<Pitchfork Sunday Review和訳>Tracy Chapman: Tracy Chapman
社会の周縁の言葉たちとともに登場したフォークの傑作
Tracy Chapmanに注目が集まったのは、アカペラで歌われる「Behind the Wall」がきっかけだった。隣の部屋から聞こえる女性の叫び声を聞く隣人の視点から歌われるこの歌のなかで、彼女の声は震える低音からウィスパー声までをすばやく往来する。ヴァースとヴァースの間では、再びダークなシーンに立ち戻る前に空気を沈黙に落ち着かせる。「警察はいつも遅れてやってくる / やってくるのなら、の話だけど」という最後のラインのあと、曲は電話が切られたように唐突に終わる。Chapmanがこの曲を書いたのは1983年、彼女がまだタフツ大学の学生で、ボストンの通行人相手に路上ライブをしていた頃だ。それから5年後、彼女はこの曲をネルソン・マンデラの生誕70周年慈善コンサートが開かれた満員のウェンブリー・スタジアムで、6億人がテレビ中継で見守る中披露することになる。
ギターを手に一人でその巨大なステージに立った彼女は、声を響かせるマイクと熱狂する観衆と共にその曲の静けさを増幅させることに成功した。彼女が持ち前の人を引きつけるような落ち着きを持って歌うと、そこには聴衆たちの子供時代のベッドルームのような雰囲気が立ち現れた。「Behind the Wall」は3曲からなるセットの2曲目に披露された。しかし、皆の知るところだが、とある偶然によって世界はこの堂々としたアーティストを予定よりも少し長く見ることになった。Stevie Wonderが演奏するはずだった直前、彼の機材が不具合を起こし彼はステージに上ることを拒否した。Chapmanはその代役を請け負うことになった。「Fast Car」が演奏されたのはその時だった。
その2ヶ月前にかなり控えめな売上予想と共にElektraからリリースされていたこのセルフタイトルデビュー作の中で、「Fast Car」は「Behind the Wall」の重さと釣り合いを取るような曲である。低い声で歌われるヴァースは現実のわびしい認識をなけなしの希望とごちゃ混ぜにしたのち、物思いに耽る様な、楽しげなコーラスへと盛り上がりを見せる。それはきっとあなたがまだ若く、恐れを知らない時代へと連れて行ってくれる。ウェンブリーでの彼女のパフォーマンスを見に集まった人々の多くは彼女の持つ力を知らなかったし、おそらく名前すら聞いたことがなかっただろう。しかし彼らは人々の心臓を喉元まで挙げてしまうほどの彼女の能力をリアルタイムで経験したのだ。彼女のパフォーマンスは長年路上でやっていたのと同じものだった。ひとりきりで、鮮やかなほど自己をさらけ出した姿で。
Chapmanはデビューに際し、労働者階級としてこう提起した:我々は世界が最悪のやり方で我々の未来を投げ捨ててしまった、と。しかしこのアルバムは、いかなる力もそのカウンターなしでは存在しない世界を提示している。我々が耐え抜いてきた最悪の状況は、逆に正義というものを不可避なものとする。それは誰しもが共感できる世界の見方だ。ネルソン・マンデラのトリビュートから数ヶ月がたった1988年の夏の終わりまでには、この『Tracy Chapman』はプラチナ・アルバムとなり、彼女はスターとなった。
彼女が名声を獲得したのはウェンブリーでのパフォーマンスのおかげだとする向きもある。しかし一方で、当時の人工的で過剰に精緻なポップ・ミュージックの現状に対する不満が彼女の人気に関係しているのではという推測をする者もいる。しかし、シンセがきらびやかに鳴っていた80年代後半にこのフォーク〜ブルース・サウンドのシンガーソングライターのアルバムがヒットしたとはいえ、Chapmanが世界的人気を博したのは社会の周縁の視点を具現化したからである。彼女の予想以上の成功以上に批評家たちが苦心したのは、このファゴットのような温かな声を持ち、質素な服を着た、両性具有的な黒人女性がどのようにしてフォークの傑作を作り上げたのかということを紐解くことだった。
Chapmanは実生活では目立つのが苦手で、だから彼女は曲の中ではキャラクターを介して歌を歌う。インタビューが嫌いで、ステージ上で冗談を言うこともなく、「プロテスト・シンガー」と呼ばれることに嫌悪感を隠さなかった。よく比較の対象としてあげられるJoni MitchellやJoan Baezの音楽とは違い、Chapmanの音楽は自分の中の何かを打ち明けるものではなく、彼女を取り巻く環境の描写だった。それによって彼女は赤裸々でありながらも凶暴なほどに楽観的な世界の見方を身につけたのだ。
1964年生まれのChapmanは、経済的・社会的抑圧が目に見える形で決壊していく時期のクリーヴランドで育った。学校は人種統合に苦しみ、地域住民の人口統計が移り変わり、白人が郊外に流れ込み、残されたアフリカ系アメリカ人の住人は住宅差別と労働機会の欠乏に直面していた。放火魔と空き家の建物を売り払いたい地主たちによって街は頻繁に火事に見舞われ、暴動やストライキが近隣住民や学区を機能させなかった。Chapmanが12回目の誕生日を迎える頃には、クリーヴランドは「爆弾の街」と呼ばれるようになった。理由は簡単で、街では実際に多くの爆発が起こっていたからだ。
このように濁った街の中で、母・HazelはChapmanとその姉を女手ひとつで育て上げた。ラジオのトップ40やHazelのジャズ、ゴスペル、ソウルのコレクション(Mahalia Jackson、Curtis Mayfield、Sly Stoneなど)を家族は共に歌った。一方で、番組「Hee Haw」に出演していたBuck OwensやMinnie Pearlといった人たちが、幼きChapmanにカントリー・ミュージックのスタイルを授けた。8歳になる頃にはウクレレを弾きはじめ曲を作り始めたという。ギターを11歳のときに始め、14歳のとき彼女は自分の街の苦しみを歌にした。彼女はその曲を「Cleveland 78」と名付けた。
Chapmanは10代のうちにクリーヴランドを離れ、コネティカット州の英国国教会派の全寮制の学校に入学するのだが、それでも彼女のデビュー作は労働階級、そのなかでもやはり黒人の視点が歌われている。モタったギターとダルシマーに乗せられて歌う「Across the Lines」では、彼女は人種統合が進まない街で決死の暴動が始まるところを描写している。白人男性が黒人女性を襲い、被害者側に非があると判決が下る。そのニュースが火をつける。「つく側を選べ / 命がけで走れ / 今夜暴動が始まる / アメリカの裏路地で / 彼らはアメリカの夢を殺すのだ」Chapmanは落ち着き払った声で歌う。「私は一人では死なない / すべて手配しておくの / 私と私のもっているものすべてが入るほどの / 深くて幅広い墓穴を」柔らかなマリンバと激しいドラムのビートに乗せて歌は続く。
しかし、彼女の歌詞の中にはそのような暴力や絶望の描写と等しく、ラディカルで当時としては夢物語であったような来るべき公平な世界への韻律が込められている。「なぜ?」と世界にはびこる不平等に基本的な問いを投げかける。「なぜ女性は安全ではないの / 自分の家にいるときでさえ」。そして現代社会が行ってきた破壊行為に対して「誰かが答えなければいけない」と繰り返し訴える。1曲めの「Talkin' Bout A Revolution」はChapmanの政治的信条が一番良くわかる曲である。それは熱烈に輝いた目で「貧しき人々は立ち上がれ / 彼らの分け前を奪うのだ」と訴えるシンプルなフォーク・ポップのアンセムである。この明るい未来への厚かましいほどの信仰は踏みにじられてきた人々にとって、諦めないための励みとなった。社会の薄暗い裏側を見てきた人々にだけ、それが贖わなければならないものだということがわかる。彼女がこの曲を書いたのは16歳のときだった。
アルバムに通底する社会的正義の夢は、Tracy Chapmanを同時期のトップセラーと相殺した。しかし、「For You」の最後で響き渡る言葉たちによって、愛が生き残るための動機として現れる。彼女が声を吹き込んできた人物たちが究極的に求めていたのは愛だったのだ。「Fast Car」の中で”checkout girl”の恋人の性別が明かされないように(ダウンビートで謎めくほどに必死な「For My Lover」の中で唯一性別が明らかにされているのは「愛に深く溺れている / どんな男でも揺さぶれないくらいに」という部分である)、彼女の注意深い言葉遣いのおかげで、聞き手はクィア的な願望のことであると容易に理解できる。彼女はすべてのリスナーが自分の主観を共有できるようなラブソングを書いたにもかかわらず、自らのセクシャリティや恋愛については秘密を貫いたことで有名である。
リリース後、批評家たちはこのアルバムの政治的焦点を褒めちぎり、ポピュラー音楽が心の芸術性を取り戻したと祭り上げた。しかし『Tracy Chapman』は富と強欲を賛美する当時のトップ40の針路を買えることはなかった。むしろ、このアルバムはそのようなポピュラーとは離れたところで、これらに対する反抗として作られたのだ。彼女は業界の外で注目されるほどのイノベーションの例となるような業界の変化の使者ではなかった。当時のポップ・ミュージックの中では、Chapmanがどの様なアーティストであるかを分類する類型は存在しなかった。彼女がスポットライトから後ずさったように、彼女の作品や彼女自身の文脈を理解するのに必要だった厳しい環境も表舞台から姿を消したのだった。
このアルバムはBaezやDylanといった白人アーティストの血を引いていることを提示しているが、同時にOdettaのスピリチュアルなフォークのスタイル、Bessie Smithのようなブルースシンガーの影響も見せている。しかし、一度彼女が有名になると、批評家たちはこぞって彼女の音楽、彼女の聴衆、そして彼女自身の相対的な<黒さ>を議論した。1989年、Public EnemyのChuck Dは彼女の聴衆の<白さ>に関してそのような批評家たちがもっていた感情を次のように要約した。「黒人はTracy Chapmanを理解できないさ。それで頭を35000回殴ったとしてもさ」。彼女の音楽やアイデンティティに見られるニュアンスの希薄さが、いかに彼女の芸術性がメインストリームの外に根付いているのか、そして黒人のアーティストやその聴衆について理解しているメインストリームの小売店がいかに少ないのかを浮き彫りにした。この作品がビルボードチャートにしぶとくチャートインしたのにもかかわらず、だ。
Ani DiFranco、Melissa Etheridge、Liz Phair、Fiona Appleといった社会派シンガーソングライターが彼女のあとに続いたが、アコースティックギターを持った黒人女性であるLauryn Hillが世界中の(ときに必要のない)注目を集めたのはそれから更に数年がたったあとだった。誰が世代を代表する声となるのかという期待、ポピュラー音楽界において女性が進出し自らの道を切り開く入り口というものをChapmanは示した。Chapmanが自身の多様な音楽的影響を通じて革新的な作品にたどり着いたことによって、彼女と彼女のデビューアルバムは黒人女性アーティストが立ち入ることのできる領域の豊かさを示す根拠たり得ている。
当時、ウェンブリーのステージ上の彼女の映像は自分への注目を最小限にとどめようとしていたアーティストの姿を暴いた。彼女はうつむき、ここではないどこかを見つめているようだった。彼女のギターストラップはシャツと同化し、そのシャツはステージと同化していた。しかし凍えるような沈黙の間を天にものぼるような美しきメロディのリボンで編んでいくような彼女のセットを見れば、それは「見るな」という方が無理な話だった。
得点:9.4/10
筆者:Ann-Derrick Gaillot
せっかくこんなブログを立ち上げたのに、年内にPitchforkが有料化されるという報道が。どうしようか。やり方を考えなければならぬ。