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<Pitchfork Sunday Review和訳>Yellow Magic Orchestra: BGM

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ALFA・1981

 日本式のアクロニムで、「BGM」とは「バックグラウンド・ミュージック」を意味する。それはYellow Magic Orchestra細野晴臣の80年代の至福のアンビエント作品を想起させる。どこか牧歌的で、ヒップでマスマーケット的な衣料店から流れてくるような、あるいはテレビの中の会話シーンで静かにループしている音楽のような、そんな音楽。だから、YMOが彼らのキラキラした、未来的な4作目にこのタイトルを付けたのにはちょっとした皮肉めいたものが込められている。『BGM』はこの画期的な3人組の「テクノ・ポップ」の中でも「テクノ」の側面にかじを切ったアルバムで、個々のメンバーのユニークな特性を当時最先端の録音機材を使って捉え、それらを結びつけてエレクトロニック・ミュージックの金字塔を作り上げた。そこから40年たった今も、このアルバムはシンセ・ポップやIDM、そしてヒップホップやそれ以降の音楽など、すべての「シンセティック(=統合的な)」音楽の作法が拠り所にする土台であり続けている。

 以下に挙げるのは、70年代後半におけるYMO結成の物語を簡潔にまとめたものである。多大な影響力を持ったロック・バンド=はっぴいえんどを率いて既に日本における音楽の大家であった細野は、次のソロ作のためにセッション・プレイヤーたちを集めた。その中には大学時代からの友人であった高橋幸宏と、当時新進気鋭のアレンジャーであった坂本龍一が名を連ねていた。ジャジーなエキゾチカの傑作『はらいそ』は1978年、ハリー・ホソノとThe Yellow Magic Band名義で発表された。その年、細野は高橋と坂本に一緒に新しいプロジェクトを始めないかと声をかけた。彼はこの新しいバンドがそれぞれのソロ・キャリアにおける「踏み台」になると提案した。高橋は同意し、坂本も少しためらった末に首を縦に振った。

 1980年の時点で3枚のアルバムを発表していたYMOは、紛うことなく日本で最も成功を収めていたポップ・バンドだったーーワールド・ツアーを行い、武道館の凱旋公演をソールド・アウトできるほどには。しかし細野は同年の『Los Angeles Times』紙に対し、今後の変化をほのめかすようなことを語っていた。「僕たちは自分たちのことをダンス・バンドだとは思っていない。YMOは最初からエレクトロニクス・バンドであることを目論んで結成された。それこそが3人共が追い求めていたサウンドだったから。どこか普通じゃないサウンドというか」。

はっぴいえんどでは日本語の歌詞にこだわっていた細野だったが、YMOは通訳の手も借りながら英語で録音された。自作ではもっとコントロールを得たいと思った細野と高橋は、坂本のソロ・アルバムで新しい歌詞の共作者を見つけ出した:1980年の坂本作『B-2 Unit』の唯一のボーカル曲「Thatness and Thereness」は、日本のラジオ・パーソナリティを務めるイギリス人=ピーター・バラカンが翻訳を務めていた。バラカンは作詞家として活動したことはそれまで無かったが、それはあまり重要なことではなかった:彼はすぐに坂本のマネジメントに雇われることとなり、作曲を含め、英語に関する全ての業務を担当することになった。そして彼が参加した初めてのプロジェクトが『BGM』だった。

 1979年に日本のみで発売された『Solid State Survivor』の大成功は、YMOのレーベル=アルファが自作のためにでかい予算をつけてくれることを意味していた。ジャケットの後ろ側に載せられた箇条書きのレシートによれば、『BGM』の制作費は51,250,000円にものぼる。USドルに変換してインフレを加味しても、それはなんと730,106.93ドルであるーーそしてこれは機材費のみである。リスナーはヴァイナルをスリーヴから取り出すよりも前に、この音楽の構成要素を分子レベルで透かしてみることができる:YMOは使用した全てのムーグ・シンセ、電子ドラム、エフェクト・プロセッサーを列挙し、あたかも自分たちの技術の卓越性を、来る未来の世代が競うべき基準として誇示しているかのようだった(30年後、Aphex Twinは『Syro』で同じようなことをしている)。

 これらの楽曲は、それらを作り上げるために用いられた機材と分かちがたく結びついている。坂本のデビュー作と共に、『BGM』はローランドのドラムマシーン=TR-808を用いて制作された最初の作品の1つである。1980年発売当時の高額な値段設定(2021年のUSドルにしておよそ4000ドル)は大抵の人たちにとっては法外に高価なものであったが、YMOにとってはそうではなかった。ヒップホップやダンス・ミュージックで用いられるようになる来るディケイドの栄光ーー容赦ない機械的ハイハットや、どんなミックスの中も通り抜けられるほどにバリッとしたクラップーーは高橋による “カムフラージュ” や 坂本による、舞い上がるような “千のナイフ” のメカニカルなカバーの中に完全体で見ることができる。

 しかし、どれほどの高額な機材を持ってしても、YMOのメンバー間の緊張状態を解消することは出来なかった。細野と坂本の間の協調関係は、2人同時にスタジオに居ることにほとんど耐えられない、というレベルにまで悪化していた。ゆえに坂本は『BGM』のためのセッションの殆どに置いて不在であり、大半の作曲作業を細野と高橋が担うことになった。最終的なトラックリストへの坂本の貢献はそれでも目覚ましいものがある。“千のナイフ” の他にも2曲が坂本にクレジットされている:メタ言及的なヴォコーダー・ジャム “音楽の計画” とソロ曲のリミックスである “ハッピーエンド” である。後者は後の数十年の間にカール・クレイグからThe Orbに至るまでのアーティストたちが出現することになるアンビエント・テクノの先駆者のようにも感じられる。この作曲家はかれの超メロディックで、チャイコフスキー風のコード循環をレゾナント・シグナル・モジュレーションで汚していき、最終的には原曲の見る影もなく、中盤部ではICなドラム・ループがさっと現れては再び消えていく。

 YMOの先進的なサウンド・デザインに関しては坂本による功績が大きいが、バンドの真面目な心臓部として駆動していたのは細野と高橋である。『BGM』で最初に聞こえてくる声は英語で歌う高橋の歌声である。”バレエ” では夜の中を回りながら駆け抜けていくメランコリックなダンサーを、その微かに震わせた声で描写していく。”ファイアークラッカー” のようなこれまでのYMOのヒット曲はオリエンタリズムを売り物にした西洋のエキゾチカ・アーティストを図々しく転覆させたものだったが、この『BGM』では自分たちの音楽を全く新しいものとして提示している。それはより無菌室的な超モダンな音楽的ドキュメントで、彼らの急激に成長するテクノポリスによって可能になったイノベーションであった。「Dancing with sadness, just for yourself」と ”バレエ” で高橋は歌う。そのボーカルはデジタル処理で重ねられている。「Lost in the motion, a mime with no end」。

 「3人の中で、最も西洋のポップスに精通していたのは高橋だったと思う」とピーター・バラカンは後にインタビューに答えている。彼が言うには、坂本はもっとはっきりとした翻訳を求めていて、細野は作曲に関しては「自分が何を作りたいのか」がはっきりしている。それに対し、高橋は共作の際の対話にオープンで、レコーディングの際はバラカンに正しい発音を尋ねるほどだったという。「彼は、自分が何を書こうとどうせ私がそれを英語に翻訳するということがわかっていた。だから彼は歌詞のアイデアを日本語で書くときもどこか「英語風」に書いていた。彼は英語のポップ・ミュージックも聴いていたから」

 これらの事柄が結実したのがアルバムの中で最も(そしておそらく唯一)ラジオ・フレンドリーなシングル ”キュー” だった。高橋のリード・ボーカルとドラムが前面に押し出され、ロボティックで、連なるようなベースと小刻みに震えるシンセサイザーが楽曲の駆動力となっている。YMOはいつも作詞を作曲過程の最後に回し、それまでは何時間もドラム・マシーンやシンセのサウンドをいじくり回し、最後になって急いで歌詞を仕上げるということが多かった。だからこそ、この ”キュー” が ”音楽の計画” と同じように、音楽を演奏するということについての音楽であることは道理が通っている。時に緊張感の漂う、何ヶ月にも渡るスタジオでの苦行のすえに出来上がったアイデアなのだから。バックに徹していた細野は、最後のリフレインの終わり近くになって高橋に加わり、フルボイスで歌い始める。「I’m sick and tired of the same old chaos/Must be a way to get out of this cul-de-sac(使い古されたお決まりの混沌にはうんざりだ/この袋小路を抜け出す道がどこかにあるはずだ)」と。

 ”キュー” は『BGM』からのファースト・シングルとなり、次第にファンのお気に入りとなり、2000年代に散発的に行われたYMOの再結成ライブのセットリストにも並べられる位置を獲得した。しかしオーディエンスも批評家たちも彼らの前作ほどはこの作品を高く評価せず、日本での『Solid State Survivor』の成功に匹敵することは叶わなかった。西洋の音楽批評家たちは、1981年の春にこの新しいアルバムが届けられる前からこのバンドを根本的に誤解していたようだ。YMOについて語るとき、ライターたちはKraftwerkゲイリー・ニューマンRoxy Musicといった彼らに先んじてシンセを多用していたアーティストの名前を連想することが多い。しかしこのバンドを外部からやってきた奇妙なもの以外のなにかとして捉えることの出来ていた者は少なかった。彼らが見ていたのはイノベーターの姿ではなく、以前からあったものの日本人による模倣でしか無かった。その過程でバンドからは人間性が剥奪されていた。

 「人間が機械を演奏しているのか、あるいはその逆なのか、それは判然としなかった」。『ワシントン・ポスト』紙のライターは1979年のYMOの演奏を見た後にこう綴っている。『ロサンゼルス・タイムズ』の評者は彼らをKraftwerkと好意的に比較した後、彼らの「厳格な面持ち」をあざ笑った。レビューの中には明白にレイシスト的なものもあったが(「もしこのバンドがまだ存在していなかったら、邪悪な日本の技術者たちがそれを発明しただろう」と『ガーディアン』紙に書いてある)、他のレビューも総じて誤解にまみれていた。『シカゴ・トリビューン』紙のジャーナリストが1980年に書いたところによれば、「シンセサイズされた楽器を最も想像力豊かに使おうとも、そこには限界がある…シンセサイザーを用いた音楽は限界に近づいているという強い思いが各所から聞かれる」。

 しかし、後知恵ではあるが、『BGM』のなかの「危うい」楽曲ですらいい形で年令を重ねている。細野による ”ラップ現象” は、ちゃんとされる歌詞と無調のシンセと共に、他の作品では細やかな部分まで気を使う優れたプロデューサーである彼の珍しい過失であると捉えられることもある。冷笑家はこの曲を、ニューヨークで発展を遂げていたラップ・シーンを、太平洋の向こう側にいる流行り物好きが奇妙に謝った解釈を試みた結果であるとこき下ろした。しかし彼らが見落としていたのは、YMOは自分たちのバンド名を選んだその瞬間から、ユーモアのセンスとともに活動してきたということだった。彼らが1980年にリリースしたミニ・アルバム『増殖(X∞Multiplies)』では、彼らはトラックリストの中にコメディのスキットやアーチー・ベル& The DrellsによるR&Bクラシック ”Tighten Up” のニュー・ウェイヴ版カバーを収録し、それによって『Soul Train』史上最も可笑しいドン・コーネリアスによるインタビューが行われることにもなった(日本とアメリカでのリリースの違いもその分断の一因だった:『増殖』に収録されていた寸劇部分はアメリカでは『Solid State Survivor』収録曲に差し替えられていたからである)。

 YMOの初期3作は過去というものをスペースエイジ的に、シンセサイズした作品だったものであったのに対し、『BGM』はエレクトロニック・ミュージックというものの未来を驚くに現在から地続きなものとして垣間見た作品であった。”ラップ現象” を今聴くと残響音の微かなエコーによるグルーヴやポリリズミックなボーカル・サンプルのマニピュレーションなど、今日のエレクトロニック・ミュージックでは定番となった手法が使われていることに気がつく。『BGM』の後半はまだ生まれて間もなかったジャンルの仕草が見られる:Aphex Twinのすばしっこいドラム・プログラミング(”ユーティー”、”カムフラージュ”)、シンセウェーヴの不吉なドラマ性(”マス”)など。アンビエント風の最後の曲 ”来たるべきもの” はーー徐々に上昇していく、2分間に及ぶシェパードトーンで幕を開けていなければーー「BGM」という伝統的な基準を満たす唯一の楽曲と言えるかもしれない。こんにち、このイントロはTHXのトレードマークである ”Deep Note” を想起させるが、この楽曲はそれに先駆けている。コンピューターの魔術師でありYMOの非公式「第4のメンバー」である松武秀樹の助けを借り、バンドは当時最も最先端のレコーディング技術を使いこなし、他の人達が同じことをする何年も前に自分たちの感性の可能性を掘り起こしていたのだ。

 『BGM』はYMO自身の未来すら予告していた。坂本と細野の間の緊張状態は解決することなく、1984年にバンドはそれぞれの道を行くことを宣言し、数十年後に再結成を果たした(「僕たちはエネルギーを失って、喧嘩をする元気もなかった」と高橋は2008年に笑いながら述懐している。坂本はこう述べる。「過去の自分にあったらぶん殴りたいね」)。レガシーという観点から見ると、これは彼らがユニットとして作り上げた作品の中で最も重要な作品かもしれない。個々のメンバーのこれに続くソロ作品は、色んな所でこの『BGM』の音のパレットの影響を包含している。高橋による心に染み入るシンセ・ポップ作、細野のアンビエント作、坂本のデイヴィッド・シルヴィアンとのコラボレート作の中に、ドラム・マシーンの飛沫や不自然なテクスチャを聴いて取ることができる。静謐なシンセサイザーを大音量で鳴らし、攻撃的に鳴らし、そして再び静謐に鳴らすというスリルがそこにはあるのだ。

By: Noah Yoo

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