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<Pitchfork Sunday Review和訳>Nina Hagen: Nunsexmonkrock

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CBS • 1982

ニーナ・ハーゲンはドイツ出身で、オペラを歌い、パンク・ロック文化の発火点となった人物である。1980年にメジャー・レーベル契約を結びキャリアをスタートさせた彼女はヨーロッパで莫大な売上を記録し、多くのファンが彼女が演奏する空間を埋め尽くした。母国語で歌うNina Hagen Bandで2枚のアルバムを発表した後、25歳だった彼女はフランク・ザッパのマネージャーと契約し、初めて英語で歌うソロ・デビュー作を録音するためにニューヨークへと降り立った。彼女の持つ手に負えないほどのロックンロール的な磁場がUSのマーケットに置いても通用すると信じるには十分すぎる理由があった。彼女はそのけばけばしい服装や分厚い目の化粧、あるいはネオンカラーの髪色によって魅力的であるわけではなかった――誰だってその役を演じることはできる。それは彼女の叫び声を上げる様、そして彼女がその深くて奇妙な声に入り込んでいき、ファンたちの換気の中で顔を歪ませる、その様であった。1982年にリリースされた『Nunsexmonkrock』はハーゲンを更に多くの人々へと紹介する機会であっった。比類なきパフォーマーであり、新しく母となった女性であり、活動家であり、道化であり、キリストの使途であり、UFOのまっとうな信者であり、そして紛れもなくスターである彼女を。

 彼女には安全策を講じたり、リスナーたちを安心させるなんて考えは毛頭なかった。その代わり、彼女はすぐさまマルチトラックを使用した汎宗教的な混沌圏へと突入した。最初に聞こえてくる彼女の声はドラムの轟音の上で、イエスが人間から豚の群れへと悪魔を追い出すという聖書の物語を語っている。アルバム全体の美学は ”Antiworld” のなかで、豚のあげる叫び声を ”running away, screaming” と歌うハーゲンの自暴自棄な、熱狂的なボーカルに凝結されている。彼女の声は痛ましい。それは時に落ち着きを取り戻すが、次の瞬間にはその深く悪魔的なグロウルがまるで死体の海に向かって説教をしているかのような支配的な力を持った遠吠えとなり、かと思うと急に取り憑かれた人間のように口ごもってしまう。彼女の強烈な叫び声、紙やブラックホールについての説教、そしてキャラクターへの深いこだわりは、リスナーに投げかけられた挑戦状だった――この最大主義的な信条に賛同するか、若しくは彼女を全く受け付けないかのどちらかである。

 ハーゲンはドイツ民主共和国が建国された数年後、そしてベルリンの壁が建設される数年前に、東ベルリンに生まれた。政治的に不都合である文化的作品を検閲するこの国で、彼女はクリエイティブな家族の一員として育った。彼女の母親、エヴァ・マリア・ハーゲンは女優であり歌手であったが、よくその幼い娘を仕事に連れて行っていた:9歳にしてニーナはオペラの歌唱をプロから習っていた。彼女の父親が家族を去ると、ニーナの継父、ウォルフ・ビアマン――東ドイツの反骨的なフォーク・シンガー/詩人で、常にブラックリストに載っていて最終的には1976年に亡命することになる――が彼女の人生において彼女の人格形成を手助けする人物となった。

 「ウォルフ・ビアマンは私に力を与えてくれた」とハーゲンは1980年『International Herald Tribune』誌に語っている。「私が東ドイツの学校に通っているとき、両親は子どもたちが私に話しかけることを禁じた。そういうことが、自分を強くしてくれることがある、ビアマンは反逆者だった。私は彼が私にくれたものを受け取って、私に対する憎悪を乗り越えた。今では私も反逆者だ」と。ハーゲンが自身のバンド=Automobilと録音した、1974年のバイエルンのポップ・ヒットに ”Du Hast den Farbfilm Vergessen” という曲があるが、この曲は休暇の際に撮影用のカラー・フィルムを荷物に入れるのを忘れてしまったことについてのバブルガム曲だった。それは現実と照らし合わせてみれば、ドイツ民主共和国に対する密かな、そして楽観的な抗議の歌だった――それは勇気が日常的に必要であることから生まれる芸術的な勇敢さであった。

 ハーゲンはビアマンの亡命に着いていき、彼のつてでCBS Recordsを訪ね、見事にレコーディングの契約を取り付けた。レーベルは彼女に旅をしてロックの世界にどっぷりと浸かることを勧め、彼女はロンドンでアリ・アップとThe Slitsと出会ったのだった。その後すぐ、彼女はNina Hagen Bandを率いてハード・ロックサウンドの上で吠えることにした。1978年のセルフタイトル作はThe Tubesの ”White Punks on Dope” をカバーしている。1979年の『Unbehagen』での彼女のふざけたような、ふらついていて焦げ付いたようなボーカルはその後の展開を予告していた。とくに1979年のテレビ出演時にマスターベーションを真似たことで司会者がクビになるという騒ぎの後、これらのアルバムはメディアの関心を集めることなった。

 『Nunsexmonkrock』のジャケットは、聖母マリアとその子供の写真の図解法を表面上だけ真似て、ハーゲンが赤ちゃんを抱いているところを描いている。1982年当時のある記事は彼女を「海外からの冒涜」であると見出しをつたほど、このアルバムのタイトルとアートワークを皮肉やショック・バリューのための挑発的な冒涜であると読むことは簡単であった。しかし彼女はジョニー・ロットン風の「私はアナーキストだ」という口先だけの態度表明をしたいわけではなかった:ハーゲンが「私はイエスを信じている」という歌詞を叫ぶとき、彼女の声は風刺画のようであるが彼女の意図は純粋なものである。2009年に洗礼を受けたあと、彼女は『Nunsexmonkrock』を自身の経験差の証であると振り返っている。「私の歌詞を読めば、私が常に愛の名のもとに、イエス・キリストの名のもとに苦しみ、説教をしてきたのかがよくわかるはずだ」と。

 ハーゲンの蝶番が外れたようなパフォーマンスには、無秩序で強調された愛の表現がある。彼女がアルバムのジャケットで抱きしめている赤ちゃん(彼女の娘、コズマ・シヴァ・ハーゲン)を見てみるだけでもよい。コズマは1981年に生まれ、その後まもなく『Nunsexmonkrock』に収録された ”Cosma Shiva” という楽曲のヴォーカルに鳴き声と笑い声で参加している。ハーゲンはカウントダウンをしてから、ピッチを高めたいないいないばあをするような。赤ちゃんをあやすような声色で娘の名前を歌う。「Cosma, SHIVA! Galaz-INA!」と。カール・ラッカーの弾むようなベースのリフの上で、ハーゲンは宇宙について、有限な異星人のような音域でさえずるように歌っている。彼女がその声を歪ませ金切り声のようなアクロバットに切り替え、宇宙から彼女の赤ちゃんへのファンキーな通信を聞かせるとき、彼女があまりにも一生懸命にふざけるので、この楽曲の不条理さが自分の赤ちゃんのための道化としてのダンス・ミュージックになるという輝かしく喜びに満ちた行為に打ち消されてしまっている。コズマが笑い出すとき、私達も彼女に続かないわけにはいかなくなる。

 彼女はアルバムのレコーディングの準備中であった80年代初期に妊娠しており、インタヴューの中で、彼女はザッパと共通のマネージャー、ベネット・グロッツァーがアルバムを延期させようとしていることについてよく思っていないと公言していた。「素晴らしいアイデアと素晴らしいミュージシャンに囲まれて座っているのに、グロッツァーはCBSに出向いて彼女はまだ準備ができていない、彼女は妊娠中だから、と言うんだ」と彼女は1982年、『Shades』誌に語っている。「妊娠しながら作品を録音するのは大歓迎。だってそれは世界中で最も神聖な作品になるだろうから」と。彼女はそれでもその娘についての楽曲の荘厳なアウトロの中で、声を厳かにして神聖さを入れ込ませている。「私の愛しい赤ちゃんよ、これだけは覚えておいて。紙があなたの父親よ」と。

 コズマの実の父親は、『Nunsexmonkrock』に作曲家としてもクレジットされている、ギタリストでソングライターのフェルディナンド・カーメルクである。ハーゲンはアムステルダムで、カーメルクがオランダのロックンロール・スターであるハーマン・ブルードのバンドのメンバーであったときに出会った。当時の映像を見る限り、2人が強いつながりを持っていたことは明らかである。あの悪名高い1979年のテレビ出演時、ハーゲンはカーメルクのとなり(ときには彼の上)に座り、彼の名前を飾った自家製のシャツを着ている。彼女たちが後に『Nunsexmonkrock』に収録される楽曲を演奏しているとき、ハーゲンがカメラを見つめながら叫び、吠える間、彼のとぎれとぎれのパワー・コードがその背後でしっかりとそれを支えている。彼女が落ち着いた、決心したような目でマスターベーションを始めると、彼は笑った。

 カーメルクは、シンセサイザーを多用し、暗い気持ちにさせるようなこのアルバムからのシングル曲 ”Smack Jack” にクレジットされている唯一の作曲者である。ハーゲンは自身の声を多重録音し、ゆったりとしたギターのグルーヴの上に得点を狙うジャンキーについて叫ぶ悪魔のような合唱団を作り上げている。「いつもそれが足りていない、いつもそれを使い果たす」と彼女は深く、軋るような声で喉を鳴らす。スピードアップしたコーラスが始まると、彼女は聞き手の方の上で「全部打て」と叫ぶ半狂乱の悪魔と化す。予定とは違いこの作品では演奏していない男の経験から書かれた曲だけあって、この曲の暗闇はなかなか振り落とすことができない。ハーゲンは1980年のインタビューでカーメルクはリハビリを始めてからクリーンであるが、『Nunsexmonkrock』の録音が始まる頃には彼はバンドにいなかったと語っている。彼は「私や子供よりもドラッグのことを愛していた」と彼女は回顧録に綴っている。

 1980年のインタビューの中で、ハーゲンは結局『Nunsexmonkrock』では演奏しなかったカーメルクを含む、このデビュー・ソロ・アルバムのために当初予定していたメンバーを語っている。それが実現しなかったのはおそらく外部から矯正されたレコーディングの遅延のためであろう。結局彼女と一緒に演奏したバンドは常に息がぴったりというわけでもなかった。『Nunsexmonkrock』のセッションを撮影した画質の粗い映像があるが、その中ではハーゲンとベーシストのカール・ラッカーが顔をひきつらせ、他人行儀な感じで演奏している。これが2人にとって初めての共作であり、このコンビはこの後も何年か続くことになる。しかしクリス・スペディングやポール・シャファーといった、そこに居合わせたセッション・ミュージシャンがハーゲンとコラボレートしたのはこれ一回きりであり、その映像の中でも比較的おとなしく映っている。 

 ”Dread Love” などの楽曲においては、ハーゲンの野性味と、レーベルにやとわれたミュージシャンたちの比較的おとなしい演奏の間に乖離を感じるだろう。この曲でのハーゲンのスクリームはおそらくアルバムの中でも最もぶっ飛んでいて、40年たった今聞いてもどこか不安な気持ちにさせられるものだ。彼女の後ろに佇むパリッとした薄いシンセサイザーとギターは、80年代初頭のヴィンテージ感によってその性質を損なわれている。このアルバムにおけるバンドの最良の演奏はパンクやニュー・ウェイヴ・サウンドを志向してはいない。それはアンビエントとも隣接するようなミニマル感(哀愁漂う ”Dr. Art”など)や、過剰なまでの豪勢さ(過度に芝居がかったピアノ曲 ”Future Is Now”)であった。ハーゲンはこのような極端な表現を得意とし、より中道的なものを圧倒している。

 ハーゲンとバンドはファンク、ミニマリズム、オペラ風の荘厳さ、そして80年代風のシンセ・ポップと戯れているが、その一方でこのアルバムのベスト・ソングである ”Born in Xixax” は決定的なパンク・ソングである。エレクトリック・ギターのパワー・コードはパーカッシヴで敏捷であり、ビートはより硬直し電子的である――のっけからキャッチーな一曲である。ハーゲンはこの曲で、自分自身の出自にまつわる面白おかしい話を作り上げている。「あー、ごめん、マシーンを立ち上げなきゃ」彼女は曲のイントロで不満げに言い放つ。「私の名前はハンス・イヴァノヴィチ・ハーゲン。それではニュースをお伝えします」。ほぼ口ごもるような深い声で、彼女はジャンキーの父親、ヴェトナム戦争に参加した退役軍人である兄、そしてソヴィエトのスパイである叔父と、農場で貧しい環境で育ったことを歌う。彼女は冷戦にまつわる噂話――ブレジネフは「レユニオンを計画している」――を打楽器のように囁く。歌詞の面では彼女は「エレバン放送」の公式を使って冗談を言っているのだが、ハーゲンの取りつかれたような多重録音による多くの声は驚くほど希望に満ちたメッセージを伝えている:「いつの日か我々は自由になる!我々はいつの日か、自由になる!」

 ハーゲンの歌詞やキャラクターがすべていい形で年を取ったわけではない。”Taitschi Tarot” では彼女は声のピッチを上げてブッダや生まれ変わり、ヨガについて歌っている。彼女の意図や当時の社会的な基準にかかわらず、この楽曲のカジュアルなオリエンタリズムは受け入れがたいものだ。ハーゲンのほかの作品にも文化的盗用の例があって、1979年の ”African Reggae” では「Black Jah rasta man」について歌い、昨年も彼女はジョージ・フロイドに捧げるオマージュとして ”Unity” というダブ曲をリリースしているが、この曲の中では奴隷唱歌である ”Wade in the Water” が大胆に挿入されている。これらは連帯感を装った美意識の大きな揺らぎであるが、それらを消化するのは難しいように感じる。

 ハーゲンはその大胆さによって自身のキャリアを切り開いてきたが、それにはしばしば嘲笑も伴った。彼女が1985年に「レターマン」のインタヴューを受けていると、会話は彼女のヘア・エクステの話から、80年代のハーゲンのインタヴューが必ずたどり着くある話題へと急旋回した:それは彼女が妊娠中にマリブのビーチでUFOを見たというものだ、「真夜中だったんだけど、とにかくすごかった。完全に催眠術にかけられてしまった」と彼女は言う。「とにかくいろんな色に光っていて、本物のライト・ショウだった」。レターマンは興味なさげに質問を投げ返す。「どれくらいの大きさでした?光っていましたか?エクステもつけてましたか?」ハーゲンは少し微笑んで、彼の遊び心あふれるイジりを黙ってやり過ごした。それはメディアにとっては格好のパンチラインとなり、カナダのローカル・ニュースの司会者は似たようなインタビューのさい、嬉しそうに「E.T.、オウチ、デンワ」と返した。

 ハーゲンはエンターテイナーであり、皆を楽しませたいと思っているが、同時に彼女は自分の言っていることはすべて本気で言っていることであると受け止めてほしいとも思っている。彼女は1986年『SPIN』誌に対し、あのUFO体験が「すべての悩み事を洗い流してしまった」と語っている――次の朝起きた時には「地球上でもっとも幸せな妊婦」であると感じた、と。『Nunsexmonkrock』に収録された ”UFO” という楽曲では、ぐつぐつと煮えるようなアンビエントシンセサイザーを背景にハーゲンがその体験をASMRのように囁き、やがて大声で主張する。「そしてあなたは一人ではない」と。大胆に自身のことを文字通りの預言者であると宣言したり、ワイルドな声から別の声に切り替えたりしながらも、ハーゲンは『Nunsexmonkrock』の大半を、無秩序状態にある水を分かつことに充てている。そして地に足のついた、正真正銘の希望のメッセージ――聴いている信心深い人たちに対する「すべてだいじょうぶになる」という母なる肯定――を明らかにしようとしているのだ。彼女が「一人じゃない」と言ったり「いつの日か自由になる」といったるするとき、それは彼女が自分の人生から引き出した言葉なのだ。『Nunsexmonkrock』は楽しくてワイルドでありながら、20代にして母親になり、喪失を経験し、国外に逃亡してきた女性による作品である。