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<Pitchfork Sunday Review和訳>Robert Ashley: Private Parts

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pitchfork.com

ロバート・アシュリーの『Private Parts』には筋書きがあるのだが、皆さんはご存じないことだろう。この1978年発表の作品(後に彼が手がけるテレビ用オペラ『Perfect Lives』の下敷きになる)は二人の男女の心情の機微を詳細に描いたものである。この二人の男女の正体は明かされないどころか、この二人同士がお互いを知っているかどうかも定かではない。40分超の再生時間は言葉たちで埋め尽くされているが、その意味はぐるぐると循環し決して帰結しない。このゆったりとした独白の数々によってアシュリーが探求したのは起こって「いない」ことすべてである。影の中をこっそりと踊り回る、ある倒錯である。我々は登場人物の強迫観念、行動の痙攣、性急的思考の反芻、精神の消耗を知らされるわけだが、それらの物語、内容、意味はまるでよく覚えていない夢のようにとらえどころのないままだ。『Private Parts』はその空虚さの上に成り立っている。その空虚さによってここまでわくわくさせられるというのだから驚くべきことである。

アシュリーで有名なのはその声である。落ち着きも大胆さも自信もあるのだが、もごもごとしゃべる。『Private Parts』はある意味ではその声が世に初めて放たれた作品である。この数年前に彼は『In Sara, Mencken, Christ and Beethoven There Were Men and Women』をリリースしているが、この中で彼のスピーチはぶつ切りにされ、モジュレートされ、ディジーなエフェクト処理がなされていた。しかしこの『Private Parts』では彼は少し怪しげでありながら聴くものを思考へと誘うような宇宙的規模の皮肉家という、後のキャリアで常に反復し続けることになる役割を引き受けた。このときですでに40代後半だったアシュリーは60代、70代になってもミルズ・カレッジの現代音楽センターの監督や、ミシガン州・アナーバーで開かれる「ONCE Festival of New Music」の主催者を務めたり、ソニック・アーツ・ユニオンとしてアルヴィン・ルシェ、デヴィッド・バーマン、ゴードン・ママといった分類不可能な音楽家たちと共演したりと精力的な活動を続けた。しかし、彼の録音物の発表は極めて稀となり、それらの多くは挑戦的で聴く者たちを対立させるようなものだった。1968年のリリース「The Wolfman」は偏頭痛を模したような15分の雑音であり、1972年の「Purposeful Lady Slow Afternoon」は完全ではない相互同意の上でのオーラル・セックスを、そのトラウマを克服した側が淡々と無気力に語るという問題作だった。

しかし『Private Parts』ではアシュリーは自分のほんとうの天職を見つけた。これらの尖った作品達は確かに顕著であったが、テレビ用のオペラに取り掛かったことがきっかけで彼の創造力はいまだかつてない高みへと到達する。『Perfect Lives』だけではなく『Automatic Writing』(1979)、『Atlanta (Acts of God)』(1985)、『Your Money My Life Goodbye』(1998)といったこれに続く作品群の多くはこの『Private Parts』が下敷きになっていると言えるだろう。それは完全に未知の領域であったが、アシュリーは全く新しい形式でそのアイデアに飛び乗った。「テレビ用のフォーマットにしたのは、それが音楽の唯一の可能性だと信じているからだ。我々には伝統なんていうものはない。ただ家にいて、テレビを見るだけだ」と彼はインタビューで発言した。彼の作品はシュールレアリズムの範疇で語られ、誰にも理解されないことも考えられた。しかしどれだけ熱心なオーディエンスでも彼の悩みの種ではなかったようだ。「アメリカのテレビ視聴者はバカだ」彼は不躾にこうコメントした。

このアルバムは2話分の作品を収録している。それぞれ20分少しの長さで、CMによる中断は予期していたと思うのだが、一時停止をするのにちょうどいい場所は一切ない。アシュリーはオペラという概念をリベラルに、もしくは文字通りにとらえていた。もしオペラが芝居じみたセットや高尚なドラマ、屋根に対して放たれるような歌声といったものを必要とするのであれば、彼は近寄らなかっただろう。しかしそれが音楽、キャラクター、スポークンワード、歌、セットデザインを組み合わせてできたメディアだとしたら、他に何になり得よう?

加えて、この音楽を聞けば意味についてとやかくあら捜しをしたくなるというものである。結局彼の気取った話し方が気になって仕方ないのである。アシュリーのオペラは疲れ切って大麻を吸った人間が電話帳を読んでいるかのようだが、それでも魅惑的なのだ。前衛的な作曲家「ブルー」ジーン・ティラニーによる曲がりくねるようなキーボードの音色、クリスの徐々に染み渡ってくるようなタブラに後押しされ、『Private Parts』の反・物語は安定した重力を生み出すのである。小さな断片の集まりがある方向を指し示すように思えるが、アシュリーはそういった線形の道を避け続けるのだ。

A面、「The Park」は男の声で始まる。「彼は自分を真面目な人間だと思っている。モーテルの部屋のパンチは切れてしまった。彼はカバンを開けた。」まるでノワール映画のオープニングのような雰囲気である。そして詳細が続く。「そこには2つあり、そのなかにまた2つ、さらに2つがあった。」ここですでに円環状で駆け足な統語論が我々を躓かせる。物語はほんの少しずつしか前進しないため立ち消えそうになる。おそらくアシュリーは次の不明瞭な台詞でその摩訶不思議な世界に対する慰みを与えようとした。「それは気楽な状況ではない。しかし気ままさのようなものが空気を漂っていた」。

一体何が起こっているんだ?そして次は一体何が?すべてが明らかになるのが近いと感じるかもしれない。ある時突然彼が山積みになったバラバラの思考を統合するのではないかと感じるかもしれない。しかし彼の眠たくて一本調子な喋りを聞いているうちに、そんなことは起こらないのだと確信に至る。後ろではキーボードが目的もなく漂い、タブラがのんびりとぶらついている。すべては沸騰寸前の温度にあるのだが、そこからクライマックスに至るわけでも、そこから冷めていくわけでもない。これは素晴らしく不調なラウンジ・アクトや、DMT愛好家によって作られたエレベーター・ミュージックを聞く感覚に近い。

彼と類似した音楽家やその試みは戦後の現代音楽シーンに散見される。ジョン・ケージの「Lecture on Nothing」のようなテキスト作品は、人が良く、知的ないたずら者という雛形を提示したという点で間違いなく土台となっている。アシュリーの文章の日常会話に寄り添った書き方はスティーヴ・ライヒの初期テープ作品やフィリップ・グラス「Einstein on the Beach」のざわめくようなギリシャ風のコーラスと共鳴する部分がある(トランスへと誘うような音楽的構造を重視している点でも同様である)。しかし彼は彼自身の爽やかな美学を持っていた。彼の奇怪さは先人たちと比べてもあらゆる点で過激であったが、それでも肩の力が抜けているように思えた。

ティラニーとクリスも、伝統的な実験音楽のような仕草を避けるという点ではアシュリーと同じくらい骨を折って作業した(アシュリーは実験音楽という言葉を公然と拒否していたことで有名だ。「作曲は決して実験などではない。典型的な専門職だ」と書いた)。彼の散文詩を不吉な不協和音で覆ってみたり、その散文詩に続いてタイトに作曲された(でも即興演奏に影響された)激しいアクセントのビートやギターを乗せてみたり…といったものを期待するかもしれない。でも代わりに彼らは、努めて牧歌的で調和を保ち続けることによって薄気味悪さを演出する。開けっ放しの蛇口のように彼らは終わりなく音やフレーズを垂れ流す。彼らは開放的な新しい時代の渦を受け入れてはいるが、まだ伴奏部には微量の威嚇が感じられる。彼らが鳴らす音にではなく、彼らの音の鳴らし方にこそ特異な点が感じられるのだ。誰に聞かせるわけでもない単調な音を鳴らし続けるような、イージーリスニングをエミュレートする最初期ののアルゴリズムを想像してみて欲しい。

初めて聴く人間には(5回目の人間にも)目隠しをした状態でA面とB面を聞き分けることは難しいかもしれない。両方とも穏やかなストイシズムを備えていて、決してチャンスを逃すことはない。しかしB面の「The Backyard」はどこかハードに聞こえる。おそらくそれは目録であり、計算であり、査定である。主人公の意識の瞑想をスキャンするところから始まり、アシュリーは彼女が考えないこと、すること / しないこと、そして彼女の心がどのように動き機能しているかを列記する。最も魅惑的な瞬間ができあがるのは「42もしくは40たす20は、常に62もしくは60である」という主張の辺りである。ここでプライスポイントと算数の間に亀裂が生じ、頭から離れなくなってしまう。「14.28ドルのほうが14ドルちょうどよりも魅力的に感じる」という考えがこの瘴気のなかから生じてくるのはなぜか?アシュリーはすぐに答える。「そういうものだ」と。

もしこれら全部が気が違うほどに意味不明だと思うとしたら、意味不明なのだ。しかしこの奇妙さが釣り合うのは直感的な衝撃だけだし、その影響は前衛音楽を追い求めた世代に見つけることができる。ローリー・アンダーソンがポーカーフェイスでアメリカの生活を切除したのもこの影響だろうし、スロッビング・グリッスルが同年に発表した「Hamburger Lady」なんかもそっくりに思える。ノー・ウェイヴのシーン全体(『Private Parts』から遅れること1〜2年で誕生した)がハイアートの真面目さとロウブラウ的なニセモノ感という似たような衝突を楽しんだ。一方でブライアン・イーノもデイヴィッド・バーンと共にTalking Heads『Remain In Light』(1980)や二人の共作『My Life in the Bush of Ghosts』(1981)においてシュールで甘ったるいアメリカ人という似たような地域に足を踏み入れることになる。

とても賢いリスナーだけが知り得るような「なるほど!」というような仕掛けがあるかどうか、それはわからない。より巨大な作品である「Perfect Lives」についての精読や徹底的な分析も、それがいかに理解不能であるかということを明らかにするだけである。権威のあるような読みや理解は構造や物語の理解を助けるかもしれないが、『Private Parts』が属している物語は蜃気楼のように遠くにあるものであり、アシュリー曰くそれは断片でしかなく「いくつかは意味をなすが、そうじゃないものある」んだそうだ。受け手にほぼ何も明らかにすることなく、解剖するものは多く与えるというのは少しかっこいいし、自由に見える。アシュリーは自分で現代の生活を「微妙な差異(ニュアンス)の濃霧のようなものであり、それがあまりにも濃いために主たる形式は失われている」と形容した。それは正しいように思える。

しかし別の名言もある。オペラの起源についての話の中で、同世代の作曲家アルヴィン・ルシェはアシュリーとオハイオを車で横切った夜のことを書いている。彼の回想はこの作品に込められている夢のような無限性を示唆しているようでもある。「バーで座り、互いにものすごく真剣に話し合っている男女のカップルたちがいた。私はそこにいる人たちは誰も結婚していないと思った。というのも彼らはとてもおもしろい会話をしていたからだ。そして帰りにその同じ酒場に戻ると、光景が全く同じだった。ここにはこのような人生があって、続いていっているんだ。それが永遠に感じたんだ」

得点:8.8

筆者:Daniel Martin-McCormick