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<Pitchfork Sunday Review和訳>Alice Coltrane: Journey in Satchidananda

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pitchfork.com

時代を超越しハーモニーと悲しみに満ちた、スピリチュアル・ジャズの驚異

アリス・コルトレーンの娘、シータ・ミシェルはかつて、登校前にベッドに横になってたいたある朝を思い出してこう語った。彼女は美しいハープの音色で目が覚めてこう思ったのだ。「もし天国というのがこういうものなら、機会が来たらいつでもそれを歓迎したい」と。ジョン・コルトレーンがそのハープを注文したのだが、それが届く前に亡くなってしまったのだ。ジョンの死後数年の間にアリスのバンドリーダーとしてのキャリアが始まり、彼女の練習はその輝かしく新しい楽器を中心として行われていたことを考えると、彼女がジョンと共有していた音楽的遺産を受け継いでいくことを決定づけた贈り物としてこのハープを見るのは魅力的である。

 でもアリスはオルフェウスではなかったし、ジョンもアポロではなかった(訳者注:オルフェウスギリシア神話に登場する竪琴を弾く吟遊詩人であり。アポローン神がその父であり、彼に竪琴の技を伝授したとされる)。そのハープ自体によって彼女のキャリアが始まったとするのは彼女の才能の強烈さを否定するものであり、妻のレガシーはその夫のものに付属するのだという間違った考え方である。もちろん二人の互いへの影響は緊密ではあったが、彼らの作品は別のものであり、この素晴らしくエモーショナルな『Journey in Satchidananda』の中でアリス・コルトレーンのハープの物語の中心にある結び目が解け始めるのである。

 アリス・マクラウドとして1937年の夏にデトロイトにて生まれた彼女は最初から才能にあふれていて、地元のバプティスト教会でピアノやオルガンを弾いていた。彼女が生み出す音楽はとても美しく宇宙的であったので、アリス・コルトレーンは厳格な音楽教育を受けていないと思われがちである。しかし彼女は十代の頃デトロイトでクラシカルピアノのコンサートを開いている。60年代に彼女はパリに移り、バド・パウエルというメンターのもとでジャズを始める。次の年には彼女はパリのブルーノートで幕間にピアノを弾くまでに至る。

 アリス・コルトレーンが結婚した一人目の男は、ある意味では二人目の夫と出会うきっかけを与えたと言える。彼女は1960年にケニー”パンチョ”・ハグッドというジャズ・ヴォーカリストと結婚したが、一人目の子供を身ごもってすぐ彼のヘロイン中毒により二人の関係は悪化し、アリスはアメリカへと戻る。娘シータ・ミシェルの手を取り、その後アリスはデトロイトへ戻りプロのミュージシャンとしてのキャリアを本格化させる。デトロイトを回るうちに彼女はテリー・ギッブスのカルテットにピアノとして加入する。彼女は引っ張りだこの即興演奏家となり、バンドリーダーが提示したリズムすら超越してしまう様なトランス状態での演奏で有名となった。1962年、ギッブスのバンドでニューヨーク公演を行っている間、彼女はジャズクラブ・Metropoleでジョンと出会う。翌年には彼女はジョンと結婚することを告げギッブスのバンドを突然脱退。ジョンとアリスは三人の子供をもうけた。

 ジョンは肝臓がんで1967年に他界。彼女は茫然自失となった。もしくは「茫然自失」より強い言葉があればなんでもよい。彼女はよく眠れず、幻覚を見た。そして痩せ細った。悲しみの淵にあって、アリスはスワミ・チダナンダという男の元を訪ねた。彼はウッドストックで観客に演説を行った導師であり、彼女はその弟子となった。彼の助言や精神的導きが彼女の精神を安らがせた。

 アリスはこの時期になるとかなり深く精神の問題と関わりを持つようになっていた。彼女が作る曲は世界中のあらゆる音楽的伝統へとサイケデリックな方向に継投していったが、デトロイト時代のビバップ的な環境の味付けは残ったままだった。彼女は1970年、自身の精神的助言者スワミの名前をとった作品『Journey in Satchidananda』を録音する。彼女の初期作品はすべて、エジプトやインド(後者に彼女は70年代に何度か訪れている)の神話や宗教を探求するものだった。しかし彼女が60年代に経験した大きな変態―一人の人間として、そしてアーティストとして―へのトリビュートとして作られたのがこの『Journey in Satchidananda』である。

 透明感あふれるハープの音によってすぐさま明らかとなるのは、このアルバムが巧みなオーケストレーションについての作品であると同時に、魂=ソウルについての作品であるということだ。手がかりはタイトルにもある。これは「旅」なのだ。アリスは多くの文化や多様な楽器を用いてジャズの作曲において未踏の領域に連れて行ってくれるが、同時に移りゆく感情も我々に見せてくれる。彼女は1つのキーにとどまるのを嫌がるため、アルバムのテーマを反復するメロディの形として扱うのではなく、『Journey〜』の真の手触りは移行 / 過程 / フロウによって決定される。ここには始まりも終わりも存在しない。代わりに、1曲目の最初の部分で実演されるようにアリスは繰り返しと超越の原理を使うのだ。

 『Journey〜』を聴く際、我々は地面に横たわり目を閉じるべきである。なぜなら、それがアリスがライナーノーツで要求している一種の視覚化を行うにあたってベストなコンディションだからである。「この作品集を聴く者は誰であれ自分がチダナンダの愛の海に浮かんでいるところを想像しようとしなければなりません。その海はこれまでいくつもの帰依者の運命の移り変わりや人生の嵐のような荒波を文字通り乗り越えさせてきたのです」

 だから私は自分の部屋の床に身を投げ出した。すると自分が下の地面と上の宇宙の間の暗渠になった気分がしたのだった。アルバムはタンブーラによる3音のドローンで幕を開け、タイトル曲が始まる。その3音はぐるぐると繰り返し、私をその中にとどめておく。やがて柔らかく手応えのあるベースラインがその下で広がっていく。そしてアリスが入ってくる。タンブーラ(ネックの長い弦ドローン楽器で、弱々しい音が特徴である)で演奏される主題の中で彼女のハープはまるで妖精、あるいは長い幽閉から開放された子供のように聞こえる。まるで誰にも見られていないように気ままに上向きにそして下向きに踊る。目を閉じて聴けば、それはまるで水中に差し込む一筋の光である。

 伝説のフリー・ジャズのパイオニアファラオ・サンダースが加わわれば、彼のサックスのメロディはどこへだって行ける。セシル・マクビーのベースは安定感が抜群だからだ(この時すでに彼はマイルズ・デイヴィス、ユセフ・ラティーフ、フレディ・ハバードなどと演奏した経験を持っていた)。この曲そして続く4曲において、音の不調和は留まる場所ではなく訪れる場所である。すべての主旋律は探求であるが、アリスのオーケストレーションは我々に安定した、そしてくり返しやってくる帰還地点を提供してくれる。そのドローン / ベースによるテクスチャーはマクビーと「トゥルシ」とだけクレジットされているタンブーラ奏者によってもたらされるのだが、その一方でサンダースのサックスやヴィシュヌ・ウッドのウードがアリスのハープに加わってきらめくような自由律のダンスを行う。

 オーケストレーションは広大で深遠であり、間違いなくアリスの南アジアの伝統への興味が反映されている。『Jouney〜』で行われているコード進行はこれ以上ないほどに単調だ。しかしジョンのようにアリスはモード的スタイルを用いてルート音周辺の適当なコードを選び、機能的なハーモニーは切り捨てている。アルバムの和音はインド音階や他の非=全音階の体系を参考にしているが、大体はオープニングの3音ドローンのように主題からは逸脱している。アルバムの中を楽器から楽器へ、ある曲から別の曲へ、メロディはさまよい歩く。それは繰り返され、変化し、戯れる。

 2曲目「Shiva Loka」ではアリスのハープはより強力となり、人格を持って実存を獲得する。曲のタイトルは破壊の女神からとられている。1曲めから続く3音の循環はいまや確固たる土台となり、その残響は厚みを増し生き生きとする。鐘は速さを増し音楽の表面にばらまかれる。拍も厚みを増し、ビートから離れやがて本当のリズムとなる。地面に横たわったまま踊るのは難しいが、「Shiva Loka」はそれを可能にする。

 そのグルーヴは「Stopover Bombay」でも続けられ、列車が線路の上で揺れ始める。静かになるのは「Shomething about John Coltrane」においてだけである。アリスはピアノへとスイッチし、それは雨のように滴っていく。空間をクールな不規則さでかたどっていく。サンダースのサックスが叫び始める時、それが笑っているのか泣いているのかはわからない。強烈な感情によって生命を吹き込まれた曲であり、それは我々をいかなる方向にも連れて行く。終わりに差し掛かると、私は嵐から無傷で生還したような気分になった。タンブーラのサイクルが最初からずっと私を守ってきたかのようだ。

 最後の曲、ライブ録音された「Isis and Osiris」において、我々はようやくアリスの悲しみと向き合うことになる。11分間にわたって、ヴィシュヌ・ウッドは我々に短調に囚われたウードのメロディを献身的に届けてくれる。ウードの音色は鋭いが反響する。彼はすすり泣き、震え、作品の悲哀を決定づける。やがてすべてが静かになり、旅は終わる。

 床から立ち上がるのに長い時間を要したが、その間私はアリスの精神が未だに悲しみに触れられているように感じた。それは音にするよりも言葉にするほうが難しいのだが、作品の中に溢れんばかりに感情がまぜこぜになっている中に、痛みを聴くことができる。ジョンなくして旅はない。スワミなくしてチダナンダはない。悲しみなくしてスワミはないのだ。音楽と人生、夫と妻を分ける二分法の代わりに、この作品はアリス・コルトレーンの人生のすべての要素は無限の神の流れの中で彼女のために存在したのだということを明らかにしてくれる。ジョンの名は彼女に影を落とすかもしれないが、アリス・コルトレーンはそれから逃れようとはしないのだ。

 やっと私が目を開けると、部屋の中に陽の光が満ちていた。アルバムの中心で滝のように流れるハープのように、その日光は死を超えて存在するのは芸術だけだと私に言っているようだった。光がなければ影は存在しない。互いが互いを定義しているのだ。アリス・コルトレーンは『Journey in Satchidananda』を様々な感情、様々な人生、様々な伝統がないまぜになったとらえどころのない流れの真っただ中で作り上げた。アリスの音楽はそれ自体が旅であり目的地でもある、とこの作品は物語る。

点数:10/10

筆者:Josephine Livingstone