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<Pitchfork Sunday Review和訳>Everything But the Girl: Walking Wounded

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点数:9.0/10

筆者:Ruth Saxelby

ポップとトリップ・ホップの、そして愛と記憶の交差点。1996年発表の傑作。

 Wrong」のMVの中で、銀色の壁に囲まれたホテルの部屋を歩く多くのTracey Thornたちは、大半がうつむいた姿勢である。彼女たちはヘビ革がプリントされたワンピースを纏い、しおれたクイッフ・ヘアは眉毛に届きそうだ。その後ろではこれまた多くのBen WattたちがThornの動きをつぶさに観察している。当時彼女の恋人であった彼は、床にかがんだり、壁にもたれかかったり、キッチンカウンターに座っていたりする。あるショットでは、二人の彼がThornの方にもたれかかり、彼女の優しいラインを口ずさむ。「私は彼がどういう人なのか知りたかった」。その間彼女は床を見つめている。このバンドメイトたちはシースルーであり、さらに言えばお互いにだけではなくサビにおいて周りで踊っているエキストラの群れにとっても幽霊なのである。「どこへ行こうが私はついていく/だって私は間違っているから」。

 我々が愛する人々は等しく肉体、血液、そして記憶でできている。時間とトラウマが人間関係に衝撃を与えたり、自分の感覚を粉々にしてしまう無数の方法。それが『Walking Wounded』というアルバムが歩き回る領域である。1996年5月にリリースされたUKの二人組・Everything But the Girlの8枚目となるこの作品のサウンドは、パズルの欠片を拾い集め、それを復元したようなものだ。その欠片がフィットするのなら、の話だけれど。当時のUKチャートはOasisのラッド・ロックとLighthouse Familyのイージー・リスニング・ヒットによって占領されていた(過去の焼き直しの、二つの大きく異なる例である)。TrickyやMassive Attackといったトリップ・ホップのパイオニアたちが批評家たちのお気に入りだったが、彼らの実験的な初期作はどちらかといえばソウルやヒップ・ホップを指向したものだった。点と点をつなぎ、ポップに新たな息吹を与える機会が長いこと待たれていたのだ。

 愛をその限界まで押し進めることについての曲「Wrong」がハウス的なピアノのリフによって緊張感を高めているのに対し、『Walking Wounded』の真価はダウンテンポドラムン・ベース、トリップ・ホップを利用した部分にこそある。このような当時まだ発展途上にあったジャンルを幅広くポップのフォーマットに落とし込むことは理論上、とんでもない大失敗に終わる可能性があった。しかし、痛むと同時に温かい、力強くはないが豊かである、といったようなThornの声の多重性や、Wattの真に宇宙的な音の構築を乗りこなしてしまうシームレスさには筆舌に尽くしがたい魅力がある。

 フェミニズムや左翼思想に根ざしながら、日常を描くようなThornとWattの曲作りはこれまでの7枚のアルバムで熟成し、『Walking Wounded』では彼らの精神を音楽との会話という形式で手繰り寄せることに成功している。彼らが手足を伸ばし、誰かを愛するということは何を意味するのか、そのつながりを保つのには何が必要なのかをじっくり考える事ができるのは、まさにこのアルバムのスペースの使い方によるものだ。

 アルバムは脆弱だったにもかかわらず、リリース当時『Walking Wounded』につきまとった言説は、このインディー・ポップ・バンドが急にダンスフロア志向になったことに終始した。彼らは以前からジャズ、ボサノヴァ、ソウル、管弦楽などの実験を経てきたが、この若さあふれる新しい方向性は彼らをそれまでにないほどのスターダムへと押し上げた。彼らのサクセスストーリーはよくこのように語られる:『Amplified Heart』(1996)収録の「Missing」をニューヨークのハウス・レジェンドTodd Terryが大胆にリミックスし、それが『Walking Wounded』のクラブ・サウンドにつながったんだ、と。Terryが「Wrong」のような曲の下地を用意したのは確かだが、この手の話にはありがちなように、このストーリーはかなりの部分を省略してしまっている。

 ThornとWattは1981年に大学で出会ってすぐ、互いを音楽の神・ミューズと思うようになった。ThornはKurt Cobainお気に入りポスト・パンク・グループMarine Girlsとして、そしてWattはRobert Wyattとコラボレーションしたソロのフォーク・アーティストとして、二人は同じレーベルと契約していた。ロックが覇権を握る世の中に嫌気がさしていた二人の間で、情熱的で音楽的なパートナーシップが築かれていった。彼らは共に、現状の模倣ではないなにかハイブリッドなサウンドを探求することに関心を持っていた。しかし彼らのレーベルBlanco y Negro―WEA/ワーナー・ミュージックの子会社である―はポップ・ヒットを欲しがり、ミュージシャンたちの自信を貪ってしまうようなある種のプレッシャーをかけていた。ツアー生活にインスパイアされた気だるい『Worldwide』(1991)を含む6枚のアルバムは、どこかノスタルジックな雰囲気があり、ヒットを飛ばした。しかし1992年の夏、Wattは極めて珍しく命の危険がある自己免疫異常、チャーグ・ストラウス症候群であると診断される。彼は腸の8割を取り除き、症状の再発もあり何ヶ月もの間集中治療下に置かれる必要があった。彼の回復は長くゆっくりで、厳しい食事制限も課されたという。

 1993年、Wattは新たな人生になれ始めると、急激にコンピュータシークエンサーに夢中になった。プロデューサーになる旅の始まりである。年の中頃になると、ThornはMassive Attackのセカンド・アルバム『Protection』にゲストボーカルで参加する招待を受けた。そのタイトル・トラックを初めて聴き、彼女は衝撃を隠せなかった。「これほどまでにスロウで空っぽな音楽作品をそれまでに聴いたことがあったかどうか、わからなかった」と彼女は自著『Bedsit Disco Queen』の中で回想する。Wattが健康を取り戻している間、この曲につけた歌がWattへの感情を牽引していた。

 その夏の初め、フェスティバルでFairport Conventionと共演するため、二人はオックスフォードシャーを訪れた。そこで見たのは60年代の英国フォーク・グループが、息が詰まる様なメジャー・レーベルの要求の外部で活動する姿だった。それを見たThornとWattは自分たちのDIYな出自を思い出し、不安を脱ぎ捨てることにした。「昔みたいに、私たちは『そうする必要があるから』作品を作っていた」ちThornは振り返る。

 そうして制作されたアルバム『Amlified Heart』(1994)は、患者と介護者両方の視点から、Wattの臨死体験の苦悩を伝えるものだった(Thornが大半の歌詞を書くことが多かったが、このアルバムでは半々である)。しかしサウンド面では、Fairport Conventionの切ないフォークよりもMassive Attackのような初期トリップ・ホップに接近したものとなった。そこにさらにクラブ風のタッチを加えたのが、カウベルアコースティック・ギターの伴奏が目立つ「Missing」であった。

 それをリードシングルにするにあたっては皆が賛同したが、その曲のポテンシャルにほんとうの意味で気がついたのはアメリカのレーベルだった。アトランティックはTodd Terryにリミックスを依頼し、それは1994年後半に米国でリリースされた12インチに収録されることとなった。それとは逆にWEAはこの英国のバンドはもう終わってしまったと判断し、捨ててしまった。

 「Missing」は一夜にしてヒットになったわけではなかった。その曲がもしかしたら成功するのかもしれないという兆候が見え始めたのは1995年初頭、ThornがMassive Attackと共にニューヨークでプロモーションを行っていた頃になってからだった(「その曲はもうすでにパワフルだった。私はただそこにビートとベースラインを加えただけ。ハウス・ミュージックはラジオ/クラブ両方の感覚を持っているとずっと感じていたんだ」とTerryは述懐する)。Massive AttackのDaddy Gはその曲をクラブで耳にし、Thornに「ダンス・フロア・ヒットのように聞こえた」と報告した。Massive Attackとのインタビューの合間を縫って、彼女はホテルの部屋で「Single」を書いた。それはアルバム制作が本格的に始まる前のことだったが、それが『Walking Dead』のトーンを定めることになった:関係性という文脈において絶対的個人として見られること/自分を見てしまうことという一種の苦しみ。後にThornはミュートされたサックスのような音のシンセと物憂げなトリップ・ホップ・ビートの上でこう歌う。「あなたなしの私って何?/それはより自分に近づいた私?それとも自分らしさを失った私?/若さ、騒々しさが増していく/まるで最初から誰ともつながっていなかったみたいに

 1995年春、ThornはWattとともにニューヨークに戻り、数ヶ月間『Walking Wounded』のアイデアを練った。その旅の道中、彼らはTerryのリミックスがマイアミ、そして全米でヒットとなりクラブやチャートを賑わせていることを知った。全世界で300万枚を売り上げたのだ。

 「Missing」がUKで爆発する数ヶ月前、Wattはロンドンのドラムン・ベース・シーンに身を投じた。そこで彼はFabioやDoc ScottといったDJを見にドラムン・ベースの始祖であるLTJ Bukemの「Speed」に赴いた。そこで彼はBukemがジャズと比較した、とにかく自由な音の流れを体に染み込ませた。彼の熱狂ぶりを見て、Thornもやがて夜のクラブについていくようになった。「ロック・コンサートでもなく、レイヴでもない―全く新しいものに感じられた。風変わりだけどどこか親近感もあって、『あり』だと思えた」と彼女は振り返る。

 これらの新しい出会いが弾けた精神的スペースは、『Walking Wounded』でThornとWattが取った作曲のアプローチの明確さに見て取ることができる。涼しげな「Flipside」(Wattによる歌詞とスコットランドのプロデューサーHowie Bのスクラッチがフィーチャーされている)では、Wattの人生が急激に変化した瞬間が直接的に言及されている。「92年夏、ロンドン/それを境に僕は大きく変わったと思うんだけど、君もそう思う?」次のヴァースでは、彼は海のなすがままに形を変え続ける海岸線に自分をたとえ、自分は「枯れた土地」だと書いている。これはトラウマの過程がその出来事だけではなく自分自身すら形成していくということの、詩的なリマインダーである。

 Thornの口から語られる歌詞は、Wattの臨死体験によって彼らは共によろめき、知っていた事柄に疑問を持つようになったということを強調する。「Flipside」のB面は「Big Deal」というゆっくりなドラムン・ベースナンバーである。Thornによって書かれたこの曲で、彼女はタイトルのフレーズをリアリティ・チェックのために使うという皮肉を見せる。フラストレーションのなか、彼女はWattがクラブに回答を探していることについて歌っているようだ:「あなたは治療をしたいと、考えることをやめたいと言う/痛いと、不安だと/まず自分を疑い、そして彼女を疑い/これはおおごとだ、そう私達は感じた」。誰もがどうにかしてトラウマを乗り越えるものだ、とこの曲はほのめかす。大事なことはお互いにそのためのスペースを確保することだ、と。

 『Walking Wounded』の強みはまさにそこにある。Everything But The Girlのアルバムはどれもスタイルやストーリーがあるが、ThornとWattの個々の才能が最も眩しく輝いているのは、彼らがすべてを脱ぎ捨てているこの作品である。彼らは複雑に絡み合った感情を吐露し、まだ生まれたてのサウンドとの対話を作り出し、これまで最もうちに閉じたやり方で作品作りを行った。そのタイムリーなサウンドと感情的なテーマはティーンエイジャーたちにはもちろん、彼らと同世代の大人たち(筆者含め)にも訴求した(ブリストルドラムン・ベースのドン、Roni Sizeも太鼓判を押している)。この作品はThornとWattにとって最も売れたアルバムであり、全世界での売上は130万枚に及ぶ。U2からもツアーの誘いが来たが、彼らがスペースを必要としたので結局断ることになった。ThornとWattの関係は最初からキャリアと結びついていたが、『Walking Wounded』で表明された独立の叫びを聴く時にあった。ツアーに出る代わりに彼らは家族を持ちはじめ、来るキャリアに向けてまた車輪を回し始めた。