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<Pitchfork Sunday Review和訳>Macintosh Plus: Floral Shoppe(フローラルの専門店)

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Macintosh Plus: Floral Shoppe Album Review | Pitchfork

点数:8.8/10
評者:Miles Bowe

2011年の先駆的なドキュメントで振り返る、ヴェイパーウェイヴの陳腐なアンニュイ

011年のインタビューで、クレア・バウチャーは当時の新プロジェクト、グライムスを「ポスト・インターネット」と説明した。これはデジタル時代において音楽を作ったり発見したりするという特有の経験に名前をつけようとする試みであった。「なんにでもアクセスできたから、私の子供時代聴いていた音楽は多種多様だった」と、彼女はNapster、SoulSeek、LimeWireなどのファイル共有プログラムを聴いて育った世代に共通して体験していると彼らが気づき始めたことを言葉にした。インターネットが考えうる限りすべてのジャンルをアクセスが容易なフォルダに圧縮してしまったこの自体において、若いプロデューサーにとっては「全部」というのが勝利の公式であることが証明された。

 2019年にもなるとそのような楽観的な見方は消え失せ、インターネットのアクセスの感覚は存在自体が途方もなく感じさせたり、まったくもって脅威であるように感ぜられるようになった。ソーシャル・メディアは現実を歪め全世界的な影響を及ぼし、Spotifyのような巨人がムードに合わせたプレイリストによって音楽をミューザクへと変貌させ、悲劇はライブ配信され、我々はオフにすることができない通知が引き起こす麻痺によって打ちのめされてしまった。

 グライムスの2011年のインタビューのあと間もなく、アルバム『Floral Shoppe』が最初にオンライン上に姿を表したが、それにまつわるものすべては理解不可能であるように思えた。謎の存在であるマッキントシュ・プラスという名義で発表された今作は、ペプト・ビスモル(訳注:アメリカでは一般的な胃腸薬)ピンクのケバケバとしたアートにミントグリーンの日本語の文字、つやつやした街の風景、ぼんやりと上の方向を見つめる大理石の胸像によって装飾されていた―しかし肝心の音楽のほうはというと、これよりも意味をなしていないのだ。安っぽいサックスの音が泥のように溶けていき、まるでYouTubeの動画でバッファリングしているように音飛びしたりするイージー・リスニング音楽、そしてかすかに聞こえる人間の声は速度を落とされ、吐息混じりの柔和なうめき声となる。筆者が2012年の春にこの作品を初めて聴いた時、私は思わずその場に立ち尽くしてしまった。私はiPhoneを見つめ、ファイルが壊れているのかと訝った。もしコンピューター・ウイルスが音楽だったらこう聴こえるだろうか。まるで「ポスト・インターネット」の時代にあったすべての刺激的なアイデアが無に帰したようだった。

 『Floral Shoppe』が、その出自であるディープ・インターネットの領域を飛び出すにあたって、伝統的な論理は全く機能しなかった。しかし作者である当時ティーンエイジャーであったポートランドのアーティスト、Ramona Xavier(別名Vektroid)が正体を明かさないでいる間にも、この作品が持つパワーは急激に広まっていった。彼女はパイオニアでありながら異常分子でもあった。ひどく落ち着かない状態から不自然なほどの躁状態を行き来する麻痺の波がもたらす不安や存在の危機を捉えた作品として、彼女のアルバムは唯一無二で有り続けている。10周年が近づいている今、『Floral Shoppe』はミレニアル期の芸術のひとつの基準である。一年ごとに世界は混沌へと歩みを進めているなか、この作品を理解することはどんどん可能になっているのだ。

 『Frolal Shoppe』が定義することになったヴェイパーウェイヴというジャンルは、無視されるために設計された音楽である。企業CMなどからのサンプルを用い、この音楽は我々の認知の中に残留する。視界の隅で何かが明滅するような感覚。ブライアン・イーノアンビエント音楽を「聴き手が集中するか、後景に聴き流してしまうか選ぶことができるもの」と考えたとしたら、ヴェイパーウェイヴはその規定の効力を聴き手に向けたものである。この音楽は陳腐さによって聴き手を引き戻し、退屈な日常よりももっともらしいトランス状態を作り出すのだ。批評家であり初期のヴェイパーウェイヴ・チャンピオンであるマーヴィン・リンは2012年にこう書いた、「これまでに『ヴェイパーウェイヴ』を聴いたことがあるかどうかということは関係ない。信じて欲しい、君は聴いたことがあるのだ―ホテルのロビーで、トレーニング・ヴィデオのオープニングで、電話でカスタマーサーヴィスの責任者を待つ間に」。音楽が急速に「企業化」した時代に育った世代が反乱を目論み、自己完結的な、反抗的なまでに非商業的な、文字通りのミューザクのシーンを作り上げた。これはその次代において最もパンクな行動であった。音楽はもはや音楽ではなかったのだが。

 『Floral Shoppe』はIDMやかのワープ・レコードを聴いて育ったマインドを反映している。2015年の対話の中で、Xavierは私に、中学校に上がるときまでには「AutechreBoards Of CanadaSquarepusherやAphexなんかを聴いていた。そこからもっと細かいところを掘っていこうと思った」と語ってくれた。このアルバムは当時ヒプナゴジック・ポップと呼ばれていた、印象派的で覚醒と睡眠の間の状態を思い出させるヘイジーな曲たちの正常進化のようにも感じられる。そのジャンルを皮肉にも「チルウェイヴ」と再定義し真っ当なポップとして能率化し成功する向きもいる中で、もっと暗い道へと足を踏み入れる者もいた。

 ディストピア的なミューザク・ジングル探求のシーンを牽引していたのはLAのエクスペリメンタリストであるジェームズ・フェラーロやワンオートリックス・ポイント・ネヴァーであり、シュールで無限にループされたトップ40ソングのサンプルを彼は「eccojams」と名付けた。両ミュージシャンの影響は最初期の賛否両論的な反応からは考えられないほどに広大であるが、彼らのコンセプチュアルな野望は『Floral Shoppe』が持っていた純粋なエモーショナルなインパクトに比べると小さい。このアルバムはシャーデー、安っぽいニュー・エイジ、ダイアナ・ロス、忘れ去られたAOR、ニンテンドー64のゲームのサントラをサンプルとして使用し、それらがすべてXavier特有の超現実的な周波数にチューンされている。ヒプナゴジック・ポップがダッシュボードの上で溶けたカセットテープを聴くようなものだとしたら、『Floral Shoppe』は自分のコンピュータが燃え盛る中で落ち着いてSpotifyのプレイリストを聴くようなものである。

 このアルバムはシャーデーの「Tar Baby」を細切れにした「Booting(ブート)」で始まる。このループはまるでGIFのように、聴き手を螺旋状の不安の発作に陥れる。ヒプナゴジック・ポップがループを安らかなる恒久性への窓として活用するのに対し、Xavierはサンプルをもはや原型を留めないほどに短くカットし、聴き手にじわじわと迫りくる壁にしてしまう。最後の方では曲はスローダウンすると同時にスピードアップされたヴァージョンが背景でエコーし、更に暴力性を増す。それは過呼吸を音楽に置き換えたようなもので、この作品の中で最も薄暗い瞬間であるが、それは最も躁状態な部分によって中断される。

 続く曲のタイトル「Lisa Frank 420/Modern Computing(リサフランク420 / 現代のコンピュー)」は『Floral Shoppe』全体のムードを象徴するものであり、この多幸的で陽気なグルーヴは名刺代わりとなった。ここで再利用されているのはダイアナ・ロスのヴァージョンの「It's Your Move」であるが、Xavierはこのポップ・アイコンの声のピッチを変え濁ったシミみたいにしてしまい、軽薄さを漂白し絶望感を増幅させている。この曲はふさわしいことにドラッギーであるが、ある意味では孤独であることの必要性、苦痛である多幸感へのめまいがするほどの急降下から生じたものであるようにも感じられる。ミックスが主たる楽器となり、エコーやめまいを生じさせるようなパン、チャンネルからチャンネルへとせわしなく音がバウンスしていく感覚は、思わずダブを想起させる。ヴェイパーウェイヴが現実の統合された世界に侵食していくという興味深い事例が見られ、この気持ちの良いトラックは数え切れない程のチェーンメールに登場するヴァイラル・ヒットとなり、工場の組立ラインなどのフッテージを集めた催眠映像「The Most Satisfying Video In The World」のサウンドトラックとなった。

 『Floral Shoppe』の変形力は、サンプル元の曲が不明瞭になればなるほど強くなる。その例がPagesである。PagesはMr. Misterの創始者である二人、スティーヴ・ジョージとリチャード・ペイジによる、全く成功しなかった最初のバンドである。彼らが1978年に発表した「If I Saw You Again」は、スーパートランプが当時浴していたようなチャートでの成功を狙った(そして逃した)のだが、Xavierはその短いイントロ部分の、弾むようなシンセとドラムのサウンドにだけ興味を持った。それは『Floral Shoppe』のタイトルトラックの3分間の中で全くの裏返しにされる。彼女はサンプルを折り曲げ、折り曲げていき、聴き手を迷宮へと誘う。「Library(ライブラリ)」では同グループの「You Need A Hero」から取られたフックに照準を合わせ、吐息が聴こえるような官能性を薄気味悪い渓谷での蒸し暑い一夜に変えてしまう。このことは他のやりかたで機能することもある。ニンテンドー64のゲーム「時空戦士テュロック」で使われる音楽の断片を不気味で落ち着かないほどに引き伸ばした「Geography(地理)」において、アルバムの最初に聴こえる不安の発作が再び表面に現れる時がその例である。

 そこで、『Floral Shoppe』は最後の一線を越える。最後のほうの曲の大半は90年代前半のニュー・エイジ・グループDancing Fantasyをサンプルしており、後半をひとつの組曲へと統合している。広がっていくような「Chill Divin' With ECCOECCOと悪寒ダイビング)」はのっぺらぼうのシンセのウォッシュ音、空っぽなギター・リフを永遠に繰り返すが、その結果は驚くべきものである。この曲は『Floral Shoppe』の陳腐さと越境性のバランスが取れた作品のクライマックスであり、まるで天気予報を見るためだけにMDMAを摂取するかのような感覚である。続くのは「Mathematics(数学)」の優しいカムダウン(訳注:ケミカル系ドラッグにおける二日酔いのこと)である。シンセの電子音や枕のようにふんわりとしたサックスの音色で出来た霧が7分にもわたって這い回り、我々の思考をクリアにしてくれる。のっぺらぼうの忘却のさらに彼方へと漂っていく短い挿入歌「I Am Pico(ピコ)」「Standby(待機)」は両方ともまごうことなき保留音であり、幕を閉じる「Te(て)」は『Floral Shoppe』を現実世界に引き戻す拠り所となっている。

 「Te(て)」は『Floral Shoppe』の中で唯一サンプルを使用していない曲であり、コンピューターの画面を長時間見つめ続けたあとの新鮮な空気のような味わいである。そのメロディーには引き伸ばされスローダウンされたり、前もってかき混ぜられたような編集の痕跡が一切なく、遠くで鳥が鳴く音が聞こえると、この作品がこれまで見事なまでに排除してきた平穏や平衡の感覚が取り戻される。これはまた、Xavierの将来の動きについても示唆している。Xavierが完全に姿を消してしまう前に『Floral Shoppe』に続いて取り組んだのは情報デスクVIRTUALやSacred Tapestryといった一度限りの名義を用いた、ミューザクへとより深く潜り込んだ濃密なプロジェクトであった。2013年の元日に彼女は最初期の名義(そして現在でも使用している名義である)Vektroidとしてカムバックを果たした。彼女がリリースしたのは「Enemy」という10分の楽曲で、これはミューザク、インダストリアル、IDM、ヴィデオ・ゲーム・ミュージックが見事に融合し、そこに実在する人間の共演者、Moon Mirrorの歪んだヴォーカルが乗っかった代物だった。サンプルの使用をほとんど排したXavierの作品はより興奮作用を高めるのみであり、ヒューストンのラッパーSiddiqとのコラボレーションも果たした。

 全ては『Floral Shoppe』が持つとんでもない力を思い起こさせるものとして残った。これは非常に才能のある若いプロデューサーが自分の声を見つけた作品であり、当時その反響はほとんどその声を圧倒してしまうほどだった。Vetkroidは初期の作品を作り直し新たな肉体を与えているが、『Floral Shoppe』はノータッチのままで、Macintosh Plus名義がもう使われていないのにはちゃんとした理由がある。このサウンドを変えたり改善したりすることは何を持ってしても不可能であるし、このサウンドは数多の模倣品を聴いたあとでも、この作品が持つ「認知破壊力」を失っていない。個人的なアンニュイ、失望、孤独、希望、麻痺させるような過剰な刺激をひとつの音楽的言語へと統合した。それはかつてはビックリハウスの鏡を見るように感じられたものだが、年月が経つとまるでiPhoneで撮ったセルフィーのようにパッキリとしている。インターネットのファイル共有の最盛期に育つということはそれによって孤独を点滴されるということでもあり、スクリーンがつながっている向こう側にも人間がいるということを忘れるのは容易かった。我々は断絶されながらも繋がっていた。それはVetkroidによるこの傑作が日記ほど個人的なものでありながら同時にミームとなるほどに普遍的なものであるという逆説とどこか似ている。『Floral Shoppe』はもはや彼女の手を離れ、この世代全体が所有するものとなった。