<Pitchfork Sunday Review和訳>The KLF: Chill Out
KLF Communications, 1990
By: Philip Sherburne, February 16, 2020
8.9
KLFによるサンプルを多用したドリームスケープ、アンビエント・ハウス・ミュージックにおいて最も影響力を持つ作品の一つ
1959年、James Tennyという名の若い作曲家が、先進的な考えを持つ人が電子音楽を学ぶことができる数少ない場所の一つだった当時のイリノイ大学に入学した。電子音楽という形式もまだ生まれて間もない頃だった:オシレーターや磁気テープが新しい世界への扉を約束していた。Tenneyがこれらの馴染みのない機材で作曲を試みても、彼は苦境に陥ってしまった。1961年になって初めて、それは全くのやけくそだったのだが、Tennyは彼のクラシックの出自からは何もかもかけ離れた種類の音楽をいじくり回すようになった。それはたった5年前にリリースされた、Elvis Presleyの“Blue Suede Shoes”だった。彼はこの曲スピードを上げ下げしたり、断片に切り刻んだりした。「熱狂的な」1週間を経て、彼は流用芸術のランドマークとなった作品“Collage #1”を完成させた。ほとんどPresleyだとは認識できない声が夢のように断片的に漂う、様々な奇怪な音がごちゃまぜになったスープである。
それから何十年も経った後、John Oswaldがトロントで行われた電子音響音楽家会議において「プランダーフォニックス、あるいは作曲の権利としての楽曲著作権侵害」というタイトルの挑発的な講義を行った頃、音楽業界では激震が走っていた―それはDJ Kool Hercによるブロンクスのブロック・パーティーでのブレイクビート・DJイングの発明の余震がずっと続いていたのだ。スクラッチとそれをデジタルに置き換えたサンプリングが、コミュニティにあるレクリエーション・センターから実際のレコーディング・スタジオに持ち込まれるようになると、著作権法というものはこれらの新しい技術によって避けられなくなる疑問に答えるのには不都合なものであることが明らかになった。その疑問というのは以下のようなことである:もし商業用録音物が所有するための商品であるだけでなく、新たな創作のためのアナーキーで自由な原材料であるとしたら?
「ヒップホップ/スクラッチのアーティストによって扱われると、レコードプレーヤーは楽器となる」とOswaldは宣言した。彼はターンテーブルとサンプラーの中に新たな民俗音楽の誕生を見出していた。Oswaldはクリエイティヴなサンプリングは元々あった作品を色褪せさせるわけではないと信じていた:それは元々あった作品の上に建てられるのだ。彼はイギリスの詩人、ジョン・ミルトンによる借用が剽窃になるのは「借りた者によって作品がより良いものにならなかった」場合のみであるとする見方や、ストラヴィンスキーによる、よく繰り返される警句「いい作曲家は真似るのではない:盗むのだ」を引用した。Tenneyによる“Collage #1”はOswaldによればオリジナルの録音物から拡大しつつもそのエッセンスを保っているという点で「より良い借用」の一例であるという:「Tenneyはありふれた音楽を取り上げ、我々がそれを違った形で聴くことを可能にした。そして同時にもともとElvisによる作品であったということがJimの作品の認知にかなり大きく影響してくるのだ」これほどまでに深遠なものを作り出すことができる世界において、著作権法に一体何の意味があるというのだろうか?なぜ創作を監視するのか?芸術は人間と同じように自由、前進、繁殖を望むものなのだ。
それから2年がたった1987年、辺鄙なスウェーデンの郊外の農道の行き止まりに太陽がのぼり始める頃、Bill DrummondとJimmy Cautyは小さな焚き火が彼らのデビュー・アルバムをツンとするような匂いの煙に変わっていくのを―悲しそうに、もしくは嬉しそうに―見つめていた。彼らが自分たちが作ったものを焼き払うのはこれが最後ではなかった。1994年、The KLFとして知られるバンドがイギリスで最も売れているバンドの一つとなり、稼いだ大金を恥と思った2人は100万ポンドの現金を、ただ松明にするためだけに燃やした。スコットランドのジュラ島にある打ち捨てられたボート小屋の中で50ポンド札の束を一つ一つ火の中に投げ入れ、もってきたスーツケースが空になるまでそれは続けられた。このようなエピソードによってこの二人組は彼らが作った音楽というよりもその愉快犯的な側面のほうが有名になった。こんにち、彼らは音楽を完全にやめたその後に小さな財産に火を放ったバンドとしてよく知られている。しかし彼らが引退を宣言する前、挑発や裁判所からの命令、予想していなかったヒットなどの間に彼らはこの『Chill Out』をこっそりと発表した。これは奇妙奇天烈で、その後数十年のアンビエント音楽の形を決定づけたアルバムであり、彼らの作品の中で最も静かな作品でありながら、その謎めいた声明は彼らのアナーキーな振る舞いと同程度に力強いということを証明した。
1987年の元日に結成されたThe KLFは英国のポップ・ミュージック史上最も大胆なグループとしてすぐに知られるようになった。The KLFを名乗る前、彼らは―その後の活動の中でたくさんするようになったように―借用した名前で活動を開始した。ロバート・シェアとロバート・アントン・ウィルソンの共著である『イルミナティ!』3部作(混沌の影のエージェントの集団を描いたSF小説シリーズ)から取られたその名前は、The Justified Ancients of Mummu、略してThe JAMsだった。
DrummondとCautyによるJustified Ancients of Mu Mu(綴り間違いは意図的なもの)は結成後たったの3ヶ月でファースト・シングル“All You Need Is Love”をリリースした。この曲は広範な、許可されていないThe Betalesの同名曲の抜粋から始まり、突然MC5の悪名高い“Kick out the jams, motherfuckers!”というセリフがカット・インされる―『イルミナティ!』の狡猾な引用である。曲の残りの部分も同じように未許可のサンプルで埋め尽くされている。タブロイドのピンナップ・モデルとして英国のオーディエンスに知られているSamantha Foxが“Touch me, touch me”と鳴けば、新たに導入された政府によるエイズ予防PSAからとられた俳優のジョン・ハートが“Sexual intercourse/No known cure”と警告する。ギザギザしたスクラッチや金床を打つようなギターはRun-D.M.C.やBeastie Boysを不器用に真似たものである。率直に言ってしまえば、この曲はめちゃくちゃである。Sounds誌は「1987年の音楽的・社会的気候を写実的に切り取った最初のシングルである」と断言した。
BBCのDJたちはこのシングルに触れようとしなかったが、この“All You Need Is Love”はプレスと弁護士の両方から同じように目をつけられた。裁判所は残存するこの作品のコピーを破壊するように命令した。The JAMsにとって幸運なことに、500枚プレスしたシングルはすべて売り切れてしまっていた。それにもめげず彼らは急いでデビュー・アルバム『1987 What the Fuck's Going On?』をリリースした。この作品も同様にくすねてきたサウンド―ABBAの“Dancing Queen”、Dave Brubeckの“Take Five”、Little Richardの“Tutti Frutti”、Sex Pistolsの“Anarchy in the U.K.”などなど―が所狭しとプリミティヴなヒップホップのビートに乗っているという作品だった。彼らはまるで盗品を見せびらかすように、サンプル・ソースを一切隠そうとしていなかった(例えばDave Brubeckをサンプルした曲の名前は“Don't Take Five (Take What You Want)”だった)。それと年を同じくしてアンダーグランドのロッカーNegativlandと一度限りのダンス・ポップ・プロジェクトM/A/R/R/SもこのThe KLFの作品と一つの中心的な信条を共有するキャリアを決定づける作品を発表している。その信条とは、事前に許可を求めるよりも後から許しを乞うほうが簡単だということだ。
またしても裁判所は『1987 What the Fuck's Going On?』の残存するコピーを破壊するよう命令した。今回DrummondとCautyを面倒事に巻き込んだのはABBAのサンプルを無許可で使用したことだった―厳密に言えば、ストックホルムで個のスウェーデンのスーパースターたちに彼らの要求を考え直すように迫ったそのやり方だった。面会を断られたあと、2人はその命令に従い、不服ながらもその義務に従ってスウェーデンの畑で残存していたレコードの大半を燃やし、それでも残っていたものを帰路につくフェリーで船外に投げ捨てた。おそらく大量の黒い樹脂の円盤はまだ海の底で、波によって磨かれ軟体動物によって覆われた状態で横たわっていることだろう。北海の出来損ないのマイル・マーカー、頑固な芸術家を讃えた水中のモニュメントとして。
DrummondとCautyはその後も何年か面倒事を起こす作品をリリースしては業界を避難し、永遠に続く再発明によって評判を高めていった。1988年、彼らはThe JAMsという名前を殺し、新たにいくつかの変名を用いることにした。Timelordsとして彼らは、『ドクター・フー』のテーマ曲とSweet and Gary Glitterのグラム・ロックをためらうことなくマッシュ・アップした“Doctorin' the Tardis”によってNo.1ヒットを記録した。その1ヶ月後、初期レイヴ・シーンの到来を告げる7分間の不吉なテクノ・アンセム“What Time Is Love”を5位に送り込んだ。この作品に使用した変名はThe KLF、“Kopyright Liberation Front(=著作権解放戦線)”の略であるとされる名前だった。
この時点までにおけるこの二人の音楽性を表すとすればそれは「耳障り」であった。しかし1990年の2月、彼らは不快なエディットやギザギザとしたレイヴの加工を脇に押しやり、『Chill Out』をリリースした。それは44分間途切れずに続くシンセサイザー、スティール・ギター、鉄道の雑音、羊の鳴き声、生活音、サンプル(Fleetwood Mac、ジャズ・クラリネット奏者Acker Bilk、更にはJames Tenneyも愛してやまなかったElvis Presleyなどが時に半分埋まった状態で、時に完全に顕な状態で現れる)のコラージュだった。
『Chill Out』は完全に新しいアンビエント音楽の思考法を世に提示した。Brian Enoは1978年のアルバム『Ambient 1: Music for Airports』でアンビエントという考え方を成分化し、Tangerine Dreamのようなバンドたちによるドリーミーでサイケデリックなシンセサイザーの長い伝統というものも存在していた。しかしそういった音楽は頭でっかちなヒッピーたちのもので、Steve RoachやRobert Richのニュー・エイジ寄りのドローンは水晶を売っているような店のカセット棚で見かけることが多かった。レイヴが誕生して以降、オールドスクールなアンビエントは世代の違いというどころではなく、全く違う星の音楽のように聞こえた。その一方でAphex Twin、Pete Namlook、Global Communicationといった次世代のアンビエントの正統となるような作品がその後数年で発表されることになる。
プレスリリースの中でThe KLFは『Chill Out』を新たなサブジャンルの誕生であるとアナウンスした。アンビエント・ハウスである。当時、この名前は矛盾しているように聞こえた。ハウス・ミュージックはリズム、運動、身体の動きの音楽で、アンビエントは形がなく、アトモスフェリックで、本質的に身体性から切断されたものだった。しかし彼らが言うには、実はこの融合はレイヴ・カルチャー―夜通しノンストップで12時間踊り明かし、そのあと日曜の朝の現実にゆったりと戻らなければいけないという形式―が生み出す生理的・化学的ストレスに対する極めて自然な反応であった。まだレイヴ第1世代が泥まみれの広場に昇る太陽を眺めることの効果(と後遺症)を発見し始めているころに、壊れやすいシナプスを落ち着けるためだけに特注で作られる音楽というアイデアはまだ斬新な概念であった。
KLFの典型的なやり方であるが、彼らがこの作品についてどの程度真剣であったのかと言うのを知るのは難しい。プレスリリースの半分は臆面もない皮肉と冗談、当てこするようなニュー・エイジ風の文言のものまねだった(「アンビエント・ハウスは風と愛を交わし、星に語りかける」)。そしてアルバムのジャケットには羊がいる―DrummondによればPink Floydの『Atom Heart Mother』に触発されたもののようだ。スリーヴは彼が言うには眠そうな目をした羊がたくさんいる草原で、夜明けの感じを捉えるたために撮られたものだそうだ。レイヴ現象にはどうしようもなく英国的で田舎的な側面があった。The KLFが説明するところではこれらの羊は「宇宙と完全に一つになれるほど高度に精神的に発達した動物を象徴している。それを疑うというのなら、この『Chill Out』を聴きながらジャケットを眺めて、その静けさを分かち合うといい」。
The KLFの初期作品に見られた奇行・粗野な皮肉などは鳴りを潜め、『Chill Out』は微妙なニュアンスを持ち、催眠的で、謎めいていて、少しの自己満足も嫌味も感じられない。メーメーと鳴く羊は一見馬鹿げているように思えるかもしれないが、ここでの目的はもっと両義的である―サブリミナル的に挿入されるこの鳴き声は全体のミックスの中ではほとんど知覚することができない。『Chill Out』のまさしく最初の瞬間からリスナーは馴染みのない感覚の渦―あやすように優しかったり、詩的だったり、深く動揺させたりするような―へと沈み込んでいく。そしてほぼ45分後にならないともとに戻ってこないのだ。
アルバムはコウロギの鳴き声と水のせせらぎから始まり、やがてサイン波の電子音とスペイン語のラジオの断片が続き、それらがダブ・ディレイによって心地よく方向感覚を失っていく。後にThe KLFのシングルとして1991年にリリースされることになる“Justified and Ancient”のコーラスがミックスの中を夢心地で漂った後すぐに霧消し、つかの間の参照地点ではコンパスの針がずっと回り続けている。1分もすると、貨物列車のガタゴトという音が出入りを繰り返し、ペダルスティール・ギターの音色が続けて聞こえてくる。両方とも深く暗号化されたサウンドであり、アメリカの田舎という概念と切り離すことはできない。その土地はThe KLFにとって祖国の牧草地と同様に魅力的なものであるように思えた。これらのサウンドはこのアルバムのロード・トリップという主題に決定的な場面設定を提供し、その主題はサウンド・エフェクトとランダムなラジオ選局という形で最後まで演じ切られる。楽曲のタイトルは『Chill Out』の継ぎ目ない音楽の流れを緩やかに統率しているのだが、それもまたこの作品が高速道路を夜通し運転することであるという印象を強めている:“Brownsville Turnaround on the Tex-Mex Border(=テキサスとメキシコの国境、ブラウンズヴィルにある車回し)”、“Pulling Out of Ricardo and the Dusk Is Falling Fast(=リカルドを出発、夕日は素早く沈んでいく)”、“Six Hours to Louisiana, Black Coffee Going Cold(=ルイジアナまで6時間、冷えていくブラックコーヒー)”などのタイトルがそれである。
表面上の静けさの下で、このアルバムには活動がひしめいている。じゃんじゃんと鳴らされるカウベルがあり、車のエンジン音、クラクションの音、船外モーターの音のように聞こえる音の断片。車のドアをピシャリと閉める音、鳥のさえずり、吠える犬、泣き叫ぶサイレン。それらのサウンドがペダル・スティールと一緒に鳴らされるのだが、そこでの主役は永遠と続くシンセサイザーのコードである―甲高く、孤独な帰社の汽笛の、この世のものとは思えないような残響。これらのサウンドはあまりにも素早く、柔らかに通り過ぎていくから、我々は何個の別々の要素が今舞台上にいるのかに気づくことができない。それらはまるで消火ホースから流れ出す羽毛のようにとめどなく進んでいくのだ。
しかしこのヴァーチャルな世界に生命を吹き込むのは声である。ロング・アイランドのアナウンサーが、自分の父親のダイナーでの仕事を終えた後ドラッグ・レースの事故に巻き込まれて死んだ17歳の少年のニュースを伝える。ファンたちにはDr. Williamsと呼ばれている騒々しい男が一種のギリシャ劇風のナレーターとして登場し、楽曲の中で砂利のような声で解説を行う:「なあ、自分のモジョを持って!アトランティック・シティに行って、ネズミのように太って帰ってこい!」The KLFはマタイの福音書についてとりとめもなく嬉しそうな牧師をサンプルすることによって、アメリカの各地で聴くことができるキリスト教系の放送局を思い出させている。DrummondとCautyは単に彼の声が気に入ったのか、それともマタイ福音書の9章36節の内容に知見があったのかもしれない:「また、群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて、倒れている彼らをかわいそうに思われた」
挟み込まれる小片はまるで半分眠りながら聴いているラジオ放送のように演出されていて、それは数ヶ月後の『Twin Peaks』の登場によってデイヴィッド・リンチが探求しようとしていたのと同じようなシュールな美学の先鞭を打っていた。それはアメリカン・アンキャニーと呼ばれる、よく見知った修辞が奇妙なものとなり、小出しにされる断片が隠されたナラティヴを示唆する、地面に深く穴を掘るような物語の形式である。The KLFと同じくアメリカの裏街道を旅する目利きの旅人であったスイス人写真家、ロバート・フランクの伝統を引き継ぐように、The KLFが外国人であるということはアメリカの神話に特別な解釈を加えさせた。それはすべてこの二人の想像の産物である:Drummondはこの作品が想起させるような場所には一度も行ったことがなく、タイトルはレコーディングの後に決められたものだった。Drummondは1991年のX Magazine誌に対して、「旅のような感じがあると考えたんだ。僕は地図や図解が好きで、地名も好きだったから、ただ座って地図帳を広げて旅路を考えていたら、うまくはまると思えたんだ」と語っている。
The KLFの感性は“All You Need Is Love”の頃に比べると軟化していたかもしれないが、プランダーフォニック的な本能は決してなまってはいなかった。1994年にメーリングリストに投稿されたThe KLFによってサンプルされた楽曲の大要にはPink Floydの“On the Run”と“Echoes”、Brian Enoの『Ambient 4: On Land』、Fleetwood Macの“Albatross”、Boy GeorgeのグループJesus Loves Youの“After the Love Has Gone”などが引用されていた(彼らの素材の多くが英国産のものであったという事実は、彼らのディープ・サウス滞在が純粋な想像上のものであるという性質を強調するに過ぎない)。トゥヴァ人の喉歌の倍音はアシッド・ハウスで用いられるTB-303の奇妙なプリ・エコーを提供している。夜通し営業している食料店でよく見かけた類の元気いっぱいのチャンバー・ミュージックはフレッシュな駄作感を一吹き貸し付けている。最も想像し難い寄り道は、終わる直前に現れるEddie Van Halenによる“Eruption”の花火のようなギター・ソロを容赦なく歪めてしまったエディットである:ピック・スライドとワミー・バーによる激烈な嵐は、長い夜から着陸するための滑走路を求めてこのアルバムを手にした、MDMAを摂取したクラバーをさぞかし驚かせたことだろう。
アンビエント・ハウスのアルバムであると喧伝している作品にしては、ハウスの成分は極めて少ない―“Trancentral Lost in My Mind”に登場する、1991年のシングル“Last Train to Trancentral”のドラッギーな予告編と、“A Melody From a Past Life Keeps Pulling Me Back”でかすかに聞こえてくる、眠気を誘うクラリネットに対して配置されたアンフェタミンが混ぜられたハイハットのみである。このメランコリーなリフレインが登場する度に、私はテリー・ギリアムによる1995年の映画『12モンキーズ』の中でブルース・ウィリス演じるタイムトラベルをするキャラクターが、カーラジオのビーチ・リゾートのCMの合間に挟み込まれたFats Dominoのヒット曲“Blueberry Hill”に出会う、というシーンを思い出す。思いがけない出会いであろうとそうでなかろうと、このシーンは『Chill Out』の感覚を煮詰めたものである:時間のなかを同時に前に進みながら後ろにも進んでいるような、聞き手を圧倒するような音・声・感情のミックスのことである。
ビートが不在であるこのアルバムだが、この作品は作曲とDJミックスの境界線を曖昧にした。DrummondとCautyはこの作品を2台のDATプレイヤーと1台のターンテーブル、何台かのカセットデッキ、それとミキサーを使って組み上げた。彼らはまず20分ほどシンセ・パッドでジャムをした後、そこから作り始めて、DATからDATへバウンスし、その途中でレコードやらテープやらから色んなものをリアルタイムでサンプリングを行った。最終的なミックスはライヴ録音され、その後に最後の最後で何かをしくじってまた最初から、という失敗テイクが何個か続いた。
「これらの断片はただ放り投げたんじゃなくて、全ては僕たちが望んだ形になって配置されているんだ」作品のリリース直後の1990年、Drummondはi-Dに語った。しかしそれでもやはりレコーディング・セッションは彼らの特徴でもあるアナーキーな精神によって導かれる形になった。ある朝、Drummondの目覚ましラジオはElvis Presleyの曲で彼を目覚めさせた。彼はすぐさま駆け出してこのキングのベスト盤を買いに出て、まさにその日に彼とCautyは1969年の“In the Ghetto”を“Elvis on the Radio, Steel Guitar in My Soul”にサンプルした。プランダーフォニックスの天才性がここで明らかにされている。サンプルが使用されていない『Chill Out』を想像するのは簡単であるが、Elvisの声が鉄道の雑音やペダル・スティールのダブがかかった装飾音と見事に調和して混ざっているさまを一度聴いてしまえば、それを聴かなかったことにすることは不可能である。これこそがアルバムを完成させているもので、欠かすことのできない部分となっているのである。
The KLFが初期にリリースしたドタバタ劇のシングル群はヒップホップのテクニックを用いてポップ・ミュージック、ひいてはポップ・カルチャーを風刺するという文化同士のジャム―Negativlandの用語だが―を象徴していた。『Chill Out』はそれらと同じテクニックを別の目的のために使用した:よりおとなしく、より奇妙で、よりサイケデリックな目的のために―まるで中で素材がレンティキュラー印刷(見る角度によって見えるものが違う印刷)のように明滅している漠然とした霧のように。The JAMsだったらElvisの突き出た腰使いやド派手な衣装、ドラッグの使用など、この「キング」を実際よりも巨大なポップ界のド派手なスペクタクル足らしめた物事を強調しそうなところを、『Chill Out』は彼の声、彼の悲哀、彼の音楽に取り付いている超世俗的な性質に的を絞っている。The KLFが考える「チル・アウト」という概念は受動的な棒っとした状態のことではなく、意識が高まった状態であり、幻を見るのをやめてヘッドライトに写ったセンターラインを凝視することによって手に入れられる清澄な感覚のことなのである。
『Chill Out』の与えたインパクトはいくら誇張しても足りないくらいだ。アンビエント音楽はニッチな関心事だったものが音を通じて世界と相互に交わるための広く知られた方法となり、入眠のためのプレイリストだったものが浴してリラックスするためのサウンドとなった。「チル」という考え方は更に広がったわけだが、DrummondもCautyもその受動性やそのムードをライフスタイルとしてパッケージすることに魅力を感じていなかったというのはさすがというべきだ(数年前、Drummondは録音された音楽の時代はすでに終演を迎えつつあると語った)。もちろん、The KLFがいなかったとしてもアンビエント・ハウスやアンビエント・テクノという音楽が出現した可能性は大いにある―そのアイデアは空気中に漂っていたわけで、Cautyの相方DJをいっとき務めていたAlex Pattersonや彼のグループThe Orbがその松明を受け取っていたかもしれない。しかしテクスチャ、音色、アティテュードのある特定の合成の仕方をThe KLFは定めた。彼らがアンビエント・ハウスを発明したわけではないのかもしれないが、かれらはそれを伝え、その誕生を見守り、その在処を見つけ出した:彼らはポップ・カルチャーの中に流れていたそれの存在に気が付き、それを水面に引き上げ、名前と形を与えたのだ。
『Chill Out』はどのストリーミング・サーヴィスでも聴くことができない(YouTubeでは聴ける)し、ダウンロードでも購入することができない。The KLFは彼らが引退を宣言した1992年にこのアルバムをその他の旧譜とともに市場から引き上げてしまったのだ。しかし、このような無法者のアーティストによって作られた決定的なアルバムが通常の方法で流通していないのは、それはそれでしっくり来るような感じもする。
著作権法がなんといおうが、『Chill Out』は誰に求めることのできないアイデアである。そのエッセンスは例えばこのトリビュート・ミックス―オリジナルのムードやフィーリングを保ちながらサンプルをすべて新しく入れ替えた、いってみれば部分部分のカヴァー・ヴァージョンである―のジャケットにも表れている。見知らぬ高速道路を走りながらその消失点を見つめるものであれば皆知っていることだが、低い唸りを上げるエンジン音は、幾年もの時間といくつものスピーカーを通過してきたElvisの声に対する偶然の対応物であり、群れを夜明けへと導く羊飼いなのである。