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<Pitchfork Sunday Review和訳>Tortoise: TNT

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pitchfork.com

演奏とテクノロジーの素晴らしき魔術

 Tortoiseの5人のメンバーがその前に加入していたバンド、そしてその後に加入したバンドをすべて示した図を想像してみよう。その漏斗の上方にはドリーミーなサイケ・ロックからアーシーなポスト・パンクバンドまで、Eleventh Dream DayやBastro、Slint、the Poster Childrenといったグループが含まれる。そして「Tortoise後」の側にはIsotope 217Chicago UndergroundBrokebackといったエレクトロ・ジャズやインスト・ロックバンドがいる。この図において、Tortoiseはギュッと締まっている地点である。このプロジェクトはこれらすべての音の要素を含んでいるが、そのどれにも縛られない音を鳴らしている。

 Tortoiseは自由に動く。まるでコックリさんのように、個々のメンバーはどこに向っていくのか、そして誰がそれを動かしているかはわからない。1998年発表『TNT』は初期の作品では体現しきれていなかったそういった部分を体現しきっている。奇妙なほどに美しく形容しがたいこの作品は、過去の価値観(高度な演奏、計算された作曲)がデジタルな未来と出会った支点であった。

 しかし我々は過去の話から始めるのが良いだろう。つまりリズム隊、2人乗メンバーについて。ドラマーのJohn HerndonとベーシストのDoug McCombsが1990年代はじめに親しくなり、シカゴで演奏をともにするようになったのがそもそもの始まりである。プロデューサーのBrad Woodと共に最初のシングルをレコーディングしようとスタジオに入った際、HerndonとMcCombsは音に肉付けをするために多くの部分をオーバーダブしたのだが、自分たちが思い描いているものを形にするためにはさらに多くのミュジシャンが必要であることに気がついた。テープを知人たちに聞かせていくうちにドラマーのJohn McEntireとベーシストのBundy K. Brownの二人(ルイビルを拠点とするポスト・ハードコアバンドBastroのリズム隊であった)、そしてパーカッショニストDan Bitneyを加えた彼らは、Tortoiseを結成する。

 90年代初頭という時期がTortoiseのようなバンドが出現するのに完璧なタイミングだとしたら、シカゴは完璧な場所と言えるだろう。この街のインディ音楽シーンは全国的な注目を集めるようになっていた。ポスト・Nirvanaオルタナティヴ・ロックの爆発的人気を経て、誰もが「次のシアトル」を探していた。そしてシカゴはその候補地のひとつだった。1993年、ビルボード誌が発表した記事はシカゴを「最前線の新首都」と売り出した。引き合いに出されたのはLiz PhairUrge OverkillSmashing Pumpkinsといったアーティストたちである。しかしプレスの眼差しはMTV向きのオルタナバンドに向いていたため、アンダーグラウンドシーンはスポットライトから遠く離れたところで好き勝手やることができた。そしてシカゴの場合、そういったシーンの土台となっていたのはTouch and Go、Drag City、そして1995年にニューヨークから移転してきたThrill Jockey(設立したのは元Atlanticの名A&R、Bettina Richardsである)といったローカルのレーベルたちである。

 ベーシストのBrownが元・Slintのギタリスト/ベーシストDave Pajoに代わり、Tortoiseは様々な音楽世界を流動的に漂い始める。ロックの楽器を用いた実験的な音楽が出始めると、「ポスト・ロック」という呼称が使われ始めた。この言葉は当初Disco InfernoBark PsychosisといったUKのバンドたちに使われていたが、1995年にThe Wire誌に掲載された記事の中で、批評家Simon Reynoldsはアメリカのこの種の音楽を理解する枠組みを展開した。Reynoldsが指摘するように、アメリカ風のポスト・ロック(記事の中ではTortoiseLabradfordUIStars of the Lidなどが紹介された)はグランジに対する一種のカウンタームーブメントであり、より急進的で越境的なオルタナティヴに対するオルタナティヴだと考えることができた。「グランジは字義通りの意味では『ホコリ』『汚物』『泥』という意味である。そのようなグランジの世俗的な情熱に対抗するためにこれらのバンドがSFや宇宙空間へと想像力を働かせていくのは当然の流れと言える」とReynoldsは書いている。

 グランジやそこから派生した音楽においてはギターが支配的な位置を占めていたが、ポスト・ロックは電子楽器やその他の楽器が入る余地が十分にあった。McEntireがToritoiseのテック・ウィザードだったが、バンドのやり口はデビュー時の重たいビートから当時のエレクトロニカ音楽の潮流に沿うようなものへと変化していった。Virginが1995年にリリースした『Macro Dub Infection』はダークな雰囲気のエレクトロニカが集まったコンピレーションだったが、TortoiseはここにSpring Heel Jack4 HeroTricky、the Mad Professorという面々と並んで参加している。そして翌1996年にはMo' Wax編纂の2枚組トリップ・ホップ・コンピレーション『Headz 2A』に参加、前後の曲はDJ KrushMassive Attackだった。Tortoiseはどちらのコンピレーションにもフィットしていたわけではなかった。彼らの音楽は支離滅裂で、空想によってグルーヴを置いてけぼりにすることもあった。しかしこれらの作品に参加したことで彼らは音楽においてスタジオでの制作が第一であり、パーツを集めて組み立てることに重きを置く考え方を手に入れたのだ。

 リミックスが当時の流行で、Toritoiseはそれを歓迎した。2枚目のアルバム『Millions Now Living Will Never Die』(1996)のオープニングトラック「Djed」は驚くべき20分の旅路だが、その中心にあるのは演奏後のマニピュレーションである。豊かなるグルーヴが生まれ、成長し、そしてエラーにも聞こえるようにデジタル的処理によって途中で崩壊する。その内破が起こる際のまごつくような変化は、次の作品の内容を示唆するものだった。

 『TNT』は「Djed」のアイデアを発展させ、非線形のエディットの創造的可能性を探るものだった。Pro Toolsを用いてハードディスクに録音されるという1996年当時にしては比較的新しいアイデアを用いて制作された(同時期にMcEntireがエンジニアを務めたStereolabの『Dots and Loops』もまたテクノロジーへの新たな試みであった)。『TNT』はコピー、切り取り、ペースト、そしてやり直しが制作を司っていた作品である。個々のパーツはリハーサルで制作されたのちいろいろなコンビネーションで録音され、その後McEntireとバンドによって新たな作品として再形成された。

 録音後の組み立てが『TNT』の美味しい緊張感の一つである。細かな小片を集めて、注意深く計算されて作られた音楽のようには聞こえない。それぞれのパートは機械ではなく人間が演奏しているように感じるだろう。プレイヤーの技術は達人級だが、人間らしく聞こえる。鍵盤を叩く手やドラムキットに座る人間が見えるようだ。ベースは少しヨレて聞こえるし、ギターはベースと会話をしているようだ。

 『TNT』の1曲目は最もライブ演奏のように聞こえる作品だが、これもまたパーツごとに注意深く作られたものだ。最初のシンバルやスネアの音は打ち寄せる満ちていく潮のようで、Tortoiseにしてはジャジーに滑空し着水する。この泡の堆積から抜け出すとJeff Parkerのあの不滅のギターラインが現れる。Parkerはバンドの新顔であり、シカゴの伝説的なコレクティヴAACMにいた経歴を活かし、真剣なジャズの要素を持ち込んだ最初のメンバーだった。彼はそのギターリフ―グループで最も皆に覚えられているであろう瞬間、アルバムのムードだけではなく時代全体の雰囲気すら代弁するようなリフである―を携えてTortoiseに加入した。Parkerの12音のフレーズは質問を投げかけ、もう半分でそれに答えるかのようである。そしてそれは不完全な思考を伝達するので、聞き手が埋めることができる余白を残している。曲のあいだじゅうループされるそのギターのリフレインに後押しされ、「TNT」はホーン、シークエンサー、がっしりとしたベース(とそれにハモるParkerのフレーズ)が混ざり合い展開してく。それがどのように「演奏されているか」ということと同時に、アルバムの「モジュラー構造」―個々のパートが差し込まれ、それが成長しやがて爆発する―も感じることができるだろう。「TNT」は可能性を伝達する―未来について空想するというのはどんな感じなのかという音楽的表現である。もっとも、アルバム自体がすでに時代を先取りしていたのだが。

 この作品の残りの部分はこれほどダイナミックでもオーガニックでもない。そのかわりに『TNT』はジャンルを大股で跨ぎ、その背景に入り込むぞと脅しつつ実際にはそうしないという境界域に落ち着く。これは曖昧な作品だが、実はそれはこの作品の強みの1つである。聞き手には確信のなさをつのらせ、探検の余地を残し、聴くたびに違った作品に聞かせるのである。曲の多くは途切れることなく次の曲へと繋がり、モチーフは一度現れたと思ったらのちに再登場する。他とのつながりの希薄な曲は少なく、あるアイデアが紹介されるとあとから別の角度から再び探求される。まるでこのアルバムが自分との会話をしているようだ。

 「TNT」の最後のシンバルのシューという残響音は、ベースが主役のムーディーな「Swung From the Gutters」へとクロスフェードしていく。この静かな曲はGrateful Deadの『Blues for Allah』の中のインタールードを思わせる。この曲は続く「The Suspension Bridge at Iguazú Falls」につながるシンプルなメロディーに焦点を当てている。このメロディーは後に再び登場し、落ち着いた速さで紐解かれていく。これらのジャンルへのご挨拶は決してストレートには演奏されない。「I Set My Face to the Hillside」は遊ぶ子供の声で幕を開け、続いてナイロン弦のギターの音が入り、Ennio Morriconeサウンドトラックのようにフラメンコの記憶が花開く。このサウンドはすでにTortoiseの定番となっていたが、個々ではもうひとひねり加えられている。「Set My Face」では蹄のポコポコという音に似たドラムが聞こえるが、そこにピアニカで演奏される主旋律が入ってきてAugustus Pablo・ミーツ・アップタウンのThe Venturesのような趣を湛える。

 他の引用はもっとわかりやすい。「Almost Always Is Nearly Enough」ではTortoiseは当時Thrill JockeyからリリースしていたMouse on Marsのようなちょっと変わった騒々しいエレクトロ・ポップを確信犯で模倣している。ご丁寧に飛び跳ねるようなプログラミング・ビートとロボ声までつけて。そのボーカルは「Jetty」まで続き、少し前のめりなビートも相まって通常のダンス・ミュージックへ接近する。「The Equator」はゆったりとしたエレクトロで、不安定なベースラインが楽しげなドローンとスライドギターの下でにじみ渡る。これらすべての曲を定義する言葉は「ほとんど」だ。彼らは他のアーティストの作品にヒントを得てその幅広いスタイルを体現するが、完全に真似しきるということはしないのだ。Tortoiseが本物のダンス・ミュージックを作ることに興味を持ったことはないし、同じく伝統的な手法でインプロヴィゼーションをする気もなかった。彼らの音楽はその2つの裂け目で起こっていることなのだ。

 「最近の数枚のアルバムでは間違いなくトレブルにフォーカスが移っていったんだ」とMcEntireは1998年Billborad誌に語っている。彼が話しているのは『TNT』にも頻繁に登場するマレット楽器、特にマリンバについてである。「Ten-Day Interval」とその仲間「Four-Day Interval」では前作『Millions Now Living』でもちらつかせたSteve Reichの影響をさらに明確に打ち出している。「Ten-Day〜」は比較的濃密で忙しく、「Four-Day」はその前の曲の亡霊のように半分のテンポで進み、2倍になったスペースを使って展開していく。TortoiseがReich的な繰り返しを用いるとポップ的な風味を持ち、長い時間を書けてトランスを作り上げていく代わりに極めて基本的な前提を提示する:ピアノやベース、パーカッションを使ってリズムをひねり、それでおしまい。すべてのかけらが一緒になって機能し、タイトルトラックは抜きにすれば個々の曲に過度の注意を引きつけることはない。

 最初の2枚についてはTortoiseは熱烈な称賛ばかり受けていたが、この『TNT』に対する反応は当初賛否両論だった。その2枚が様々な制限に抵抗して来たのに対し、この作品はそこから少しずれたかのように見えた。様々な伝統をぶっ壊してきた彼らが作ったのは、静かで小奇麗で、ディナーパーティーでかけても大丈夫な作品だった。SPIN誌は『TNT』は確かに良くできているが全く温かみを感じないと評し、The Wire誌は「全く爆発力のない作品で、ただただ困惑させる」と切り捨てた。どちらの批判もフェアではないが、同時にこの作品の特別さを不注意にも言い当ててしまっている―その「どっちつかずさ」を。Jeff Parkerは1998年、CMJに対して「人間っていうのはわかりやすいものを期待してしまう。でも人生はぜんぜんそんなんじゃないし、なんでそんなおがくを作らなくちゃいけないんだ?」と語っている。『TNT』は確信を与えるような作品ではない。それは着地したところで色んな意味を持つ自由な作品であり、表面上は美しいがその深部は解剖ができないアルバムである。この作品を楽しむことは、わからないという不安な気持ちに向き合い、何を感じるべきなのかを教えてくれない音の中でくつろぐことなのだ。

筆者:Mark Richardson

得点:9.0/10