомные Чувства”

ロシアのバンドPlohoの最新作『Фантомные Чувства』は、英語で“phantom feelings(=“幻の感覚”)” を意味する。作品に相応しいタイトルである:このシベリアに拠点を置くバンドは、メランコリーの香りのするクラブ・ミュージックを好む人でごった返す、潜るような空間の亡霊のようなイメージを想起させる。

『Фантомные Чувства』に収録された楽曲には、その後数十年の間にゴスやダークウェーヴのシーンを形成することになった音楽である初期のポスト・パンクNew Orderの『Movement』とClan of Xymoxの『Medusa』がいい参照点になるだろう)から影響を受けた、冷酷で外科医のようなシンセ・ポップと、グイグイと引っ張るようなリズムが混在している。“Танцы в темноте(ロシア語で “dancing in the dark” を意味する)” の中心にあるリフは80年代のゴス・ポップの泣き叫ぶようなギターを思い起こさせるし、その運動直線は “Старые фильмы” で頂点を迎え、その後 “Песни окон и стен” で満足げに去っていく。それは記憶に残る一夜の最後のダンスのような、ほのかに暗く、すぐにでも口ずさめるような一曲であり、過ぎ去ってしまった夜へのノスタルジアへといざなうとともに、また再び訪れるそれへの希望も残していく。

By Liz Ohanesian · February 03, 2021

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<Bandcamp Album of the Day>Ennio Morricone, “I Due Evasi Di Sing Sing”

1960年代のEnnio Morriconeの映画スコアがリイシューされたと聞いて、ポンチョとカウボーイ・ハットについ手が伸びてしまったカジュアルなファンも多いだろう。しかし『I Due Evasi Di Sing Sing』はスパゲティ・ウエスタンではないーーこれはマヌケな泥棒二人を描いたコメディであり、監督を務めたのはのちにクレイジーで素晴らしいホラーやファンタジー映画を手掛けることになるイタリアの伝説的カルト映画作家=Lucio Fulciである。Morriconeとセルジオ・レオーネの初コラボレーションとなった『荒野の用心棒』と同年の1964年に公開されたこの『I Due Evasi Di Sing Sing』は、カウボーイ・ブーツよりもスキニーなネクタイが似合う、キリッとしたビッグ・バンド・ジャズ風の作曲が多く、この作曲家の腕前の全く異なる側面を如実に示している。

サウンドトラックはそれらの楽曲が映画的な目的のために作られたということを忘れさせてはくれないものだがーー例えば “Le Sedie Elettriche” の茶目っ気たっぷりのサウンドは耐えられないほどのぶりっ子ぶりであるーー、それでもそれ単独で成立してしまうほどのクールさを湛えている。“Il Boss E Le Pupe” や “Incontro Dei Boss” のスムースなサウンドやブラス、ジャズ・ドラム、そしてヴィブラフォンらしき音色が作り上げるカクテル・ラウンジ・ジャズはどうだろう。無声映画風の印象的なソロ・ピアノの演奏が聞ける “Ballerine” や、真夜中のノワール風で、象牙色に輝く “All Night Club” と言った楽曲もある。

『I Due Evasi Di Sing Sing』のサウンドトラックはもともと極めてレアなプロモ盤が色々異なるタイトルで出ているだけだった。この新たなリイシューはMorriconeの「重要な鑑定人」であるClaudio FuianoとDaniel Winklerの助けも借りつつ、Sonor Music Editionsの長=Lorenzo Fabriziによって集められたものだ。このチームはマスター・テープを修復し、もともとのサウンドトラックのシークエンスにセッションから取られた2つのボーナス・トラックも加えられている。Morriconeの文句のつけようのない晴天の中でも重要な時期のものがこれだけクリアな状態で聞くことができるのは彼らの努力のおかげである。

By Dean Van Nguyen · February 02, 2021

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<Bandcamp Album of the Day>Madlib, “Sound Ancestors”

理論上、MadlibFour Tetの組み合わせは奇妙であるように思える:前者はジャズ、ファンク、ヒップホップに根差した、サンプルを主体にしたビートを作るのに対し、後者は電子音をきしませ、そこにテクノ、アンビエント、難解なダンス・ミュージックをこちゃまぜにしてかけていく。しかし、両者の違いはそれだけであるといえばそれだけである。両者ともにジャンルの中に閉じこもったり、あるいは自分に期待されていることに恩義を感じたりはしない。『Sound Ancestors』は名義上Malibのアルバムということにはなっているが、実際のところは近年彼がラッパーのFreddie Gibbs兄弟のOh NoドラマーのKarriem Rigginsと作ってきたようなコラボレーション・プロジェクトである。

このアルバムは何百ともある彼の未完成・未発表のビートや、彼がここ数年間でほかのミュージシャンたちと録音してきた生楽器の演奏から選び取られたものである。Four Tetはその素材を受け取り、Madlibの現時点までの仕事の集積としてこの『Sound Ancestors』のスケッチを描いた。彼の特徴でもある無秩序さをいくらか残しつつ、新しいリスナーのために少々リファインも加えている。“The Call”の押し寄せるようなパーカッションとループするベースは、Madlibの『Rock Konducta』シリーズのグランジ―な要素を体現している。“Hang Out (Phone Off)” のラウドなエレクトロ・ファンクのバウンス感はブラック・エンパワーメントやモンサントの恐怖についてのヴァースを確約するようで、Georgia Anne Muldrowに提供したトラックを思い起こさせた。アルバムの後半――特に“Latin Negro” や “Duumbiyay”――ではFour TetMadlibの国際的な側面を取り扱っている:彼の高名な『Midicine Show』シリーズの2~3作目で聞かれるようなものに似ている。

その結果、再利用されたサイケ・ロック、オブスキュアなソウル、そしてドラム中心のブレイクビーツが靄のように漂う41分の広大なセットが完成した。全体を見れば、この作品はMadlibの多くの側面を表している:レコード漁りが好きなジャズ・ファン、そしてブラジルやアフリカのサウンドを愛している熱心な自作農といった。Four Tetの助けを借りることによって、この作品はMadlibこれまで作品の緩さを引き継ぎつつ、滑らかなで一貫性のあるステートメントであるようにも聞こえる。Madlibの作品はいつもそうだが、いったい「これ」が金庫の中でどれだけ眠っているのだろうと思ってしまう。しかし歴史が繰り返すものであるとすれば、『Sound Ancestors』はより広いヴィジョンに向けた最新の第一歩であるにすぎない。これは、あなたが聞くまで自分がそれを必要としていたことも知らなかったような、そんな音楽だ。

By Marcus J. Moore · February 01, 2021

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