海外音楽評論・論文紹介

音楽に関するレビューや学術論文の和訳、紹介をするブログです。

Pitchforkが選ぶテン年代ベスト・ソング200 Part 1: 200位〜196位

まえがき

2010年代、技術の進歩によって音楽の制作、流通、聴取が歴史上のどの時期よりも容易となった。アーティストとプロデューサーはクラウドを通じてコラボレートし、エモ・トラップ、EDM・バラード、インディー・R&B、ベッドルーム・ポップなどとまるで薬の調合のようにスタイルを掛け合わせていった。流通の方法は幾千通りもあり、楽曲が産み落とされたミリ秒後にはその楽曲を聞くことができるようになった。アーティストはこれまでにないハイペースで音楽をリリースするようになった。これら全てが結びついた結果は、幸せと不幸を両方もたらした。史上最も優れた音楽がたくさん出てきた一方で、それら全てについていくのはほとんど不可能になった。しかし、ここPitchforkで我々はそれにトライし続けた。以下が我々のここ10年間のベスト・ソング・トップ200である。

200. Avicii: ”Levels” (2011)

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この曲でサンプリングされている、Etta Jamesの「Oh, sometimes I get a good feeling (時々、いい気持ちになるんだ)」という比較的控えめな主張でさえ、ぱっとしない景気に見捨てられてしまったミレニアル世代にとっては夢のように思えるのである。2011年において、「good feeling」は珍しく、そして高価だった。しかし、このEDMの眩しく輝くフックを通じて我々はそれを無料で一つ、手に入れることができるのだった。どでかいシンセとジェット気流ばりの”whooshes”を持つこの”Levels”という楽曲は、その可能性に賭け、世界を席巻してしまったのだ。 

今になってもこのスケール感には圧倒させられるが、そこには不吉な音が透けて聞こえる。2018年に28歳という若さで自らの命を絶ったTim Bergling。そのステージ・ネームは、仏教において死んだ罪人たちが生き返る地獄のような場所、Aviciからとられたものだった。この曲からはなにか「罰」のようなものが感じとれる。それはまさにミュージック・ビデオの中で男性が丸い石を押して山を登るのと同じように、いつかどこかにたどり着くのだろうと登って登って登り続けているが、それは実は神のいたずらでありそこは実は平らな辺獄だった、という幻想である。2010年代初頭のエレクトロニック・ポップ・ミュージックー”Harlem Shake”から”Turn Down for What”までーはどんよりした部屋でつまらなそうな仕事をしている人々が制御不能で発作的なダンス(これは楽しさの発散であり悪魔祓いでもある)を突然踊りだすというイメージによって区切ることができる。この曲はなんとかして「good feeling」をゲットしたい、現実なんかくそくらえだ、というこの世代が鳴らした音なのだ。–Emily Yoshida

199. Stormzy: “Big for Your Boots” (2017)

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近所のサウス・ロンドンの路上で、ハード・エッジなグライムのビートの上でノンストップでスピットするDIYのフリースタイル動画をアップロードしていたStormzyは、今や世界的に有名なMCになった。彼の折衷的なデビュー・アルバム『Gang Signs & Prayer』の中のキラーチューンであるこの曲が、彼がDizzee RascalやWileyといったグライム・レジェンドの次の座に就くにふさわしいことを証明する凄まじいラップとあからさまなカリスマ性にあふれていることは、その出自を考えると理にかなっている。この楽曲でStormzyは彼の敵やラップ・ライヴァルたちにディスの集中砲火を与える。「お前はうぬぼれてやがる/お前が俺に敵うことは到底ない」というコーラスの中で、彼は最後の音節を狂気的な喜びの感情ととともに強調している。彼の身長が6.5フィートで、12サイズの靴を履いているという事実を考えると、ヘイターたちは彼の警告を黙って聞き入れるのが賢明と言えよう。–Michelle Kim

198. dvsn: “The Line” (2016)

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これは厳密には神についての曲ではないが、シンガーDaniel DaleyとプロデューサーNineteen85のデュオ、dvsnによるこのデビュー・シングルは、一種のゴスペルである。あなたが恋に落ちることを宗教的経験だと信じているのなら。Chance the Rapperの『Coloring Book』やKanye Westの”Ultralight Beam”によってメインストリームのヒップホップがゴスペルを取り戻す前年にリリースされたこの曲で、Daleyは曲の骨格をメリスマで満たし、瞬間を永遠に引き伸ばしていく。その魅惑的な繰り返しの感覚には説教師のそれが感じられる。この圧巻のスロウ・ジャムの中盤でコーラス隊が歌い出す頃には、dvsnのロマンティックな贖罪は達成されている。–Rich Juzwiak 

197. Icona Pop: “I Love It” [ft. Charli XCX] (2012)

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躁的であり、無感情でもある。この曲は破局直後の快楽主義を完璧に描いたものである。ドロップは文字通り下がり続けていく。当時新進気鋭だったCharli XCXによって書かれたこの曲は、Patrik Berger(Robynの「Dancing on My Own」も手掛けている)というプロデューサーによってスウェーデンの二人組、Icona Popへと届けられた。しかしこの二人組は復讐の要素を加えることで彼らのエレクトロポップのカタルシスに一捻りを加えている。Icona Popが推奨するようにベースをうんと上げてこの曲を聞けば、傷心の気分など消え去ってしまうだろう。–Olivia Horn 

196. John Maus: “Believer” (2011)

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10年代初期の多くの同世代のLo-Fiアーティストたちと同じように、アメリカ中西部生まれの隠遁家John Mausは、過去に向き直ることでアンダーグラウンドな音楽を前進させた。デジタル・スタジオ技術を拒否し、古いドラム・マシンやヨレヨレのシンセサイザーを好み、80年代スタジアム・ポップや懐かしいラジオ・ジングルの過剰なまでのドラマティックさを掘り起こす。まるで、そこにこそこの世代が持つ名状しがたい潜在意識への鍵があるとでもいうように。しかし、そのようなソースとの実際の関係を読み解くのは難しい。Mausuはここで、コマーシャルの途中で泣いてしまったり、はかない快楽を与えてくれたり、世界が実際の姿より良く見えたりする錯覚を与えてくれたりするような感情的な反応を作り出す音楽の力を茶化しているのだろうか?2011年の作品『We Must Be the Pitiless Censors of Ourselves』の最後に、完璧なラスト・チューンとしてキュレーションされたこの曲は、まばゆいハープシコードアルペジオ、快活に脈を刻むベース、そしてボーダーレスな愛に対する気取った暗喩と共に、Mausが真の"believer”に最も近づいた瞬間を切り取る。–Emilie Friedlander

 

Part 2: 195位〜191位

<Pitchfork Sunday Review和訳>Sigur Rós: Ágætis byrjun

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Sigur Rós: Ágætis byrjun Album Review | Pitchfork

点数:9.4/10
評者:Jayson Greene

枚目となるアルバム『Ágætis byrjun』でSigur Rósがわかっていたことは、自分たちはよりビッグなものを作りたいということだけだった。彼らのファースト『Von』(1997)はダークで、そして―彼らが有名になった基準からすると―いい意味で甲高い声だった。その当時、彼らはSmashing PumpkinsMy Bloody Valentineといった、不協和音から癒やしの手触りを発生させるようなバンドたちの勢いにインスパイアを受けていた。『Von』はアイスランドで300枚売れた。しかしこの散々なセールスは若きヨンシー・ビルギッソンの自信をへこませることはなかった。彼は『Ágætis』のリリース前にバンドのウェブサイトにこのような宣言を投稿した:「僕たちは音楽を永遠に変えてしまうつもりだ。みんなの音楽に対する考え方も」。

 2019年の今になっても、彼がこのミッションをどの程度成功させたのかということを考えるのは難しい。今私達が小さく柔らかでのどかな世界の中に生きていて、「Lush Lofi」「Ambient Chill」「Ethereal Vibes」といった刈り込まれた庭園の中で暮らしているのならば、私達はこうした状況の責任の少なくとも一部分を『Ágætis byrjun』が与えた衝撃に問うことができるだろう。これは我々の見る景色を一変させたアルバムである―日産のCM「プラネット・アース」のドキュメンタリー、そしてSigur Rósから許諾が得られなかったために彼らの音楽のレプリカを制作した広告の数々に至るまで、我々の生活の大部分はこの作品のような音で溢れている。

 『Ágætis』以前、ポスト・ロックはニッチな関心事だった。StereolabBark Psyhosisなどのロンドン勢、TortoiseGastr del Solといったシカゴ勢、モントリオールGodspeed You! Black Emperorといった1ダースほどの英国/北米のバンドたちを中心とした小さなサブ・サブ・ジャンルの一つだった。『Ágætis』以後、そのサウンド―巨大で、押し寄せるような勝利の音、メランコリックでなだめるようで大抵の場合メジャー・キーであり、ストリングスやホーンに囲まれ、メロドラマで満ちていて、聴き手を向こう側へ誘うようなサウンド―は世界的な現象になっている。彼らはRadioheadの始祖である:彼らが「Letterman」への出演を断ったのは司会者が十分な演奏時間を来れなかったからだ。彼らは「シンプソンズ」にも出演した。キャリア20年を数える彼らは、今やアリーナをツアーで回り、巨大なフォロワーたちを指揮している。彼らは文化的組織である。

 『Ágætis byrjun』がその後の大きな流れの変化のきっかけとなったのか、あるいはそのような変化はすでに起こりつつあり、その変化は自身を乗せて然るべき方向に向かわせる船を探していたのか、知ることは難しい。今日、Sigur Rósのキャリアは自然で理想的な弾道を描いているように思える。重要人物たちの耳に音楽を届け(Sigur Rósの場合、ブラッド・ピットグウィネス・パルトローといったセレブリティたちである)、そこからその音楽が大規模でいささか実験的な商業映画に使われ(トム・クルーズキャメロン・クロウの『バニラ・スカイ』)、勤勉な音楽監督の仕事を通じて世界中のいくつものテレビジョンに流れていく。しかしそれがSigur Rósに起こった時、それらはすべて新しいもので、音楽業界にも同時に同じことが起こっていたのだ。

 アルバムを制作するために、彼らはキャータン・スヴィーンソンという名のキーボーディストを雇った。彼はバンドが興味を持っている事柄についてバンドよりもよく知っていた。アレンジ、作曲、洞窟内のスパのように響く曲たちについて。プロデューサーにはケン・トーマスを迎えた。彼はQueenのアシスタントとして仕事を始めた後、Throbbing GristleEinstürzende Neubautenといった初期のインダストリアル・バンドたちを手がけた。彼はビョークが在籍していたSugarcubesのミックスも担当しており、その縁でSigur Rósとも仕事をすることになったのだ。

 そのトーマスと作り上げたこの作品は、まるで教会の鐘の中にハマっているような感覚を与える。この巨大なサウンドはサイズからではなく、スケールからやってくるものだ。「Svefn-g-englar」で8部音符を刻む小さいシンバルの音やビルギッソンのファルセットのような静かなノイズと、同曲の開始6分頃に聴こえてくるトールのハンマーのようなドラムやオルガンの音のようなラウドなノイズの間の距離は少なくとも1マイルはあるように感じられる。それは長く液状のサウンドであり、尖った場所がない。最も巨大でダイナミックな変化でさえ丸みを帯びたエッジを持っている。ドラムがとんでもないリヴァーヴの中にあるため、聴こえてくるのは衝撃の前にスネアの打面の周りに集まっていた空気の音だけである。ビルギッソンはチェロの弓を使ってエレキ・ギターを弾き、ピックに邪魔されることなくフィードバックのサウンドを鳴り響かせることができた。それは雷のようでありながら夢ここちであり、慰められるようで感動的である。マレット打楽器、ピアノ、ストリングス、甲高く甘美なヴォーカルが積み重なかった巨大でつややかなウェディング・ケーキである。これは聴き手を圧倒させるために設計された音楽であり、実際我々を圧倒する。英国のある批評家はこの音楽を「神が天国で黄金の涙を流しているようだ」とあえぎながら形容した。これほどのスケールを持った音楽が格式の高い人間と親和性を持ったことはなかったのだ。

 このアルバムは何よりもアレンジメントとエンジニアリングの面では大勝利を収めている。「Starálfur」でピアノが入ってくるところ(映画『ライフ・アクアティック』でジャガーザメを見つける場面で流れる部分と同じ)を聴くと、私は今でも感嘆の微笑みをこらえきれない。CGIのスーパーヒーロたちが攻めてくるところだったりとか、(私が思うに)高性能な車を目一杯ふかしてスピードメーターが上昇していくのを見ているような感覚である。音というよりは特別な効果を持ったもので、ドーパミンの洪水を起こすように脳とコミュニケートするのだ。

 気取った音楽を疑わしげに嗅ぎ回し、それが駄作かどうか確かめようとする人なら、そのような匂いがプンプンすることを誇りに思っているSigur Rósからほうほうの体で逃げ出したことだろう。これは彼らの別の面での魅力であり強みである。彼らの音楽は確かに複雑な手触りをしているが、感情面のフレームワークは意図的にシンプルで明快なのである。彼らは感情を発射することに見事なほどに恐れがない。ホーンとクワイアで倍増された、「Olsen Olsen」を締めくくるパイプのメロディはMannheim Steamrollerのクリスマス・アルバムから飛び出してきたかのようだ。

 ライヴでも、彼らは明瞭さを犠牲にすることなくこのような共同体的な感情を保つことができる。このライヴ録音は豪勢すぎるほどの20周年リイシューで聴くことができる。このギグは1999年6月12日、Reykjavík’s Íslenska Óperanで行われたアルバムリリース記念の模様である。リリースされたばかりだというのに、今現在と同じ程に堂々とした演奏を聞かせている。このボックスセットには他にも大量のデモ音源や半分完成した状態の『Ágætis byrjun』が含まれていて、ヴォーカルが入っていたり入っていなかったり、テンポが異なったりというような多数のヴァージョン違いを含む、彼らのオープンな制作のメソッドを覗き見るいい機会になっている。このような生の素材を聴くことはグーグル・ドキュメントの「ヴァージョン履歴」の機能を使うような気分になる。最終的なプロダクトが作られた過程を知ると共に、エディットの過程をより深く理解することになるだろう。

 再リリースを解剖しているうちに、私は再びそのアルバム自体に引き込まれた。苦労も、文脈を追加することもなく引き込まれたのだ。このアルバムの魅力は、それが純粋なまま、神秘的に空から降ってきたということにあるのだ。あなたがアイスランド人でもない限り、彼らが何を言っているのかはわからない―アイスランド人でもわからないことが多い。『Ágætis byrjun』の中で、ビルギッソンが道楽半分でホープランド語という言語を作り出したことは有名だ。「Olsen Olsen」の一部のほか、全体を通じて振りかけられている。このことはリスナーの一部に「彼が何を言っているのか」を突き止めるよう働きかけたが、大抵の人たちにとって、それは聴こえたままの音でしか無い。彼の言葉たちはメッセージではなく、鳥の鳴き声である。ビルギッソンが歌ってきた中で最も忘れられない単語は「tju」であり、意味不明な音節である。しかし「Svefn-g-nglar」の中で歌われるそれは当時も、そしてこれからも「It's you」と聴こえ続けることだろう。その他に解剖したり熟考したりするような意味はその中にはない―ただの素敵な音なのだ。我々はその中に自分自身を聴くのである。

<Pitchfork Sunday Review和訳>Neutral Milk Hotel: On Avery Island

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Neutral Milk Hotel: On Avery Island Album Review | Pitchfork

点数:8.8/10
評者:Sasha Geffen

しばしば見落とされがちな、インディー・ロック・アイコンのデビュー作。ジェフ・マンガムの気まぐれな世界をより親密に感じられる一作である。

0年代中盤、ジェフ・マンガムはデンヴァーにある呪われた部屋に引っ越した。そこで彼は夢を見た。毛皮のコートを来た女性たちがシャンパンを飲みながら彼に怒鳴りつける。「この家から出て行け」と。雪の多いコロラドの冬の間じゅう、このルイジアナ出身のソングライターと、その子供時代からの友人、ロバート・シュナイダーはNeutral Milk Hotelのデビュー・アルバムとなる作品の録音に着手していた。彼らは作業に没頭した。行き詰まっては共にタバコを吸いに外に出たりなどしながら。そして1995年の5月に彼らは作品を完成させた。ノース・カロライナのインディー・レーベル、Mergeがこの若いバンドを見つけ出し、翌年の3月にこの『On Avery Island』はひっそりとリリースされた。

 当時において、Netural Milk Hotelはにわかに勃興したサイケデリック・インディー・ポップ界の波に乗った一介のプレイヤーであると見なされていた。ヴァージニアのソングライター、マーク・リンカスがSparklehorseとしてのデビュー・アルバムを1995年8月にリリースし、オクラホマ・シティのThe Flaming Lipsは同年のその後あのカルト作『Clouds Taste Metallic』をリリースした。Beckのジャンル横断的ブレイク作『Odelay』とSuper Furry Animalsのデビュー作『Fuzzy Logic』は共に1996年中頃に発表され、Grandaddyが最初のアルバムを1997年にリリース。レコード産業は最良の時にあり、メジャー・レーベルでさえ、カレッジ・ラジオで強力プッシュされていたR.E.M.なんかを聴いているうちにたどり着いた1972年のサイケ・ロックのコンピレーション『Nuggets』からヒントを得た、みたいなとっちらかってガタガタのロックバンドとあえて契約するような機運があった。へんてこなことをするには良い時代だったのだ。

 The Flaming LipsBeckとは異なり、Neutral Milk Hotelはメインストリームで成功することを目標とはしていなかった。彼らはElephant 6 Collectiveの一員であることで満足であった。Elephant 6 Collectiveとは、デンヴァーで始まりやがてアセンズやジョージアに広がっていったサイケデリック・ミュージシャンのコレクティヴであり、それぞれのバンドの中でミュージック・ソーやアコーディオンといった変な楽器を演奏していた。Neutral Milk Hotelの他には、Apples in StereoThe Olivia Tremor ControlElf Powerといった面々が参加していた。彼らはいくつかの初期作を発表したが、やがて大抵のグループはより大きく、資金が潤沢なレーベルと契約していった。カレッジ・ラジオ・ルネサンス期において、Elephant 6は多彩なニッチ・ミュージックを大勢から切り出す役割を果たしていた。

 『On Avery Island』はいくつかの音楽誌から好意的なレヴューを寄せられ、リリース後にマンガムはバンドを集め着実にツアー活動を開始した。1998年2月、Mergeからセカンド・アルバム『In The Aeroplane Over The Sea』がリリースされ、7000枚ほどのセールスを期待していた。当初はそれなりに売れ、音楽誌からも絶大なとは言わないものの温かな反応があった。マンガムはツアーを続け、バンドの評判も上がっていった:NMHのギグで歌詞を一語一句、フロントマンよりも大きな声で歌ってくれるようなファンも現れ始めた。音楽雑誌からインタヴューのオファーも来はじめたが、マンガムは自分自身について説明することが好きではないことに気がついた。1998年の終わりには、Neutral Milk HotelR.E.M.のオープニングを務める機会を断っている。自身のプロジェクトが予想以上に成功したことに戸惑ったマンガムは、音楽活動から身を引き、数年間をパニック状態で過ごした。Neutral Milk Hotelは出現とほぼ同時に姿を消したのである。そして音楽オタクたちはインターネット上でmp3ファイルをシェアする方法を見出した。

 ゼロ年代初頭、世界からの逃避として変わった音楽に逃げ込んだ人々にとって『Aeroplane』は大切なトーテム像になった。アンネ・フランクのの生と死になんとなく基づいた包括的でシュールなコンセプトアルバムであり、祝祭的なシンガロングと性的で黙示的な歌詞は、NMHが現役だった頃にはまだ幼かった若い人々を惹きつけた。バンドが休止状態にあること、マンガムが人目を避けていることがこの作品の神秘性を増した。たった数年前の作品だが、掘り起こされ情報通の間でひっそりとシェアされているように感じられたのだ。

 『Aeroplane』はオフビートな作品かもしれない―かさばったタイトル、射精と共産主義についての楽曲、マンガムの耳をつんざくような声―しかしその楽曲は高価な結婚式で演奏してもいいくらいにシンプルで音楽的である。2005年にはティーン向けドラマ「The O.C.」で表題曲のカヴァーが使用され、一般人に関わってほしくない独占欲の強いファンからは不満が上がった。しかし噂は広まり、『Aeroplane』はなにかセンセーションのようなものとなり、絶滅したバンドの生きている作品となった。

 NMH狂信者の中にはこの『On Avery Island』はマンガムによる2つの公式作品よりもいいと主張するものもいる。確かにあまり知られていないし、「You've Passed」や「Gardenhead / Leave Me Alone」のようにNMHの中でも最良の部類に入る曲だってある。ファンのコミュニティの中では『On Avery Island』は『Aeroplane』のポップな魅力と、ファイル共有ソフトで簡単に手に入る海賊版コンサート・テープのコレクションの間にある絞り弁として機能した。マンガムの作品の中には骨董品も存在した―何分間にも渡る理解不能の叫び声、耳をえぐるようなノイズ、マグナムが獣姦のロールプレイをセックス・ホットラインで要求する老人に扮したいたずら電話など―そしてその中には、初期のデモやライヴ録音でしか保存されていない、最も感動的で崇高な彼の楽曲も存在した。『On Avery Island』はこれらのふたつの世界をまたぐ橋である。稀代のソングライターが変化し、友人のための安物のカセットを作るところから、夜遅くに盗んだmp3を聴いている、数え切れないほどの孤独なティーンに語りかけるアート・ロックを作るところに移っていく様をこの作品では垣間見ることができる。

 『Aeroplane』で蒔かれた種は『On Avery Island』全編に渡ってばらまかれているといえる。マンガムはすでに歌詞における総体と超越性のバランスを取っている:「A Baby for Pree」では、自分の寝室を埋め尽くすほどの子供を出産する妊婦を想像している。乱暴で重鈍な1曲目「Song Against Sex」では、語り手は世界の終わりにあって男の子にキスをする。嫌いなポルノに悪態をつきながら、やらないドラッグの話をしながら、やがて自分に火をつける。

 『Aeroplane』喉の曲よりも骨に迫った楽曲もある。「You've Passed」は病院で死んだばかりの女性の魂が昇っていく様子を描いているし、「Three Peaches」では自殺を試みた友達に向けてマンガムが歌う、悲嘆ともお祝いとも言えぬ不思議な感情を発している。NMHの楽曲の中でも最も聴くのが苦しい楽曲の一つである。マンガムは横隔膜の一番底から声を発しており、まるで地殻の下から肥やしを引き上げるように「ぼくは幸せだ」という言葉を引き出している。それは悲しみとともに落ちていくようにも聴こえる。

 生き生きとした「Naomi」や「Leave Me Alone」のようなラブソングもあり、長く混沌としたインストゥルメンタル楽曲もある。息遣いのようなドローン音が響く「Marching Theme」と、14分にも渡るクローザーである「Pree Sisters Swallowing A Donkey's Eye」である。このアルバムは親しみやすさと不可解さの間を乱暴に行き来する。まるでVelvet Undergroundのベスト・コレクションをルー・リード『Metal Machine Music』の金切り声ノイズ・シンフォニーとまぜこぜにしてシャッフル再生するようなものである。完璧なポップ・メロディーとノイズのとらえどころのない球体の間を急激に変化していくことが、このアルバムにある種の野火のような魅力を与えている。『Aeroplane』よりも上辺の飾りは少なく、その生々しい顔面がそれを書いた男の精神を覗き見ることをいささか容易にしているのだ。

 『Aeroplane』の主題に対する野望のようなものは、消して一人では成し遂げられないほどに途方のないものだった:それは死、喪失、そして悪にまつわるアルバムであり、我々人間がこれまでずっとお互いにひどいことをし続けてきているのにもかかわらず自分の中に全なるものを探し求めるということについてアルバムだった。『On Avery Island』ではその視野は狭められている。マンガムは彼自身、そして彼が知っている人物について歌っている。山の頂上や海の代わりに、楽曲には寝室や公園が登場する。彼の作ったキャラクターはタバコを吸い、自分たちに性欲があることを憎んでいる。彼らはティーンエイジャーのように別れ、ナンパされ、胸を焦がす。彼らは人の家の床で眠り、外の道に落ちる雨の音を聴いている。

 マンガムは平凡な心象をシュールレアリストの空想に捻じ曲げてしまう。LSDでのトリップ中に叔母の家にあるセラミック製のケルビム像を思い浮かべるように、天使や後光に対する奇妙な言及を散りばめる。これらの途切れ途切れの歌詞をつなぎとめるのはホーンであり、オルガンであり、ファズ・ベースであり、これらはすべて苔のようにディストーションを発生させている。『Aeroplane』があなたを時間や場所から払い落とし、第二次世界大戦期と現在をロケットのように行き来させる作品だとしたら、『On Avery Island』はあなたを今・ここに根付かせるものである。それが奇妙に思えたとしても。

 解散後の人気の中で、Neutral Milk Hotelは先人たちの特殊性には到底たどり着けないであろう、ゼロ年代の多くのバンドにとっての篝火となった。Arcade Fire、Clap Your Hands Say Yeah、Wolf Parade、Beirutなどが、乱暴なボーカルと古風なインストゥルメンテーションという、マンガムの切り開いた土地から登場した。しかしその中の最も冒険的なソングライターでさえ、マンガムが世界を見ようとした方法には接近しなかった。彼の最初のリリースの際、彼は自分自身をすべてを最大ボリュームで経験するアーティストであり、自身の人生のゴタゴタの間を駆け抜けていくことしかできないアーティストとして自身を確立したのだ。

 デンバーでのある夏の夜、私は映画を見た帰りに自転車に乗っていると、川沿いの小路に色とりどりのイルミネーションの祝祭が近づいてきた。川の一方の岸に古いアミューズメント・パークがあり、その向かいにはスカイラインを作っている建物があった。25号線を運転していると急に現れるこの光景は、木製のローラー・コースターと飛行機が絡み合ってコロラドの空に擦り付けられている。それは特に夜においては、闇の中にネオンを染み出していて、場違いに見える。「Gardenhead」の中で、マンガムは海に突っ込んでいくローラー・コースターについて歌っている。さらにファンのお気に入りの1996年のB面曲には「Ferris Wheel on Fire」というものもある。『On Avery Island』は都市に産み落とされたテーマパークである。それは空想を日々の中に吹き込み、マンネリから解き放たれて、これから何が起こるかわからない、魅惑の未知の世界に陥るという奇妙な感覚を呼び起こすのだ。

<Pitchfork Sunday Review和訳>AC/DC: Back in Black

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AC/DC: Back in Black Album Review | Pitchfork

点数:8.8/10
評者:Steve Kandell

悲劇から立ち直り、史上最大のアルバムの一つに数えられる作品を作り上げたバンドによる、クラシック・ロックの重要作品

くのバンドにとっては、人気絶頂の時にあってリード・シンガーが突然でおぞましい死を遂げることは、キャリアにおいて致命的であろう。AC/DCはものの数週間でバンドを再編成し、史上最大のアルバムの一つに数えられる作品を録音したのである。

 『Back in Black』はジョックスにも、ストーナーにも、ナードにも、非行少年にも、そして教師にも同等に敬意を払われている。ナッシュヴィルのスタジオでは音響効果をテストするためにこの作品が使われる。タイトル・トラックはこれまでに発明された最も素晴らしい基本的なリフを誇る―完璧な形であり、ロック・ジャムの極致であり、未来永劫、ティーンたちがギター屋でファズ・ペダルの試奏をする際にかき鳴らされる運命にある。必ずしもAC/DCのキャリア最高傑作ではないかもしれない―彼らのキャリアが、50年にわたってずっと続いている、一つの、長くラウドで、継続的なミッド・テンポのギター・リフとしてではなく、アルバムという単位で測ることができるのならの話ではあるが。しかしこれは彼らの「最も」なアルバムである―最も親しみやすく、最も成功した、最も永続的な、最も象徴的な、そしてその起源を考えると、最も思いがけないアルバムなのである。

 1979年、AC/DCCheap TrickやUFOといったバンドのアリーナ・ツアーの前座を務め、単なるオーストラリアの労働階級出身のハード・ロック・バンドから、真のヘッドライナーへと飛躍を遂げた。彼らが5年の間に出した7枚目のアルバム、『Highway to Hell』は米国でプラチナムとなった。来る10年のロック・ラジオのサウンドを決定づけた「何でも入れちゃえ」の美学をもつ、プロデューサーのロバート・ジョン・”マット”・ラングによるところが大きい(それまでのAC/DCの作品はオーストラリアの伝説的ソングライティング・デュオ、ハリー・ヴァンダとジョージ・ヤングによってプロデュースされていた。ちなみに後者はAC/DCのギタリスト、マルコム&アンガス・ヤングの兄でもある)。このアルバムの成功は彼らの「好色だが無害な人間のクズ」というイメージを固め、激しさを求めている一般人をもひきつけるほど音楽的であり、、メタルへの忠誠を保つ程度にヘヴィでもあるという情欲的ななアンセムを完成させた。アンガスはバンドのマスコットでありながら音楽的な面のディレクターでもあった。学生服を着飾った動き続ける永久機関であったが、究極的には実際のティーンエイジャーよりも品行方正であった。

 必ずしもバンドの中心人物ではなかったものの、リード・シンガーは33歳のパーティー好きで、スコットランド出身の、信じられないような声を持つ発電機のようなボン・スコットという男で、「わんぱくな」というタンゴは彼のために発明されたようなものだった。彼は1980年の凍えるような2月の晩、パーティを後にした後車の助手席で一人で亡くなった。自分の吐瀉物による窒息だった。当局はそれを「事故死」だと認定した。ヤング兄弟が静養中にしたことといえば、彼らが唯一できること、それだけだった―すなわち、大量のギター・リフを書くことだった。そして彼らはほとんどすぐさまに、スコットの代役を務める人間を探すために旅立った。

 候補者の中にはジミー・バーンズやジョン・スワンといったオーストラリアのロック界の大黒柱たちや、60年代にジョージ・ヤングとヴァンダのバンド、The Easybeatsに在籍していたスティーヴ・ライトといった面々もいた。イギリスのグラム・ロック・バンド、Geordieのリード・シンガーで、誰もかなわないほどの(あるいはボン・スコット以外ではかなわないほどの)発情期の猫のような声域を持ったブライアン・ジョンソンという男を推薦したのはマット・ラングであった。

 ジョンソンは当時32歳で、イングランド北部のニューキャッスルに両親と一緒に暮らしており、バンドからの電話があったときはクラシックカーのビニール・ルーフを修理する自分のショップを経営していた。「リハーサル・ルームにAC/DCの面々が座っていて、とても退屈そうにしていた。彼らは何ヶ月もの間、シンガーのオーディションをしていた」とジョンソンは2009年の回顧録Rockers and Rollers』に書いている。「私が部屋に入り自己紹介をすると、マルコムは『ああ、君がニューキャッスルの奴か』と言い、すぐに私にニューキャッスル・ブラウン・エールの瓶をくれた。彼は『で、何を歌いたいんだ』と聞いてきたので、私はティナ・ターナーの『Nutbush City Limits』をリクエストした」。翌日の午後に、ジョンソンは戻ってくるように電話で言われ、そういうことになった。AC/DCは再びラングと共にバハマで8枚目のアルバムをレコーディングするために引き払い、7週間後に作業を終えた。7月までにはアルバムは発売されたが、それは『Highway to Hell』からほぼ1年後、そしてスコットの死からおよそ5ヶ月後のことだった。これはポップ史の中で最もアクロバティックなキャリア途中でのメンバー変更になった。

 スコットがいる状態で草案が作られた曲もあったが、ジョンソンには自由に歌詞を書く権利が与えられた。それでもこのバンドが示してきたロックすること/ロールすることの公式からは何一つ失われることはなかった。彼らが初めて共に作った曲は彼ら最大のヒットとなったのだ。「You Shook Me All Night Long」はスコット時代のAC/DCが達成できなかったトップ40ヒットとなった。『Back in Black』は大まかに言えば『Highway to Hell』の路線の延長線上であったが、「You Shook Me All Night Long」は大衆に迎合したとまでは言わないものの、一つの異常値ではあった。純粋なメロディアスなシンガロング曲で、情熱的な性行為を車や食事、そしてボクシングの試合に例えた3分半の曲としてはおそらく最良の曲である。このシングルの成功はビギナーズラック、もしくは作曲におけるひらめき、そしてあるいは死者の存在によって後押しされたものかもしれない。

 「部屋に座ってこの曲を書いていたんだ。白紙の紙にこのタイトルだけ書いて、『さて、どうしようか?』と考えていた」とジョンソンは2000年に語っている。「皆が信じようが信じまいがどうでもいいが、何かが私の体の中を通り抜けて、『大丈夫だ、息子よ。きっと大丈夫』みたいな調子で落ち着かせてくれたんだ。私はそれがボンだったと信じたいが、私はひねくれているし皆がそれではしゃぐのも嫌だから信じることが出来ないんだ」

 でもそれが、前もって引かれていたAC/DCの輪郭線からジョンソンがはみ出して塗れる精一杯の部分だった。彼はこのバンドを新しい方向に引っ張っていったり、自分の好みに合わせてバンドを曲げるということをしなかった。この変化のシームレスさは人的資源とブランディングの勝利であった。AC/DCというアイデアは一つの曲やアルバムに勝るが、『Back in Black』はそのアイデアが最もピュアな形式と最もワイドな足がかりを得た上での産物だった。「AC/DC」と聞けば我々は何よりも先にあのロゴを思い浮かべるし、ジョンソンが恐ろしさや強欲さを一切見せずに受け入れられ浸透したことが何よりの証明である。彼が被っているどこにでもあるようなツイードの鳥打帽はすぐにアンガスの学生服のようなバンドのアイコンになった。彼の声はスコットの持つニュアンスや特徴をいささか欠いていたが、1980年当時に『Back in Black』を聴いてシンガーが交代したことに気づきさえしなかった人たちが何人いたのか、それを知るすべはない。その人数がゼロでないことだけは確かだ。

 『Back in Black』はスコットの死を無視しているわけではないが、かと言って感傷的だったり教訓めいていたりするわけでもない。「冒険(=adventure)」を抜きにして「事故死(=death by misadventure)」を語ることは出来まい。「Hells Bells」は彼らがツアーに持っていくために特注した1トンの鉄のベルを撞く音でアルバムの幕を開けるが、喪に服すのはここまでである。ジョンソンは吠える。「お前は若いだけが取り柄、でも死ぬことになる」と。それは和やかにサタンを元気づけ、運命の誘惑に屈することなく、良い時の名のもとに、地獄から逃げるのではなく地獄をたたえるために、警告するよりもむしろ許可するように。

 5曲後の「Back In Black」も同じく反逆的である。「霊柩車のことは忘れろ、なぜなら俺は死なないから」―これは遺族もまたファックしたいのだという暗黙の了解を超えた、死ぬという運命についての議論にケリをつけるものだ。「Have a Drink on Me」完全に酔いつぶれることを歌ったゴキゲンな賛歌である。前任のシンガーが酔っ払って死亡したバンドにしては奇妙な選択かもしれないが、『Back in Black』は過去を精算するための作品ではなく、自分たちを最確認するための作品だったのだ。

 救いなのはAC/DCがほとんど常に、意図的に可笑しく振る舞っていることだ。「Givin' the Dog a Bone」は性的なダブル・ミーニングには半ミーニング足りないが、バックグラウンドボーカルが重ねられたビッグでファットなコーラスのおかげで笑える。AC/DCはそういった不条理を歓迎しているように見えた:北米ツアーの初っ端のエドモントンでの公演で販売するために送られてきたTシャツには「BACK AND BLACK」とミスプリントされていた。彼らはバカとクレバーさの間の線の上を歩いているのではない。彼らがその線を引くのである。

 一年後、「Hell's Bells」の1トンの鐘は「For Those About to Rock (We Salute You)」の機関砲に置きかえられ、巨大な鉄の重いアンティークによるトーテム信仰は続けられることになった。ラングと3度めの、そして最後となる制作を行った彼らは『For Those About to Rock』をチャートの1位に送り込んだ。これは『Back in Black』で達成できなかった快挙である。米国ではリリースされていなかった1976年作『Dirty Deeds Done Dirt Cheap』が、『Back in Black』の成功を受けてようやくリリースされ、新規ファンを少し混乱させることと引き換えにボン・スコットに正式な追悼を贈ることが出来た。もう少しで忘れ去られるところだったバンドが、今や40根に上にわたって続く一貫性と長生きの模範となった。

 悪いAC/DCの曲なんて言うものは存在しない。一つのAC/DCの曲が好きじゃないということは、そもそもどのAC/DCの曲も好きじゃないということであり、それはそれで良い。しかし狙ったことに失敗していることは一つもないし、そもそもその狙いというのはどの曲もだいたい同じなのだ。他の曲よりも少し馬鹿げたフレーズもあれば、他の曲よりも彼らのポイントをくっきりと刻み込んでいるリフもある。「It's a Long Way to the Top」のバグパイプを計算に入れなければこのバンドに実験的なフェイズは一切ないが、それすら完璧に機能しているのだから実験的とは言えまい。バラードも、変化球も、シンフォニーも、DJリミックスも、シンセやピアノも、アコースティックセッションも、可愛らしいカヴァーも、「ビッグ・ヘア」なサウンドもない。彼らの最大のヒットには「お前は『来て』というが俺はもう来ちまったんだ」という歌詞があるが、ゴーストとの共作かもしれない。彼らはRamonesのチョップド・アンド・スクリュードバージョンであり、永遠に学生服を身にまとった化石なのである。

 1000万枚以上を売り上げていると、『Back in Black』のようなレガシーを見落としがちである。このアルバムは別に何かの変化や文化的な重要地点を示しているわけではない。しかし代わりに停滞すること、何かを上手にやり遂げること、そしてそれをもう一度、さらにお金をかけてさらにラウドにやることのちからを証明している。ある意味では、『Back in Black』の成功は現在のリブート・ブームを予見していたともいえる:人々には求めるものを供給するべきだ、量を増やして。この作品のレガシーは他のアーティストに与えた影響や商業ロック・ラジオの主産物ではなく、進化というのは過大評価された性質であるということを確かめたという点にある。そして、AC/DCはこの最も有名な作品の最後で明らかにされる以下の単純なアイデアの最良の伝達者であったし、そうあり続けてきたのだ:「ロックンロールは謎解きなんかじゃない」。

<Pitchfork Sunday Review和訳>Roky Erickson: Never Say Goodbye

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Roky Erickson: Never Say Goodbye Album Review | Pitchfork

点数:9.0/10
評者:Rebecca Bengal

ロッキー・エリクソンによるローファイ・アコースティック録音。正真正銘、卓越したソングライティングを捉えた珍しい作品

13th Floor Elevatorsは自分たちの音楽を、何かを癒やす力として見ていた。もしあなたが相当な量のLSDを摂取していなくても―このテキサス出身の先駆者がよくやっていたことだが―彼らの幻惑的なロックンロールと、ロッキー・エリクソンの見事な演奏は共謀して聴き手をより高い場所に連れて行ってくれる。ある種のスピリチュアリティが彼らの音楽には存在した―逃避主義でありながら、コミューン的な。「僕たちは最初のサイケデリック・バンドとして知られている。君が望めば物を見せてあげられるし、レイドバックしてディランがやってみせたみたいに物を描くこともできる、そんな音楽を演奏できるようになった最初の存在として」と1975年にエリクソンは語っている。「僕たちには多くの人々をくつろがせてしまった責任がある」。これらは彼の人生で最も意識がはっきりした状態で行われたインタヴューの一つ、テキサス東部にあるラスク触法精神障害者病院(今のラスク州立病院)から退院したあと最初に行われたインタヴューの中で発言されたものである。

 1969年、バンドの簡潔でありながら記念碑的なツアーも終盤に差し掛かった頃、エリクソンはオースティンのボンネル山の頂上で、マリファナ所持の重罪によって逮捕された。テキサスの厳しい法の定める10年の懲役を避けるため、エリクソンは自分が狂っていると虚偽の申告をした。彼は3年の間施設に入れられることになった。「正義の中に不正義があった」とエリクソンはラスク病院での経験を語る。「一日が終わる頃には、何年か分の考え事をし終えているんだ。100万年の間に考えられることはすべて考えてしまうんだ」。

 Elevators期に、エリクソンはLSDをやることは芸術であり、自分をポジティヴィティで包み込むための方法だと信じていた。ラスクで彼はネガティヴの世界にはめ込まれ、電気ショック治療法や重い鎮静剤を処方された。同じ施設には有罪判決を受けた殺人犯もいた。彼はそのうちの何人かとThe Missing Linksというバンドを始め、自分が置かれた日常的な悪夢のような状況を乗り越えようとした。2005年のドキュメンタリー『You're Gonna Miss Me』の中で、ラスク病院の精神科医、ボブ・プリーストは「ロッキーはいつも黄色いメモ帳を持ち歩き、廊下で座って曲を作っていた。ひどく弱って落ち込んでいる様子だった」と回想している。

 エリクソンの妻、デーナは彼のもとに煙草とテレビ、そして12弦ギターを差し入れに持っていった。彼が後に思い返すに、ラスクでは100近い新曲を書いたという。Elevatorsの全盛期を超えることは可能だったのかと聞かれ、彼はこう答えた。「どうやら突破したみたいなんだ。85の曲を書いたんだけど、書いているうちに今僕はただ曲を書いているんじゃなくて、どんどん上手くなっていってるということがわかったんだ」。彼の母親であり、才能のあるシンガーであり、その長男に最初のギター・レッスンを授けたイヴリンはレコーダーの再生ボタンを押した。彼女に向かい合って座る彼は彼女に、静かで、賛美歌にも似た楽曲でおそらく彼が書いてきた中で最も純粋で真正なるラブ・ソングを演奏した。それらの楽曲は30年以上ほぼ誰にも聴かれることがなかったが、1999年、『Never Say Goodbye』のリリースによって日の目を見ることになった。このあまり知られていないコレクションは、1971年から1985年までのこのようなテープや宅録を復刻したものである。

 精神分裂病と診断されたこと、幻覚剤との密接な関係を持っていたことはしばしばエリクソンの楽曲の読解に影を投げかける。彼の音楽がどこから来たのかという疑問が彼の音楽そのものの邪魔をする。そうではなく、彼の作品が何をもたらすのかに施策を巡らせよう―Elevatorsは現実逃避を、ラスク病院での音楽は生存を、そして70年代中期から80年代中機に至る彼の音楽は、我々にカタルシスを提供してくれる。しかし音楽がエリクソンの日常生活の中核をなしていなかった時期、彼の精神分裂病が治療されないままになっていた時期、特に80年代後期から90年代にかけて、彼の健康がかなりまずい状態にあることは、親しい友人や家族には痛いほどに明らかだった。5月31日に71歳で終えることになった彼の人生の中で、彼の書いた楽曲は等しく開放と救済を喚起するものだった。それはともすると、彼自身にとってよりも彼のリスナーのためのものだったのかもしれない。

 ラスク病院を退院した後、ダグ・サームはエリクソンを連れてスタジオに入り、シングル「Starry Eyes」を録音した。これは完璧なラヴソングで、ロッキーの「you-hoo-hoo-hoo」という歌声はバディ・ホリーの「Peggy Sue-ooh-ooh」と共鳴する。「とてもいい曲っていうのは天国からバディ・ホリーが授けてくれるんだ」とかつてエリクソンは自身の楽曲について語った。「それ以外は午後の大半を費やしてでっち上げるんだ」。

 サームとのレコーディングはエリクソンのキャリアに新たなバイタリティを注入し、彼はThe Aliensというバンドを始動、1981年に『The Evil One』を録音し、1986年には『Don't Slander Me』、『Gremlins Have Pictures』という2枚のソロ・アルバムをリリースする。彼はこれを「ホラー・ロック」期と呼んでいる―「Night of the Vampires」「I Walked With a Zombie」「Creature with the Atom Brain」など、怪物や亡霊についての素晴らしいロックを生み出した時期である 。80年代を通じて、彼は自宅で制作するカセットテープにだけ残された他の楽曲も書き続けていた。

 しかし90年代のはじめ、後にテキサス・ミュージック・オフィスの役員を務めることになるケイシー・モナハンがロッキーの活動を追い始める頃には、ロッキーは健康面でも経済面でも苦しんでいた。彼の世代のミュージシャンに対する音楽業界にはありふれた話だが、数々の不公平な扱いを受けた彼は自分の音楽によってごく少額の金銭しか得ていなかった。モナハンは『The Austin-American Statesman』紙のために彼の活動休止前最後のパフォーマンスを写真に収める機会を得た。「彼とのはじめての出会いは間接的なものだったんだ」と彼は最近私に強調した。その後間もなく、彼はエリクソンの経済状況と精神状態を蘇生した人物の一人となり、『Never Say Goodbye』制作の上での重要人物となるのだった。

 90年代中盤、ロッキーはイヴリンから20ドルずつ支給される障害者手当で生活し、オースティンから10マイルほどのアパートメントに一部助成を受けて暮らしていた。彼の部屋には多くのラジオやテレビが置かれていたが、それらはすべて異なるチャンネルに合わせられていて、耳が痛くなるほどのボリュームで音が流れていた。それはまるでラスク病院の不協和音を作り直したようであったが、その中心に音楽の奴隷の姿はなかった。床はテレビショッピングでの衝動的に買い漁った電子機器でいっぱいだった。そのような騒音の嵐の中心にある静かな場所、それがロッキーだった。

 ある日、街なかを流している時モナハンはエリクソンに尋ねた。もう一度スタジオに戻りたくはないか、と。ロッキーは足が不自由になっていた。「もちろん!」と彼は純粋に答えた。モナハンはこの声を「甲高く、鼻がかっていて、叫び声ではないがそれでも通路3つ隔てても聴こえたであろう声」と綴っている。「楽しければね!」。モナハンはスピーディー・スパークス、ポール・リアリー、ルー・アン・バートン、チャーリー・セクストンといったミュージシャンを集めて傑作『All That May Do My Rhyme』(1995年)を制作した。このアルバムはキング・コフィのTrance Syndicateレーベルからリリースされたが、このレーベルはさらにエリクソンによるアコースティック・デモ「Please Judge」もリリースしている。Butthoke Surferのドラマーを長年務めたコフィはエリクソンが亡くなった夜フェイスブックに投稿した。「彼が僕をこのポジションに導いてくれたと言ってもいい。彼がテキサス・パンクを発明したんだよ」と。

 彼の作曲の功績をよみがえらせるため、モナハンはロッキーのキャリアの中で集積したたくさんのテープや手書きの紙片を集め、彼の書いた歌詞をすべて書き起こした。それはやがてヘンリー・ロリンズによって『Openers II』として出版された。イヴリンは息子がラスク病院で行った録音を含む、40曲を提供した。

 モナハンにとってこれらの仕事は天啓であり、『Never Say Goodbye』の着想もここから得られた。「僕はピッチコントローラーがついた小さいカセットレコーダーを持っていた。再生しては止め、そしてまた何回も再生して、速度を遅くして、また何回も聴いていたんだ」とモナハンは教えてくれた。彼はそのカセットをコフィの長年のパートナーであり今の夫であるクレイグ・スチュアートに聞かせた。彼はEmperor Jonesというレーベルをやっていた。このロッキーのラフでローファイで劣化したテープの中にアルバムを見出したのはスチュアートであった。このような作品をスチュアートはキッチンのテーブルの上に何ヶ月も置き、モナハンの助けも借りながらじっくり聴き進めた。そしてやがて彼は1971年から1985年の間に録音された14曲のコレクションを編纂した。それはエリクソンとギターだけによる、静かで、感動的で、忘れることの出来ない、思いがけないほどに平易な作品たちだった。

 『Never Say Goodbye』として現れたそれは、まるで広大で深遠な放浪、つながりを求める当て所もない旅に出た巡礼者の記録のように思える。エリクソンは繰り返し自分の感情と格闘しながらシンプルな歌詞(「I’ve never known this till now」)を吐き出し、「強制的ではない平静」への欲望といった驚異的な句を生み出していく。何というコンセプトだろうか。表題曲で彼は「この銀色の三日月は僕のものだ」と歌う。ギターは優しく爪弾かれまるで暗い水面にさざなみが浮かぶようだ。彼の曲にはすべて金言的な鮮やかな真実が隠されているが、「Be and Bring Me Home」はこのアルバムの頂点である。謎めいていて(「Her jewelry drops all its grime」)奇妙に明敏な(「I won’t jump on you though we are all rubber」)歌詞が胸が張り裂けそうな嘆願の周りに構成されている。

Suddenly my fireplace is friendly
Bringing me home
Suddenly I may control
Take little things meaning big so’s I’m not alone
Suddenly I’m not sick
Won’t you be and bring me home

「Someone is missing love」とエリクソンは歌う。「and now that someone is going home」。

 Elevators唯一のポップ・チャート入りを果たした「You're Gonna Mis Me」で完成された、エリクソンのクズリのような熱い叫び声は『Never Say Goodbye』では聴くことが出来ない。例えば「Birds'd Crashed」の別ヴァージョンがあるとしたら、「We're here, I'm here」と猛烈な断言をする彼が叫び声を上げるところを想像できるかもしれない。しかしこういった曲をもともとの表現で聴くことができるのは幸運である。『Never Say Goodbye』に収録されている楽曲は意図的なメタファーのような、遠くから聞こえてくるようなサウンドを持っている。それはまるでトンネルの奥から、ハートを探し求める者の孤独を増幅させながら響くようだ。テープのノイズでさえありがたい存在に思えてくる。エリクソンの忘れがたいこの歌詞を確認するものとして。「When you have ghosts, you have everything.」

 スコット・ニュートンが撮影したジャケットに写るエリクソンは、愛嬌があって薄汚く、コーデュロイのジャケットを着て、足元では犬が歩き回っていて、手にはギターを持っている。しかしこれらの楽曲を録音した当時のロッキー・エリクソンは神を剃り落とされたばかりであった。「あの人達は意地の悪いことに、私の髪を完全に剃り落としてしまった。そしてカーキ色の制服を着せられるのさ」と退院後に彼は振り返る。「入所したときは『おっ、長髪とシルクハットのやつが来たな』って感じだった。そして『よし、捕まえた。俺がタキシードを着るくらいひどいもんだな』って言われたんだ」。聞いていると、そこには彼をもう一度正常に戻すだけではなく、彼の歌詞をいつも奇妙だと見てしまいがちな世の中で彼の味方をするような人間を想像してしまう。彼は自分が異質であることを知っていた。

 『Never Say Goodbye』の衝撃は非常に小さい波となり、かなり若い頃の私を含む一握りのライターがレヴューを書いた。私は「Pushing and Pulling」や「You're an Unidentified Flying Object」、「Be and Bring Me Home」と言った曲を親友たちがひっきりなしに聞かせてくれたノース・カリフォルニアの小さな同人誌に寄稿した。私がリリースから間もなくしてオースティンに引っ越しても、そこは自分が憧れたヒーローにばったり出くわすかもしれないと思うほど小さな町に感じられた。私はぼんやりと電話帳をパラパラとめくり、ある名前を探していた。驚いたことに、ロッキー・エリクソンの名前があった。今となってはそのページを破っておくべきだったと思う。私は好奇心にかられてその住所の近くを車で通ってみたが、電話をかけたりドアをノックする勇気は出なかった。

 このアルバム自体は、奇妙で、そして非凡なアクシデントを生き抜いた者である。「精神病院に居ながらにして、彼がこのような作品―こんなにももろくも美しいラヴソングたち―を作ることが出来たという事実が、私にとっては信じられないことなんだ」と近年コフィは私に語ってくれた。これらの楽曲が録音されていたという事実も、それだけですでにひとつの偉業である。これらが何年もの間保管され、そして発掘され、人々に知られるところとなったという事実がさらにこの作品の不可能性と希少性を高めている。若々しく、壊れてしまいそうなロッキーの声が保存されているという事実は驚異的である。「10年経って、彼がもっと自立してもう一度レコーディングに臨むことを考えたとき、このような作品が生まれるかどうかはわからない」とコフィは言った。「これがリリースされた当時、私達は彼は二度と作品を作らないかもしれないと思っていたのです」。

 少なくとも10年の間、エリクソンは断固として医者や歯医者に診てもらおうとしなかった。やがて、2001年に彼の一番下の弟・サマーがなんとか彼を説得し、10年以上ぶりに医者のもとへ連れて行くことに成功した。ヘンリー・ロリンズが彼の新しい歯の代金を支払った。エリクソンの最後のルネサンス期となった10年の間に、彼はOkkervil Riverとアルバムを制作し、「Be and Bring Me Home」「Think Of As One」「Birds'd Crash」の新録バージョンも収録された。

 まるで墓碑を指示するかのように、「彼は先駆者だった」とモナハンは電話口で言った。「彼は音楽に対して正直であり続けた。絶対に妥協をしない男だった。彼は生き延びたんだ」と。さらに重要なことに、エリクソンは皆が思うよりも自己に対する意識が高かったと彼は強調した。「人々は自分の狂気を彼に投射したんだ。ロッキーを通じて生きた人は多いと思う。ロッキーがいたから、自分は狂ってないと思えたんだ」。ある人はこうまとめる。自分では探求する勇気も出ないような、世界の境目をさまよった人間による幻のような音楽によって、彼らは落ち着きを得られたんだ、と。

 エリクソンに親しい人々は、彼が最も大変だった時期に彼を助けることが如何に大変だったかということも話すが、ほとんどは彼が生まれつき持っていた思いやりについて語られる。「彼は時に、我々には見ることの出来ない現実世界の側面と精神的に調和することがあった」とOkkervil Riverのウィル・シェフが書いている。それこそが真にサイケデリックな状態なのかもしれない。「Special and magical music」とエリクソンは「Be and Bring Me Home」で歌っている。「these are feelings from one to another」。

 90年代中盤、モナハンやその他の友人たちは事実上のロッキー・エリクソンのサパー・クラブの一員であり、週に二回彼を食事に連れて行った。ある晩、モナハンが訪ねていくと、彼は断った。「彼は陽気だった」とモナハンは言う。「彼は、『いいか、墨は今日は行かない。僕抜きで、皆で行ってくるといい。僕はここで、みんなのためにくつろいでおくから!』と言ったの」。ロッキー、なんて愛しい人なのだろう。「みんなの『ために』くつろいでおくから」。

<Pitchfork Sunday Review和訳>Pavement: Terror Twilight

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Pavement: Terror Twilight Album Review | Pitchfork

点数:7.5/10
評者:Stuart Berman

このPavementの賛否両論な最終作にはアンダーグラウンドの終焉を予見していた、喧騒と明瞭さがつまっていた

カンド・アルバム『Crooked Rain, Crooked Rain』(1994)のリリースのリリースと共に、Pavementが次のNirvanaに―あるいは、よりクールで、よりファニーで、よりとっちらかったR.E.M.に―なる準備が整ったように思えた。彼らは渋々MTVで流れるヴィデオを発表し、駄々をこねながら「トゥナイト・ショウ」に出演したが、熱狂のオルタナティヴ・ロック革命に加わることへの複雑な感情はアルバムのハイライト「Range Life」で明らかにされた。当時最もクールではなかったサウンド(70年代カントリー・ロック風)を用いて当時最も売れていたバンドたち(Smashing Pumpkins、Stone Temple Pilots)をこき下ろしたのだ。ファンにとって、「Range Life」は当時ものすごい勢いで均一化していったNirvana以降のオルタナ界に対する静かな、そしてさりげないプロテストだった。ヘイターにとっては、インディー・ロックが一般人の好みをエリートぶって嫌悪する本能を持っていることの証明だった。

 『SPIN』誌1994年4月号内のインタヴューで、リード・シンガーのスティーヴン・マルクマスは実はその両方の見方が間違っていることを明かした。「『Range Life』は80年代のカントリー・ロック時代、Lone JusticeやDream Syndicateのように時代についていけなくなった人のつもりだったんだけどね」と彼は言った。「本当はSmashing PumpkinsやStone Temple Pilotsへのディスではないんだ。もっと『MTVの時代が理解できない』みたいなことを言いたかった。Brian Wilsonの「I Just Wasn't Made For These Times」みたいな」。

 これはマルクマスの怒りのピークであり、彼は変わりゆく文化的潮流によって時代遅れになってしまった前時代の曖昧なサブジャンルとの精神的血縁関係を作り上げた。おそらく彼は、自分が同じような位置に置かれることも時間の問題であることがわかっていたのだろう。

 翌年、Pavementのキャリア史上最も難解な『Wowee Zowee』がリリースされ、彼らのモダン・ロック市場に服従することの拒絶を更に明確に打ち出した。その可能性は彼らがその年のロラパルーザで演奏中に観客達が泥団子を投げつけた瞬間に完全に消え失せたように思えた。しかし驚くべきことに、爽やかで水晶のような次作『Brighten the Corners』には調和されたクロスオーバー的努力が見られた。そしてPavementの初期の作品の社会不適合者ープレッピーのイメージによって、幾百もの感傷的で皮肉めいたインディー・バンドを生み出していたころ、彼らの影響はイギリス最大のロック・アクトをすら揺り動かしていた。

 Blurグレアム・コクソンが1997年のセルフ・タイトル作でブリットポップを捨てローファイに切り替えたきっかけを与えてくれたとしてPavementの名を挙げていることは有名なことであるElasticaジャスティン・フリッシュマンは当時彼女自身のバンドのポップ・アピールを取り除くプロセスの最中だったが、彼女はマルクマスのデュエット相手になり、ロンドンで宿を提供する仲にあった。そして全く異なる美的宇宙に存在しているように見えてたが、実はRadioheadファンであることを公言しているPavementは、このように代理的にかもしれないが、メインストリームとなった。しかし彼らがかつて体現し、その後も居座り続けてきたインディー・カルチャーはひねくれて歪んだファズ・ロックから、繊細なシンガー・ソングライター的な表現主義ドラマティックなポスト・ロック的な印象主義へと移り変わっていた。カントリー・ロックを模したフィクションだった「Range Life」は徐々に現実のものとなり始めていた。

 ゲームに乗るか試合放棄をするか、このふたつの間で引き裂かれるようなサウンドを鳴らしてきたPavementにふさわしく、5枚目となるこの『Terror Twilight』も、大々的にブレイクするか解散するかの瀬戸際だったこのバンドを捉えた、葛藤に満ちた両義的なドキュメントである。一方では、この作品は自分たちのカルトを広げようというアイデアを完全には諦めていないグループを見せてくれる。彼らのキャリアの中で初めて、Pavementは一流のプロデューサーを雇い、迷い込んでしまった袋小路から抜け出そうと実践的なアプローチを取った。もう一方で、Pavementはもはや獲物を狙うハングリーさを持ったバンドではなくなってしまっていた。

 カリフォルニアのストックトン(マルクマスが幼馴染のスコット「Spiral Stairs」カンバーグとバンドを結成した場所)からヴァージニア大学(マルクマスがパーカッショニスト/バンドのマスコット、ボブ・ナスタノビッチと知り合った場所)、ニューヨーク(もともとはファンであったベーシスト、マーク・アイボールドとナスタノビッチの古いドラマー友達、スティーヴ・ウェストが加わった場所)に至るまで、Pavementの鬼門はロジスティクスだった。90年代後半になると、5人のメンバーはそれぞれ別の州で暮らしていた。練習のために集まるといったシンプルな行動にすら旅行代理店が必要になるくらいであった。そしてある時点で、マルクマスはこれらの頻繁な長距離移動は果たして割に合うものなのだろうかとふと思った。

 『Brighten the Corners』のプロモーションによって「かなり疲弊した」マルクマスは『Rolling Stone』誌にバンドメンバーそれぞれがそれぞれに落ち着く時期なのかもしれないと告げ、解散をほのめかした。ポートランドに腰を据えた彼は1998年、地元でのアコースティック・ショウの中でいくつかの新曲を披露した。この彼らしくない動きは、もし次のPavementのアルバムがあるとしてもそれは名前だけで実質彼のソロアルバムになるのでは、ということを示唆していた。ナスタノビッチは「この段階にあって、Pavementの音楽はスティーヴン・マルクマスのものだった」1999年のインタヴューで認めている。「彼がメインのソングライターで、残りの4人は彼が作った曲をできる限り良いものにしようとトライしているんだ」と。

 しかしマルクマスにとっては、そのプロセスはスピード感に欠けていた。ロブ・ジョヴァノビッチによるPavementの伝記、『Perfect Sound Forever』(2004年)で詳細に書かれているが、マルクマスはこのバンドの長距離恋愛的関係性に急激にうんざりしはじめ、ようやく同じ部屋に集まれたと思っても、皆をスピードアップさせるのに時間がかかることでさらにフラストレーションが溜まっていった。「おそらく彼は自分だけが違うペースで動いていることに気がついたんだと思う」とウェストは振り返り、「僕たちをうまく動かして音楽的創造性を持たせるための忍耐力を持ちたくなかったんだと思う」と。一緒にいられる時間が限られていたため、バンド全体としてもマルクマスが持ち込んだ既存の曲にフォーカスせざるを得ず、カンバーグが持ち寄ったアイデアをふくらませることは二の次になってしまった(彼は近年の作品では絶品パワーポップ曲を持ってきたのにもかかわらず、光の当たらない存在だった)。

 どこから見ても気が滅入るようなアルバム制作始動の試みのあと、バンドはプロのセカンド・オピニオンが必要であることで意見が一致した。イギリスのレーベルの幹部、ドミノ・レコードのローレンス・ベルを通じて、また新しくイギリスの著名人がPavementのファン・クラブに加入したことを知った。自体を一変させたRadioheadの『OK Computer』やBeckによるスペース・フォーク作『Mutation』を手がけたばかりのプロデューサー、ナイジェル・ゴッドリッチである。後者の推薦によって、Pavementはゴッドリッチと面と向かって話す機会もないまま、電話口で彼を雇うことに決めた。しかしいざ二組が一同に会し作業を始めるとすぐに、Pavementの偶然を重んじる美学とこのプロデューサーのやり方には大きな隔たりがあることが明らかになった。

 このバンドのファンでもあったゴッドリッチは、PavementRadioheadほどの予算を持っていないことに気がつくと、貧乏アーティスト・スペシャルを提供することにした。普段もらっているギャラを将来の印税とし、友人の家の床に寝泊まりすることで経費を節約した。しかしゴッドリッチの要求する技術的水準はPavementがそれまで触れてきたものの遥か上を行くものだった。バンドがもともと持っていた、マンハッタンにあるSonic Youthのリハーサルスタジオでレコーディングするという計画を白紙に戻したゴッドリッチは、作業場所を近くにあった24トラックの設備がある場所に移し、オーバーダブはロンドンにあるかの有名なRAKスタジオで行うことにした。

 バンドはこれまでスタジオを砂場として使ってきた。だからこそほぼアルバムの長さのアウトテイクも生まれた。しかしゴッドリッチは彼らに12曲に集中するよう命令し、半ば軍隊のような、血豆ができるようなリテイクを繰り返し曲作りを進めていった(しかし、楽器隊が幻惑的にダブされる「Shagbag」だけは完成しなかった)。プロデューサーは創造的決定の殆どをマルクマスと協議したため、残りのバンドメンバーたちはこの制作のプロセスから切り離されたような気分になった(ナスタノビッチが『Perfect Sound Forever』で回想するには、レコーディング・セッションが始まって一週間以上が立った頃「ナイジェルと話をしにいったんだけど、彼がぼくの名前を知らないということは明らかだった」)。最後には、Pavementはもはや間違いをそのまま残しておくようなバンドではなくなっていた。たとえそれが特定のメンバーの貢献を取り除くということになっても。オーバーダブのセッション中、3曲ものウェストのドラム・トラックがHigh Llamasのドラマー、ドミニク・マーコットによってリ・レコーディングされたのだ(不安定なオリジナル・ドラマー、ゲイリー・ヤングの代わりに、リズム面での碇としてウェストが起用されたことを考えると皮肉なことである)。

 アルバム単位で見ると、Pavementはどよめきと明瞭さの間を行き来する傾向にあった。しかし『Terror Twilight』はそのふたつの方向性を一つにまとめ上げている。聴き手の指向によって、この作品はバンド史上最も磨き上げられたポップ・アルバムにも、最も暗くて不安定なアルバムにもなり得る。レイドバックした昔ながらのウェスト・コースト・スタイルのPavementでありながら、同時に情緒不安定でもある。しかし『Terror Twilight』は直感に反したアルバムになっていて、最もメロディー的に入り組んだ曲はとても簡単そうに聴こえて、かつてはPavementとして自然に響いていた向こう見ずな不敬さがかえって無理強いされたように聴こえるのだ。

 優れた楽曲では、マルクマスが1996年に埋め草で出したシングル「Give It A Day」で発揮した雄弁なソングライティングをさらにおしすすめている。彼に特徴的なVelvet Underground譲りの物憂げな歌い方は鳴りを潜め、もっと複雑で昔ながらの英国メロディ主義によっている。「Spit on a Stranger」や「Ann Don't Cry」はマルクマスの、気取った、謎めいた怠け者というパブリック・イメージを払拭するものであった。冷笑的な表面の裏側でいつも光っているロマンティシズムを前景化させ、理解するのが難しいフレーズが、彼が表現するのが難しい感情にアクセスすることを可能にしている(彼は後者で「ぼくの心は広く開かれているものなんかじゃない」と歌っている。彼が正直でいることへの嫌悪を正直に打ち明けた珍しい瞬間である)。マルクマスが「メジャーリーグを育てよう」と歌ったのが1994年だったら、それは産業ロックの階段をのぼることへの辛辣なコメントであると解釈されただろう。しかし『Terror Twilight』の沈痛なセレナーデである「Major Leagues」では、まるで中年期に直面する家族的責任を歓迎しているように聴こえる。ゴッドリッチが得意とするアトモスフェリックなプロダクションがこのような穏やかな曲と自然にフィットし、月明かりのような魔術的リアリズムを持った光で彼らを照らし、ギターをきらめかせている。

 90年代後半、マルクマスがどんどんポップ職人として成長していくのを良しとしなかったPavementは、世界で最も不鮮明なジャム・バンドに成り下がりつつあった。これは『Brighten the Corners』のツアーで明らかになった問題で、「Type Slowly」のような楽曲はだいたい引き伸ばされ、強化された。彼らは「And Then」と呼ばれる新曲を頻繁に試していた。その曲は「Stop Breathin」や「Transport Is Arranged」のようなSlint風のミッド・セクションを持ち、凶悪な激しさを帯びていた。「And Then」は『Terror Twilight』のB面の奥深くに陣取ることになった。新しい歌詞と新しいタイトル「The Hexx」と共に。『Terror Twilight』に収録されているヴァージョンは97年ころのライヴに見られたサイケデリックな汚れたファズをもとにしており、マルクマスは気味の悪い歌詞を次々にドロップしていく(「両目にバツ印をつけられたてんかん持ちの外科医/子供を引き裂こうとしている/」)。まるで怪談話を2文で書くことに挑戦しているようだ。

 「The Hexx」はPavementの未来はより重たいギターワークにあるのではないかと思わせる強力な証拠だった。しかし、『Terror Twilight』の中でこのバンドがロック筋を見せびらかしているところは、なんだか虚勢を張っているように見えるのである。「Platform Blues」は『Wowee Zowee』のような広がりを持っているが、アルバムの中心となるには少し風呂敷を広げすぎた感がある。下手くそな乱痴気騒ぎ(Radioheadジョニー・グリーンウッドがハーモニカで参加している)はまるで括弧付きの「バー・バンドの二日酔い」のように聴こえる。「Billie」はマルクマスの素晴らしいヴァースを場違いで醜いコーラスで台無しにしている。そして「Speak, See, Remember」は『Wowee Zowee』のハイライト「Half A Canyon」のように、ルースな前半とモータリックな後半というテンプレートをなぞっているが焦点と強烈さが半減している。The Flaming Lips『The Soft Bulletin』やGuided By Voices『Do The Collapse』(リック・オケイセックプロデュース)など、1999年にリリースされた他の気取った高値のアルバムたちに比べると、『Terror Twilight』のわざとらしい風変わりさはPavementが自らの領域を守ったということを意味していた。

 解散の噂にもかかわらず、『Terror Twilight』は批評家たちにスワン・ソングとしてではなく、真のネクスト・レベルへの一手として受け止められた。『A.V. Club』は「この新作『Terror Twilight』に費やされた時間や労力を鑑みるに、このグループはまだ降参する気がないようにおもえる」と評した。そして暫くの間、それは事実であるように思われた。このアルバムにおけるソングライティングの貢献の少なさについて尋ねられた感バーグは『Rolling Stone』誌に対し、スタジオで十分な時間が取れず、自分のアイデアについて話す時間がなかったと言い、そして「次の作品ではもっと自分の曲が入るだろう」と楽観的に推測した。ランス・バングによる2002年のPavementドキュメンタリー『Slow Century』の中では、バンドが『Terror Twilight』のツアーに向けたリハーサルの中で、新曲を制作しているのを見ることすらできる

 その新曲「Discretion Grove」はすぐに日の目を見ることになったが、Pavementのアルバムとしてではなかった。マルクマスの現在のバンド、The Jicksによる2001年のデビュー作のリードシングルとしてリリースされた(The JicksはいまやPavementの2倍以上の期間存続している―私が思うにバンド名とと同じ街に暮らすということには利点があるということなのだろう)。このマルクマスの1枚目のアルバムは1999年11月にPavementがロンドンのブリクストン・アカデミーで最後のショウを行った14ヶ月後、ツアーを経たマルクマスがもっと偏屈で不機嫌になったと言われる6ヶ月ものプロモーション・キャンペーンを経てリリースされた。その直後、ドミノはバンドが「近い将来に引退する」とアナウンスした。これは完全な解散を望んだ側(マルクマス)と一時的な活動休止を想定していた側(それ以外全員)との間に混乱を呼んだ、いささか曖昧な発表だった。それ以来というもの、巨大な不吉な予感を抱かずに『Terror Twilight』を聴くことは難しくなってしまった。10年もの間、回りくどい言葉遊びでリスナーたちを翻弄してきたマルクマスにしては、「Ann Don't Cry」の歌い出しはとても素朴で文字通りである。そしてそれはPavementの墓碑となった。「ダメージは与えられた/ぼくはもう楽しんでなんかいない」。

 このアルバムを生み出した厳しい状況を抜け出して何年もたった今となっても、マルクマスの『Terror Twilight』に対する評価は上がったとは言えない。まさしく、これは10周年記念リイシューがされなかった唯一のPavementのアルバムであり、それはこの作品に対して暗黙のうちの判断がされているように感じさせる。2015年のPitchforkのインタヴューの中で、マルクマスは冗談半分でこの作品を「Pavementのカタログの中で間違ってできてしまった子供だ」と述べ、この作品のレコーディング・プロセスについて深く掘り下げた2017年のTalkhouseのインタヴューでは「誰もこのアルバムについてそんなに注意を払ってないでしょう」と辛辣に言い放った。もちろん、そんなことはない。カンバーグはこの作品についてもっとポジティヴな意見を持っている。そして『Terror Twilight』がポップに接近したことが完全に顧みられないわけではないとする証拠もある。グラミー賞も受賞したブルーグラス・バンド、Nickel Creekによるマンドリンを用いた「Spit on a Stranger」のカヴァーは彼らの2002年作『This Side』をビルボードのトップ20に送り込んだ。

 しかし『Terror Twilight』が完璧な作品ではないとしても、今日においてこの作品は象徴的な作品である。一つにはバンドの消滅という意味合いにおいて。そしてもう一つ、Pavementが体現していたアンダーグラウンド/負け犬たちの理想主義の消滅という意味合いにおいて。これはファイ・ファイな未来主義と逆張りな特異さの間で行われた美学の綱引きであり、『Terror Twilight』はドラマティックな変化を目前としたインディー・ロックの地形図を予測していた。アップル社によるコマーシャルや自撮り棒化したフェスティヴァル・カルチャーが、広告的な露出がマストであると宣言した全く新しい時代だ。さらに、独特な斜に構えたやり方によって、このアルバムの暗い底流や痙攣的な感情的爆発は我々の潜在意識に呼びかけ、新しいミレニアムのもう一つの側面、さらに不安定で収集のつかない世界に対する警告をしているように思える。だからおそらく『Terror Twilight』は素晴らしいバンドによる欠点だらけの早産の最終作ではなく、時代が変わっていることに気がつけるほど賢く、自分たちがそれに合わないと認められるほど正直だったバンドによる計画的な退行だったのかもしれない。

<Pitchfork Sunday Review和訳>Felt: Forever Breathes the Lonely Word

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Felt: Forever Breathes the Lonely Word Album Review | Pitchfork

点数:9.3/10
評者:Quinn Moreland

英国インディー・バンドの6作目にして最高傑作、厭世的ポップの完全体

986年の11月、『NME』のあるライターがインディー・ポップ界きっての謎の人物、ローレンスのもとを訪ねた。この音楽家はイギリスのバーミングハムの完成な郊外に住み、レコードのコレクションとケルアックの初版本ひと揃い、そして小さな病室なら埋まってしまいそうなほどのたくさんの掃除用品を除いては一人で暮らしていた。「見晴らしのいい箇所にはエアウィック・ソリッドの小隊が陣取っている。便座も通常のものではなく、カートランドのようなピンク色をした除菌ジェルがふたつも鎮座し、小枝細工でこさえた籠は使い切ったエアゾール芳香剤の集団墓地として使われていた」。その生気のないアパートメントから出ることはめったになく、ローレンスは日々、そのだらりと垂れた茶髪を一生懸命洗うなど、退屈な行動をして時間を浪費していると語った。

 彼のバンド、フェルトについて語る時の話題の中心は、この時にはすでに、彼らの音楽自体もそうだが世捨て人・ローレンス、完璧主義者・ローレンスの伝説についてだった。しかし彼は変わっている人間だと指を差されることに慣れっこだった。メインストリーム・ポップにしては堅苦しくて抑制されているし、パンクにしては神経質だし、ポスト・パンクにしては明るいし構成がしっかりしているしで、フェルトはなかなか彼らの周りの世界に馴染むことが出来なかった。それが彼らが今でも愛され続けている理由でもあるのだが。

 フェルトはタイムレスなサウンドを追求していたので、流行に乗れていないことも平気だった。ルー・リードトム・ヴァーラインパティ・スミスなどのニューヨークロマン派にインスパイアされ、ローレンスは「The World Is As Soft As Lace」や「Sunlight Bathed The Golden Glow」などといった冗長で官能的なタイトルの曲を書いた。一匹狼や厭世的な人という彼のというキャラクターたちは、この残酷な世界で希望に似たもののを探し求めていた。しかし彼らの哀しみでさえ崇高なものになり得た。彼はかつて歌った、「そしてぼくの偉大な計画はぼやけてしまう/この優しき世界の柔らかいタッチによって」と。

 ローレンスの日に対する愛情は、彼のもう一つの執着、すなわち成功なるものと常に相容れなかった。バンドの始まりから、フェルトはローレンスの「何者かになりたい」という欲求が突き動かしてきた。1979年に、ローレンスはフェルトのファースト・シングルを自主制作でリリースした。「Index」と呼ばれるその曲はゴモゴモとしたノイズ・トラックであり、彼はこれを自分の寝室で安いカセットプレーヤーを用いて録音した。彼は『The Quietus』に対してこの曲をある種の「声明」としたかった、そして「すぐさま」名のしれた存在になるはずだと思ったと語った。それが『Sounds!』誌の「今週のシングル」に選ばれたあと、ローレンスはインディペンデントの世界を出る必要があると決心した。彼は「僕はチャートインしたいんだ」と気づき、「バンドを結成する必要があった:テレヴィジョンみたいに、ソロがあちこちにあるような、ちゃんとしたバンドを」。彼は同級生だったニック・ギルバートをまず採用し、続いてかつて「Mr. Tambourine Man」のカバーを披露し彼を感心させた、クラシックを習っていたモーリス・ディーバンクを採用した。ディーバンクによると、ローレンスには基本的に「音楽的スキルが一切なかった」。しかし彼にはヴィジョンがあったのだ。

 ローレンスの計画はこういうものだった。ちょうど10枚のアルバムをリリースすること。ちょうど10年の間バンドが存続すること。そしてその頃には何千もの偽善的なフェルトのファンたちが彼らの解散によって打ちひしがれること。彼は構成への影響というものに執着していて、彼はフェルトというバンドは解散した後にきちんと評価されるだろうと思っていた。「もちろん伝説になりたい」と彼はかつて認めた。「そういうふうに考えるのって間違ってる?」彼らの最初の作品、1982年の『Crumbling the Antiseptic Beauty』の場合、ローレンスは「英国史上最良のデビュー・アルバム」を作ることを決心していた。この非常に高いハードルにもかかわらず、ローレンスは芸術的誠実さを持った地に足の着いた人間だった。彼は正直なところ有名になりたかったのだ。彼が憧れたアンダーグラウンド・アート・ロックのヒーローたちのように、常に挑戦し続ける、時代を代表するソングライターになりたかったのだ。彼はバンドの名前をテレヴィジョンの『Marquee Moon』に収録されている「Venus」の歌詞から借用した。(トム・)ヴァーラインが「felt」という言葉を強調して歌う様に感動し、「felt」という単語自体―「feel」の過去形である―がノスタルジアを喚起させる様に感動したのだ。「ローレンスはフェルトを、ハイ・アートでありつつロー・アートでもある、そういうものにしたかったんだ」とクリエイション・レコードのアラン・マクジーは言った。「彼はフェルトをシングルチャートに入れたがったし、ボーイズ・バンドのように黄色い声援を浴びせられたがったんだ」。

 英国の音楽雑誌読んでを熱心に勉強したローレンスは、髪型から写真撮影まで、フェルトの演出についてかなり細かく指示を出した。彼のプロフェッショナリズムへのこだわりは音楽にも反映された。彼はパンク・バンドのDIY精神を愛する一方で、不完全に聴こえる音楽を嫌悪した。「でもみたいに聴こえる音楽でハッピーなのかい?」と彼はかつて言った。「それは僕が望むものの真逆だ」と。結果として、フェルトの初期の作品は素朴で夢ここちであり、捉えがたく空想的な雰囲気を持っていた。ディーバンクのひょろ長い指使いによって運ばれてくるローレンスの物憂げな歌詞は聴き手の創造力を高めてくれる。

 『NME』誌のプロフィールによってローレンスがインディー界のハワード・ヒューズだと祭り上げられる頃には、フェルトは芸術志向のミニマリズムから離れ、純粋なポップを追求し始めていた。彼らのキャリアの中で最も商業的成功に近づいていたと言ってもよい。コクトー・ツインズとのツアーがきっかけとなり彼らの4作目『Ignite The Seven Cannons』のプロデュースはロビン・ガスリーが務めることになった。リヴァーヴがふんだんに使用されたこの作品はフェルトのキャリア史上最大のシングル「Primitive Painters」を世に送り出した。分厚く金属的なメロディーと、エリザベス・フレイザーによる多幸感あふれるバッキング・ヴォーカルを用いて、この「Primitive Painters」はローレンスの個人的な哀しみを至福の音の波へと増幅させた。理想の上では、これはローレンスの究極のヴィジョンが現実になる瞬間になっていたかもしれない。あの憧れの人たちと並ぶかもしれなかったのだ。

 クリエイションからの最初のリリース、『Let the Snakes Crinkle Their Heads To Death』(1986年、別名『The Seventeenth Century』)は「Primitive Painters」のような華やかさからは一歩退いた作品となった。ポップのメロディの限界を試したいというローレンスの欲求が興味深く提示され、ミニマリストで楽器的な想像に富んだ作曲がなされている。そしてこの作品は広く無視されることとなった。「クリエイションのすべての資金を費やして、その結果は完全に失敗に終わった」とローレンスは振り返っている。ともすると彼はこの作品で自分の中の言葉にならない創作物を一旦出し切ったのかもしれない。というのもフェルトがこの年に出したもう一枚の作品はきちんと肉付けされた作曲とタイムレスな歌詞で溢れていたからだ。それが彼らのキャリア最高傑作となった。

 『Forever Breathes The Lonely Word』のフェルトのサウンドは、生まれ変わったかのようだ。これはローレンスのヴィジョンが最も一貫性を持って提示された作品であり、8つの楽曲によってポップの完全体と厭世感が一丸となって輝かしい幕引きへと向かっていく。これに貢献しているのは一つには技術である。「作曲のスタイルを少し変えたんだ」とローレンスは説明する。「普通の構造を持った簡潔な曲を書きたかったんだ。最初の2枚のアルバムには長くて、半分インストみたいな6分の曲が入っていたのと逆に」。この成長のもう一つの原因は政治的なものだ。一時的な脱退とローレンスとの個人的な/創作の面での長年の対立を経て、ディーバンクは『Ignite The Seven Cannons』を最後についにバンドを脱退。フェルトのギターの役割は若きキーボーディスト(そして将来的なプライマル・スクリームのメンバー)であるマーティン・ダフィーに取って代わられることになった。アルバムジャケットに写っているのは彼の柔らかくボーイッシュな顔であるが、まるで彼がこの作品において果たした不可欠な役割を表しているようでもある(とはいえ、ローレンスが創作的源泉であったことは変わらず明白であった。レコード内の文章にはきちんと「ローレンスの楽曲がバンドによって色付けされた」というフレーズが書かれている)。

 「Rain Of Crystal Spires」の始まりを告げる上機嫌なハモンドが新旧フェルトの境界線をはっきりと引く。ダフィーのオルガンがリードを務めることで、フェルトのアップテンポなメロディがローレンスの抱える不安と好対を成している。活動の初期にあっては、フェルトがヴェルヴェット・アンダーグラウンドと比べられることに対してローレンスは気分を害していた(「僕たちのほうがはるかに成熟していた」と抗議していた)。弾むようなオルガンが明るい「Grey Streets」や、「September Lady」におけるみずみずしいバック・コーラスなど、ここで彼らは60年代からの親しみやすい影響に傾倒しているように見える。レコードのパッケージに書かれている一言がこのような先祖返りを見逃すように促す。「既存の楽曲との類似は、全てまったくの偶然によるものです」。

 楽器が目立つことが無いため、この『Forever Breathes The Lonely Word』はローレンスのリリシズムが光っている。彼は希望の小さい世界の疲弊した心や鬱屈とした切望についての物語を紡ぎ、宗教やセレブ、あらゆる種類の信仰にに疑いの刃を向ける。彼は馴れ馴れしい親密さでこのナラティヴを吹き込んでいく。「僕は失われた人々が好きなんだ、だって僕もそうだろうから」と彼は言った。

 無菌室のようなアパートメントに閉じこもっていることから、ローレンスは自分の世界よりも遥かに壮大で鮮やかな世界を想像した。「Rain of Crystal Spires」の物悲しさは「ホメロスイリアスが燃えている」のような、アーサー王伝説に登場するアヴァロン島のヴィジョンによって装飾されている。「Grey Streets」では「どもり、よろめき、背を向けるまぶたを閉じる/間に合わせの記憶がまだここにいさせろといがみ合う」という視覚的イメージを喚起する。そしてその後彼は煙や死んだ根こそぎの木、そして「三つの四角いを持った男と蛇の皮でできた顔を持つ男の子」で一杯の廊下を描写する。リスナーたちがこのような詩的な言及を聴いて彼のことを「大学タイプ」だと思わないように、ローレンスは自分はただ単に耳の美的感覚を持っているだけだと明言した。「誓って、僕はこれまでの人生で詩を読んだことはないんだ・・・説明するのは難しいんだけど、僕はただ美しいものや美しい言葉が好きなだけ」と彼は反論した。「ポップ・クラシックのサウンドについてはみんなの共通理解があるけど、クラシック・ポップの歌詞については定形なんてものはない―少なくともぼくの中には。もちろん、僕は使い捨てみたいな歌詞も悪くないと思うけど、もっとマジカルなもののほうが好きだ」。

 1986年には、ローレンスは歌詞の中に微妙な影を忍ばせることの達人になっていた。ひじ鉄をくらわせ、理解する時間を与える間もなく話題を変え、神秘的なものを嗅ぎ分ける才覚を持っていた。「A Wave Crashed On Rocks」では「私はあなたの神ではない、だからその十字架を取ってくれ」と求める。「Gather Up Your Wings And Fly」では「銀の剣を探してあなたは四世紀前に戻る/君が自分で作り上げた幻想は僕を退屈させる」と嘲る。「Grey Streets」は特に辛辣で、アーティストを偶像化するファンという力のダイナミクスを明らかにしている。「君が僕に惹かれたのは僕が壁から君を見下ろして微笑んでいたからで、君は僕が優しそうに見えると言ったんだ」と彼はニヤつきながらファンに伝える。ファンの冷静さを非難して「君は人生において半宝石で、感情を見せようとしないじゃないか」と言う(「半宝石」という言葉は特に意地悪く強調されている)。彼の声のけだるさを聴く限り、ローレンスは決して冷淡ではない。彼の失望の深みは下品に誇張される必要はなく、ただ呼吸をすればいいだけだったのだ。

 「Grey Streets」はこの作品の中核をなす曲であり、「All the People I Like Are Thos e That Are Dead」はフェルトのアンセムに最も近いように感じられる。「多分僕は楽しませるべきなんだ/僕が狂っているという事実を」と、彼はおなじみの自己非難から始める。ギターのメロディがダフィーのオルガンに絡みつくと、ローレンスは彼の失望にもたれかかる:「多分僕は銃を手にするべきなんだ/そしてそれをみんなの頭に突きつけるべきなんだ」と彼は息を切らせながら思い悩む。それが安楽死だと思っているのだ。真ん中を少し過ぎたところで、楽器が後退しほとんど沈黙になる中でローレンスは静かに、ひとりタイトルを呟く。この5分の楽曲はローレンスという作曲家、ひいてはフェルトというバンドが崇められているものの典型である。のたうち回り、神を否定し哀しみを引き起こしているさなかでも、彼は決してメロドラマに服従しない。彼はその苦しみの中で一人ではないことを知っているのだ。彼はただ、それに浸りすぎるとこれほどに痛むのだということを示したいだけなのだ。

 『Forever Breathes the Lonely Word』はフェルトの戴冠に値する業績であり、UKのプレスにも比較的好意的に受け止められた。もちろん、この作品が美しいことは彼らも同意するところだが、大大的に祭り上げるには狭量すぎた。「フェルトは何も発明していないし、何も変えていない。彼が安楽椅子キャンプヒーロー以外の何かに見えるのならその人は相当な馬鹿者であろう。」と『NME』のマーク・シンカーが書いている。「しかし、」と彼は続けて、「これは素晴らしいレコードである」と。この作品はチャートインせず、『NME』と『Melody Maker』誌のどちらの年間ベストリストにも選ばれなかった。1986年には暴力を美化するような無愛想な弱虫はふたりもいらず、人気投票では『The Queen Is Dead』でモリッシーが一位を獲得した。

 フェルトが商業的成功を収められらなかったのにはなにか特定の一つの理由があるわけではない。「売れるには地味過ぎたし、ポップに行くにはアートすぎて、アートで行くにはポップすぎた」と、クリエイションのアラン・マクジーは言った。『Melody Maker』はさらに手厳しく、「フェルトは、誰も買わない素晴らしい作品を作った」と書いた。BBCのホストでありテイストメーカーのジョン・ピールからのサポートが十分ではなかったからかもしれない。彼はフェルトのファンではないことを公言し、番組内でも擁護しなかった。もしくは、『Forever Breathes〜』のリリースの少し後辺りから、ローレンスはコンサートの前に気分を高めるためアシッドを服用するようになっていた。残念なことに、彼は決まりすぎた結果、観客(A&Rの偵察がたくさんいた)が帰るまで演奏を拒み続けた。しかし、ローレンスは彼の「10年計画」を完遂し、更に4枚の作品を作った後の1989年にプロジェクトは終わりとなった。90年代初頭、彼はデニムという皮肉めいた70年代リバイバル・バンドを結成したが、ダイアナ妃が交通事故で亡くなった直後に「Summer Smash」というデビュー・シングルをリリースするというタイミングの悪さを披露した。事実上EMIに見捨てられたローレンスはゴーカート・モーツァルトという名前で演奏するようになり、そのマキシマリストなエレクトロ・ポップバンドは今日でも続いている。ドキュメンタリー『Lawrence of Belgravia』で見ることができるように、これ以降彼は薬物中毒やホームレス状態で苦しむことになる。

 しかしフェルトは忘れ去られたわけではない。ローレンスがかつて予言したように、このバンドは解散後にこそ評価されてきたのだ。「Rain of Crystal Spires」のうっとりするようなオルガン一つとっても、それがC86やスランバーランドのような賑やかなポップ勢の興隆へと繋がっている。フェルトのカルト性はフィールド・マイスの優しい白昼夢やグラスゴーズ・カメラ・オブスキュラの文学的な反抗心、ザ・クライアンテルの澄んだ思考などで聴くことができる。フェルトは特に2011年の音楽的集団意識内で広く蔓延しており、サンフランシスコの二人組のガールズとアイルランドポスト・パンク・アクトのガールズ・ネームがローレンスの名を冠した楽曲を発表している。数年後、人気インディー・ポップ・アクト、ザ・ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートが楽曲「Art Smock」の中でフェルトに言及し、「The Ballad of the Band」をカヴァーした。その中でキップ・バーマンはうまくローレンスを真似ている。

 しかし、彼らの影響が最も明らかなのは、ベル・アンド・セバスチャンのチュアート・マードックによる内省的なソングライティングである。彼はフェルトの大ファンであり、解散の後からフェルトの虜になった人間である。「詩的で、熱意にあふれていて、すばらしい」とはかつて彼が『Forever Breathes the Lonely Word』を表した言葉である。「この作品がリリースされたということが想像し難い。それが新しいということが想像し難いんだ」。楽曲内でフェルトに言及したりライナーノーツで称賛したりするだけではなく、マードックの音楽はローレンス譲りの孤独な内省観と深淵な美を見出す目によって輝いている。

 『Forever Breathes the Lonely Word』が1986年の当時において傑作であると認識されなかったことはまるで全宇宙的な無視であるように感じられるが、このようなねじれはローレンスがフェルの楽曲内で見せた考えと共鳴する部分がある。「自分がしようと思ったことに妥協しなかった人間として記憶されたいんだ」とローレンスは1989年『Meldoy Maker』誌に語っている。バンドの最後の作品を作り終えた頃のことだ。「フェルトはタイムレスな傑作は作らなかった―『Marquee Moon』や『Horses』に並ぶような作品を作ることのほうがもっと素晴らしい。僕たちの作品はその他の名作と一緒に店の中に散らばっているんだ」。

 『Forever Breathes the Lonely Word』は素晴らしいタイトルの「Hours of Darkness Hve Changed My Mind」で幕を閉じる。暖かさで満ちている作品の最後に、ローレンスはフェルトのファースト・アルバムに立ち返るようなサウンドを提示する。彼は暗闇と彼の周りを渦巻いている謎を見つめ、夢であることをみとめる。「どこかの誰かが気に欠けてくれるようなことをしたいんだ」とローレンスは歌う。静かな、それでいて極めて明瞭な失望とともに。