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<Pitchfork Sunday Review和訳>Sonny Sharrock: Ask the Ages

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AXIOM • 1991

  ソニー・シャーロックはギターを弾きたいと思ったことがなかった。彼は初めてその楽器を手にしたときそれを嫌いさえした。1960年、彼が20歳のころである。そして彼は自身の表現の可能性を急激に広げ、自分のヴィジョンに合うように作り直し、さらにはこの楽器の演奏者として右に出る者はいないというほどの地位にまで上り詰めた後でさえも、その態度に頑固にも固執した。あるいは、自分が死ぬその日まで、記録に残るような場所ではそう主張し続けただけかもしれない。「俺はギターが大嫌いだ」(1970年の発言)、「俺はギターが好きじゃない。ちっとも」(1989年の発言)、「好きじゃない」(1991年、彼の最後の作品であり、最も優れたそれでもある作品をリリースした2か月後)、「ギターの音が大嫌いだ」(1992年の発言)、「あの楽器はあまり好きじゃなかった」(1993年、彼の死まで1年を切ったころの発言)。

 彼は10代のころ喘息を患っていたが、それでも彼はドゥーワップを歌ったり、彼の故郷であるニューヨークのオシニング駅周辺で50年代に育った子供に与えられていた路上でのいたずら行為に精を出すことを妨げられはしなかった。しかし、『Kind of Blue』との出会いによってジョン・コルトレーンの教会へと導かれた彼が欲しがったテナー・サクソフォンは例外だった。知人がギターを持っていたので、彼は代わりにそれを手に取った。彼はこの決断について、「若者がストリートで命を落とす要因であるあらゆるもの」から守ってくれたと確信をもって語っている。それでも彼はギターを嫌っていたのだ。それは、コルトレーンをはじめ、フリー・ジャズのパイオニアであり、コルトレーンと共にメロディやリズムといった西洋的概念から一歩先を言った音楽を鳴らしていたファラオ・サンダースアルバート・アイラーといった彼の愛するテナー奏者が表現していた、恍惚とした人間性の発露というものを表現するのにギターは向いていないと彼が信じていたからだ。ソニー・シャーロックにとってギターとは、だれが演奏しようと同じサウンドになる楽器だった。感情を乗せられないのだ。

 シャーロックが尊敬していたミュージシャンたちはほとんどみな、10代にして野外ふぇすで演奏したり、自身の才能を真剣に磨いていた。若者として、彼はジャズに触れるのが少し遅く、通常の方法(ほかのプレイヤーを研究したり、リックを吸収したのちに自身のスタイルを発展させていく)で音楽を学んでいては間に合わないと感じた。そこで彼はその思い入れのない楽器で、その時々の自身の能力の範囲内で思いっきり自分を表現することに決めた。もし彼が自分にとってのギター・アイドルのような存在を探していたとしても見つからなかっただろう。なぜなら、ソニー・シャーロック以前に彼のようなギターの弾き方をする人はいなかったからである。

 シャーロックに肩を並べるのはジミ・ヘンドリクスくらいであろう。彼はエレキ・ギターを限界まで押し広げ、どんなサウンドがそこにあるのかを探究した。ヘンドリックスの最も野心的な音楽、例えば1970年の “Machine Gun” は極端なヴォリュームとそれに伴うフィードバックとディストーションが用いられ、自然発生的な外界のエネルギーを手なずけ、自分の思うままに操っていた。彼がギターソロの途中でギターを置くと、そのギターは彼の手から離れた後も叫び声を上げ続けていた。シャーロックは、ヴォリュームは常に10のうち4に固定することを好んでいたが、まるでホーン奏者のように、何もしなければ無音で横たわっている物体に命を吹き込むようなプレイヤーである。彼が鳴らすすべての音――スライドが指板の端を飛び越え、ピックがミュートされた弦を叩き、素早く激しくコードをかき鳴らし接近中の竜巻のような音を立てるなど――は運動の力学によるものだった。このエネルギーは彼の中に存在していた。

 シャーロックは常に、自分のことをたまたま違う楽器を演奏しているサックス奏者だと考えていた。彼のもっとも大きな影響源はアイラ―かもしれない。彼のテナー・サックスへのアプローチはシャーロックのギターに対するそれと同じくらい妥協を許さないものだった。二人ともまるで子供が作曲したような明るくて明瞭なメロディーを好み、それを裏返すようなメロディーを書いた。民謡を演奏していたかと思うと、まるでガラスが割れる音のように五線譜に起こすことが不可能であるような音楽に作り替えてしまう。単一のノイズの強烈さがメロディー全体と同じほどの表現力を持つこともある:二人の間にほぼ違いはなかった。彼らは、全ての音楽表現を支配しようとした西洋的な考え方に縛られることを拒否した黒人であり、想像力豊かな思想家だった。しかし彼らの音楽は何かの否定であるだけではない。何かの否定を主眼に置いたものですらなかった。それは自由、超越、そしてその向こうに横たわるすべてのものを喜びのうちに抱擁することについてのものだった。

 かれはバークリー音楽大学を中退後ニューヨークに移ったが、1960年代のニューヨークにおけるフリー・ジャズの革命的世界においても、彼の音楽は難しい提案として受け止められた。彼の登場以前、「ジャズ・ギター」といえばウェス・モンゴメリーチャーリー・クリスチャンのような優雅でメロディックなソロのことを意味していた。フリー・ジャズのグループにはギター奏者のポジションが用意されていないことが多かった。ギターという楽器はボタンをピシッと留め上げたような、初期のジャズにおける調性のイメージにとらわれたままで、当時の白人がやるポップ・ミュージックの象徴となっていっていた。さらに、シャーロックが好んでいた歌うようなシンプルな奏法は、アヴァンギャルドな界隈においてファッショナブルとみなされないものだった。

 この奇妙で、唯一無二な才能をどうしたらいいのか、だれにもわかっていなかった。彼はシーンに現れて数年の間に、自身の名義で一つの大作を作り上げ――当時の妻であり、彼と同じくらいに急進的なヴォーカリスト、リンダ・シャーロックとの『Black Woman』(1969)――、他のプレイヤーの作品に短いながらもインパクトを残すような演奏で参加した。それらの作品では彼はその場面を「盗む」役割を与えられ、ちょっとだけ聴衆の目をくらませたあと、彼をフレームの外へと促すのだった。その結果、ソニー・シャーロックのファンであるということはハイエナのようなゴミ漁り的行為であるように感じることがあった。彼が演奏しているクレイジーなR&Bアルバムを聴いたことがあるだろうか? マイルスの作品に彼がクレジット無しでカメオ出演していることを知っていただろうか? ハービー・マンの作品を聴いていると、彼がその優雅なフルートを中断し、ソニーに大暴れさせるのをじっと待つことになる。

 そしてついに『Ask the Ages』の登場である。ともすると無秩序でしっかりと追うのが難しい彼のディスコグラフィーの中で、シャーロックのこの最後の作品は明らかに山頂である。この作品が1991年に発表された当時、彼は50歳で、ほとんど活動を行っていなかった10年間を経たのち、考えられないほど創作的な復活を遂げて5年ほど経過していた。彼はその人生の中で最も良好な状態にあり、ありえないほど優しい音を奏でたと思えば次の瞬間には我慢できないほどの力で次の音を奏でた。『Black Woman』以来初めて彼は自分と同等の力量を持ったアンサンブルを率いていた――彼の強烈さについていくことができ、そしてたしかな荘厳な重力を発揮し、彼の「マスター」と言う地位(それまでの数作ではその機会を逸していた)に見合う働きをするプレイヤーたちだ。60年代に彼に初めてのギグの機会を与えた火を吐くようなサックス奏者=ファラオ・サンダースジョン・コルトレーン・カルテットのドラマーで、その滝のようなシンバルさばきがこのギタリストのギターぎらいのアプローチの主要な初期の影響源となったエルヴィン・ジョーンズ。24歳の天才ダブル・ベース奏者で、これらの手練の中で前に出るべきときと後ろに下がるべきときをよく分かっていたチャーネット・モフェット。

 この『Ask the Ages』から3年後、シャーロックは心臓発作で亡くなってしまう。ある角度から見ると、このアルバムはまるで天啓のようだ:シャーロックのもつ芸術性の集大成であり、彼がこれまで組んできた精鋭たちと最後にもう一度集結し、彼の内側にあるサウンドを表現しきる機会を与えたのだ。スパーリング相手のように扱った楽器――彼の命を救った楽器――を置き、次のステップへと進むための最後の尊厳をかけた闘いであった。

 また別の角度から見ると、これはなんだか思いがけない僥倖のようにも思えるのだ。シャーロックとプロデューサーのビル・ロズウェルは、ベルリンのバーでの会話からこのアルバム、そしてタイトルの着想を得た。二人は、このギタリストが彼自身の歴史と向き合うような音楽を作りたいと思っていた。ロズウェルが回想するに、シャーロックはこう語ったという。「ジョン・コルトレーンの音楽と再び繋がりたいんだ。あのエネルギー、あの集中力、あのパワー。あのレベル、クオリティに戻りたい。なにかシリアスなものを作ろうよ」。このギタリストがこれらの年代に焦点を絞ったのが彼のツアー・グループであるSonny Sharrock Bandだった。二人の強力なドラマーを擁した、頑強なロック志向のバンドだった。彼らの音楽はまつりの山車のように有頂天で高揚させるものだった。それはジョン・コルトレーンサウンドとは似ても似つかないし、それを「シリアス」と捉える人もいないだろう。

 シャーロックは『Ask the Ages』の制作に際して明らかに興奮している様子だったが、その他のプレイヤーたちは長期的な計画を持っているわけではなかった。彼はこのアルバムを、普段のギグからは離れた、啓蒙的な気晴らしのようなものであると捉えていた。インタビュアーに次の作品について訊かれると、彼はSonny Sharrock Bandの次作について、ヒップホップに影響を受けた作品になるかも知れないと熱く語っていた。彼が死の直前に発表した音楽の一部はカートゥーン・ネットワークのカルト・クラシックなトークショウ・パロディ『Space Ghost Coast to Coast』で、それは『Ask the Ages』では必ずしも表現されきっていなかった遊び心溢れる作風が深く反映されたものだった(「アル・ディ・メオラのような猫ちゃんプレイヤーは、少し笑ったほうがいい演奏ができると思う。あれはそこまでシリアスなものではない」と彼は1989年インタビューアに語っている)。シャーロックの死によって『Ask the Ages』を代表作であると考えるのがたやすくなったが、彼はその考えに対して自分で抵抗していたかも知れない。彼は人生においてそんな真っ直ぐな線の上を歩くことは殆どなかった。

 ロズウェルとシャーロックは、このプロデューサーがこのギタリストの不本意な早期リタイアから復帰するのを手助けしたときから親しいコラボレーター同士だった。売れ線のポップ・ジャズ・フュージョン奏者のハービー・マンは1960年代後期から70年代初期にかけてシャーロックが最も信頼できる雇用主だった。二人の音楽性は著しく異なっていたが。二人が道を分かってから、シャーロックは再びリンダとアルバムを作った――1975年のシュールなファンク・エクスペリメンタル作品『Paradise』――が、その後枯れのキャリアは暗礁に乗り上げる。彼は自前のギグや、精神疾患を持つ子どもたちのための学校でのライブで糊口をしのぎ、何年もの間薪割りと作曲をし続けていたが、演奏するのは本当に限られた機会のみで、録音は決して行わなかった。

 ロズウェルが当時やっていたアート・パンク・ダンス・バンド、Materialの1981年作『Memory Serves』に参加しないかと招待した頃から、少しずつ物事が変わり始めた。ロズウェルはベースを弾いていたが、彼が果たした最も重要な役割はジャンルを超えた実験的なミュージシャンたちとのつながりであり、シャーロックをその後のプロジェクトにも頻繁に呼ぶようになった。その中の主だったものにはLast Exitがあった。毎夜なにもないところから即興で作り上げていく容赦ないほどに不協和音な音楽は、最先端のフリー・ジャズで聴かれるようなスウィングよりもパンクの直線的なリズムを好み、のちにノイズ・ロックと呼ばれるような音楽に近いものがあった。

 ジャズの海岸で洗い流されたシャーロックは、突如新しい世代の冒険的なロック・ミュージシャンやリスナーたちの間で先見の明を持ったパイオニアであると目されるようになった。サーストン・ムーアはハービー・マンのレコードを山のように買いあさり、シャーロックの全てのソロをそこから抜き出して、それを一本のカセットにダビングした。「僕が見聞き下もの中で最高のものの一つだった」と彼はKnitting FactoryでみたSonny Sharrock Bandの演奏についてこう語っている。「啓蒙的だった。僕がギターでやりたいと思っていることについて、僕の何歩も先のことを教えてくれるような演奏だった」。主に白人アーティストが称賛を浴びることが多い実験的なエレクトリック・ギターの演奏の世界は、シャーロックがいなければ今とは全く違ったものになっていただろう。

 『Ask the Ages』は、シャーロックとロズウェルのそれまでの共作のもつ強烈さを、わかりやすくジャズというサウンドに落とし込んだものだ。この作品の作曲を1人で手掛けたシャーロックは、彼のシンプルで直接的なメロディーへの偏向をそれぞれの楽曲の最初の音色に注ぎ込んでいる。それらのセクションでは、彼は互いに絡み合ったギターのラインをオーバーダブし、サンダースのテナーを共に何か流動的で金属的な、ミュータントのようなホーン・セクションへと拡張している。大抵の曲は最初の1分かそこらは、何なら古臭いと感じるほどにわかりやすくスウィングしている。そしてその後に炎がやってくる。

 “As We Used to Sing” では、頑なにマイナー調のテーマがある地点まで上昇していき、シャーロックのソロが炸裂する:最初は怒り狂った蛇のように、そして愉快なスタッカート、そして地平線を超えたどこかへと飛んでいく。(彼はマーシャルのアンプに直差しして、適度なボリュームで演奏することを好んだが、アンプやエフェクターといった部分にこだわりがなかったことが信じがたい音を奏でている)。彼がメロディーから旅立ち、ピュアなサウンドの波を召喚し始めても、そこには明確な感情の弾道がある。彼は自身の演奏の中でフィーリングを何よりも重んじていて、それ自体が目的化しているノイズには無関心であると公言していた。パッセージのピークでは、錐揉みに着地するのではなく、シャーロックは突然休止する。そしてそれによって出現するネガティヴ・スペース(空白)はその直前まで続いた不協和音と同じくらいの衝撃である。サンダースが入ってきてその管が鳥のような鳴き声を上げ始めると、それは災害が地球を一掃したあとにもう一度新しい命の兆しが芽生え始めているのを目撃しているような気分になる。

 シャーロックは晩年、与えられたメロディの確信に迫るために、余計なものを削ぎ落としてい演奏していると語っていた。その試みは『Ask the Ages』全編に渡って聴くことができるが、中でも顕著なのが “Who Does She Hope to Be?” である。このアルバムで最も短く、最も甘美な一曲。ジョーンズとサンダースは周縁へと後退し、ほぼ何も音を鳴らしていない。シャーロックのフレーズは空間をたっぷり使ったメランコリックなものだ。彼は特に何か不思議なことをやっているわけではなく、ただメロディーに語らせている。あなたの注意はモフェットへと向かうだろう。彼のベースの流れるような自己主張は、アレンジを覆すほどである。レガシーをテーマにしたアルバムであるにも関わらず、『Ask the Ages』はこの音楽が生きたものであることを感じさせない。“Who Does She Hope to Be?” はこのアティテュードを際立たせている。若きサイドマンが、ほんの一瞬リーダーとなる。

 このアルバムは “Many Mansions” で驚異的な頂点に達する。この楽曲はシャーロックのアヴァン・ロックへの短期滞在を最も呼び起こさせる。そのペンタトニックのテーマは『A Love Supureme』の “Acknowledgement” セクションと同じ自然の質を持っているが、それが9分間の間繰り返されるにあたって、段々とBlack Sabbathノリ付のようにも聞こえてくる。シャーロックの前にサンダースがソロを取り、進んでいくよりも先にクライマックスに達する。有頂天な調子で始まり、そこからただただ狂気を帯びていくのだ。一つの持続音が叫び声のように響き、2つの音の間の泡のようなトリルで、彼は人生を伝えている。エルヴィン・ジョーンズは60代なかばでありながら、若い頃よりも活発であり、このソロイストの高みを更新している。この数十年の間に録音の制度が向上したこともあり、彼のキットは感覚的なものになっていた:ベース・ドラムへの打音は胸を殴られるような感覚で、ライド・シンバルの輝きが目の前に見えるかのようである。シャーロックによれば、彼がジョーンズの「リズムの殺戮」によって一瞬落ち着きを失って明らかに間違った部分があったという。「彼がコルトレーンと演奏しているのを見たバードランドへとフラッシュバックしたような感覚だった。そしてミスったんだ。一瞬この違和感を感じるだろう。だって僕は完全にやられてしまっていたのだから」と語る。その部分を聞き取ることができるだろうか?

 『Ask the Ages』の美しさを言葉にするのは難しい。何か説明できないものを追い求めた作品だから。シャーロックはフィーリングを重視しない音楽――技巧や模倣に耽溺したり、聴き手を驚かせようとして自分の欲求を裏切ったり――から身を引くことに何のためらいもなかった。「それは音楽をつくるというよりは、パズルを組み立てることに近い」と彼は死の約1年前にインタビュアーに語っている。「音楽というのは自分の中から流れ出てくるもので、何らかの力であるべきだ。それはフィーリングであるべきだ。全てはフィーリングだ」。

 彼は同じインタビューで、「全ては何かを自分の中に入れて、それを吐き出すということだ。わかるだろう?リアルであること。それが君の中にあるうちは大丈夫だが、それを音楽にしなければそれはリアルではない」。自分の人生の終わり間際で、シャーロックはその「何か」に一番近づいていた。彼は引き続き彼がたまたま手にした楽器への憎しみを口にしてはばからなかったが、音楽への愛情はまごうことなき本物だった。彼のヒーローであるジョン・コルトレーンと同じように、彼はその才能の頂点で亡くなり、来たるべき黙示を予感させる作品を残して旅立った。「年齢のことを考えたこともない。いい演奏ができていればそれだけで幸せで、そんな事を気にする暇もない。まだまだ先は長い。まだ自分を発見したばかりなんだ。音楽的には僕はまだ始まったばかり。やっと自分で思う通りに演奏ができるようになったところだ」と別のインタビュアーに語っている。

 シャーロックはかつて、自分が宗教的であるというのはコルトレーンを神であると信じているという点においてだけだと語った。しかし、彼の演奏における表現の真実性の追求は、コルトレーンがより明確にスピリチュアルな方向へ向かっていたのとあまり変わらない。コルトレーンはより高次元の力を求めた:シャーロックはただフィーリングを求めた。彼と彼のバンドが『Ask the Ages』で異言(いげん)を唱えているのを聴けば、この2つは同じものを指し示す違う名前なのではないかと思い始めるだろう。