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<Pitchfork Sunday Review和訳>Roky Erickson: Never Say Goodbye

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Roky Erickson: Never Say Goodbye Album Review | Pitchfork

点数:9.0/10
評者:Rebecca Bengal

ロッキー・エリクソンによるローファイ・アコースティック録音。正真正銘、卓越したソングライティングを捉えた珍しい作品

13th Floor Elevatorsは自分たちの音楽を、何かを癒やす力として見ていた。もしあなたが相当な量のLSDを摂取していなくても―このテキサス出身の先駆者がよくやっていたことだが―彼らの幻惑的なロックンロールと、ロッキー・エリクソンの見事な演奏は共謀して聴き手をより高い場所に連れて行ってくれる。ある種のスピリチュアリティが彼らの音楽には存在した―逃避主義でありながら、コミューン的な。「僕たちは最初のサイケデリック・バンドとして知られている。君が望めば物を見せてあげられるし、レイドバックしてディランがやってみせたみたいに物を描くこともできる、そんな音楽を演奏できるようになった最初の存在として」と1975年にエリクソンは語っている。「僕たちには多くの人々をくつろがせてしまった責任がある」。これらは彼の人生で最も意識がはっきりした状態で行われたインタヴューの一つ、テキサス東部にあるラスク触法精神障害者病院(今のラスク州立病院)から退院したあと最初に行われたインタヴューの中で発言されたものである。

 1969年、バンドの簡潔でありながら記念碑的なツアーも終盤に差し掛かった頃、エリクソンはオースティンのボンネル山の頂上で、マリファナ所持の重罪によって逮捕された。テキサスの厳しい法の定める10年の懲役を避けるため、エリクソンは自分が狂っていると虚偽の申告をした。彼は3年の間施設に入れられることになった。「正義の中に不正義があった」とエリクソンはラスク病院での経験を語る。「一日が終わる頃には、何年か分の考え事をし終えているんだ。100万年の間に考えられることはすべて考えてしまうんだ」。

 Elevators期に、エリクソンはLSDをやることは芸術であり、自分をポジティヴィティで包み込むための方法だと信じていた。ラスクで彼はネガティヴの世界にはめ込まれ、電気ショック治療法や重い鎮静剤を処方された。同じ施設には有罪判決を受けた殺人犯もいた。彼はそのうちの何人かとThe Missing Linksというバンドを始め、自分が置かれた日常的な悪夢のような状況を乗り越えようとした。2005年のドキュメンタリー『You're Gonna Miss Me』の中で、ラスク病院の精神科医、ボブ・プリーストは「ロッキーはいつも黄色いメモ帳を持ち歩き、廊下で座って曲を作っていた。ひどく弱って落ち込んでいる様子だった」と回想している。

 エリクソンの妻、デーナは彼のもとに煙草とテレビ、そして12弦ギターを差し入れに持っていった。彼が後に思い返すに、ラスクでは100近い新曲を書いたという。Elevatorsの全盛期を超えることは可能だったのかと聞かれ、彼はこう答えた。「どうやら突破したみたいなんだ。85の曲を書いたんだけど、書いているうちに今僕はただ曲を書いているんじゃなくて、どんどん上手くなっていってるということがわかったんだ」。彼の母親であり、才能のあるシンガーであり、その長男に最初のギター・レッスンを授けたイヴリンはレコーダーの再生ボタンを押した。彼女に向かい合って座る彼は彼女に、静かで、賛美歌にも似た楽曲でおそらく彼が書いてきた中で最も純粋で真正なるラブ・ソングを演奏した。それらの楽曲は30年以上ほぼ誰にも聴かれることがなかったが、1999年、『Never Say Goodbye』のリリースによって日の目を見ることになった。このあまり知られていないコレクションは、1971年から1985年までのこのようなテープや宅録を復刻したものである。

 精神分裂病と診断されたこと、幻覚剤との密接な関係を持っていたことはしばしばエリクソンの楽曲の読解に影を投げかける。彼の音楽がどこから来たのかという疑問が彼の音楽そのものの邪魔をする。そうではなく、彼の作品が何をもたらすのかに施策を巡らせよう―Elevatorsは現実逃避を、ラスク病院での音楽は生存を、そして70年代中期から80年代中機に至る彼の音楽は、我々にカタルシスを提供してくれる。しかし音楽がエリクソンの日常生活の中核をなしていなかった時期、彼の精神分裂病が治療されないままになっていた時期、特に80年代後期から90年代にかけて、彼の健康がかなりまずい状態にあることは、親しい友人や家族には痛いほどに明らかだった。5月31日に71歳で終えることになった彼の人生の中で、彼の書いた楽曲は等しく開放と救済を喚起するものだった。それはともすると、彼自身にとってよりも彼のリスナーのためのものだったのかもしれない。

 ラスク病院を退院した後、ダグ・サームはエリクソンを連れてスタジオに入り、シングル「Starry Eyes」を録音した。これは完璧なラヴソングで、ロッキーの「you-hoo-hoo-hoo」という歌声はバディ・ホリーの「Peggy Sue-ooh-ooh」と共鳴する。「とてもいい曲っていうのは天国からバディ・ホリーが授けてくれるんだ」とかつてエリクソンは自身の楽曲について語った。「それ以外は午後の大半を費やしてでっち上げるんだ」。

 サームとのレコーディングはエリクソンのキャリアに新たなバイタリティを注入し、彼はThe Aliensというバンドを始動、1981年に『The Evil One』を録音し、1986年には『Don't Slander Me』、『Gremlins Have Pictures』という2枚のソロ・アルバムをリリースする。彼はこれを「ホラー・ロック」期と呼んでいる―「Night of the Vampires」「I Walked With a Zombie」「Creature with the Atom Brain」など、怪物や亡霊についての素晴らしいロックを生み出した時期である 。80年代を通じて、彼は自宅で制作するカセットテープにだけ残された他の楽曲も書き続けていた。

 しかし90年代のはじめ、後にテキサス・ミュージック・オフィスの役員を務めることになるケイシー・モナハンがロッキーの活動を追い始める頃には、ロッキーは健康面でも経済面でも苦しんでいた。彼の世代のミュージシャンに対する音楽業界にはありふれた話だが、数々の不公平な扱いを受けた彼は自分の音楽によってごく少額の金銭しか得ていなかった。モナハンは『The Austin-American Statesman』紙のために彼の活動休止前最後のパフォーマンスを写真に収める機会を得た。「彼とのはじめての出会いは間接的なものだったんだ」と彼は最近私に強調した。その後間もなく、彼はエリクソンの経済状況と精神状態を蘇生した人物の一人となり、『Never Say Goodbye』制作の上での重要人物となるのだった。

 90年代中盤、ロッキーはイヴリンから20ドルずつ支給される障害者手当で生活し、オースティンから10マイルほどのアパートメントに一部助成を受けて暮らしていた。彼の部屋には多くのラジオやテレビが置かれていたが、それらはすべて異なるチャンネルに合わせられていて、耳が痛くなるほどのボリュームで音が流れていた。それはまるでラスク病院の不協和音を作り直したようであったが、その中心に音楽の奴隷の姿はなかった。床はテレビショッピングでの衝動的に買い漁った電子機器でいっぱいだった。そのような騒音の嵐の中心にある静かな場所、それがロッキーだった。

 ある日、街なかを流している時モナハンはエリクソンに尋ねた。もう一度スタジオに戻りたくはないか、と。ロッキーは足が不自由になっていた。「もちろん!」と彼は純粋に答えた。モナハンはこの声を「甲高く、鼻がかっていて、叫び声ではないがそれでも通路3つ隔てても聴こえたであろう声」と綴っている。「楽しければね!」。モナハンはスピーディー・スパークス、ポール・リアリー、ルー・アン・バートン、チャーリー・セクストンといったミュージシャンを集めて傑作『All That May Do My Rhyme』(1995年)を制作した。このアルバムはキング・コフィのTrance Syndicateレーベルからリリースされたが、このレーベルはさらにエリクソンによるアコースティック・デモ「Please Judge」もリリースしている。Butthoke Surferのドラマーを長年務めたコフィはエリクソンが亡くなった夜フェイスブックに投稿した。「彼が僕をこのポジションに導いてくれたと言ってもいい。彼がテキサス・パンクを発明したんだよ」と。

 彼の作曲の功績をよみがえらせるため、モナハンはロッキーのキャリアの中で集積したたくさんのテープや手書きの紙片を集め、彼の書いた歌詞をすべて書き起こした。それはやがてヘンリー・ロリンズによって『Openers II』として出版された。イヴリンは息子がラスク病院で行った録音を含む、40曲を提供した。

 モナハンにとってこれらの仕事は天啓であり、『Never Say Goodbye』の着想もここから得られた。「僕はピッチコントローラーがついた小さいカセットレコーダーを持っていた。再生しては止め、そしてまた何回も再生して、速度を遅くして、また何回も聴いていたんだ」とモナハンは教えてくれた。彼はそのカセットをコフィの長年のパートナーであり今の夫であるクレイグ・スチュアートに聞かせた。彼はEmperor Jonesというレーベルをやっていた。このロッキーのラフでローファイで劣化したテープの中にアルバムを見出したのはスチュアートであった。このような作品をスチュアートはキッチンのテーブルの上に何ヶ月も置き、モナハンの助けも借りながらじっくり聴き進めた。そしてやがて彼は1971年から1985年の間に録音された14曲のコレクションを編纂した。それはエリクソンとギターだけによる、静かで、感動的で、忘れることの出来ない、思いがけないほどに平易な作品たちだった。

 『Never Say Goodbye』として現れたそれは、まるで広大で深遠な放浪、つながりを求める当て所もない旅に出た巡礼者の記録のように思える。エリクソンは繰り返し自分の感情と格闘しながらシンプルな歌詞(「I’ve never known this till now」)を吐き出し、「強制的ではない平静」への欲望といった驚異的な句を生み出していく。何というコンセプトだろうか。表題曲で彼は「この銀色の三日月は僕のものだ」と歌う。ギターは優しく爪弾かれまるで暗い水面にさざなみが浮かぶようだ。彼の曲にはすべて金言的な鮮やかな真実が隠されているが、「Be and Bring Me Home」はこのアルバムの頂点である。謎めいていて(「Her jewelry drops all its grime」)奇妙に明敏な(「I won’t jump on you though we are all rubber」)歌詞が胸が張り裂けそうな嘆願の周りに構成されている。

Suddenly my fireplace is friendly
Bringing me home
Suddenly I may control
Take little things meaning big so’s I’m not alone
Suddenly I’m not sick
Won’t you be and bring me home

「Someone is missing love」とエリクソンは歌う。「and now that someone is going home」。

 Elevators唯一のポップ・チャート入りを果たした「You're Gonna Mis Me」で完成された、エリクソンのクズリのような熱い叫び声は『Never Say Goodbye』では聴くことが出来ない。例えば「Birds'd Crashed」の別ヴァージョンがあるとしたら、「We're here, I'm here」と猛烈な断言をする彼が叫び声を上げるところを想像できるかもしれない。しかしこういった曲をもともとの表現で聴くことができるのは幸運である。『Never Say Goodbye』に収録されている楽曲は意図的なメタファーのような、遠くから聞こえてくるようなサウンドを持っている。それはまるでトンネルの奥から、ハートを探し求める者の孤独を増幅させながら響くようだ。テープのノイズでさえありがたい存在に思えてくる。エリクソンの忘れがたいこの歌詞を確認するものとして。「When you have ghosts, you have everything.」

 スコット・ニュートンが撮影したジャケットに写るエリクソンは、愛嬌があって薄汚く、コーデュロイのジャケットを着て、足元では犬が歩き回っていて、手にはギターを持っている。しかしこれらの楽曲を録音した当時のロッキー・エリクソンは神を剃り落とされたばかりであった。「あの人達は意地の悪いことに、私の髪を完全に剃り落としてしまった。そしてカーキ色の制服を着せられるのさ」と退院後に彼は振り返る。「入所したときは『おっ、長髪とシルクハットのやつが来たな』って感じだった。そして『よし、捕まえた。俺がタキシードを着るくらいひどいもんだな』って言われたんだ」。聞いていると、そこには彼をもう一度正常に戻すだけではなく、彼の歌詞をいつも奇妙だと見てしまいがちな世の中で彼の味方をするような人間を想像してしまう。彼は自分が異質であることを知っていた。

 『Never Say Goodbye』の衝撃は非常に小さい波となり、かなり若い頃の私を含む一握りのライターがレヴューを書いた。私は「Pushing and Pulling」や「You're an Unidentified Flying Object」、「Be and Bring Me Home」と言った曲を親友たちがひっきりなしに聞かせてくれたノース・カリフォルニアの小さな同人誌に寄稿した。私がリリースから間もなくしてオースティンに引っ越しても、そこは自分が憧れたヒーローにばったり出くわすかもしれないと思うほど小さな町に感じられた。私はぼんやりと電話帳をパラパラとめくり、ある名前を探していた。驚いたことに、ロッキー・エリクソンの名前があった。今となってはそのページを破っておくべきだったと思う。私は好奇心にかられてその住所の近くを車で通ってみたが、電話をかけたりドアをノックする勇気は出なかった。

 このアルバム自体は、奇妙で、そして非凡なアクシデントを生き抜いた者である。「精神病院に居ながらにして、彼がこのような作品―こんなにももろくも美しいラヴソングたち―を作ることが出来たという事実が、私にとっては信じられないことなんだ」と近年コフィは私に語ってくれた。これらの楽曲が録音されていたという事実も、それだけですでにひとつの偉業である。これらが何年もの間保管され、そして発掘され、人々に知られるところとなったという事実がさらにこの作品の不可能性と希少性を高めている。若々しく、壊れてしまいそうなロッキーの声が保存されているという事実は驚異的である。「10年経って、彼がもっと自立してもう一度レコーディングに臨むことを考えたとき、このような作品が生まれるかどうかはわからない」とコフィは言った。「これがリリースされた当時、私達は彼は二度と作品を作らないかもしれないと思っていたのです」。

 少なくとも10年の間、エリクソンは断固として医者や歯医者に診てもらおうとしなかった。やがて、2001年に彼の一番下の弟・サマーがなんとか彼を説得し、10年以上ぶりに医者のもとへ連れて行くことに成功した。ヘンリー・ロリンズが彼の新しい歯の代金を支払った。エリクソンの最後のルネサンス期となった10年の間に、彼はOkkervil Riverとアルバムを制作し、「Be and Bring Me Home」「Think Of As One」「Birds'd Crash」の新録バージョンも収録された。

 まるで墓碑を指示するかのように、「彼は先駆者だった」とモナハンは電話口で言った。「彼は音楽に対して正直であり続けた。絶対に妥協をしない男だった。彼は生き延びたんだ」と。さらに重要なことに、エリクソンは皆が思うよりも自己に対する意識が高かったと彼は強調した。「人々は自分の狂気を彼に投射したんだ。ロッキーを通じて生きた人は多いと思う。ロッキーがいたから、自分は狂ってないと思えたんだ」。ある人はこうまとめる。自分では探求する勇気も出ないような、世界の境目をさまよった人間による幻のような音楽によって、彼らは落ち着きを得られたんだ、と。

 エリクソンに親しい人々は、彼が最も大変だった時期に彼を助けることが如何に大変だったかということも話すが、ほとんどは彼が生まれつき持っていた思いやりについて語られる。「彼は時に、我々には見ることの出来ない現実世界の側面と精神的に調和することがあった」とOkkervil Riverのウィル・シェフが書いている。それこそが真にサイケデリックな状態なのかもしれない。「Special and magical music」とエリクソンは「Be and Bring Me Home」で歌っている。「these are feelings from one to another」。

 90年代中盤、モナハンやその他の友人たちは事実上のロッキー・エリクソンのサパー・クラブの一員であり、週に二回彼を食事に連れて行った。ある晩、モナハンが訪ねていくと、彼は断った。「彼は陽気だった」とモナハンは言う。「彼は、『いいか、墨は今日は行かない。僕抜きで、皆で行ってくるといい。僕はここで、みんなのためにくつろいでおくから!』と言ったの」。ロッキー、なんて愛しい人なのだろう。「みんなの『ために』くつろいでおくから」。