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<Pitchfork Sunday Review和訳>Pavement: Terror Twilight

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Pavement: Terror Twilight Album Review | Pitchfork

点数:7.5/10
評者:Stuart Berman

このPavementの賛否両論な最終作にはアンダーグラウンドの終焉を予見していた、喧騒と明瞭さがつまっていた

カンド・アルバム『Crooked Rain, Crooked Rain』(1994)のリリースのリリースと共に、Pavementが次のNirvanaに―あるいは、よりクールで、よりファニーで、よりとっちらかったR.E.M.に―なる準備が整ったように思えた。彼らは渋々MTVで流れるヴィデオを発表し、駄々をこねながら「トゥナイト・ショウ」に出演したが、熱狂のオルタナティヴ・ロック革命に加わることへの複雑な感情はアルバムのハイライト「Range Life」で明らかにされた。当時最もクールではなかったサウンド(70年代カントリー・ロック風)を用いて当時最も売れていたバンドたち(Smashing Pumpkins、Stone Temple Pilots)をこき下ろしたのだ。ファンにとって、「Range Life」は当時ものすごい勢いで均一化していったNirvana以降のオルタナ界に対する静かな、そしてさりげないプロテストだった。ヘイターにとっては、インディー・ロックが一般人の好みをエリートぶって嫌悪する本能を持っていることの証明だった。

 『SPIN』誌1994年4月号内のインタヴューで、リード・シンガーのスティーヴン・マルクマスは実はその両方の見方が間違っていることを明かした。「『Range Life』は80年代のカントリー・ロック時代、Lone JusticeやDream Syndicateのように時代についていけなくなった人のつもりだったんだけどね」と彼は言った。「本当はSmashing PumpkinsやStone Temple Pilotsへのディスではないんだ。もっと『MTVの時代が理解できない』みたいなことを言いたかった。Brian Wilsonの「I Just Wasn't Made For These Times」みたいな」。

 これはマルクマスの怒りのピークであり、彼は変わりゆく文化的潮流によって時代遅れになってしまった前時代の曖昧なサブジャンルとの精神的血縁関係を作り上げた。おそらく彼は、自分が同じような位置に置かれることも時間の問題であることがわかっていたのだろう。

 翌年、Pavementのキャリア史上最も難解な『Wowee Zowee』がリリースされ、彼らのモダン・ロック市場に服従することの拒絶を更に明確に打ち出した。その可能性は彼らがその年のロラパルーザで演奏中に観客達が泥団子を投げつけた瞬間に完全に消え失せたように思えた。しかし驚くべきことに、爽やかで水晶のような次作『Brighten the Corners』には調和されたクロスオーバー的努力が見られた。そしてPavementの初期の作品の社会不適合者ープレッピーのイメージによって、幾百もの感傷的で皮肉めいたインディー・バンドを生み出していたころ、彼らの影響はイギリス最大のロック・アクトをすら揺り動かしていた。

 Blurグレアム・コクソンが1997年のセルフ・タイトル作でブリットポップを捨てローファイに切り替えたきっかけを与えてくれたとしてPavementの名を挙げていることは有名なことであるElasticaジャスティン・フリッシュマンは当時彼女自身のバンドのポップ・アピールを取り除くプロセスの最中だったが、彼女はマルクマスのデュエット相手になり、ロンドンで宿を提供する仲にあった。そして全く異なる美的宇宙に存在しているように見えてたが、実はRadioheadファンであることを公言しているPavementは、このように代理的にかもしれないが、メインストリームとなった。しかし彼らがかつて体現し、その後も居座り続けてきたインディー・カルチャーはひねくれて歪んだファズ・ロックから、繊細なシンガー・ソングライター的な表現主義ドラマティックなポスト・ロック的な印象主義へと移り変わっていた。カントリー・ロックを模したフィクションだった「Range Life」は徐々に現実のものとなり始めていた。

 ゲームに乗るか試合放棄をするか、このふたつの間で引き裂かれるようなサウンドを鳴らしてきたPavementにふさわしく、5枚目となるこの『Terror Twilight』も、大々的にブレイクするか解散するかの瀬戸際だったこのバンドを捉えた、葛藤に満ちた両義的なドキュメントである。一方では、この作品は自分たちのカルトを広げようというアイデアを完全には諦めていないグループを見せてくれる。彼らのキャリアの中で初めて、Pavementは一流のプロデューサーを雇い、迷い込んでしまった袋小路から抜け出そうと実践的なアプローチを取った。もう一方で、Pavementはもはや獲物を狙うハングリーさを持ったバンドではなくなってしまっていた。

 カリフォルニアのストックトン(マルクマスが幼馴染のスコット「Spiral Stairs」カンバーグとバンドを結成した場所)からヴァージニア大学(マルクマスがパーカッショニスト/バンドのマスコット、ボブ・ナスタノビッチと知り合った場所)、ニューヨーク(もともとはファンであったベーシスト、マーク・アイボールドとナスタノビッチの古いドラマー友達、スティーヴ・ウェストが加わった場所)に至るまで、Pavementの鬼門はロジスティクスだった。90年代後半になると、5人のメンバーはそれぞれ別の州で暮らしていた。練習のために集まるといったシンプルな行動にすら旅行代理店が必要になるくらいであった。そしてある時点で、マルクマスはこれらの頻繁な長距離移動は果たして割に合うものなのだろうかとふと思った。

 『Brighten the Corners』のプロモーションによって「かなり疲弊した」マルクマスは『Rolling Stone』誌にバンドメンバーそれぞれがそれぞれに落ち着く時期なのかもしれないと告げ、解散をほのめかした。ポートランドに腰を据えた彼は1998年、地元でのアコースティック・ショウの中でいくつかの新曲を披露した。この彼らしくない動きは、もし次のPavementのアルバムがあるとしてもそれは名前だけで実質彼のソロアルバムになるのでは、ということを示唆していた。ナスタノビッチは「この段階にあって、Pavementの音楽はスティーヴン・マルクマスのものだった」1999年のインタヴューで認めている。「彼がメインのソングライターで、残りの4人は彼が作った曲をできる限り良いものにしようとトライしているんだ」と。

 しかしマルクマスにとっては、そのプロセスはスピード感に欠けていた。ロブ・ジョヴァノビッチによるPavementの伝記、『Perfect Sound Forever』(2004年)で詳細に書かれているが、マルクマスはこのバンドの長距離恋愛的関係性に急激にうんざりしはじめ、ようやく同じ部屋に集まれたと思っても、皆をスピードアップさせるのに時間がかかることでさらにフラストレーションが溜まっていった。「おそらく彼は自分だけが違うペースで動いていることに気がついたんだと思う」とウェストは振り返り、「僕たちをうまく動かして音楽的創造性を持たせるための忍耐力を持ちたくなかったんだと思う」と。一緒にいられる時間が限られていたため、バンド全体としてもマルクマスが持ち込んだ既存の曲にフォーカスせざるを得ず、カンバーグが持ち寄ったアイデアをふくらませることは二の次になってしまった(彼は近年の作品では絶品パワーポップ曲を持ってきたのにもかかわらず、光の当たらない存在だった)。

 どこから見ても気が滅入るようなアルバム制作始動の試みのあと、バンドはプロのセカンド・オピニオンが必要であることで意見が一致した。イギリスのレーベルの幹部、ドミノ・レコードのローレンス・ベルを通じて、また新しくイギリスの著名人がPavementのファン・クラブに加入したことを知った。自体を一変させたRadioheadの『OK Computer』やBeckによるスペース・フォーク作『Mutation』を手がけたばかりのプロデューサー、ナイジェル・ゴッドリッチである。後者の推薦によって、Pavementはゴッドリッチと面と向かって話す機会もないまま、電話口で彼を雇うことに決めた。しかしいざ二組が一同に会し作業を始めるとすぐに、Pavementの偶然を重んじる美学とこのプロデューサーのやり方には大きな隔たりがあることが明らかになった。

 このバンドのファンでもあったゴッドリッチは、PavementRadioheadほどの予算を持っていないことに気がつくと、貧乏アーティスト・スペシャルを提供することにした。普段もらっているギャラを将来の印税とし、友人の家の床に寝泊まりすることで経費を節約した。しかしゴッドリッチの要求する技術的水準はPavementがそれまで触れてきたものの遥か上を行くものだった。バンドがもともと持っていた、マンハッタンにあるSonic Youthのリハーサルスタジオでレコーディングするという計画を白紙に戻したゴッドリッチは、作業場所を近くにあった24トラックの設備がある場所に移し、オーバーダブはロンドンにあるかの有名なRAKスタジオで行うことにした。

 バンドはこれまでスタジオを砂場として使ってきた。だからこそほぼアルバムの長さのアウトテイクも生まれた。しかしゴッドリッチは彼らに12曲に集中するよう命令し、半ば軍隊のような、血豆ができるようなリテイクを繰り返し曲作りを進めていった(しかし、楽器隊が幻惑的にダブされる「Shagbag」だけは完成しなかった)。プロデューサーは創造的決定の殆どをマルクマスと協議したため、残りのバンドメンバーたちはこの制作のプロセスから切り離されたような気分になった(ナスタノビッチが『Perfect Sound Forever』で回想するには、レコーディング・セッションが始まって一週間以上が立った頃「ナイジェルと話をしにいったんだけど、彼がぼくの名前を知らないということは明らかだった」)。最後には、Pavementはもはや間違いをそのまま残しておくようなバンドではなくなっていた。たとえそれが特定のメンバーの貢献を取り除くということになっても。オーバーダブのセッション中、3曲ものウェストのドラム・トラックがHigh Llamasのドラマー、ドミニク・マーコットによってリ・レコーディングされたのだ(不安定なオリジナル・ドラマー、ゲイリー・ヤングの代わりに、リズム面での碇としてウェストが起用されたことを考えると皮肉なことである)。

 アルバム単位で見ると、Pavementはどよめきと明瞭さの間を行き来する傾向にあった。しかし『Terror Twilight』はそのふたつの方向性を一つにまとめ上げている。聴き手の指向によって、この作品はバンド史上最も磨き上げられたポップ・アルバムにも、最も暗くて不安定なアルバムにもなり得る。レイドバックした昔ながらのウェスト・コースト・スタイルのPavementでありながら、同時に情緒不安定でもある。しかし『Terror Twilight』は直感に反したアルバムになっていて、最もメロディー的に入り組んだ曲はとても簡単そうに聴こえて、かつてはPavementとして自然に響いていた向こう見ずな不敬さがかえって無理強いされたように聴こえるのだ。

 優れた楽曲では、マルクマスが1996年に埋め草で出したシングル「Give It A Day」で発揮した雄弁なソングライティングをさらにおしすすめている。彼に特徴的なVelvet Underground譲りの物憂げな歌い方は鳴りを潜め、もっと複雑で昔ながらの英国メロディ主義によっている。「Spit on a Stranger」や「Ann Don't Cry」はマルクマスの、気取った、謎めいた怠け者というパブリック・イメージを払拭するものであった。冷笑的な表面の裏側でいつも光っているロマンティシズムを前景化させ、理解するのが難しいフレーズが、彼が表現するのが難しい感情にアクセスすることを可能にしている(彼は後者で「ぼくの心は広く開かれているものなんかじゃない」と歌っている。彼が正直でいることへの嫌悪を正直に打ち明けた珍しい瞬間である)。マルクマスが「メジャーリーグを育てよう」と歌ったのが1994年だったら、それは産業ロックの階段をのぼることへの辛辣なコメントであると解釈されただろう。しかし『Terror Twilight』の沈痛なセレナーデである「Major Leagues」では、まるで中年期に直面する家族的責任を歓迎しているように聴こえる。ゴッドリッチが得意とするアトモスフェリックなプロダクションがこのような穏やかな曲と自然にフィットし、月明かりのような魔術的リアリズムを持った光で彼らを照らし、ギターをきらめかせている。

 90年代後半、マルクマスがどんどんポップ職人として成長していくのを良しとしなかったPavementは、世界で最も不鮮明なジャム・バンドに成り下がりつつあった。これは『Brighten the Corners』のツアーで明らかになった問題で、「Type Slowly」のような楽曲はだいたい引き伸ばされ、強化された。彼らは「And Then」と呼ばれる新曲を頻繁に試していた。その曲は「Stop Breathin」や「Transport Is Arranged」のようなSlint風のミッド・セクションを持ち、凶悪な激しさを帯びていた。「And Then」は『Terror Twilight』のB面の奥深くに陣取ることになった。新しい歌詞と新しいタイトル「The Hexx」と共に。『Terror Twilight』に収録されているヴァージョンは97年ころのライヴに見られたサイケデリックな汚れたファズをもとにしており、マルクマスは気味の悪い歌詞を次々にドロップしていく(「両目にバツ印をつけられたてんかん持ちの外科医/子供を引き裂こうとしている/」)。まるで怪談話を2文で書くことに挑戦しているようだ。

 「The Hexx」はPavementの未来はより重たいギターワークにあるのではないかと思わせる強力な証拠だった。しかし、『Terror Twilight』の中でこのバンドがロック筋を見せびらかしているところは、なんだか虚勢を張っているように見えるのである。「Platform Blues」は『Wowee Zowee』のような広がりを持っているが、アルバムの中心となるには少し風呂敷を広げすぎた感がある。下手くそな乱痴気騒ぎ(Radioheadジョニー・グリーンウッドがハーモニカで参加している)はまるで括弧付きの「バー・バンドの二日酔い」のように聴こえる。「Billie」はマルクマスの素晴らしいヴァースを場違いで醜いコーラスで台無しにしている。そして「Speak, See, Remember」は『Wowee Zowee』のハイライト「Half A Canyon」のように、ルースな前半とモータリックな後半というテンプレートをなぞっているが焦点と強烈さが半減している。The Flaming Lips『The Soft Bulletin』やGuided By Voices『Do The Collapse』(リック・オケイセックプロデュース)など、1999年にリリースされた他の気取った高値のアルバムたちに比べると、『Terror Twilight』のわざとらしい風変わりさはPavementが自らの領域を守ったということを意味していた。

 解散の噂にもかかわらず、『Terror Twilight』は批評家たちにスワン・ソングとしてではなく、真のネクスト・レベルへの一手として受け止められた。『A.V. Club』は「この新作『Terror Twilight』に費やされた時間や労力を鑑みるに、このグループはまだ降参する気がないようにおもえる」と評した。そして暫くの間、それは事実であるように思われた。このアルバムにおけるソングライティングの貢献の少なさについて尋ねられた感バーグは『Rolling Stone』誌に対し、スタジオで十分な時間が取れず、自分のアイデアについて話す時間がなかったと言い、そして「次の作品ではもっと自分の曲が入るだろう」と楽観的に推測した。ランス・バングによる2002年のPavementドキュメンタリー『Slow Century』の中では、バンドが『Terror Twilight』のツアーに向けたリハーサルの中で、新曲を制作しているのを見ることすらできる

 その新曲「Discretion Grove」はすぐに日の目を見ることになったが、Pavementのアルバムとしてではなかった。マルクマスの現在のバンド、The Jicksによる2001年のデビュー作のリードシングルとしてリリースされた(The JicksはいまやPavementの2倍以上の期間存続している―私が思うにバンド名とと同じ街に暮らすということには利点があるということなのだろう)。このマルクマスの1枚目のアルバムは1999年11月にPavementがロンドンのブリクストン・アカデミーで最後のショウを行った14ヶ月後、ツアーを経たマルクマスがもっと偏屈で不機嫌になったと言われる6ヶ月ものプロモーション・キャンペーンを経てリリースされた。その直後、ドミノはバンドが「近い将来に引退する」とアナウンスした。これは完全な解散を望んだ側(マルクマス)と一時的な活動休止を想定していた側(それ以外全員)との間に混乱を呼んだ、いささか曖昧な発表だった。それ以来というもの、巨大な不吉な予感を抱かずに『Terror Twilight』を聴くことは難しくなってしまった。10年もの間、回りくどい言葉遊びでリスナーたちを翻弄してきたマルクマスにしては、「Ann Don't Cry」の歌い出しはとても素朴で文字通りである。そしてそれはPavementの墓碑となった。「ダメージは与えられた/ぼくはもう楽しんでなんかいない」。

 このアルバムを生み出した厳しい状況を抜け出して何年もたった今となっても、マルクマスの『Terror Twilight』に対する評価は上がったとは言えない。まさしく、これは10周年記念リイシューがされなかった唯一のPavementのアルバムであり、それはこの作品に対して暗黙のうちの判断がされているように感じさせる。2015年のPitchforkのインタヴューの中で、マルクマスは冗談半分でこの作品を「Pavementのカタログの中で間違ってできてしまった子供だ」と述べ、この作品のレコーディング・プロセスについて深く掘り下げた2017年のTalkhouseのインタヴューでは「誰もこのアルバムについてそんなに注意を払ってないでしょう」と辛辣に言い放った。もちろん、そんなことはない。カンバーグはこの作品についてもっとポジティヴな意見を持っている。そして『Terror Twilight』がポップに接近したことが完全に顧みられないわけではないとする証拠もある。グラミー賞も受賞したブルーグラス・バンド、Nickel Creekによるマンドリンを用いた「Spit on a Stranger」のカヴァーは彼らの2002年作『This Side』をビルボードのトップ20に送り込んだ。

 しかし『Terror Twilight』が完璧な作品ではないとしても、今日においてこの作品は象徴的な作品である。一つにはバンドの消滅という意味合いにおいて。そしてもう一つ、Pavementが体現していたアンダーグラウンド/負け犬たちの理想主義の消滅という意味合いにおいて。これはファイ・ファイな未来主義と逆張りな特異さの間で行われた美学の綱引きであり、『Terror Twilight』はドラマティックな変化を目前としたインディー・ロックの地形図を予測していた。アップル社によるコマーシャルや自撮り棒化したフェスティヴァル・カルチャーが、広告的な露出がマストであると宣言した全く新しい時代だ。さらに、独特な斜に構えたやり方によって、このアルバムの暗い底流や痙攣的な感情的爆発は我々の潜在意識に呼びかけ、新しいミレニアムのもう一つの側面、さらに不安定で収集のつかない世界に対する警告をしているように思える。だからおそらく『Terror Twilight』は素晴らしいバンドによる欠点だらけの早産の最終作ではなく、時代が変わっていることに気がつけるほど賢く、自分たちがそれに合わないと認められるほど正直だったバンドによる計画的な退行だったのかもしれない。