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<Pitchfork Sunday Review和訳>Felt: Forever Breathes the Lonely Word

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Felt: Forever Breathes the Lonely Word Album Review | Pitchfork

点数:9.3/10
評者:Quinn Moreland

英国インディー・バンドの6作目にして最高傑作、厭世的ポップの完全体

986年の11月、『NME』のあるライターがインディー・ポップ界きっての謎の人物、ローレンスのもとを訪ねた。この音楽家はイギリスのバーミングハムの完成な郊外に住み、レコードのコレクションとケルアックの初版本ひと揃い、そして小さな病室なら埋まってしまいそうなほどのたくさんの掃除用品を除いては一人で暮らしていた。「見晴らしのいい箇所にはエアウィック・ソリッドの小隊が陣取っている。便座も通常のものではなく、カートランドのようなピンク色をした除菌ジェルがふたつも鎮座し、小枝細工でこさえた籠は使い切ったエアゾール芳香剤の集団墓地として使われていた」。その生気のないアパートメントから出ることはめったになく、ローレンスは日々、そのだらりと垂れた茶髪を一生懸命洗うなど、退屈な行動をして時間を浪費していると語った。

 彼のバンド、フェルトについて語る時の話題の中心は、この時にはすでに、彼らの音楽自体もそうだが世捨て人・ローレンス、完璧主義者・ローレンスの伝説についてだった。しかし彼は変わっている人間だと指を差されることに慣れっこだった。メインストリーム・ポップにしては堅苦しくて抑制されているし、パンクにしては神経質だし、ポスト・パンクにしては明るいし構成がしっかりしているしで、フェルトはなかなか彼らの周りの世界に馴染むことが出来なかった。それが彼らが今でも愛され続けている理由でもあるのだが。

 フェルトはタイムレスなサウンドを追求していたので、流行に乗れていないことも平気だった。ルー・リードトム・ヴァーラインパティ・スミスなどのニューヨークロマン派にインスパイアされ、ローレンスは「The World Is As Soft As Lace」や「Sunlight Bathed The Golden Glow」などといった冗長で官能的なタイトルの曲を書いた。一匹狼や厭世的な人という彼のというキャラクターたちは、この残酷な世界で希望に似たもののを探し求めていた。しかし彼らの哀しみでさえ崇高なものになり得た。彼はかつて歌った、「そしてぼくの偉大な計画はぼやけてしまう/この優しき世界の柔らかいタッチによって」と。

 ローレンスの日に対する愛情は、彼のもう一つの執着、すなわち成功なるものと常に相容れなかった。バンドの始まりから、フェルトはローレンスの「何者かになりたい」という欲求が突き動かしてきた。1979年に、ローレンスはフェルトのファースト・シングルを自主制作でリリースした。「Index」と呼ばれるその曲はゴモゴモとしたノイズ・トラックであり、彼はこれを自分の寝室で安いカセットプレーヤーを用いて録音した。彼は『The Quietus』に対してこの曲をある種の「声明」としたかった、そして「すぐさま」名のしれた存在になるはずだと思ったと語った。それが『Sounds!』誌の「今週のシングル」に選ばれたあと、ローレンスはインディペンデントの世界を出る必要があると決心した。彼は「僕はチャートインしたいんだ」と気づき、「バンドを結成する必要があった:テレヴィジョンみたいに、ソロがあちこちにあるような、ちゃんとしたバンドを」。彼は同級生だったニック・ギルバートをまず採用し、続いてかつて「Mr. Tambourine Man」のカバーを披露し彼を感心させた、クラシックを習っていたモーリス・ディーバンクを採用した。ディーバンクによると、ローレンスには基本的に「音楽的スキルが一切なかった」。しかし彼にはヴィジョンがあったのだ。

 ローレンスの計画はこういうものだった。ちょうど10枚のアルバムをリリースすること。ちょうど10年の間バンドが存続すること。そしてその頃には何千もの偽善的なフェルトのファンたちが彼らの解散によって打ちひしがれること。彼は構成への影響というものに執着していて、彼はフェルトというバンドは解散した後にきちんと評価されるだろうと思っていた。「もちろん伝説になりたい」と彼はかつて認めた。「そういうふうに考えるのって間違ってる?」彼らの最初の作品、1982年の『Crumbling the Antiseptic Beauty』の場合、ローレンスは「英国史上最良のデビュー・アルバム」を作ることを決心していた。この非常に高いハードルにもかかわらず、ローレンスは芸術的誠実さを持った地に足の着いた人間だった。彼は正直なところ有名になりたかったのだ。彼が憧れたアンダーグラウンド・アート・ロックのヒーローたちのように、常に挑戦し続ける、時代を代表するソングライターになりたかったのだ。彼はバンドの名前をテレヴィジョンの『Marquee Moon』に収録されている「Venus」の歌詞から借用した。(トム・)ヴァーラインが「felt」という言葉を強調して歌う様に感動し、「felt」という単語自体―「feel」の過去形である―がノスタルジアを喚起させる様に感動したのだ。「ローレンスはフェルトを、ハイ・アートでありつつロー・アートでもある、そういうものにしたかったんだ」とクリエイション・レコードのアラン・マクジーは言った。「彼はフェルトをシングルチャートに入れたがったし、ボーイズ・バンドのように黄色い声援を浴びせられたがったんだ」。

 英国の音楽雑誌読んでを熱心に勉強したローレンスは、髪型から写真撮影まで、フェルトの演出についてかなり細かく指示を出した。彼のプロフェッショナリズムへのこだわりは音楽にも反映された。彼はパンク・バンドのDIY精神を愛する一方で、不完全に聴こえる音楽を嫌悪した。「でもみたいに聴こえる音楽でハッピーなのかい?」と彼はかつて言った。「それは僕が望むものの真逆だ」と。結果として、フェルトの初期の作品は素朴で夢ここちであり、捉えがたく空想的な雰囲気を持っていた。ディーバンクのひょろ長い指使いによって運ばれてくるローレンスの物憂げな歌詞は聴き手の創造力を高めてくれる。

 『NME』誌のプロフィールによってローレンスがインディー界のハワード・ヒューズだと祭り上げられる頃には、フェルトは芸術志向のミニマリズムから離れ、純粋なポップを追求し始めていた。彼らのキャリアの中で最も商業的成功に近づいていたと言ってもよい。コクトー・ツインズとのツアーがきっかけとなり彼らの4作目『Ignite The Seven Cannons』のプロデュースはロビン・ガスリーが務めることになった。リヴァーヴがふんだんに使用されたこの作品はフェルトのキャリア史上最大のシングル「Primitive Painters」を世に送り出した。分厚く金属的なメロディーと、エリザベス・フレイザーによる多幸感あふれるバッキング・ヴォーカルを用いて、この「Primitive Painters」はローレンスの個人的な哀しみを至福の音の波へと増幅させた。理想の上では、これはローレンスの究極のヴィジョンが現実になる瞬間になっていたかもしれない。あの憧れの人たちと並ぶかもしれなかったのだ。

 クリエイションからの最初のリリース、『Let the Snakes Crinkle Their Heads To Death』(1986年、別名『The Seventeenth Century』)は「Primitive Painters」のような華やかさからは一歩退いた作品となった。ポップのメロディの限界を試したいというローレンスの欲求が興味深く提示され、ミニマリストで楽器的な想像に富んだ作曲がなされている。そしてこの作品は広く無視されることとなった。「クリエイションのすべての資金を費やして、その結果は完全に失敗に終わった」とローレンスは振り返っている。ともすると彼はこの作品で自分の中の言葉にならない創作物を一旦出し切ったのかもしれない。というのもフェルトがこの年に出したもう一枚の作品はきちんと肉付けされた作曲とタイムレスな歌詞で溢れていたからだ。それが彼らのキャリア最高傑作となった。

 『Forever Breathes The Lonely Word』のフェルトのサウンドは、生まれ変わったかのようだ。これはローレンスのヴィジョンが最も一貫性を持って提示された作品であり、8つの楽曲によってポップの完全体と厭世感が一丸となって輝かしい幕引きへと向かっていく。これに貢献しているのは一つには技術である。「作曲のスタイルを少し変えたんだ」とローレンスは説明する。「普通の構造を持った簡潔な曲を書きたかったんだ。最初の2枚のアルバムには長くて、半分インストみたいな6分の曲が入っていたのと逆に」。この成長のもう一つの原因は政治的なものだ。一時的な脱退とローレンスとの個人的な/創作の面での長年の対立を経て、ディーバンクは『Ignite The Seven Cannons』を最後についにバンドを脱退。フェルトのギターの役割は若きキーボーディスト(そして将来的なプライマル・スクリームのメンバー)であるマーティン・ダフィーに取って代わられることになった。アルバムジャケットに写っているのは彼の柔らかくボーイッシュな顔であるが、まるで彼がこの作品において果たした不可欠な役割を表しているようでもある(とはいえ、ローレンスが創作的源泉であったことは変わらず明白であった。レコード内の文章にはきちんと「ローレンスの楽曲がバンドによって色付けされた」というフレーズが書かれている)。

 「Rain Of Crystal Spires」の始まりを告げる上機嫌なハモンドが新旧フェルトの境界線をはっきりと引く。ダフィーのオルガンがリードを務めることで、フェルトのアップテンポなメロディがローレンスの抱える不安と好対を成している。活動の初期にあっては、フェルトがヴェルヴェット・アンダーグラウンドと比べられることに対してローレンスは気分を害していた(「僕たちのほうがはるかに成熟していた」と抗議していた)。弾むようなオルガンが明るい「Grey Streets」や、「September Lady」におけるみずみずしいバック・コーラスなど、ここで彼らは60年代からの親しみやすい影響に傾倒しているように見える。レコードのパッケージに書かれている一言がこのような先祖返りを見逃すように促す。「既存の楽曲との類似は、全てまったくの偶然によるものです」。

 楽器が目立つことが無いため、この『Forever Breathes The Lonely Word』はローレンスのリリシズムが光っている。彼は希望の小さい世界の疲弊した心や鬱屈とした切望についての物語を紡ぎ、宗教やセレブ、あらゆる種類の信仰にに疑いの刃を向ける。彼は馴れ馴れしい親密さでこのナラティヴを吹き込んでいく。「僕は失われた人々が好きなんだ、だって僕もそうだろうから」と彼は言った。

 無菌室のようなアパートメントに閉じこもっていることから、ローレンスは自分の世界よりも遥かに壮大で鮮やかな世界を想像した。「Rain of Crystal Spires」の物悲しさは「ホメロスイリアスが燃えている」のような、アーサー王伝説に登場するアヴァロン島のヴィジョンによって装飾されている。「Grey Streets」では「どもり、よろめき、背を向けるまぶたを閉じる/間に合わせの記憶がまだここにいさせろといがみ合う」という視覚的イメージを喚起する。そしてその後彼は煙や死んだ根こそぎの木、そして「三つの四角いを持った男と蛇の皮でできた顔を持つ男の子」で一杯の廊下を描写する。リスナーたちがこのような詩的な言及を聴いて彼のことを「大学タイプ」だと思わないように、ローレンスは自分はただ単に耳の美的感覚を持っているだけだと明言した。「誓って、僕はこれまでの人生で詩を読んだことはないんだ・・・説明するのは難しいんだけど、僕はただ美しいものや美しい言葉が好きなだけ」と彼は反論した。「ポップ・クラシックのサウンドについてはみんなの共通理解があるけど、クラシック・ポップの歌詞については定形なんてものはない―少なくともぼくの中には。もちろん、僕は使い捨てみたいな歌詞も悪くないと思うけど、もっとマジカルなもののほうが好きだ」。

 1986年には、ローレンスは歌詞の中に微妙な影を忍ばせることの達人になっていた。ひじ鉄をくらわせ、理解する時間を与える間もなく話題を変え、神秘的なものを嗅ぎ分ける才覚を持っていた。「A Wave Crashed On Rocks」では「私はあなたの神ではない、だからその十字架を取ってくれ」と求める。「Gather Up Your Wings And Fly」では「銀の剣を探してあなたは四世紀前に戻る/君が自分で作り上げた幻想は僕を退屈させる」と嘲る。「Grey Streets」は特に辛辣で、アーティストを偶像化するファンという力のダイナミクスを明らかにしている。「君が僕に惹かれたのは僕が壁から君を見下ろして微笑んでいたからで、君は僕が優しそうに見えると言ったんだ」と彼はニヤつきながらファンに伝える。ファンの冷静さを非難して「君は人生において半宝石で、感情を見せようとしないじゃないか」と言う(「半宝石」という言葉は特に意地悪く強調されている)。彼の声のけだるさを聴く限り、ローレンスは決して冷淡ではない。彼の失望の深みは下品に誇張される必要はなく、ただ呼吸をすればいいだけだったのだ。

 「Grey Streets」はこの作品の中核をなす曲であり、「All the People I Like Are Thos e That Are Dead」はフェルトのアンセムに最も近いように感じられる。「多分僕は楽しませるべきなんだ/僕が狂っているという事実を」と、彼はおなじみの自己非難から始める。ギターのメロディがダフィーのオルガンに絡みつくと、ローレンスは彼の失望にもたれかかる:「多分僕は銃を手にするべきなんだ/そしてそれをみんなの頭に突きつけるべきなんだ」と彼は息を切らせながら思い悩む。それが安楽死だと思っているのだ。真ん中を少し過ぎたところで、楽器が後退しほとんど沈黙になる中でローレンスは静かに、ひとりタイトルを呟く。この5分の楽曲はローレンスという作曲家、ひいてはフェルトというバンドが崇められているものの典型である。のたうち回り、神を否定し哀しみを引き起こしているさなかでも、彼は決してメロドラマに服従しない。彼はその苦しみの中で一人ではないことを知っているのだ。彼はただ、それに浸りすぎるとこれほどに痛むのだということを示したいだけなのだ。

 『Forever Breathes the Lonely Word』はフェルトの戴冠に値する業績であり、UKのプレスにも比較的好意的に受け止められた。もちろん、この作品が美しいことは彼らも同意するところだが、大大的に祭り上げるには狭量すぎた。「フェルトは何も発明していないし、何も変えていない。彼が安楽椅子キャンプヒーロー以外の何かに見えるのならその人は相当な馬鹿者であろう。」と『NME』のマーク・シンカーが書いている。「しかし、」と彼は続けて、「これは素晴らしいレコードである」と。この作品はチャートインせず、『NME』と『Melody Maker』誌のどちらの年間ベストリストにも選ばれなかった。1986年には暴力を美化するような無愛想な弱虫はふたりもいらず、人気投票では『The Queen Is Dead』でモリッシーが一位を獲得した。

 フェルトが商業的成功を収められらなかったのにはなにか特定の一つの理由があるわけではない。「売れるには地味過ぎたし、ポップに行くにはアートすぎて、アートで行くにはポップすぎた」と、クリエイションのアラン・マクジーは言った。『Melody Maker』はさらに手厳しく、「フェルトは、誰も買わない素晴らしい作品を作った」と書いた。BBCのホストでありテイストメーカーのジョン・ピールからのサポートが十分ではなかったからかもしれない。彼はフェルトのファンではないことを公言し、番組内でも擁護しなかった。もしくは、『Forever Breathes〜』のリリースの少し後辺りから、ローレンスはコンサートの前に気分を高めるためアシッドを服用するようになっていた。残念なことに、彼は決まりすぎた結果、観客(A&Rの偵察がたくさんいた)が帰るまで演奏を拒み続けた。しかし、ローレンスは彼の「10年計画」を完遂し、更に4枚の作品を作った後の1989年にプロジェクトは終わりとなった。90年代初頭、彼はデニムという皮肉めいた70年代リバイバル・バンドを結成したが、ダイアナ妃が交通事故で亡くなった直後に「Summer Smash」というデビュー・シングルをリリースするというタイミングの悪さを披露した。事実上EMIに見捨てられたローレンスはゴーカート・モーツァルトという名前で演奏するようになり、そのマキシマリストなエレクトロ・ポップバンドは今日でも続いている。ドキュメンタリー『Lawrence of Belgravia』で見ることができるように、これ以降彼は薬物中毒やホームレス状態で苦しむことになる。

 しかしフェルトは忘れ去られたわけではない。ローレンスがかつて予言したように、このバンドは解散後にこそ評価されてきたのだ。「Rain of Crystal Spires」のうっとりするようなオルガン一つとっても、それがC86やスランバーランドのような賑やかなポップ勢の興隆へと繋がっている。フェルトのカルト性はフィールド・マイスの優しい白昼夢やグラスゴーズ・カメラ・オブスキュラの文学的な反抗心、ザ・クライアンテルの澄んだ思考などで聴くことができる。フェルトは特に2011年の音楽的集団意識内で広く蔓延しており、サンフランシスコの二人組のガールズとアイルランドポスト・パンク・アクトのガールズ・ネームがローレンスの名を冠した楽曲を発表している。数年後、人気インディー・ポップ・アクト、ザ・ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートが楽曲「Art Smock」の中でフェルトに言及し、「The Ballad of the Band」をカヴァーした。その中でキップ・バーマンはうまくローレンスを真似ている。

 しかし、彼らの影響が最も明らかなのは、ベル・アンド・セバスチャンのチュアート・マードックによる内省的なソングライティングである。彼はフェルトの大ファンであり、解散の後からフェルトの虜になった人間である。「詩的で、熱意にあふれていて、すばらしい」とはかつて彼が『Forever Breathes the Lonely Word』を表した言葉である。「この作品がリリースされたということが想像し難い。それが新しいということが想像し難いんだ」。楽曲内でフェルトに言及したりライナーノーツで称賛したりするだけではなく、マードックの音楽はローレンス譲りの孤独な内省観と深淵な美を見出す目によって輝いている。

 『Forever Breathes the Lonely Word』が1986年の当時において傑作であると認識されなかったことはまるで全宇宙的な無視であるように感じられるが、このようなねじれはローレンスがフェルの楽曲内で見せた考えと共鳴する部分がある。「自分がしようと思ったことに妥協しなかった人間として記憶されたいんだ」とローレンスは1989年『Meldoy Maker』誌に語っている。バンドの最後の作品を作り終えた頃のことだ。「フェルトはタイムレスな傑作は作らなかった―『Marquee Moon』や『Horses』に並ぶような作品を作ることのほうがもっと素晴らしい。僕たちの作品はその他の名作と一緒に店の中に散らばっているんだ」。

 『Forever Breathes the Lonely Word』は素晴らしいタイトルの「Hours of Darkness Hve Changed My Mind」で幕を閉じる。暖かさで満ちている作品の最後に、ローレンスはフェルトのファースト・アルバムに立ち返るようなサウンドを提示する。彼は暗闇と彼の周りを渦巻いている謎を見つめ、夢であることをみとめる。「どこかの誰かが気に欠けてくれるようなことをしたいんだ」とローレンスは歌う。静かな、それでいて極めて明瞭な失望とともに。