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<Pitchfork Sunday Review和訳>AC/DC: Back in Black

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AC/DC: Back in Black Album Review | Pitchfork

点数:8.8/10
評者:Steve Kandell

悲劇から立ち直り、史上最大のアルバムの一つに数えられる作品を作り上げたバンドによる、クラシック・ロックの重要作品

くのバンドにとっては、人気絶頂の時にあってリード・シンガーが突然でおぞましい死を遂げることは、キャリアにおいて致命的であろう。AC/DCはものの数週間でバンドを再編成し、史上最大のアルバムの一つに数えられる作品を録音したのである。

 『Back in Black』はジョックスにも、ストーナーにも、ナードにも、非行少年にも、そして教師にも同等に敬意を払われている。ナッシュヴィルのスタジオでは音響効果をテストするためにこの作品が使われる。タイトル・トラックはこれまでに発明された最も素晴らしい基本的なリフを誇る―完璧な形であり、ロック・ジャムの極致であり、未来永劫、ティーンたちがギター屋でファズ・ペダルの試奏をする際にかき鳴らされる運命にある。必ずしもAC/DCのキャリア最高傑作ではないかもしれない―彼らのキャリアが、50年にわたってずっと続いている、一つの、長くラウドで、継続的なミッド・テンポのギター・リフとしてではなく、アルバムという単位で測ることができるのならの話ではあるが。しかしこれは彼らの「最も」なアルバムである―最も親しみやすく、最も成功した、最も永続的な、最も象徴的な、そしてその起源を考えると、最も思いがけないアルバムなのである。

 1979年、AC/DCCheap TrickやUFOといったバンドのアリーナ・ツアーの前座を務め、単なるオーストラリアの労働階級出身のハード・ロック・バンドから、真のヘッドライナーへと飛躍を遂げた。彼らが5年の間に出した7枚目のアルバム、『Highway to Hell』は米国でプラチナムとなった。来る10年のロック・ラジオのサウンドを決定づけた「何でも入れちゃえ」の美学をもつ、プロデューサーのロバート・ジョン・”マット”・ラングによるところが大きい(それまでのAC/DCの作品はオーストラリアの伝説的ソングライティング・デュオ、ハリー・ヴァンダとジョージ・ヤングによってプロデュースされていた。ちなみに後者はAC/DCのギタリスト、マルコム&アンガス・ヤングの兄でもある)。このアルバムの成功は彼らの「好色だが無害な人間のクズ」というイメージを固め、激しさを求めている一般人をもひきつけるほど音楽的であり、、メタルへの忠誠を保つ程度にヘヴィでもあるという情欲的ななアンセムを完成させた。アンガスはバンドのマスコットでありながら音楽的な面のディレクターでもあった。学生服を着飾った動き続ける永久機関であったが、究極的には実際のティーンエイジャーよりも品行方正であった。

 必ずしもバンドの中心人物ではなかったものの、リード・シンガーは33歳のパーティー好きで、スコットランド出身の、信じられないような声を持つ発電機のようなボン・スコットという男で、「わんぱくな」というタンゴは彼のために発明されたようなものだった。彼は1980年の凍えるような2月の晩、パーティを後にした後車の助手席で一人で亡くなった。自分の吐瀉物による窒息だった。当局はそれを「事故死」だと認定した。ヤング兄弟が静養中にしたことといえば、彼らが唯一できること、それだけだった―すなわち、大量のギター・リフを書くことだった。そして彼らはほとんどすぐさまに、スコットの代役を務める人間を探すために旅立った。

 候補者の中にはジミー・バーンズやジョン・スワンといったオーストラリアのロック界の大黒柱たちや、60年代にジョージ・ヤングとヴァンダのバンド、The Easybeatsに在籍していたスティーヴ・ライトといった面々もいた。イギリスのグラム・ロック・バンド、Geordieのリード・シンガーで、誰もかなわないほどの(あるいはボン・スコット以外ではかなわないほどの)発情期の猫のような声域を持ったブライアン・ジョンソンという男を推薦したのはマット・ラングであった。

 ジョンソンは当時32歳で、イングランド北部のニューキャッスルに両親と一緒に暮らしており、バンドからの電話があったときはクラシックカーのビニール・ルーフを修理する自分のショップを経営していた。「リハーサル・ルームにAC/DCの面々が座っていて、とても退屈そうにしていた。彼らは何ヶ月もの間、シンガーのオーディションをしていた」とジョンソンは2009年の回顧録Rockers and Rollers』に書いている。「私が部屋に入り自己紹介をすると、マルコムは『ああ、君がニューキャッスルの奴か』と言い、すぐに私にニューキャッスル・ブラウン・エールの瓶をくれた。彼は『で、何を歌いたいんだ』と聞いてきたので、私はティナ・ターナーの『Nutbush City Limits』をリクエストした」。翌日の午後に、ジョンソンは戻ってくるように電話で言われ、そういうことになった。AC/DCは再びラングと共にバハマで8枚目のアルバムをレコーディングするために引き払い、7週間後に作業を終えた。7月までにはアルバムは発売されたが、それは『Highway to Hell』からほぼ1年後、そしてスコットの死からおよそ5ヶ月後のことだった。これはポップ史の中で最もアクロバティックなキャリア途中でのメンバー変更になった。

 スコットがいる状態で草案が作られた曲もあったが、ジョンソンには自由に歌詞を書く権利が与えられた。それでもこのバンドが示してきたロックすること/ロールすることの公式からは何一つ失われることはなかった。彼らが初めて共に作った曲は彼ら最大のヒットとなったのだ。「You Shook Me All Night Long」はスコット時代のAC/DCが達成できなかったトップ40ヒットとなった。『Back in Black』は大まかに言えば『Highway to Hell』の路線の延長線上であったが、「You Shook Me All Night Long」は大衆に迎合したとまでは言わないものの、一つの異常値ではあった。純粋なメロディアスなシンガロング曲で、情熱的な性行為を車や食事、そしてボクシングの試合に例えた3分半の曲としてはおそらく最良の曲である。このシングルの成功はビギナーズラック、もしくは作曲におけるひらめき、そしてあるいは死者の存在によって後押しされたものかもしれない。

 「部屋に座ってこの曲を書いていたんだ。白紙の紙にこのタイトルだけ書いて、『さて、どうしようか?』と考えていた」とジョンソンは2000年に語っている。「皆が信じようが信じまいがどうでもいいが、何かが私の体の中を通り抜けて、『大丈夫だ、息子よ。きっと大丈夫』みたいな調子で落ち着かせてくれたんだ。私はそれがボンだったと信じたいが、私はひねくれているし皆がそれではしゃぐのも嫌だから信じることが出来ないんだ」

 でもそれが、前もって引かれていたAC/DCの輪郭線からジョンソンがはみ出して塗れる精一杯の部分だった。彼はこのバンドを新しい方向に引っ張っていったり、自分の好みに合わせてバンドを曲げるということをしなかった。この変化のシームレスさは人的資源とブランディングの勝利であった。AC/DCというアイデアは一つの曲やアルバムに勝るが、『Back in Black』はそのアイデアが最もピュアな形式と最もワイドな足がかりを得た上での産物だった。「AC/DC」と聞けば我々は何よりも先にあのロゴを思い浮かべるし、ジョンソンが恐ろしさや強欲さを一切見せずに受け入れられ浸透したことが何よりの証明である。彼が被っているどこにでもあるようなツイードの鳥打帽はすぐにアンガスの学生服のようなバンドのアイコンになった。彼の声はスコットの持つニュアンスや特徴をいささか欠いていたが、1980年当時に『Back in Black』を聴いてシンガーが交代したことに気づきさえしなかった人たちが何人いたのか、それを知るすべはない。その人数がゼロでないことだけは確かだ。

 『Back in Black』はスコットの死を無視しているわけではないが、かと言って感傷的だったり教訓めいていたりするわけでもない。「冒険(=adventure)」を抜きにして「事故死(=death by misadventure)」を語ることは出来まい。「Hells Bells」は彼らがツアーに持っていくために特注した1トンの鉄のベルを撞く音でアルバムの幕を開けるが、喪に服すのはここまでである。ジョンソンは吠える。「お前は若いだけが取り柄、でも死ぬことになる」と。それは和やかにサタンを元気づけ、運命の誘惑に屈することなく、良い時の名のもとに、地獄から逃げるのではなく地獄をたたえるために、警告するよりもむしろ許可するように。

 5曲後の「Back In Black」も同じく反逆的である。「霊柩車のことは忘れろ、なぜなら俺は死なないから」―これは遺族もまたファックしたいのだという暗黙の了解を超えた、死ぬという運命についての議論にケリをつけるものだ。「Have a Drink on Me」完全に酔いつぶれることを歌ったゴキゲンな賛歌である。前任のシンガーが酔っ払って死亡したバンドにしては奇妙な選択かもしれないが、『Back in Black』は過去を精算するための作品ではなく、自分たちを最確認するための作品だったのだ。

 救いなのはAC/DCがほとんど常に、意図的に可笑しく振る舞っていることだ。「Givin' the Dog a Bone」は性的なダブル・ミーニングには半ミーニング足りないが、バックグラウンドボーカルが重ねられたビッグでファットなコーラスのおかげで笑える。AC/DCはそういった不条理を歓迎しているように見えた:北米ツアーの初っ端のエドモントンでの公演で販売するために送られてきたTシャツには「BACK AND BLACK」とミスプリントされていた。彼らはバカとクレバーさの間の線の上を歩いているのではない。彼らがその線を引くのである。

 一年後、「Hell's Bells」の1トンの鐘は「For Those About to Rock (We Salute You)」の機関砲に置きかえられ、巨大な鉄の重いアンティークによるトーテム信仰は続けられることになった。ラングと3度めの、そして最後となる制作を行った彼らは『For Those About to Rock』をチャートの1位に送り込んだ。これは『Back in Black』で達成できなかった快挙である。米国ではリリースされていなかった1976年作『Dirty Deeds Done Dirt Cheap』が、『Back in Black』の成功を受けてようやくリリースされ、新規ファンを少し混乱させることと引き換えにボン・スコットに正式な追悼を贈ることが出来た。もう少しで忘れ去られるところだったバンドが、今や40根に上にわたって続く一貫性と長生きの模範となった。

 悪いAC/DCの曲なんて言うものは存在しない。一つのAC/DCの曲が好きじゃないということは、そもそもどのAC/DCの曲も好きじゃないということであり、それはそれで良い。しかし狙ったことに失敗していることは一つもないし、そもそもその狙いというのはどの曲もだいたい同じなのだ。他の曲よりも少し馬鹿げたフレーズもあれば、他の曲よりも彼らのポイントをくっきりと刻み込んでいるリフもある。「It's a Long Way to the Top」のバグパイプを計算に入れなければこのバンドに実験的なフェイズは一切ないが、それすら完璧に機能しているのだから実験的とは言えまい。バラードも、変化球も、シンフォニーも、DJリミックスも、シンセやピアノも、アコースティックセッションも、可愛らしいカヴァーも、「ビッグ・ヘア」なサウンドもない。彼らの最大のヒットには「お前は『来て』というが俺はもう来ちまったんだ」という歌詞があるが、ゴーストとの共作かもしれない。彼らはRamonesのチョップド・アンド・スクリュードバージョンであり、永遠に学生服を身にまとった化石なのである。

 1000万枚以上を売り上げていると、『Back in Black』のようなレガシーを見落としがちである。このアルバムは別に何かの変化や文化的な重要地点を示しているわけではない。しかし代わりに停滞すること、何かを上手にやり遂げること、そしてそれをもう一度、さらにお金をかけてさらにラウドにやることのちからを証明している。ある意味では、『Back in Black』の成功は現在のリブート・ブームを予見していたともいえる:人々には求めるものを供給するべきだ、量を増やして。この作品のレガシーは他のアーティストに与えた影響や商業ロック・ラジオの主産物ではなく、進化というのは過大評価された性質であるということを確かめたという点にある。そして、AC/DCはこの最も有名な作品の最後で明らかにされる以下の単純なアイデアの最良の伝達者であったし、そうあり続けてきたのだ:「ロックンロールは謎解きなんかじゃない」。