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<Pitchfork Sunday Review和訳>Rage Against the Machine: The Battle of Los Angeles

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Epic・1999年

文:Jeremy D. Larson

点数:8.7

急進的ラップ・ロック・バンドの3作目にして、1999年の停滞の中に産み落とされた、彼らの最も鋭い革命的演説

 2000年の民主党全国大会で、クリントン大統領が基本政策演説を行おうとしていたステイプルズ・センター。そのの向かいに設けられたプロテスト・ゾーンの小さなステージの上にレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの面々が登ると、ロサンゼルスにゴールデンアワーが訪れた。幾千ものLA市民がそのエリアに殺到し、これから7年間の活動休止期間に入ろうとしているこのバンドの、最後のライヴ・パフォーマンスに合わせて叫び声を上げた。ステージに立つトム・モレロの目には、ヒラリーとビルが演説を行う姿、そして来賓たちがシャンパンを飲みながら、カクテル・ソースの入ったラメキン皿にエビをディップしている姿が映し出されたスクリーンがはっきりと見えた。行動を要求するザック・デ・ラ・ロチャの甲高い声が、ステージからコンサートの始まりを告げる。「ブラザー、そしてシスターたちよ、我々の民主主義はハイジャックされた!」

 この特別なコンサートはレイジの政治的意向にうまくフィットしただけではなく、それは1990年代に花開いたアメリカの活動家たちの縮図でもあった。革命志向の左派・多文化の集団VSエリートのネオリベラリズムを象徴する白人の長。この二極が各々の群衆を誇示し、その間には有刺鉄線のフェンスと、ゴム弾と催涙ガスボンベで武装した機動隊の集団が彼らを分断していた。心配した親たちがティーンエイジャーたちにこのバンドは何に対して怒っている(=Rage Against)のか――”Know Your Enemy” の ”enemy” とは何なのか、”Fuck you I won't do what they tells me!” と叫ぶときの ”they” は誰なのか――を問うていたが、この8月のある日の午後、その答えは明らかだった。それは白髪とアーカンソー訛りの持つ男の姿を取り、演壇に立ち、代議士たちに語りかけていた。

 バックステージでモレロはインタヴューに答え、なぜこのリベラル派とされるバンドが、同じくリベラル派とされる民主党の候補者、アル・ゴア戴冠式に対する抗議に参加したのかを語った。「彼は実質的にジョージ・ブッシュ大統領と大差がないんだ」とモレロは明確に断言した。「二人は両方死刑制度、NAFTA、大事業に賛成で…両方ともぼくの意見を代表しているとは思えない」。バンドが1999年の3作目『The Battle of Los Angeles』からのリード・シングル ”Guerilla Radio” を始めると、デ・ラ・ロチャもそれに同調した――その中には共和党の候補者であったブッシュをCIAの前局長による汚職の子息であるとするラインも含まれていた。“More for Gore or the son of a drug lord/None of the above, fuck it, cut the cord!(ゴアか、ドラッグ王の息子か/どちらでもないだろ、ファックだ、切り捨ててしまえ”。映像班の俯瞰のカメラには、5つのモッシュ・ピットが同時に爆発するのが映し出された。

 『The Battle of Los Angeles』において、レイジはその怒りの矛先と根源を改めて明らかにした。特に、90年代にratm.comにアクセスし、GIF画像から「praxis(=慣習)」という単語を学ぶ、ということをしてこなかった人たちに向けて。この作品の中で彼らは歴史をたどり、アメリカ大陸に産まれた植民地国家の手によって行われた500年間に及ぶ略奪、奴隷化、そして虐殺を暴いて見せている。ヒップホップの重力とメタルのふと眉毛が急進的な政治への真摯な眼差しと合わさり、「良いロック・ミュージックとはこうあるべき」という批判的な既成概念を覆すようなアルバムを作り上げた。明瞭で、説教のようで、粗野なこの作品は、無愛想に国家という分厚い壁に投げつけられた。だって、人種差別的な警察の状態に対して、テクノロジーによって薄められた感情にまつわる涙ぐましい楽曲を差し出したりはしないだろう。いわゆる新民主党や隠れファシストである共和党のミサイル貯蔵庫を空にし、野党に輪郭と次元を与え、更にはそれを自ら体現し、自律的で尊厳のある生活がどのようなものになりうるかと言うのを世界に示すのには、ここ・今という場所・タイミングでやる必要があったのだ。

デ・ラ・ロチャは後にLos Angeles Times紙に対してこう語っている。「クリントン政権にはこのような興味深い事柄があったんだ。人々は外ではなく内側ばかりを見ていて、なにが起こっているのかを明らかにしなかったんだ」。90年代を覆った不信感――そのトーンを決定づけたのは諦めにも似た「X世代」という簡潔な言葉だ――はクリントン政権下の8年間における、平和と経済の相対的な向上によって浸透した。強気な株式市場が知的職業階級のポケットを潤わせている間に、クリントンの立法の勝利は伝統的なリベラル的価値観からかけ離れ、アメリカの中の不平等を膨らませた。彼による災害と言ってもいいほどの福祉改革はニュー・ディール政策の核となる信条を骨抜きにしてしまった。彼の政権は銀行に対して規制を緩和し、最も強力な金融機関のもとに見えないほどの量の資本を集積させ、2008年の恐慌時には「大規模過ぎて破綻できない」と言われるほどにまでなった。彼らはあの悪名高い1994年の犯罪法案を通過させた。それはアメリカ市場最も広範なものであり、監獄州に対するステロイド注射のようなものであった。これによって多くの黒人が新たに建設された監獄に不当に投獄され、連邦による死刑の執行を3から60へと激増させた。

 更に言語道断で、そしてレイジの物語の中では最も重要なこととして、北米自由貿易協定NAFTA)が挙げられる。この協定はアメリカ、カナダ、メキシコ感の国境を開放することで経済を加速させることを目的としていた。そうする中でそれは労働者やそのコミュニティから利潤を取り上げ、経営者や株主たちに分け与える仕組みになっていた。さらにそれは労働組合アメリカの労働力を不能にし、それを不当に安い労働力によって置き換えることを可能にした。メキシコにとって、自由貿易は経済的荒廃と目されていたし、実際にそうなった。200万ものメキシコの農家NAFTA時代に土地を失った。最南部のチアパス州にいるようなその土地に根付いた労働者達はアメリカの集合的農業ビジネスが輸入されるのを目の当たりにし、この「自由貿易」なるものが彼らの世襲財産と生活の糧の息の根を止める事を正しく予測した。

 そして1994年1月1日――NAFTAが発効した日――ラカンドンのジャングルから、チアパスの峡谷から、何百の男、女、そして子どもたちがゲリラ軍隊となって出現し、メキシコ政府からの自治権を要求した。植民地支配による原住民の虐殺から500年が経ったいま、労働者たちは彼らのマヤ族の土地、そして食料の統治権を求めた。彼らは民主主義、平和、そして彼らの基準に則った正義を求めた。彼らは自らをサパティスタと呼び(武装した党派はサパティスタ民族解放軍、EZLNと呼ばれた)、黒地の中心に赤い星が一つ描かれた旗を掲げた。それはレイジのアートワークやライヴで用いられているものと同じ図柄であった。サパティスタの弾帯とライフル(本物も混じっていたが、多くは偽物だった)は軍事的強さをシアトリカルに見せるものであったが、彼らの本当の力はサパティスモと呼ばれる哲学、そしてグループの実質的リーダーであったマルコス副司令官の文章や演説にこそあった。

 ドン・キホーテのように現実から浮遊した存在感を持ち、多くの変名を持ち、部落ラバをかぶりパイプをくゆらせた姿で映像に写ったマルコスは、曲がりくねったたとえ話ともっともらしい散文体で、革命やサパティスタについて語った。サパティスタ革命は彼らのためのものではなく、より良い世界のためのものである。サパティスモの格言の中に“Para todos todo, para nosotros nada”というものがある。「全員のためにすべてを、自分たちのためには何一つも」というような意味である。大学教授で急進的な集団の研究者であるアレックス・カズナビッシュがレイジの非公式の自伝『Know Your Enemy』で解説するところによれば、サパティスモの土台となっている思想とは以下のようなものであるという。「(サパティスタを)支援していると主張するよりも、彼らが望んでいるのは他のみんなも、それぞれの場所、それぞれのやり方で苦しむこと、そしてそれぞれが自身や自身の周りで意味を成すような革命において尊厳に向けた戦いにコミットすることである」。サパティスタとマルコス副司令官の大仰な考え方はシュールレアリスムやロマンスの色合いを帯び、言語の音色とリズムによって革命の音を鳴り響かせるという方法をとったのである。

 実際に、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの音楽はサパティスモの直接的な延長線上にある。逆説的で、軍隊的で、寛容であり、それは力を伝える導管であり、力の集積ではない。デ・ラ・ロチャは1995年から1996年にかけてチアパスを4度訪問し、サパティスタと密に関わって彼の中のメキシコの血とのつながりを強めた(彼の祖父はシナロアの出身で、メキシコ革命で戦った経験を持つ)。これらの旅行によって、一つの闘争を多くの人々と結びつけるという革命的な架け橋のアイデア形成に役立った。デ・ラ・ロチャは1990年の『Rolling Stone』誌にこう語っている。「すべての革命的行為は愛のこもった行為だと思う。私が書いてきたすべての曲は、非人間的な環境の中で生きている人々をエンパワーし、人間性を取り戻すために音楽を使いたいという私の願望が原動力となっているんだ」。

 表面だけをみて、レイジの音楽をティーンエイジャーが親に反抗したり、スクワット・ラックでカールをするための音楽であると分類するのは簡単である。しかし『Battle of Los Angeles』によって、レイジは何かもっとパーソナルで、スピリチュアルで、ボヘミアンなものに格上げされた。1996年の『Evil Empire』が左派図書館のスターター・パックのようなものだったとしたら、『Battle〜』は感情の政治と、素早く、いたってシリアスな音楽が込められた作品だった。作家で活動家のロベッカ・ソルニットは自身の著書『Hope in the Dark』でマルコス副司令官の言葉を「グローバリゼーションが引き起こした広大で、名前もなく、広く流布した運動、教義のような堅固なものではなく、アートのような柔軟な想像力によって駆動する運動の言葉」であると書いている。ザック・デ・ラ・ロチャの歌詞は、このような繊細な政治の一派の中から形作られたものなのである。

 しかし、1999年、多くの人たちが『The Battle of Los Angeles』に触れたのは、マルコス副司令官の反抗的な詩を通してでも、反グローバリゼーションのプラットフォームを通じてでもなかった。このアルバムはモノカルチャーの終焉にリリースされ、ロックの商業的どん底へと産み落とされたのだった。ラジオではコーンがニューメタルの進撃を続け、TRLではリンプ・ビズキットやキッド・ロックが理由もなくラップ・ロックを披露していた。クリントンによるスーダンの医薬品工場への爆撃NATOによるユーゴスラビア爆撃に対して反戦のプロテストを行うアメリカ人は少なかった(90年代後半の取材の中で、モレロはジャーナリストからの、例えば99年のウッドストック・フェスティバルにおける暴力事件に関する質問を、「ベオグラード郊外の小児科病院を破壊したトマホークミサイル」といった、クリントンタカ派政策の非難によってかわしていた)。大量破壊兵器にまつわる嘘に基づいた戦争も、革命的なツイートを大衆に広めるソーシャル・メディアも存在せず、シアトルのWTOD.C.IMFと戦う少数の左翼アクティビズムがあっただけだった。クリードの『Human Clay』がチャートのトップを飾っていた。

 このような、音楽的にも社会・政治的にも奇妙な停滞の時期にレイジがメインストリームに復帰することのメリットは、彼らの音楽はノスタルジックでもあり、最新型にも聞こえたということであった。1992年の衝撃的なセルフタイトル・デビュー作、そして1996年の不安と圧迫にまみれた『Evil Empire』という初期2作で彼らはニューメタルとラップロックの下地を整え、この2作はやがてトリプル・プラチナを獲得した。彼らが『The Battle of Los Angeles』で振りかぶったとき、それはこのディケイドの最初に前もって伝えられていた予言の存在を思い出させるかのようだった。かつては偶像破壊者のようなラップロック錬金術師だったレイジも、今ではラジオで流れているのと同じようなサウンドに聞こえた。さらに、彼らのサウンドはそのようなバンドたちも殺気立っていて、すばしっこくて、ヴァースとフック一つで武装解除できる能力を持っていた。デ・ラ・ロチャが『Rolling Stone』誌に語ったところによると、「(『Evil Empire』で)私が多用したのは、<これは私の考えで、これが私のコメントである>という姿勢だった。そこから変わらなければならなかった。私は聞き手たちに、楽曲の中に己の反射を見てほしいんだ」。彼のこの発言は、各人がそれぞれの革命を作り出す必要があるとするサパティスタの精神にピッタリと符合する。素早く動く楽曲とより大きなフックを携えたレイジの楽曲は、バンド史上でも最も重大な重みを抱えていた。

 デ・ラ・ロチャが『Battle~』のヴォーカルを完成させるのにはほぼ1年の期間が必要だった。その間に彼はこれまでとは違うラップのスタイルに引き寄せられていった。彼は厳格かつダイナミックで、まるで大元帥の説教のようにラップした。“Calm Like a Bomb” において、彼はバンドの演奏の周りを長いヴァースのリボンでくるんでいる。“I be walkin’ God like a dog/My narrative fearless/My word war returns to burn like Baldwin home from Paris.(俺は神様を犬ころみたいに散歩させる/語り口は恐れ知らず/ボールドウィンがパリから帰ってきたみたいに、俺の言葉の戦争はこの国を焼き尽くすために戻ってくる)”。そしてプリ・コーラスに入り、バンドがお得意のモッシュ・ロックの律動を始めると、デ・ラ・ロチャはこのしなやかな三連符を決める。“What ya say, what ya say, what ya say, what!”。そしてコーラスがやってくると、彼の歌う歌詞のようにこの曲は「イグナイト」する。このように、”Calm Like a Bomb” においてデ・ラ・ロチャがラップ、ファンク、そしてロックをまるでカメレオンのように楽々と行き来する様は、バンドが『Battle~』においてこれらのジャンルを完全に共生させていることの表れでもある。化学化合物が完成され、ロングショット理論はついに証明されたのだ。

ドラムスのブラッド・ウィルク、ベースのティム・コマーフォードを従えたレイジは、深く食い込んだグルーヴを持つ。”Sleep Now in the Fire” のヴァースでのリズム隊は最高の仕事をしている:ウィルクとコマーフォードが ”Amen Break” を演奏しながら、モレロのギターがイギリスの電話の発信音のようなノイズを奏でている。カニが這っているようなフィーリングである。レイジのリズム・セクションの公式は大体予想がつく――静かなイントロ、ブルース風のリフ、ヴァースでは実験的なサウンドを、そしてまた別のブルース風のリフ、奇天烈なギター・ソロ、そしてまたブルース風のリフを用いたブレイクダウン――が、その中にはデ・ラ・ロチャがスタートして輝けるだけの流動性と多様性が存在している。彼はほっぺにパンパンにためた空気で、一息で言葉を吹き消してしまうような勢いで発音し、あるいは言葉をヘビのようにのどの周りに巻き付けて、そこから空気を吸いだしていく。コロンブスの船の名前の間に開けられた空白、そして巻き舌で発音される ”Maria” の "r" 、皮肉が効いたラインの奇妙にスウィングしたリズム――“So raise your fist and march around just don’t take what you need(拳を上げて行進してもいい、ただ目的を達成してはだめだ)”――時に彼のラップのリズムの中には、ラップの内容そのものよりも豊富なアイデアが含まれていることがある。

 彼らがギャング・スターとツアーをしていた際、DJプレミアは『Spin』誌に対して、レイジの新曲をリミックスしてラップ・ラジオ局でかけられるようにしたい思っているが、それはフレッド・ダーストの時ほどは簡単にはいかないだろう、と語っている。「ザックはすべてのソウルを貫通しようとしているんだ…彼はリアルを語っていて、自分の中に取り込むのに時間がかかるのさ」。バンドが長年取り組んできた運動の一つに、ブラック・パンサー党員でラジオ・ジャーナリストのムミア・アブ=ジャマールの開放を求める闘争がある。彼は、1981年にフィラデルフィアの景観を殺した罪で不当な有罪判決を受けたと広く信じられている人物である。ムミアの苦難にささげられた小曲 ”Voice of the Voiceless” で、デ・ラ・ロチャは“Long as the rope is tight around Mumia’s neck/Let there be no rich white life we bound to respect(ムミアの首に縄が固くくくられている限り/我々が見上げるような白人の生活はないものとする)”とこれ見よがしに独り言を言う。”Free Mumia” というフレーズは90年代のアクティヴィストの間で半ばミーム化していたといえるが、レイジは彼に対して行われた見せかけだけの裁判や、当時差し迫っているとされていた死刑判決を当然のことだとは思っていなかった(ムミアの死刑執行は2011年に取り下げられ、現在は仮釈放なしの終身刑に服している)。1999年1月、レイジはニュージャージーにてある悪名高い慈善コンサートを行い、ムミアの海部のために8万ドルを集めた。このことは右翼警官団体とバンドとの間にメディア論争を巻き起こした。そして同年4月、デ・ラ・ロチャはスイスのジュネーヴに飛び、国際連合人権委員会においてムミア側を代表してスピーチを行った。

 『Battle~』に収録されている楽曲は、その一つ一つが政治的事柄に関する個人的な確信が自然に沸き起こってきた形をとっている。レイジは、ライヴ・エイドのように、離れたところから変革を望んで気をもんでいるわけではない。1997年にモレロがサンタモニカにある移民の労働力を搾取する工場に対するデモ活動に参加した際に逮捕されたことを受けて、デ・ラ・ロチャは ”Maria” においてそのような搾取工場の凄惨な恐怖について書いている。彼はまた故郷L.A.にて見た富の不均衡について書き(”Born as Ghosts”)、アルバムの最後の ”War Within a Brath” ではサパティスタの苦難について鋭い歌詞をつづっている。これは『Evil Empire』から始まった一連のサパティスタ関連の楽曲の最後となったものである。このトラックに隠されているのは、アルバムの小見出しにもなりうるような、簡潔なこんなラインである。“It’s a war from the depth of time.(これは時の深淵から仕掛けられている戦争である)”

 アルバムの中でももっともびっくりさせられるのは、ブラック・サバス風のスロウな哀歌であり、デ・ラ・ロチャの父親で壁画化としてアーティスト活動も行っていたベト・デ・ラ・ロチャについて歌われた ”Born of a Broken Man” ではないだろうか。ベトは画期的なチカーノ・ペインティング・コレクティヴ=Los Fourの一員だった。1974年には、彼の作品はチカーノのアーティストとして初めてロサンゼルス・カウンティ美術館で展示された中の一人になった。1981年に神経衰弱で苦しんだ後、ベトは宗教にはまり、破滅的なスパイラルに陥った。彼は何週にもわたって断食をし、時には若きザックもそのお供をした。ある夜、怒りと罪悪感にさいなまれたベトは、彼の作品の大半をその息子の前で破壊した。フックでザックは複雑な誇りをもって “Born of a broken man, but not a broken man(壊れた人間から生まれたが、俺は壊れた人間ではない)” と叫ぶ。

 デ・ラ・ロチャの個人的体験から生まれた唯一の楽曲であるこの ”Born of a Broken Man” の特異性は、その周囲にある政治的演説――『Rolling Stone』誌はかつてこのバンドを ”harangue'n'roll(harangure=演説)” と呼んだ――に感情的な信憑性を担保している。Rage Against the Machineほどその純白さを問われてきたバンドもいないが、そのアイデンティティが革命思想や左派的要因に根付いているグループには必然的に以下のような疑問が投げかけられる。あなたはこれを金銭と引き換えに購入するのですか?これらの社会主義者たちは多国籍メジャー・レーベルであるエピックと契約しているのですよ?この人たちはレコードの売り上げによって何百万ドルもの金銭を得ています。『Battle~』は1997年の『Evil Empire』に続いてビルボートで初登場1位を獲得しました。彼らはこの富を再分配しているのですか?……デ・ラ・ロチャが2000年10月にバンドを脱退した際、彼はその要因を示唆して、グループの意思決定が「我々の芸術的、政治的理想を損なった」と述べている。このバンドの左翼的イデオロギーと、そのあとに続いたAudioslaveのような、牙の抜かれたアリーナ・ロックとはどのように折り合いをつけるのですか?

 もしかすると、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンを好きになる際の最大のハードルは、単にその名前にあるのかもしれない。これらの年月を経て、その名前はなんだか「大二病」っぽくて、陳腐で、具体的すぎると同時に曖昧過ぎるような、そんな印象に凝り固まっていった。もしそれがバンドについて回る烙印のようなものであるとしたら、それは彼らが「彼ら自身」性を損なわないようにしなければならないというトートロジーを作り上げてしまった。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのアルバムにまつわる不変の規律というのは、もちろん、それが「マシーンに対する反抗」でなければならないということなのだ。そしてそのバカげたバンドの名前の中に内在しているのは、愚直で、正しく、あきらめることのないアクティヴィズムという行為と、正義を目指す闘争、そしてこの戦いに負けそうな状況になっても闘い続けるための意思の探求なのである。

 「チアパスやムミアや衣料品工場の労働者の置かれている状況は、コンサートにやってくる中流階級の白人キッズには何の関係もない、というバカげた批判に耳を貸すつもりはない。これらの疎外には理由がある。それはテレビや日々の退屈、悪い親だけにあるわけではない」とデ・ラ・ロチャは2000年の『Spin』誌に語っている。これこそが『The Battle of Los Angeles』、ひいてはレイジというバンドに込められた素晴らしい野望である:彼らのファンであるX世代、ミレニアル世代の人々と彼らが戦っている要因の間をつなぎ、コンキスタドールからクリントンまで、インティファーダからサパティスタへ、フランシス・フクヤマによる「冷戦の終わりは『歴史の終わり』である」という主張から全世界で発火した判グローバリゼーションの運動まで、それらをつなぐ線を引くことがそれだ。『Battle~』が明らかにしたのは我々がどれだけ広い範囲で――時系列的に言っても地理的に言っても――尊厳を欠いた状態で生きているのかということである。彼らは、これは我々に勝ち目のない戦いであるということと同時に、我々が負ける筋合いのない戦いであるということを示したのだ。