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<Pitchfork Sunday Review和訳>Jill Scott: Who Is Jill Scott?: Words and Sounds, Vol. 1

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Jill Scott: Who Is Jill Scott?: Words and Sounds, Vol. 1 Album Review | Pitchfork

点数:7.7/10
評者:Anupa Mistry

平凡な女性にも愛とセックスをもたらした、ネオ・ソウル・クロニクル

0年代後期からゼロ年代初期、まだTumblrや他のソーシャル・メディアがジェンダーのヴィジョンや身体の表現のための逃避所となる前の話。セックスは魅力的で、痩せていて、若く、そしてストレートな男性と女性のみに許された特権であると考えることは容易かった。MTV世代にとって、愛とはホットであること、そしてヘテロであることの報酬だったのだ。

 映画やテレビがこのようなメッセージを増強させた(「The Bachelor」や「Extreme Makeover」といった番組がその極北である)が、音楽もそのメッセージの担い手であった。若い女性を愛や人間関係といったトピックに固定化させたボーイ・バンドから、快楽主義者のための音楽であったヒップホップまで。Akinyeleの「Put It in Your Mouth」とKhiaの「My Neck, My Back」が約6年間の間隔をおいてリリースされ、その間にはNasとBraveheartsの「Oochie Wally」が浮上した。そんな時代だった。

 セレブ達がマキシマリズムに走ったこの時代に、「規則正しく」「平均」「普通」であることは時代に逆行することだった。健康な身体というイメージと熱狂的同意。禁欲と放蕩の間で倫理的に揺れる代わりに、健康であることの自由。普通であることは、騒がしいセレブリティのエンターテイメント・ショウをパチリと消したあとに部屋中を満たす静寂であった。ニュー・ヨークやLAへと逃亡するのではなく、人々と場所と考え方を結びつけるものであった。太った人が痩せた人を好んだり、その逆だったり。それはセックスを超えたクィアネスだった。普通であることは多様性や相違に満ちて「いた」:脱色した金髪やヴィデオ・ヴィクセン(訳注:ヒップホップのビデオに出てくるような女性のこと)、シックス・パック、映画のスクリーンに映る物憂げな顔、これら以外のものすべては「普通」だった。しかしこのような環境下において、平凡な人たちの生き方などどうしたら知れるだろうか?ジル・スコットがこのデビュー・アルバム『Who is Jill Scott? Words and Sounds Vol. 1』をリリースしたころ、「平凡な」女性にとっての愛やセックスを記したクロニクルはまだ極めて少なかったと言えよう。

 それはリード・シングル「Love Rain」で始まった。一番のヴァースはスコットの故郷、フィラデルフィアのありふれた二人の若者の求愛行動のドキュメントである:長い散歩、長いおしゃべり、そしてたくさんのセックス。そしてそれらすべてがひと夏の恋の突然の終わりへとつながっていく。2番のヴァースは堰を切ったようにこう歌う:「愛が口からこぼれ落ち、顎をつたって彼の膝へと落ちた」彼女のエアリーなソプラノ・ヴォイスが、細切れになった暖かな吐息に言葉を乗せて吐き出される。このような視覚的なリリックはショッキングであった。これはDead Prezによる#sapiosexual(訳注:内面に性的魅力を感じること。ルッキズムやナンパ文化に対するカウンター)アンセムである「Mind Sex」をリリースしたのと同じ年であり、ここでスコットは皮肉を言って楽しんでいるのである。興奮の時代もまた全速力で進んでおり、男性性、資本主義的男らしさといったイメージがポップ・カルチャーを染め上げていた。でもこれは射精ではなかった:スコットも書いているが、これは愛であった。

 スコットが提示したのは、自分のセクシャリティに根ざした「普通の」女性の視点であった。もちろん、スコットは美しい女性である。彼女のボディ・ランゲージは開かれている。彼女は豊満であり、目的を持って歩く女性である。彼女の微笑むような目がそれを証明している。しかし彼女は痩せていること、まっすぐな髪、そして白い肌で支配されていた世界に対するオルタナティヴとして自身を提示した。自分の体に注目を集めるためではないが、スコットは自分の体に注目させた。「心や感情、魂や体を持った、本当に健康な女性がいて、彼女たちはただ自分たちと同じ素質を持った男性を求めているだけ」と彼女はデビュー・イヤーの最後にワシントン・ポスト紙に語っている。「私達は全員が全員5.9フィートではないし、巨乳でもない。本当のことを言えば、そんな女性なんていないんだ」

 『Who Is Jill Scott?』において、この歌手はベティ・デイヴィスの『Nasty Gal』のような溌剌としたファンクからミニー・リパートンの『Perfect Angel』のような柔らかなロマンスまでをひとつなぎにしてみせる。彼女は自身のソプラノ・ヴォイスに低音を入れ込み、その反対側でため息をつく方法を見いだした。愛とは相手に見つけるものであると同時に、自分自身に見つけるものでもある:「He Loves Me (Lyzel in E Flat)」は彼女の実生活のパートナーシップを記録したもので、共感しやすい恋の始まった頃の情熱や激しさを歌っている。「One Is The Magic #」では孤独を開放であると説いてみせる。「The Way」は女性がセックスを中心にして生活をスケジュールするという、このアルバムのハイライトである。彼女は男に会いに行ったクラブで偶然会った女友達にこう告げる:「ダンスフロアで踊っていたいんだけど/頭の中では他のいやらしくて突飛なことを考えてる/今夜はハイスコア更新」。愛やお互いが満足し合うセックスについてのスコットの物語は、パフィーのキラキラと輝くスーツ・ラップやチンコのデカさを自慢するロック・バンド、そしてテストステロンを武器とするボーイバンドによる不平等な快楽主義にたいするカウンターであった。

 そしてさらに、スコットは曲の中に普通の人々のイメージを入れ込んだ。愛を込めてお互いの生活を皮肉る友人たちの声、遊び場を走り回り手遊びをする子どもたち、ポーチに座ったりドミノに興じたりする老人たち、街角にたむろする若い男たち、隣人の窓に運ばれていく料理の匂い。『Who Is Jill Scott?』は音楽家の内的世界を聴手の生活圏内に置き、そこにはそれぞれの人生を生きる人々が溢れている。この作品はそんな彼女のコミュニティの社会的繊維を祝福するものだ。これはすれ違う時にかわされる会釈、通りを飛び交う怒鳴り声、そして世代が混ざり合う社会そのものなのだ。

 「A Long Walk」や「Gettin' In The Way」といった曲のビデオによってこのようなイメージは生命を吹き込まれ、スコットをアメリカのもう一つの側面の隣に住む少女にすることに成功している。後者のビデオはシャワーを浴びる男のショットで始まり―髪を編み込んだ、男らしい、深い茶色の肌をして、ずぶ濡れの男―スコットのカットに移る。スコットは赤いヘッドラップにボタンアップのデニムシャツというカジュアルな出で立ちである。

 ポップ・カルチャーにおける女性はずっと記号として扱われてきたが、黒人の女性に対するそれは更に固定化されたものだった:トリーナ、フォクシー・ブラウン、リル・キムといった人気のアーティストたちは下品だとレッテルを貼られ、マライア・キャリーデスティニーズ・チャイルドといったシンガーは高嶺の花のお嬢様、そして露出の少ない人達―ダ・ブラットやミッシー・エリオット―はセクシャリティに対する疑惑の目を向けられていた。エリカ・バドゥの内省ですらどこか他人事として見られていた。今日ではSZA、ジョルジャ・スミス、ナオ、ノーネーム、カーディ・B、そしてリアーナといった美しく才能のある女性たちが共感のしやすさという点で愛されている―他の黒人女性に対して直接語りかけるという点で。しかしディーヴァかヴィクセンか、コンシャスかポップか、フェミニストか健全であるか、といった二分法によって分断されていた90年代の文脈の中では、一人で同時にフェムで、性的で、黒人で、ソウルフルで、とっちらかっていながらも実験的である―もしくは単に市場でレモンを絞っている女性のようである―というスコットの能力は抜きん出ていた。

 ベビーブーム世代のヒップホップ・フェミニストたちに声を与えた2000年の著書『When Chickenheads Come Home To Roost』の中で、ジョアン・モーガンは「若い黒人女性の声全てを捉えようとすることは不可能である・・・この本だけではあなたに真実を差し上げることはできないだろう。真実とは、あなた方の声が堆積し隙間を埋め、コーラスのリミックス、リワークを施した時に起こること、そのものである」と書いている。『Who Is Jill Scott?』はこのようなたぐいの真実を提示するものである。「Gettin' In The Way」のような曲では父権制というものが女性感の関係性に与える害を明らかにしているが、それに先行する曲はスコットに更に微妙なニュアンスをにじませることを可能にしている。「Exclusively」はある女性が朝のセックスに浴し、オレンジジュースを取りに行くところの、ウトウトとした内面の独白であり、フェンダー・ローズとレイジーなドラムがその後ろで鳴っている。可愛らしい女の子がスコットの「女性としての直感、そしてある種の不安感」に火をつけ、彼女はスコットの匂いを嗅ぎ―スコットの朝の遊戯を調査するためだ―「ラヒーム、でしょ?」と聞く。そしてスコットは音楽が消えゆく中こう答える「そのとおり」。

 世紀の変わり目、フィリーは震源地となった。ザ・ルーツミュージック・ソウルチャイルドといったミュージシャンがヒップホップやR&Bの分野でオルタナティヴなアイデアを創始し始めていた。ビーニー・シーゲルはロッカフェラと絶好調。1997年には黒人女性・家族・コミュニティを支援する草の根イベントであるThe Million Woman Marchが数十万人もの人々を集めた。アレン・アイヴァーソンはシクサーズでプレイし、容赦ない彼のスワッグはスポーツメディアの度肝を抜いた。

 スコットはこのようなエネルギーを糧にしただけではなくそれを吸収し、彼女の音楽はエネルギーを持続させる一助となった。熱心なファンであればザ・ルーツの1999年発表の4作目『Things Fall Apart』のライナーノーツでジル・スコットという名前を知っていたことだろう。まだ有名になる前のスコット・ストーチと共に、彼女はこのフィラデルフィア出身のバンドの出世作となった「You Got Me」を作曲した。ストーチがスコットと会った際、彼女はフィラデルフィアのアーバン・アウトフィッターズで働いていた。二年後、彼らがザ・ルーツの曲を完成させ、スコットはフックを歌ったのだが、バンドのレーベルによって変更がなされた。当時のネオ・ソウル界きっての女皇帝であり、すでに大きなファンベースを築いていたバドゥがスコットに代わってフックを歌った(両者の関係は良好である)。この曲はグラミーを受賞し、ザ・ルーツはスコットをツアーに連れだし、「Jilly from Philly」ここにあり、とファンに知らしめたのであった。

 スコットは自身のコミュニティやブラック・アメリカに関する言説や意識に注意を向け、そのことが彼女の人間性と音楽性を決定づけた。彼女はヒップホップ、ジャズ、戦争賠償金、アブラハム教の文献、ソウルフード(とコラードの腸に対する働きについて)、著名で収監されていた活動家であるムミア・アブ=ジャマール、四散の概念化、市場に行くこと、夜遅くに電話することについて書いた。彼女の音楽はヘテロセクシュアルの関係や黒人男性に対する尊敬を中心においており、それは内面化されたミソジノワールクィアフェミニスト作家のモヤ・ベイリーが発案した用語で、黒人女性に対するレイシズムミソジニーが結びついたものを指す)であると議論する者もいた。しかしそのイメージやそれらの肯定は、歌唱に評価されているコミュニティや生き方が大事ではないということを意味しないし、「骨の髄まで孤独/昨日の夜には/あなたは私の家、私の身体の中に/私のドームの中にいたというのに」や「これまで自分のプライドを誰かの目を通して定義してきた/でも自分の内側を覗いてみたら、そこには自信満々に闊歩する自分がいた」といった率直な歌詞が若い世代の女性たちに訴えるものがないということでも決して無い。

 2001年の暮れ、スコットは「Words and Sounds」ツアーの模様を収録したダブル・ライヴ・アルバム、『Experience: Jill Scott 826+』をリリースした。比較的お行儀の良い作曲だったデビューアルバムの曲が、ビッグに、広がりを持ち、脱構築を経た楽曲になっている。そこで彼女は自分の声が持つ力やレンジをフルに発揮している。節回しに遊び心を加え、音節を伸ばしたり、スキャットをしたり、インプロをしたり、観客に歌詞を叫ばせたりしている。観客を彼女の内面の声、門にもたれかかり「良い一日を」と言ってくれる地元の人達として捉え、『Experience〜』でスコットは近所の人々の話し声や笑い声を再現している。彼女は観客に語りかけ、彼らはそれに応える。「Gettin' In The Way」のミュージック・ヴィデオについてこういう指摘をしている:「私達はナチュラルさをもった人間を自動的にポジティヴだと決めつけちゃうよね」と。観衆は野次を飛ばし、笑った。Jilly from Phillyは受け入れられた。だって彼女はいつだってリアルさを失わないのだから。