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<Pitchfork Sunday Review和訳>Joan Armatrading: Joan Armatrading

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A&M • 1976

 ジョーン・アーマトレイディングは、自己の内面の神秘を感情のリズムに敏感に調和させ明瞭に描き出す。それは最もひどい絶望ですらなんとか耐えうるものに聞こえてくるほどだ。そして彼女はあなたにほほえみをもたらすだろう。アーマトレイディングは1976年のヒット曲 “Love and Affection” を「私は恋をしていないが、その説得に乗る宵はできている」と始める。これ以上優れたポップ・ソングの導入があるだろうか? アーマトレイディングは1970年代を通じて、その世代の中で最も優れたシンガー・ソングライターの一人という地位を確立した:この強烈な知性と控えめなウィットを持った女性は、あなたの心を読んで深読みさせることに関しては右に出る者がいない。

 「わきまえない女」に親切ではない業界にあって、アーマトレーディングはノーと言うコツをマスターした。イギリスの女性解放誌『Spare Rib』の1974年の号のなかで、彼女はこの姿勢を論駁できないほどに明白に打ち出した。彼女は中性的な自身の見た目を変えるよう提案した男にノーと言い、ステージ上で愛想良く振る舞うよう言ってきた男にノーと言い、彼女のサウンドをコントロールしようとした男性のプロデューサーにもノーと言った。彼女の歌詞は個人的な経験から来ているに違いないとした批評家にもノーと言い(実際には混合である)、男性によって作られた、女性は「可愛らしく歌う」べきだという金言にもノーを突き立てた。その一つ一つの「ノー」は全てアーマトレイティングが一人で立ち向かったことであり、他の人達にもそうすることをはたらきかけた。「ポップ・ミュージックをやりながら自分自身で有り続けることは可能だ」と彼女は1976年、『The Guardian』誌に語っている。「私は挑戦し続けるつもりだ」と。

 カリブ海のセントキッツ島で生まれたアーマトレイティングは7歳のとき、一人で飛行機に乗りイギリスのバーミンガムに飛び、4年間離れて暮らしていた両親と二人の兄と再会した。小さなフラットで育てられた6人の子供の一人として、彼女はイギリス内陸部での多くの時間を孤独を求めて過ごした。彼女は図書館に隠れ、シェイクスピアディケンズを読んだ。「一人でいることが多くて…へんな子供時代だった」と彼女は『Melody Maker』誌に語る。「それが私の人格に最も強く影響を与えているかも知れない」。一人でいることは必ずしも孤独であることではないということ、人の群れから離れることは自分自身、ひいてはその他全ての物事への距離を縮めることがあるということを若くして学んだアーマトレイディングは、他者の熱心な観察者となった。

 彼女は質屋で買ったアコースティック・ギターで作曲を始め、家にあったピアノは無視した。彼女のフォーク・ロックへの偏向は彼女が聞いて育った音楽――ジャズやソウル、ゴスペルやロックンロール、アレサ・フランクリンオーティス・レディング――に彩られたものだ。特に、愛の天にも登るような高揚感やあるいは地を這うような空虚さを表現することのできる彼女のスモーキーなアルト・ヴォイスはその影響を色濃く受けている。彼女のアイドル、ヴァン・モリソン――彼女が名指しで挙げている数少ない影響源の一つである――と同じく、彼女の楽曲は非伝統的な構造を持ち、熱烈な祝祭感へと点火していったり、あるいは白昼夢の中を漂ったりする。アーマトレイディングは70年代のシンガー・ソングライターの伝統にイギリスの黒人であるというアイデンティティを持ち込んだだけではなく、その形成にイギリスの黒人女性が活発な役割を果たしたことを証明したのだ。

 1970年、バーミンガムのフォーク・クラブを演奏して回っていたアーマトレーディングは作曲パートナーと出会う。ガイアナ出身の詩人、パム・ネスターは巡業型ヒッピー・ロック・ミュージカル『ヘアー』の役者だった。アーマトレーディングのシャイな内省とネスターの外向的なドライヴの組み合わせは決定的だった。英国の劇場をツアーする間、アーマトレイディングはネスターの言葉を音楽に載せ、歌の劇作家も務めた。「シティ・ガールよ、人生を本来の姿にもどしてよ」とアーマトレイディングはネスターに捧げた初期の楽曲で舞い上がるように歌う。それは友情と回復の狼煙だった。1974年、アーマトレイディングは『Spare Rib』誌にこう語っている。「黒人女性は甘い歌を歌わない。なぜなら、自分たちはか弱い存在でなければいけないという洗脳を受けていないから。本当はその逆、強くなければいけない。ただそれを成し遂げるだけ」。

 『ヘアー』の仕事を終えたネスターとアーマトレイディングはロンドンへ向かった。ネスターが1971年のグラストンベリー・フェスティバルに参加したとき――彼女は自分の他に一人だけ黒人を見かけたと回想している――、一緒に参加した仲間が彼女に、エセックス・ミュージックにデモを持っていってみてはどうか、と提案した。エセックス・ミュージックは当時、T. RexやBlack Sabbathといったアーティストを手掛けていた。そして彼女たちはエセックスと契約を結び、アーマトレイディングは1972年にデビュー作『Whatever's for Us』を――エルトン・ジョンのプロデューサー、ガス・ダッジョンが録音を手掛けた――キューブ・レコードから発表した。しかしその後すぐにレーベルが彼女をソロ・アーティストとして売りたいということが明らかになり、二人が道を分かつよう圧力をかけた。この別離によって “Whatever's for Us, for Us” や “Spend a Little Time” などの生々しいコラボレーションはなんともほろ苦いものとなった。A&Mイージー・リスニング部門向けに初めて制作された次作『Back to the Night』(1975年)のレコーディング〜プロモーションの過程において、彼女はスタジオにおいて男性のエゴに対処するのに飽き飽きし、早々にスタジオをあとにした。

 しかしアーマトレディングはそれにめげることはなかった。一年後、『Joan Armatrading』に向けた地に足のついた、自己完結型のエネルギーを彼女は苦労して手に入れた。それはアーマトレイディングがすべての楽曲を自分一人で作曲した初めてのアルバムであり、その時点での最良の部類に入るものだった。完全無欠の『Joan Armatrading』は彼女にとっての『Tapestry』のようなものであった。デビュー作ではないが、彼女の自信画素の才能に追いつき、歌唱と熟達したミュージシャンシップ――バロック風のバラードの歌唱、燃えるようなブルース・ギター・リフ、ファンクの香り――が生き生きとしていて、ジャンルの境界線をにじませている。彼女をより商業的にしようという賭けによって、A&MThe Rolling StonesThe Who、The Eagles、そしてこの直前にはフォーク・ロックの偉人=Fairport Conventionを手掛けたロック畑のグリン・ジョンズをプロデューサーとして起用し、アーマトレーディングのバックをFairport Conventionのメンバーが務めることになった。ジョンズの回想によれば、彼は単純に彼女の邪魔だけはしないように務めたという。彼女は自分が何を求めているのかよくわかっていた。

 『Joan Armatrading』は、ポップ・ソングで普段耳にしないような鮮烈な個人的開陳を含んでいた。“Somebody Who Loves You” で、彼女は悲しげな「行くか行かざるべきか」というジレンマを鈍重なリアリティ・チェックと共に表現している:「一夜限りの関係には飽き飽き/浪費した情熱がもどかしさを残す/軽蔑すべき人間がまたひとり増える」。“Tall in the Saddle” のタイトルに表された感傷を明らかにするように、彼女は力強く歌う。「いつかそこから降りる日がくるんだ」と。そして「必要な友達はもう周りにいる」という、“Love and Affection” におけるアーマトレイディングの輝かしい確信はこれ以上ないほど愉快で透き通っている。彼女は至って真剣なのだ。そしてアーマトレイディングの内気な性格はロマンティックな関係における臆病さとして表現される。つながることがうまくできない人々、会話ができないこと、誤解、など…。『Joan Armatrading』の中の3つの楽曲の中で、彼女は「Love love, love」「Fun, fun, fun」「People, people, people」と歌っている。それはまるでそれぞれがどのように関係しているのかを明らかにしているかのようであり、もちろんそれは大いに共感できるのである。

 彼女の楽曲は時に息を呑むほどに弱さをみせる。しかし彼女が残した言葉は多くを語る。『Joan Armatrading』の楽曲の中で「私」目線でジェンダーが明確な恋人に向けて歌われた曲は少なく、それは彼女のクィアアイデンティティへの想像の余地を残している(彼女は長い間カミング・アウトしなかったが、1978年の『Melody Maker』誌には、彼女の本棚には1973年のレズビアン小説の傑作『Rubyfruit Jungle』が刺さっているという記述がある)。“Down to Zero” で、アーマトレイディングは暴力的なまでに説明不足な理解しがたい破局について赤裸々に語っている。彼女は「あなたの男を奪った」「新しいダンディ」について歌っていて、後に我々は「あなたの頭から心配を抜き取って」「あなたの心に面倒を吹き込んであげる」と、ある女性が別の女性について歌っているのを聴く。アーマトレイディングは賢人ぶった慰めを歌詞の中だけではなく、その決意に満ちた歌い方や、力強い爪弾き、ローレル・キャニオンのフォーク・ロックがよりシンコペートさせたような優雅なスティール・ギターの中にも忍ばせている。意味のない憧れや切望を前にして、全てが一種の鎧となるのだ。

 アーマトレイディングはよくジョニ・ミッチェルと比較されるが、それは少なくとも1976年当時は理にかなっていた。ミッチェルのフレーズを借用するならば、二人は「women of heart and mind」だった。超過敏な楽曲を書く超越的な器量を持ち、そして自分の音楽的アイデンティティを表現するために闘った。それでもこの比較はまったくもって正確であるというわけではない。アーマトレイディングの歌詞は広い視野を持っている一方で、ミッチェルはもっときめ細やかな歌詞を書いた。ミッチェルの卓越性がその細部にあるとすれば、アーマトレイディングのそれは彼女の角度、あるいは優れた省略にある。まるで遠くから見守ってくれている友人のように。それが彼女に有用な広がりを与えている。ミッチェルが自身の最大のシングル “Help Me” で歌う2年前に、アーマトレイディングは不器用で不十分で、思慮の浅い恋人たちのために別のアイデアを提案している。「あなたが自分のことを自分で対処すれば、私は非常に助かるのだけれど」。

 アーマトレイディングがフェミニストたちに愛されたのは何も不思議ではない。“Help Yourself” は自分の時間を無駄にしない女性の楽曲であり、騙されない女性の楽曲だった。哀れみよりも自分の都合を優先し、朝になって真実がわかるまでじっと待っている臆病者をこき下ろした。彼女が砕けた調子で標的を非難する際の言葉遣いには可笑しな完璧さがあった。声のピッチを上げて、この人物がその状況をなんとかする”必要がある”ということを強調している。アーマトレイディングはは人々――主に男性――がコミュニケーションを拒絶する様を完璧にコミュニケートした。困惑している人物に感情を抑えられた経験のある人なら、彼女の訥々とした語り口の中に、乾いた皮肉が込められているのがわかるだろう。「待って待って待って、心の整理をしているのか!」。ある瓦解が大声で叫ばれる突破口への道となる。「自分のために外に出るのだ!」それは生の肯定である。

 “Love and Affection” の冒頭、孤独を飛び出すための空想についてのたぶらかすような10単語を書いたときアーマトレイディングは25歳だった。“Love and Affection” は神秘的な英国のフォーク・バラードのように始まり、「Love, love, love」――13つの、全てが説き伏せるような「love」――という宣言で幕を閉じる。それはまるでゴスペル級の荘厳さである。彼女はこの曲は2つの曲を組み合わせたようなものであると語っているが、それは理にかなっている。なぜならばこの曲は2つの矛盾する真実についての曲だからである:愛を欲する気持ちと、それを感じることができないということ。「目に太陽を感じ/顔に雨粒を感じられるというのに/なぜ愛を感じることができないのだろう?」と彼女は歌う。このような歌詞の裏にある潜在的な混乱を読み取りたいという誘惑に駆られるが、1976年当時、それは答えのない問いであった。アーマトレイディングがミッチェルとなにか共通するものを持っているとしたら、それは解決できないものをまっすぐに覗き込もうとする意志であり、最大のヒット曲の中心に不確実なものを抱えているという点である。アーマトレイディングは、愛が形成されていくにしたがって感じ方が変わるということが愛の目的であるということを知っていた。それでこの楽曲は全編を通じて、まるで熱中している瞬間のように変形していくのだ。ソウルフルなベース・ボーカルとサックスがそれを後押しする。なんて勝ち誇ったような曲だろうか。

 “Love and Affection” はイギリスではトップ10ヒットとなった。しかし2019年のBBC Fourのドキュメンタリーの中で、アーマトレイディングはレーベルが自分の音楽をうまく売り込むことに失敗したということを率直に打ち明けた。オベーションのアコースティック・ギターを弾きこなし、ブラック・ミュージックのどのジャンルにも当てはまらない歌を歌う黒人女性をどう扱って良いのかわからなかったのだ。彼女の音楽はブルース、ジャズ、ファンク、ソウルといった装飾にあふれていたが、そのアプローチは同時代のシンガー・ソングライターと同じように、まったくもって個人的なものだった。70年代にか弱いカーペンターズを売り出すことに成功したこのロサンゼルスのレーベルは、英国黒人のオリジナルを売るという任務にはまだ準備ができていなかったのだ。A&Mはラジオにピッタリハマる音楽を売り出すノウハウを持っていたが、アーマトレイディングはラジオにピッタリハマる音楽ではなかったのだ。

 それでも『Joan Armatrading』は愛を持って受け入れられた。一年以内にゴールド・ディスクを獲得し、米国チャートに27周に渡ってランクインし、イギリスの音楽紙『Sounds』では、ボブ・ディランの『Desire』やジョニ・ミッチェルの『Hejira』を抑えてアルバム・オブ・ザ・イヤーを獲得した。その秋、彼女がハマースミス・オデオンの会場を売り切ったとき、『NME』の批評家はオーディエンスが「他のどんなギグよりも多くの女性を含んでいた」と書いている。しかしアメリカでは、次の名作『To The Limit』(1978)が出る頃になっても、アーマトレイディングはアメリカの若いリスナーたちには「広く知られていなかった」。強烈なほどに私的な人間であった彼女は、その後も多くの作品を残したが、決して名声を追い求めることはなかった。そして時が経ち――スターを量産する機械に頼ることなく――彼女は自分が思い描くポップ・ミュージックに関するコントロールをさらに自分のものにしていき、ニューウェイヴやレゲエへと向かい、自分のアルバムをプロデュースし、さらに挑戦的な楽曲を作り、最終的には自分できめた音楽を自主的に制作するためのレコーディング・スタジオを納屋に作ったのである。この『Joan Armatrading』には、すでにその力が鳴り響いている。