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<Pitchfork Sunday Review和訳>Lync: These Are Not Fall Colors

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K RECORDS • 1994

 Lyncが活動していたのはたったの2年間であり、それは長い歴史に一瞬だけ現れた点のようなものである。1992年の暮れから1994年の間の短い活動の間に、ワシントン州オリンピアの3人組は4枚の7インチと、3つのコンピ盤参加曲、そして唯一のLPであり、皆に愛されることになる『These Are Not Fall Colors』をリリースしている。これらが彼らの公式の発表物の総計である(地元の友達や、フォード・エコノラインに乗って西海岸を上下して回った小旅行で出会った音楽関係者たちだけに配布された6曲入りのデモテープを除けば)。もしLyncが唯一のフル・アルバムを完成させる前に解散していたとしたら、1~2年の間DIY界隈で活動した後に解散し、もはやその存在を示す証拠となるのはいくつかのレコード盤のみ、というようなほかのバンドと同様に、鮮明に記憶されることはなかっただろう。

 しかしつむじ風のようなこのアルバムにおいて、Lyncは特別な何かを表現している:ものすごい速さで過ぎ去っていく、青年期のおぼろげで言葉にしがたい感情の発露。そしてこの作品を聴いてみると、その粗削りな渦巻きの中には何か他のものも感じられるはずだ:ロック・ミュージックがこの先向かう方向のいち提案。しかし――これはこの作品の親しみやすい魅力の大きな部分を占めるのであるが――この作品のデザインはそういった内容から想像するよりも大げさでもったいぶってはいないのである。『These Are Not Fall Colors』はマニフェストではなく個人的なステートメントであり、青のボールペンで書かれたしわだらけのノートブックをそのまま音にしたような作品である。明らかに計算や自意識といったものは入り込んでいないことから、この作品はなにか基準となるものを打ち立てようというたぐいのものではなかったことがわかる。これは単なる流血であり、熱中し、楽しんで、純粋に作られた作品である。

 シアトルから南に1時間ほど行ったところに位置する小さな町、オリンピアは、1980年代初期から独立系の音楽シーンの中心地であった。それは、一つには1967年に設立された公立の教育機関、Evergreen State Collegeのおかげでもある。伝統的なカリキュラムに縛られない自由な校風で知られる同校は急進的な学生たちにとって魅力的な場所だった。しかしこの学校の存在よりも、カルヴィン・ジョンソンの存在の方が重要であろう。ボルチモア生まれのジョンソンは1970年、彼が8歳の時にこの地域に家族と共に越してきた。比較的孤立したオリンピアの町にあって、彼はごく初期のパンクを発見した。1978年、まだ高校生だった彼はEvergreen Collegeの未熟なラジオ局=KAOSで番組を持ち、1982年には奇妙でありながら素朴な気風のカセット・レーベル=K Recordsを設立する。

 Kはジョンソンと彼の友人たち、Mecca Normal、Girl Trouble、そして彼自身によるBeat Happeningといったアーティストたちのための音楽作品の発表の場として始まった。レーベルのサウンドは当初からローファイであった。初期のリリース作品はラジカセで録音された。Beat Happeningは2作目である『Jmboree』(1987年)を玄関で録音している。このレーベルのとっ散らかった感じは一つにはジョンソンの趣味もあったが、そうせざるを得なかったという側面もある。彼らはレコードのスリーヴも白黒でコピーした後に手作業で色を付けた。そのほうが安かったからである。棒人間の絵をアートワークに使ったのも、そっちのほうが身の丈に合っているからであった。ほかのパンクスたちがスパイク付きのブーツで着飾るなか、ジョンソンは足首にピンクのバンダナを巻くだけだった(彼の友人であったイアン・マッケイは振り返って「こいつは変な奴だ」と思ったと語っている)。オリンピアのシーンを広く知らしめた6日間のフェスティバル、1991年に開催されたInternational Pop Underground Conventionにおいて、ジョンソンはヴィーガン用のキャンディを聴衆にばらまいた。

 Kの美学の中心には決して消し去ることのできない純粋さがあり、それは1979年、当時17歳だったジョンソンが『New York Rocker』に宛てて書いた手紙によく表れている。「僕は秘密を知っている。ロックンロールというのはティーンエイジャーのスポーツであり、すべての年齢のティーンエイジャーによって演奏される。べつに15歳でも、25歳でも、35歳でもいい。そのハートに愛があるか、美しいティーンエイジの精神を持っていればいいんだ」

 1990年代の初めには、Kはミュージシャン、アーティスト、そしてジン作成者たちの国際的ネットワークのハブとして機能するようになっていた。彼らは日本やイギリスの似たような考えの持ち主たちと関係性を築くとともに、ワシントンD.C.Dischordとは同志としてアーティストを交換したりツアーを一緒に回ったりしていた。オリンピアのシーンはシアトルのグランジ・ブームからは距離を取りながらも、独自の特異な特徴を発展させながら繁栄していった(Modest MouseのIsaac Brockはのちにこう語っている。「自分たちがイサクワ出身であるということにしたのは、シアトルやオリンピアのどちらにも縛られたくなかったからだ。シアトルの音楽シーン、つまりグランジはもっとわかりやすいロックやメタルって感じで、オリンピアはちょっと変わった感じだった」)。ライオット・ガールのムーヴメントは、Bikini KillBratmobileが活動を始動させたオリンピアにそのルーツがある。さらに言えば、ティーンの精神(”teen spirit”)について強い考えを持った若者がもう一人、オリンピアに短い間住んだあと、シアトルへ移って世界的に有名になった:カート・コバーンはK Recordsのロゴのスティックアンドポーク・タトゥーを二の腕に彫っているのだ。

 その間にも、Kill Rock Stars、Yoyo Recordings、Punk in My Vitaminsといった新興レーベルが街にあふれるバンドを収容するために次々に生まれていた。Lyncsのサム・ジェインはこう振り返る。「ただ通りを歩きながら人に話しかければそういう人と出会うんだ。そういう人たちは町の外からショウでプレイするためにやってくるんだけど、ほかにすることもないっていうんで、ここに1週間かそこら滞在することになるんだ。みんな短期滞在だったし、シーンで顔が広いキッズもたくさんいた。お互いの家に押しかけて泊まって、また次の町へ…という生活を送るキッズたちのネットワークが形成されていたんだ」。

 今振り返って、その時代が一枚岩のムーヴメントだったと考えるのはたやすい。しかし「グランジ」や「パシフィック・ノースウェスト」(あるいは「シアトル」)という用語は、なにか特定できないその他の勢力を表す換喩に過ぎない。1992年、パンクと今日で言うところのインディー・ロックが隆盛を極めていた:シーンは多様なアイデア、音楽スタイル、そして社会的ネットワークでで溢れかえっていた。ハードコア、ポップ・パンク、エモ、スクリーモ、ホワイトベルト、ピッグファック、メタル、スラッシュ、スラッジ、パワーヴァイオレンス、ライオット・ガール、インディー・ポップ、ローファイ、オルタナ・フォーク、オルタナティヴ、カレッジ・ロック、そしてグランジですら、それらはお互いに重なり合い、全く異なる者同士に思えてもお互いを支え合っていたのである。そしてLyncはその中から一つだけを選ぶのを拒み、その全ての美しい混沌の鏡像となったのである。

 サム・ジェイン、ジェームス・バートラム、デイヴ・シュナイダーはLyncを結成したときまだ10代だった。バンド初期の記録は殆ど残っていない:彼らのデビューはおそらく1992年10月にシアトルのExcursion Recordsから出たカセット・コンピレーション『This Is My World』で、真っ直ぐなUndertowや同じくNYHCにインスパイアされたBrotherhood(後にSunn O)))を結成するグレッグ・アンダーソンが在籍)といったバンドと並んで参加している。Lyncが1993年の『Julep: Another Yoyo Studio Compilation』にHeavens to BestySlant 6Kicking Giantといったグループとともに参加した際には、『SPIN』誌のその年の10月号で「期待の新鋭」と紹介された。1994年5月の『Punk Planet』誌の創刊号に掲載されたシアトルのシーンのリポートでは、「オリンピアの3大バンドはUnwoundMary Lou Lord、そしてLyncだ。それ以外には考えつかない」と記されている(市内でのライバル関係は明らかに存在したのである)。

 その希少さとは裏腹に、Lyncの1993年のデモ・カセット『Codename』は幸先の良いデビュー作と言えるものではない。音質も悪く、タイムキープはガタガタである。ジェインの声はまるで望遠鏡の逆側から聞こえてくるようであり、シュナイダーのドラムはクラッシュ・シンバルの音割れで何も聞こえず、バートラムのベースは聞き取ることすら難しい。スタイル的には、そこに収められた6曲は型通りのエモとポップ・パンクのミックスと行った趣で、底に金属的なガレージ・ロック的な音も付け加えられている。”Lightbulb Switch” は照明のスイッチに手が届かない少年の視点から歌われ、The Dead MilkmenがShel Siversteinをカバーしているようなうぶな雰囲気がある。

 Lyncが1993年2月にパット・マリーと彼のYoYo Studioで行ったセッションはよりシャープなサウンドとクリアなヴィジョンを生み出した。3曲入りのEP『Pigeons』では、彼らをJawbreakerのような熱のこもったポップ・パンクと、同じシーン出身のUnwound(厳密にはタムウォーター出身だが、そこはオリンピアからすぐのところである)の苦悶のポスト・ハードコアのちょうど中間に自分たちを位置づけた。スロウでたちこめるような ”Pigeons” のリフはリョコウバトの絶滅の暗喩であり、ジェインの声はボソボソとつぶやくようなスポークン・ワードと耳障りなシャウト風の歌い方を行き来しているが、後にそれは彼の得意技となる。水力発電の生態系への影響を歌う、エネルギッシュな ”Electricity” は、Green Dayも初期に所属していたベイ・エリアのLookout! Recordsから出ていてもおかしくないようなサウンドである。

 これらの歌詞のテーマが「ひどく」エモ的に聞こえるのであれば、音楽自体も時には数歩その方向に踏み入れている。”Friend” で「I'm sorry! I'm sorry! I'm sorry!」と叫ぶジェインの声はひび割れ、十代の怒りの生々しいサウンドは落ち着くには少しばかり演技がかりすぎている。Lyncがまだ自分たちのサウンドを模索していたことは明らかである。ジェインは後にこう振り返っている。「僕たちは自分たちが影響されたものから一歩でも踏み出して、それがどういうものなのかを客観的に見ることができていなかったんだと思う。Lyncがどういう音楽を作っているのか全く見当もつかなかった。誰かがそれをぼくに説明しようとしても、『でもそれが結局なんなのか理解できない』って感じだった」。

 Lyncは1993年の暮れにもう一度レコーディングを行う。今回はNation of Ulyssesのティム・グリーンと、Bratmobile、KarpUnwound、そしてSleater-Kinneyといったアーティストがその短い存続期間の間に作品を録音した、オリンピアにある控えめなスタジオ=The Red Houseで行われた。彼らは後にアルバムで聞かせることになるサウンドに近づきつつあった――ギターはより分厚くなり、オープン・コードと棘のある不協和音を交互に用いている。1994年、Kの「インターナショナル・ポップ・アンダーグラウンド・シリーズ」の一環としてリリースされたシングル ”Two Feet in Front” ではまずガラス細工士のようにきれいに音色を引き伸ばし、次に鍛冶屋が鉄を叩いて火花を散らすかのようにコードを曲げるような、そんなやり方で編曲にアプローチしている。”Lightbulb Switch” はB面に再録されているが、今回はダブル・タイム・ハードコアの2分間の疾風のようなアレンジに変わっている。

 1994年の5〜6月、LyncはシアトルのJohn & Stu's Placeにおいて、フィル・イークをプロデューサーに招いて作業を進めた。以前は食料店だったこのスタジオはグランジの歴史が息づく場所であった。Green River、Soundgarden、Mudhoney、そしてTADといったバンドたちがこの場所で重要な作品をレコーディングしている。またNirvanaがのちに『Bleach』となる、初期のレコーディングを行ったのもここである。イークはまだ音楽制作に携わるようになって2年ほどしかたっていなかったのにも関わらず、この『These Are Not Fall Colors』と同時期にBuilt to Spillの『There's Nothing Wrong With Love』のレコーディングもしていたと考えると驚くべきことである。この2つのバンドの歴史にはたしかに重なり合う部分があるが(1993年と1994年、ダグ・マーシュはカルヴィン・ジョンソンと共に何曲か録音をしているが、そのうちの一つにバートラムとシュナイダーがリズム隊として参加し、Kから『The Normal Years』としてリリースされている)、この2枚のアルバムには互いに類似点が一つもない。『There's Nothing Wrong With Love』がすべてレイヤーで重ねられていてライトである――近い音域でのハーモニー・ボーカルやクリーントーンのギターがマーシュの輝かしいソロ・プレイと対置されている――のに対し、『These Are Not Fall Colors』は濃密でジメジメしており、堆肥積みの中の枯れ葉のように粘り気のある作品である。

 アルバムの1曲目である ”B” は、これらの初期の7インチを録音していたバンドと言うよりは全く違うバンドの作品のようだ。まずはフィードバックの突風クモのような不協和音のギターから始まる:バートラムのベースが入ってきて、少しばかり調和するような兆しを見せたかと思うと、軸が回転し、そのハーモニーを混乱の中に投げ捨てる。シュナイダーのドラムは打ち鳴らされるシンバルの海であり、そこに句読点を打つように時折スネアが打ち鳴らされる。コーラスでもその混乱はマスばかりで、バートラムはまるで手にかけた局部麻酔が解けきっていないかのようにベースの弦をすりつぶしている。これほどまでに無定形なものをコーラスと呼んでもいいのだろうか?語りうるメロディーというものが存在しない:ベース、ギター、ドラムは、まるで岩滑りが不承不承ながらに山を登っていくかのように、あらっぽい調和の中でのたうち回っているだけである。ジェインはその前面でなにか真面目なことと連続殺人犯について歌いながら叫んでいる。その後方ではまた別の声が血みどろの殺人のような叫び声を上げている。

 急速な勢いで発展していったエモのサウンドによく注意を払っていたものならばこれらのサウンドをきちんと認識できたのかもしれない。Heroinはその前年にセルフタイトル作で似たようなアイデアを探求し、彼らの近いところではUnwoundがそれまでの3年間を費やして似たようなフィードバックの閃光とチューニングの狂った弦楽器の文法を作り上げていた。しかし『These Are Not Fall Colors』の次の曲 ”Perfect Shot” でLyncは、スクリーモを世界に紹介したサンディエゴのレーベル=Gravityが次に契約するようなバンドと単に連帯しているだけではないということを示したのだった。

 この曲は整った、なんなら楽しげですらあるようなギター・リフから始まる。束の間、まるでJawbreakerの領域に戻ったのかのようだ。そしてバートラムがベースでコードをかき鳴らすと、ジェインがなにか言葉にならない叫び声をあげ、シュナイダーがスネアを一度だけ思いっきり叩く。これがこのドラマーが好んで使う技である:そのライフルの射撃音と同じくらいの音量でヒビを入れるかのように叩かれるスネアは、その直後に変化が訪れることを示している。そして地獄の扉が開かれる。このアルバムそのものもそうであるが、”Perfect Shot” は常軌を逸したベクトルのぶつかり合いであり、互いに競い合っている衝動による綱引き合戦である。シュナイダーのタムは上昇気流に乗った枯れ葉のように舞い上がり、ジェインのギターとバートラムのベースは絶えず刺し合い、打ち合っている。このアルバムの編曲はあらなた境地の複雑さを誇るが、その変化はせっかちで、まるでナプキンの裏に走り書きをしたような計算に基づいていて、調和と不調和の間でよろめいている。

 この作品の真の特徴は、すぐにはそれと同定できないテクスチャと重量である:ボトム・ヘヴィな音像と響き渡るハーモニーが、汚れた銅製のランプのような重さと鈍い輝きを与えている。全てが過飽和している。ベースとギターを聞き分けるのが難しい部分がしばしば登場する:ジェインとバートラムはコードを発声するのではなく、コイルから絞り出すかのように鳴らしている。それは暗くけだるげなサウンドであるが、それがジェインの砂やすりで削ったかのような咆哮と少し鼻にかかった喋り歌いをより錯乱したものにしている。その混濁は意図的なものである:それは下手な録音によるものではなく、過剰の感覚である。部屋の中にあまりにも多くのサウンドや混乱、形のない感情が溢れかえっていたためにテープの回路をそれらが埋め尽くしているのである。

 これらの混沌にも関わらず、このアルバムにはアンセムがないわけではない。”Silverspoon Glasses” はポップ・パンクのフックとスクリーモの苦悶、一緒に叫ぶことのできるコーラス(「Bombs go! Krakakowkrakow!」)と陰謀めいたつぶやきの完璧なバランスを取っていて、ジェインのボーカル・パフォーマンスはこのアルバムの中でももっとも輝いている。”Cue Card” は舞い上がるコードと、聴手が思っているとおりに解釈できるほどに曖昧な歌詞が物悲しげな勝利を飾っている。”Heroes & Heroines” はUniversal Order of Armageddon風の混沌から、アルバムの中でも最もスウィートなコーラスへと沈み込んでいく:「It’s you, it’s you, it’s you/You know the sky’s the limit for you」。Lyncは彼らと同世代のバンドを映し出すこともあるが、『These Are Not Fall Colors』は更に広い網を広げている:”Cue Card” はSonic YouthHüsker Düのようなフルスペクトルのきらめきを聞かせ、”Turtle” はSlintの前身であるSquirrel Baitが1985年にHomestead RecordsからリリースしたデビューEPに収録されていた ”Sun God” を不気味なほどの正確さでなぞっている。この類似がどれほど偶然なものとは言え、この比較はどこか示唆的である。意識していたかどうかに関わらず、Lyncはな十年も前のパンクやインディー・ロックをさかのぼり、無視されることが多かった継父を拾い集めているのだ。

 愛らしい ”Pennies to Save” はアルバムの感情的なピークを担っているかもしれない。その歌詞の大部分を聞き取れなかったとしても、その懇願するようなコーラスは実に平易である:「Where has it gone?」。それはまるで、Lyncは自分たちの青年期の真っただ中にいながらも、無責任でいられる日々がどんどんと「成年期」へと凝り固まっていくのを感じられていたかのようだ。ある日目覚めて自分の若さが過去のものとなっていることに気が付いた大人の目線から歌われるこの曲は驚くべき共感性を持っている。パンクは「凄まじい速度で生きて、若く死ぬこと」を説いてきたジャンルであるが、ここでLyncは人生における避けられない難題としっかり向き合うことの重要性を理解している。

 アルバムのタイトルは、若さや絶望といったものがどれほど中心に据えられたアイデアであったのかを明らかにしている。その由来はアルバムのインナー・ジャケットの中で明かされている。見開き右側のページには当時9歳かそこらだったジェインが1983年1月5日に書いた日記がコピーされている。そして左側には木を描いた絵があり、上の部分は青い色でぐちゃっと塗られている。そして、大人と思われる字で「青ではなく、紅葉の色を使いましょう」とコメントが書かれている。これを知ったうえで聴くと、このアルバムの騒音もあまあましいものに聞こえてくる。全ての「間違った」音色や不協和音は、器の小さい教師や子供時代のトラウマに対する復讐なのである。

 アルバムは7月25日にリリースされた。レヴューはそれほど多くなかった――『CMJ』誌に一つ、そして『Orland Sentinel』紙の中で軽く触れられただけだった――が、それらはおおむね好意的なものだった。「彼らの音楽は時おり平穏から雪崩のようなノイズへと崩壊していくが、そこにはそこはかとない優雅さのようなものが感じられる」とシアトルの『Rocket』誌は書いている。「『These Are Not Fall Colors』 は彼らのこれまでの作品の中では最も優れており、さらにはK Recordsにおける新世界秩序の表れである:よく(間違って)レーベルに紐づけられるかわい子ぶったミニマリズムからの脱却である」。

 Lyncはその夏少なくとも両手で数えられるほどのショウで演奏している。その中にはオリンピアのYoYo A GoGo Festivalやバークリーの神聖なる924 Gilman Streetでのギグも含まれていた。そして1994年10月11日、全年齢向けのシアトルのクラブ、Velvet Elvisにおいて彼らは最後のショウを行った。ライヴの映像には壁から壁へとひしめき合うキッズたちの姿が映されている。ジェインはラップアラウンドのサングラスと黒いトラック・ジャケットをまとい、マイクの前に無表情で立っている。シュナイダーは彼の後ろでアーガイル柄のセーターを着て叫び声をあげ、バートラムはバンドメンバーたちと向かい合い、繰り返し飛び跳ねては地面に転げ落ちている。映像の画質はもともとぐちゃぐちゃである彼らのサウンドにはあまり関係ないが、この劣悪極まりないクオリティの映像からでも、彼らの演奏からはバイタリティがこちらに伝わってくる。

 「あれは、僕にありがちな向こう見ずで性急な決断の一つだった」とジェインは解散についてのちに述べている。「僕がLyncで思う存分にたくさん楽曲を書いていたとは思わない。僕はただオリンピアで一生懸命駆けずり回っていただけなんだ。自分で運転してみんなを熱狂させていた。それは僕にだれにも抑えられないエネルギーがみなぎっていたからだ」。ジェインは最初、ベッドルームで4トラックのレコーダーを使ってテープを録音し始めたが、やがていとこ(Alice in Chainsのレイン・ステイリー)からもらった8トラックのレコーダーになった。「僕はそこに座ってとにかくたくさんの音楽を録音していた」とジェインは振り返る。「そして僕は気まぐれでLyncをやめた。メンバーに対してイラついていたとか、たぶんそういう馬鹿気た理由だったと思う」。

 Love as Laughterというプロジェクトのおかげで、ジェインのテープはその後26年間、彼の人生を占めることになった。極端なローファイによる実験――SmogやSebadohの難解な初期作にも通じるもので、1994年にリリースされた1組のカセットにおさめられている――として始まったそれは、徐々に魅力的なベッドルーム・ガレージ・ポップへと成長し、Kから1996年と1998年に2枚のアルバムをリリースした。1999年に、彼はSub Popと契約し、先鋭的なパワー・ポップとクラシック・ロックのアルバムを3枚、このシアトルのレーベルのために録音することになった(シュナイダーは1999年の『Destination 2000』から復帰している)。一方、バートラムとシュナイダーはしばらくの間Built to Spillに加入した:バートラムはシアトルのギターとドラムの2人組で、ゆがんだメロディが明らかにLyncの影響を受けていると思われる764-HEROに拾われたのち、Red Stars Theoryへと移籍した。

 彼らの活動期間はこれほどまでに短かったのにもかかわらず、Lyncは痕跡を残した。ジェインが2020年末に46歳で亡くなった時、彼が10代の時にやっていたこのバンドの名前は彼が長年取り組んできたソロ・プロジェクトと並んで見出しに使われた。ジェインは12月半ばに失踪した。彼は数日後、自身のピックアップトラックの中で丸まっているところが発見された。彼の家族は、パシフィック・ノースウェストからのロード・トリップの帰り道に、診断されないままになっていた心臓の症状によって亡くなったと語っている。その直後、洪水のようにあふれだした追悼文の数々が彼の影響のタペストリーを描き出した。パシフィック・ノースウェストの同胞たち――フィル・エク、Modest Mouseカービィ・ジェイムズ・フェアフィールド、彼の元バンドメイトであるシュナイダー――や、Superchunkマック・マコーンDinosaur Jr.J・マスシス、さらにはコメディアンのフレッド・アーミセンも、2004年にModest Mouseが『Saturday Night Live』に出演した際、ジェインがステージに加わったのを述懐しているFleet Foxesのロビン・ペックノールドは簡潔にこう書き記している。「あなたは知らなかったかもしれないが、あなたは私を形成するつかみどころのないヒーローであり、私たちが愛する多くの人々の人生に影響を与た。まさにサム・ファッキン・ジェインだった。ファック」。
これらの追悼文を読んでいて共通するのは、彼の寛大さが強調されている点である。それらの多くは、子供のような無邪気さによる深夜のよもやま話を書いている。Lyncの1997ねに発表されたアンソロジーRemembering the Fireballs (Part 8)』を共同リリースしたTroubleman Unlimitedのマイク・シモネッティは、ニュー・ジャージー郊外でのショウの後、ジェインと夜明けまでバスケットボールをしたことを回想している。The Moldy Peachesのキンヤ・ドーソンは、ジェインが「Soda Jerks」という架空のギャングの指導者だったことを振り返り、セルフサービスのドリンクサーバーから紙コップにソフトドリンクを注ぐとドアからダッシュで外に駆け出して、「Soda Jerks!」と叫んでいたことを語っている。ルイ・マッフェオの追悼文にも砂糖が登場し、その中では中西部のコンビニエンスストアで綿菓子を買ったツアーメイトの2人が、洗車機のホースでお互いに水をかけ合い、濡れてベタベタになった紙のコーンを抱えて笑い崩れたという逸話が読める。
こういった思い出たちの純粋さも、『These Are Not Fall Colors』の本質と照らし合わせるとより実感できる。乱気流もあるけれども、希望に満ちたサウンドである。2020年の初め、ジェインは珍しくFacebookのグループ・ページに投稿を残している。「僕たちが子供のころにやっていたバンドは今でも愛されていて、全ての年齢の「キッズ」たちに聴かれている」と彼は驚いている。当時、彼はこのアルバムがいつかクラシックになるとは到底信じられなかっただろう。彼はただ自分や自分の友達のために音楽を作りたかっただけなのだ。しかしそれでも、彼はこれらの楽曲の中に何か残っていくものがあるのではないかという予感を持っていたと付け加えている。「僕が思っていたのは、未来の自分に若くあること、何かに立ち向かうということがどのようなものだったのか思い出してほしい、ということだった。たぶんそれはうまくいったんだと思う。だって、2020年の今、僕はこの子供をハグして、ありがとなと言いたいと思っている」。