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<Pitchfork Review和訳>Solange: When I Get Home

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pitchfork.com

点数:8.4/10

筆者:Anupa Mistry

Solangeの4枚目のアルバムは落ち着いた、アンビエントで探究心に満ちた作品。スピリチュアル・ジャズからGucci Maneまでありとあらゆるものを使って、そして類まれなる作曲とプロダクションでSolangeは故郷を呼び起こす。

秋発売されたT Magazineのインタビューにおいて、ライターのAyana MathisはSolangeの新アルバム制作を「心の中のヒューストン」への回帰だと形容した。そこはSolangeとその姉の生誕地としてKnowles家の神話が色濃く残る街である。そのインタビューが行われた時はまだ『When I Get Home』という、まさに帰還についてのアルバムであることを示すこのタイトルはわかっていなかった。そして今登場したこのアルバムとそれに付随したショート・フィルムSolangeの心象風景としてのヒューストンを再構築する。

 それは文字通りの意味での過去の客体化でも、ましてや街の未来の記憶でも、精神の儚い網でもない。シーソーのようなベースはウッドパネルのついたキャンディーペイントのスラッブ(訳注:ヒューストンで盛んなクルマ文化のひとつ。こんな感じ)から鳴り響くようだ。シンセサイザーやサンプルはまるでヒューストンのダウンタウンにある空っぽのオフィスビルディングから放たれるようで、空の上へと反響していく。夕闇の中を馬で駆けるブラック・カウボーイは―さしずめドラムビートが刻む蹄の音か。空間の拒絶は宝だ。そしてDevin the DudeやScarfaceといった地元のラッパーの声は、まるで通り過ぎる車から聞こえる話し声だ。

 赤裸々な『A Seat at the Table』のリリースから3年がたち、Solangeは伝統的な曲構造、厭世的な歌詞を投げ捨て、より自由で、ホワイト・ゲイズ(訳注:白人中心的な世界観で世の中を眺めること)にとらわれない、音楽的にもテーマ的にもアンビギュアスなこの作品を作り上げた。『A Seat〜』ではニュー・オリンズがそうだったように、今作でもその中心となっているのはヒューストンという街だが、音楽そのものの化物のような多彩さは、「ホーム」という概念がより開かれていることを示唆している。そこから去っていく人たちに向けて、Solangeはある基本的教訓を授ける:ホームというものはあなたが所有することができるものではなく、あなたなしでも生きながらえるものだ、と。おそらく彼女は我々の記憶は信頼できるものではないということも理解していて、だからこそSlangeは音楽に動きを与えるのだ。思い出の不確かさを増強するような「私は見た…私は想像した/想像した…ものを」というリフレインが繰り返されることによって、我々はこの「心の中のヒューストン」へと滑り込んでいくのである。

 サウンドには動きがありすぎて、捉えるのが難しいほどだ。その曲がりくねったサウンドによってこの音楽が自動的に重要性を増すわけではない:むしろ、ジャズやドローン音楽のように、じっくり聞けば聞くほど感情を煽るのである。『A Seat at the Table』の時のようにSolangeが明白な説明を施していないので、この作品に接近しその意味を発見する責任は聴き手に委ねられる。これはアーティストにとっては開放的な創作の衝動になりうる。特に広く作家主義であると考えられているポップ・スターにとっては。Solangeと共作者たち―言うまでもないが、AbraとCassieを除けばほとんどが男だ―は様々な拍子記号の合間を潜り、縫い進み、前面に出た魔法のようなモーグのキーボートの下にイースターエッグを埋め込み、織り込まれたドラムラインがロー・エンドを飾る。サンプルやバックグラウンド・ヴォーカルも挿入され、ヒューストンの過去/現在/未来を象徴する人達の名がクレジットされている:Phylicia Rashadや詩人Pat Parkerといった人たちからSolangeの息子・Julez Smith II(「Nothing Without Intention」にクレジットがある)まで。

 『When I Get Home』は実験的でありつつ、聴きやすさを保っている。「Down With the Clique」や「Way to the Show」のメロディーは彼女のティーン・ポップ期のファースト・アルバム『Solo Star』の際の残り物をアレンジし直したものでもおかしくないほどだ。輝きの達人、Pharellはいつもの4カウント・イントロを携え「Sound of Rain」で登場する。この曲は90年代初期にあったぼんやりとした未来観が持っていた安っぽい「ピクセル的楽観主義」を完璧に伝えている。彼は「Almeda」でも自身の工具箱からタイトに締められたようなスネアの音とシンコペーションするピアノの音を提供している。これは赤ちゃん声のPlayboi Cartiの思いがけない参加により初期からのファンのお気に入りで、彼は暗闇の中で輝くダイアモンドについてラップし、Solangeは黒人の所有権を高らかに宣言する。我々はいまヒューストンにいるのだから、Solangeが最近ジャマイカで過ごした日々についてほのめかす曲は一曲だけだ。「Binz」は聴けばみな、壁を叩き腰や尻を振るだろう。Dirty Projectorsの「Stillness Is the Move」をカヴァーしたときから彼女の名刺代わりになっている3つに分かれた優美なハーモニーが濃密なアルペジオ・ベースラインの上を上昇していき、SolangeThe-Dreamが楽しげに乾杯を交わし、Sister Nancyの呪文のような歌声が響き渡る:「日没、風鈴/CPタイム(訳注:Colored People Timeの略。アフリカン・アメリカンは時間にルーズだというステレオタイプをもとにした表現)に起きてみたい

 ここでSolangeは音と戯れているのだ。スティーヴィー・ワンダーのような無限の高揚感をもたらす魔法、チョップド・アンド・スクリュードのサイケデリックな悦び、アリス・コルトレーンスピリチュアル・ジャズサン・ラーのアーケストラまで、様々な自由なテンプレートを使って。作品を通じて参加している主な共作者にJohn Carroll Kirbyがいるが、彼のソロ作品はニュー・エイジとしか形容できない。若きニューヨーク・ジャズ・グループ、Standing on the Cornerがドラマと緊張に満ちた崇高な瞬間をもたらしている。Solangeが好む、非言語的で、ポスト・モダンで、ケイト・ブッシュ的な振り付けにうってつけのテンプレートだ。

 『When I Get Home』は『A Seat at the Table』の感情的なカタルシスで浄化されたアンビエント作品として特に美しい。しかしここには明白なテーマめいたものは存在しない。アルバム収録曲19曲のうち14曲が3分以下であるが、このパッチーワークの効果は、例えばTierra Whackによるアイデア先行の簡潔さよりもさらに「意識の流れ」的ブリコラージュを思わせる。彼女は多くのアイデアを持っているが、このアルバムが彼女の美的実践について何を語っているのか、私にはまだわからない(「Nothing Without Intention」はそのタイトルにもかかわらず理解の助けにはならない)。しかしこの方向性を明らかにしたいという欲求は、『A Seat at the Table』があまりにも切迫したものだったからこそ気になるだけである。

 ここで、Solangeはくつろいでいる。このアルバムは聴くにしても、演奏するにしても、繰り返すに値する。繰り返すことは瞑想状態のきっかけにもなるし、決まり事にもなりうる。「想像したものを見た/想像したものを」と彼女は1曲目で歌う。「私達はあなたたちにうんざり/うんざりなのよ」と「Down With the Clique」と続く。そして「Almeda」での単一フレーズの繰り返し―誇りとともに「黒い肌、黒い顔、黒い肌、黒い髪」とリストアップしている―から切り替わる時までには、アルバムは半分終わり、ムード、夢を見ているような状態はここでリセットされる。

 マントラや祈りなど、繰り返すことで意識や存在を誘発したり、過去に呼びかけたり未来を変えたりするといったスピリチュアルな伝統が存在する。デザインの原則では繰り返しは一致や一貫性を伝えるものだと教えられる。SolangeGucci Maneと愛らしいヴァースを掛け合っている「My Skin My Logo」を聴いてみよう。曲自体は子供じみていて可愛らしい。マッチョなラッパーは彼のナーサリー・ライム的なフロウを少し和らげ、本当にナーサリー・ライムのように聞こえるラップをしている。繰り返しによってSolangeはタイムレスで形もない心の中のヒューストンを生き返らせる。彼女はこの繰り返しという装置を広範に、そして半ば強迫的に使用している。まるでアメリカにおける黒人音楽・黒人文化においてより広い文脈でこの慣習を思い出そうと、忘れまいと、位置づけようとしているように。