海外音楽評論・論文紹介

音楽に関するレビューや学術論文の和訳、紹介をするブログです。

<Pitchfork Review和訳>Chai: PUNK

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pitchfork.com

点数:8.3(BNM)
評者:Sophie Kemp

日本の4人組の2枚目のアルバムは、大胆不敵なフェミニストのメッセージが乗った、熱狂的で何もかもが過剰なポップに捧げられている

下の歌詞について考えてみてほしい:「ピンクのおしりは my charm/トゥインクル ジュエル パール プリンセス トワイライト!」そして次にミックスに少しきらめきをふりかけてみよう:ほんの少しだけボーカルにディストーションをかけて、複数のシンセのラインをねじ込んで、最後には面白半分で4つ打ちのドラムなんかも足してみよう。これで「I'm Me」、Chaiの甘〜いバブルガム・ポップのできあがりである。Chai。4人組のディスコ・パンク・バンドであり、様式化された共同生活を送り、おそろいの衣装を着ながら、日本という国における美しさや可愛らしさの機能の仕方を動揺させようと熱望するバンドである。

 名古屋を拠点とするこのバンドの2枚目となるアルバム、『PUNK』はとんでもないくらい思い切った作品である。現在のインディー・ロックのトレンドはヘヴィな音で、喪失や切望を歌うことである。しかしChaiは楽しみのためにイエスと叫ぶバンドであり、『PUNK』は自分でいること、友達を愛すること、そして自分の生き方にたいして周りがどう考えようと気にしないということについて真剣に書かれた作品である。「I don’t know about the world but I know me/I don’t hide my weight(世の中については知らないけど、私は自分のことはわかってる/体重は隠さない)」とボーカリストのManaは「I'm Me」の中で繰り返す。『PUNK』にはこのような大胆不敵なフェミニスト的ソングライティングが満載である。エンパワーメントがダサいのだとしたら、Chaiの女性たちはダサくあることを選んでいるのだ。

 ブログ・ハウス平穏な時代と、Lizzy Mercier DesclouxTom Tom Clubのようなダウンタウン・ニュー・ウェイヴ勢の恍惚とした楽しみ。Chaiはこの二つから等しく影響を受けている。楽しい物事がぎゅうぎゅうに詰まったこの30分のアルバムの中では、息継ぎをするのも難しい。例えば「GREAT JOB」を例に取ってみよう。この曲は田舎のアーケードで一段と光り輝く「ダンス・ダンス・レボリューション」から流れてくるような音楽に聴こえる。スロット・マシンの勝ちの演出が光り、シンセはまるで車のクラクション、ボーカルはトラックの内部で、まるで音質の中で受粉するためにうじゃうじゃと群れているミツバチのようにガヤガヤと叫びまわる。「ファッショニスタ」はネオンで光り輝くギターのオーバーダブでガンガンと突き進んでいくが、その一方で産業的な「かわいさ」の資本主義的衝動について大真面目に語っている。「Too much メイク/リップとアイブローだけで all set/ツヤのある yellow skin/これ以上はない」が象徴的なラインである。マーチングバンドのような15秒間のループによって構成されるポスト・パンク・トラック「THIS IS CHAI」では、彼女たちは人間の声の歪みや崩壊のエフェクトを探求している。これらの曲のノイジーなレイヤーを聴くと、ホイップクリームの缶が圧力で膨張して爆発する光景を思い浮かべてしまう。

 Chaiがやっとその勢いを緩めかかるのが、愛する人たちと新年を迎えることを歌う星のようなポップ曲「ウィンタイム」である。ベットリとしたようなシンセの音が印象的だ。バンドがアルバムの中で最も控えめな雰囲気にシフトチェンジすると、その歌詞世界は深い宇宙へと旅立つ。「冷たい空には/欠けてる月が笑うよ/まぶしいくらいに」と4人は歌う。単なる友情の歌であるにとどまらず、「ウィンタイム」は幸福が夜空に浮かぶ惑星を退行から抜け出させる力を持っている、そんな未来を描くのだ。

<Pitchfork Sunday Review和訳>Fiona Apple: When the Pawn...

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pitchfork.com

点数:9.4/10
評者:Judy Berman

フィオナ・アップルのセカンドアルバムには、彼女の魂と感情の深さを物語るダイヤのように研ぎ澄まされたソングライティングが詰まっている

ィオナ・アップルが書くことを始めたのは、両親との話し合いをより効率的に進めるためだった。問題児扱いされセラピーに通わされていた子供として、彼女はそのような争いごとにおいて自分の置かれている立場を大人たちに知ってもらうことに苦労していた。「だから私は自分の部屋に戻って手紙を書いたの。一時間ほどして部屋から出てくると、『これが私の気持ちです』ってその手紙を読んで、また部屋に戻る」と、アップルは1999年、ワシントン・ポスト紙のインタビューに答えている。「議論において、相手の目の前に自分の立場を置く感じが好きだった。手紙を書いたら、その議論で勝たなくたってよかった」

 この点において、そしてその他の多くの点において、彼女は早熟だった。そんな、議論において意義を申し立てるのと同じ衝動によって、この偉大なアート作品は作られた。無視を決め込もうとする大人たちに異なった世界の見方を見せつけるため。そのオーディエンスがたとえ二人だろうと、300万人―アップルの1999年発表のファースト・アルバム『Tidal』の場合―であっても。この驚くべきデビューアルバムには移り気な恋人やレイピスト、アップルが若くて小さな女性だからといって眼中に置かないような馬鹿者たちに対するアンサーが込められていた。ヒップ・ホップファンである彼女はボースティングの持つ力を理解していた。この無愛想さをもって、『Tidal』は誤解されていることにすでに慣れている者からの先制=自己防衛としても機能したのだ。

 新しいファンの多くはアップルよりも若い女性だったが(アルバムリリース時彼女は18歳だった)、彼女の個人主義的で溌剌としたメッセージを本能的に理解した。しかし彼女のあけすけさは、マスコミからの批判を招いてしまう:1997年のVMAアワードでの「この世界はクソだ」スピーチはエンタメ業界が認めたくはなかった領域にまで踏み込んだセレブリティ文化に対する分析だった。しかしこのスピーチは尻切れトンボのようでもあり、彼女が弁の立つ演説者というよりはやはり雄弁な物書きであることを示してもいる。彼女が2枚めのアルバムに向けて曲作りを始める頃には、アップルは以下のような評判を獲得していた―ビッチ、生意気なガキ、ヘロイン漬けの野良女、拒食症の疑いあり、そしてニューヨーク・タイムズ紙によればTVでは「ロリータ風のパーティー田舎娘を演じている」が、コンサートでは「枯れかけたスミレ」のようになるパフォーマー。この様な評判を彼女は振り落とすか、少なくとも彼女自身の言葉で再定義しようとしていた。

 『When The Pawn...』は一見、障壁のある恋や不健全な欲求を解剖するような10篇の曲群で、常に自分との戦いを強いられている間はロマンティックな関係は保つことができないことを力強く訴えているように見える。しかし、歌詞の多くの部分でアップルが呼びかける「you」というのは必ずしも単数形ではない。女性シンガーソングライターというのは総じて私小説的であると考えられているが、アップルは常々、作品の曲はひとつも特定の、個人的な出来事から作曲されていないと主張してきた。彼女は単に、この嘲笑的で批判的な世の中に対してべらべらと喋っているに過ぎないのかもしれない。

 彼女が内省的ではなく、もっと外を意識していることの第一の手かがりは、彼女がアルバムタイトルに選んだこの90語のポエムである。

When the Pawn Hits the Conflicts He Thinks Like a King What He Knows Throws the Blows When He Goes to the Fight and He’ll Win the Whole Thing ’Fore He Enters the Ring There’s No Body to Batter When Your Mind Is Your Might So When You Go Solo, You Hold Your Own Hand and Remember That Depth Is the Greatest of Heights and If You Know Where You Stand Then You Know Where to Land and If You Fall It Won’t Matter Cuz You’ll Know That You’re Right

(戦場に赴く歩兵は王様のように考えるの/戦いの中では知識こそがとどめをさせるから/そして彼はリングに上がらずとも/既に勝利を手に入れているわ/知性を武器にしたとき/叩きのめす相手など存在しないのだから/だから独りで歩き出すときには自分を信じて/自分を深めることだけが、頂上へと導いてくれるのだと覚えていなさい/そして自分が何処に立っているかを分かっていれば/何処に向かえばいいかも分かるはず/もしも途中でつまずいたとしても、大したことじゃない/だってあなたの中にこそ"真実"はあるのだから[訳:新谷洋子(日本盤ライナーノーツより)

 当時は注目を集めるための無意味な戦略だとして無視されていたが、このポエムは、世間に流布している良くない評判によって笑いものにされ、それから身を守ろうとしている傷つきやすい人間に対する激励演説として、実はかなりわかりやすい部類である(たしかにスポーツのメタファーがいくつも混在してはいるが)。1997年のSpin誌の表紙特集に対する読者の反応を読みながら、アップルはこの詩をツアー中に作った。その特集の中にはテリー・リチャードソンによる写真が掲載されていたのだが、そのキャプションにはいやに感情的な身体的描写があり、その中で彼女はうぬぼれた、芝居がかったいやな奴と描写されていたのだ。「ツアーバスで座っていたらビョークが表紙のSpin誌が置いてあって、拾って読んでみると私の特集に対するひどい読者投稿がたくさんあった『あいつはこの世で一番むかつく存在だ』などなど」と彼女はPost誌で回想する。「すごく動揺して、泣いた。どうやって自分を続けていったら良いのか、どうしたらこの状態から回復することができるのかわからなかった」

 しかし彼女は彼女自身を貫いた。遠慮のない自己分析で、世間のイメージをはねのけたのだ。1999年11月9日にリリースされた『When the Pawn...』は、唸りを上げる魂が目の細かい櫛で自らを解いているところをとらえたオーラ写真のような、よく作られた自画像ではない。1曲目の「On the Bound」において、ナレーターの幸福への不信感はすべてを飲み込んでしまうようなロマンスを脅迫する。「A Mistake」ではシンバルとシンセの低音がサイレンのサンプル音を使わずとも緊急事態を示唆し、アップルの告白の声が切迫感を増す。「私は大した好みを手に入れた/それはよくできた間違いをすること/間違いを犯したい/なんで間違いを犯しちゃいけないの?」しかし、自己破壊的なロックのクリシェとして始まるこの歌は、誠実さや凝り性というパンク的ではない性質についての嘆きに変わっていく。「私はいつも私がやるべきだと思ったことをやっている/大体いつもみんなにいいことをしている/なぜ?」

 『Tidal』における「Sleep to Dream」や「Never Is A Promise」のような虚勢には、彼女の強烈さが他の曲に与える影響に対するアップルの鋭敏な理解が見て取れる。そしてこのテーマがシングルにおいてよく扱われているのは単なるまぐれではないように思える。ひきつったようなシンコペーションの聴いた小曲が彼女のスモーキーなアルト・ヴォイスの敏捷さを際立たせる「Fast As You Can」は「あなたは自分がどれだけ狂っているか/そして私がどれだけ狂っているか知っているつもりなんだ」とご立派に冷やかしてみせる。これは恋人への警告として、そしてアップルのデビュー時におけるパブリシティを通じて彼女に向けられた中傷―それは有史以来のわがままな女性アーティストを払いのけるための中傷だった―として二重の意味合いを帯びる。これは精神疾患に関する描写の正統性についてポップ・カルチャーが真剣に考え始める何年も前だったが、この曲は彼女の内面の葛藤を決して負かすこともなだめることもできない獣(けもの)と身体を分け合うことになぞらえており、その闘いを「内側で萌芽すること」と描写している(2012年に、アップルは自身の強迫性障害について公表した)。

 「今日、またおかしくなっちゃった」と彼女は「Paper Bag」の中で歌う。グラミー賞にもノミネートされたこの曲は、『When The Pawn...』の中でも一番優しい曲として記憶されている曲かもしれない。ブロードウェイ・ミーツ・ビートルズといった趣のこの曲は勝ち誇るようなホーンの突風が特徴だが、メロディがバウンシーになっていくと、歌詞の内容はその調子の良さに抗うように突然、失望を歌う。歌詞は星や白昼夢、希望の象徴としてのハトの話から始まるが、突然このようなポップ・ソングの幻想を追い払い、アップルが求めている男が彼女のことを「片付ける気も起きないガラクタ」として見ているという薄暗い現実を明らかにする。彼女は自虐することになんのためらいもなく、「Paper Bag」は彼女の唯我論に対する狡猾な言及によって決定づけられる。「彼は言った『それは君の頭の中のことだろう』/そして私は言った『これだけじゃなくて全部がそうなのよ』と/でも彼はわかってくれなかった」。彼女と、無理解な世間が一気に引きずり出される。

 この曲はアップルの壊れやすく、気まぐれなイメージを拡大させたという点でアルバムを象徴する一曲である。それは自己認識の点だけではなく、ジャジーでビートがついたピアノ・バラードという『Tidal』のサウンドを拡張させたという点で象徴的なのだ。『When The Pawn...』のプロデューサー、ジョン・ブライオン(彼のバロック的なアレンジは近年、ルーファス・ウェインライトエイミー・マンといった時代やシーンを超越した声の文脈を形成した)は、彼女のスタイルは他の要素を飲み込んでしまうほど特徴的であること、そしてそれは一貫性を失わせるものではないことを見抜いていた。それでも、彼は自分でもこの作品のイノベーションについての業績が自分に負わされすぎていると感じている。Permorming Songwriter誌での談話において、「Fast As You Can」の拍子変化などに見られる変わったリズムの元はアップルの作曲によるものだと明かしている。彼は言う。「色で例えるとコーディネートをしたのは私だが、リズム自体はフィオナのものだ」

 実は、そのような役割分担を指揮したのはアップルである。ブライオンは作業を初めて間もない頃のことを覚えている。彼女はピアノで、ほぼ完成された『When The Pawn...』を演奏し、彼にこう伝えた。「私は優れた作曲家だし、いいシンガーで、自分の作った曲をピアノである程度は演奏できる。で、あなたはそれ以外に長けているわけでしょ。だからそういうふうに勧めていくのがいいと思うの。ああ、なんかズレてるなあと思ったら教えるね」と。それを心に留め、彼はまず彼女のヴォーカルとピアノを録音し(弾き語りで行われたこともあった)、それからディープで印象的なプロのセッション・ミュージシャンたちの助けを借りて他の楽器を足していった。多様なサウンドやスタイルをミックスするという骨の折れる作業であったが、ブライオンの手腕によってアルバムには一貫性があり、どのジャンルのクリシェも覆してしまうような、暗くもロマンティックな手触りが漂っている。

 鉛筆で書いたスケッチの上にコラージュを糊付けしてしまうように、このアレンジの結果アップルの曲が塗りつぶされてしまうという結果になる可能性も十分にあったが、ブライオンは盛大な飾り付けよりもディテールにこだわることを好んだ。大いなる別れの歌「Get Gone」では、まばらなピアノとブラシでこすられるスネアが聞こえる控えめなヴァースと、アップルが弾くキーボードが激しさを増し、ダグラス・サークによるストリングスが辛辣なボーカルを断ち切ってしまう、反抗的なコーラスとの間を行き来する。「To Your Love」のアウトロにおける唸るようなエレキ・ピアノのサウンドは曲のライミング・カプレットの可愛いらしさに割って入り、感情的な複雑さを加えている。「Paper Bag」と「Limp」という、このアルバムの中でも大胆で斬新な2曲に挟まれた「Love Ridden」は『Tidal』の型によって作られた優しい曲で、ブライオンのストリングセクションはアップルの声とピアノの周りの背景に少し影を投げかけるのみである。

 言うなれば『When the Pawn』は『Tidal』よりも身体的親密さをフランクに描写しているとも言える。しかし、後のアルバムではアップルはセックス・アピールを食い物にするのは止めている。ファースト・アルバムに収録され、機知に富んでいながらも広く誤解されている曲「Criminal」(誘惑するような歩き姿や悪名高きビデオは、彼女の作品の中で最も皮肉にまみれた90年代のティーン・ポップに似ていたのだが)と同じようなやり方で。アップルのセクシャリティに対する新しいアプローチはアグレッシヴ過ぎて、恐ろしさすら感じるものだった。「全然惹かれないの/だからあなたが売っているその肉をどこかにやって」と「Get Gone」の中で彼女は呻く。「Limp」の熱狂的なコーラスはガスライティング(訳注:心理的虐待の一種)、性的暴行、公衆の場での窃視行為(のぞき)などをまとめて想起させる:「私を狂人と呼べばいい、押さえつければいい/泣かせればいい、ベイビー、どこかに行って/今にあなたは自分の手のひらの中で野垂れ死ぬだろう」。

 デビュー作がトリプル・プラチナムになった歌手として、そして当時のボーイフレンドにして素晴らしい共作者だった、映画監督のポール・トーマス・アンダーソンの恋人として、彼女は大きな影響力を持つようになり、その力を使ってミュージック・ビデオ内の自分の提示のされ方にまで制御をするようなった。スーツを着込んだ男たちとまぬけな空想の中で踊る、アンダーソンによる作品「Paper Bag」は彼女の不機嫌なイメージを払拭するものだった。「Fast as You Can」では、彼女は曇った窓ガラスを吹き、そこでカメラが彼女を明瞭に捉える。最も驚くべきなのは「Limp」で、彼女は「Criminal」のMVを想起させるような暗い部屋の中にいる:彼女は自画像のジグソーパズルに取り組むのだが、そこに殴り書かれた「angry」という単語を完成させるピースを見つけることができない。最後の場面では、彼女はカメラを見下ろしてこう吐き捨てる。「私はあなたに何もしてないじゃん/でも何をしようとしても、あなたはほろ苦い嘘で私を打ち砕く」これらのビデオは視聴者のアップルに対する見方・イメージに挑戦するものだった。「Limp」が最も極端で、努力している人に対して冗談で攻撃するようなフレームの外の人々全員を巻き込むようなものだった。

 このようなサディストの中には、もちろん批評家も含まれている。それでもすべての批評家たちが、「彼女が性悪で子供っぽい魔性の女」というアップルのためにこしらえた語り口から彼女が除外されるにふさわしいと思ったわけではなかった。『When the Pawn...』に対する好意的な評判(それらが優位を占めていた)であっても、いくつかの小言を挟むのを忘れていなかった。「アップルのパブリック・イメージは、どんな意地悪なジャーナリストが望むよりもずっと彼女にダメージを与えていた」とA・Vクラブのジョシュア・クラインは書いている。「22歳の段階で、彼女はすでにコートニー・ラブを超える嫌な女で、その事実が彼女の素晴らしい音楽を覆い隠してしまうこともしばしばだった」。タイトルに関するジョークはある意味必要とされていた。Spin誌のエリック・ウェイズバードはこの作品が良いものとだと知りながら否定的なレビューを書いた男性批評家たちを暗に揶揄しながら、こう書いた。「私はこの作品をちゃんと鑑賞したから言わせてもらうが、このアルバムは本当の"ball-breaker"である」

 もしもそれが、すでにファンではなかった者たちの間でのアップルのイメージを押し上げることができなかったのだとしたら、すくなくとも『When the Pawn』は彼女の音楽が自ら語ることができる時代に現れたのだろう。『Tidal』が現れたのはアラニス・モリセットの『Jagged Little Pill』が、1995年の6月にリリースされたにもかかわらず10週連続で1位を獲得していた頃だ。ノー・ダウト、トレイシー・チャップマンシェリル・クロウ、ナタリー・マーチャント、ソフィー・B・ホーキンス、メリッサ・エサリッジ、メリル・ベインブリッジ、ジョーン・オズボーンといった面々がホット100を占める、「ロックな女性」の季節だった。アップルを深く傷つけた1997年11月号のSpin誌の表紙特集も「女性特集号」で、それは最初の「Lilith Fair」ツアーのあと間もなくであった。彼女の人気を後押しした「怒れる女性」というトレンドは、アラニス(アップルと同様にイライラしている若い女性)やトーリ・エイモス(自身のレイプ経験を歌にしているピアニスト)としょっちゅう比べられることを意味していた。

 1999年―ラップ・ロック、ティーン・ポップ、スマッシュ・マウス、サンタナ『Supernatural』の年―までには、彼女が類稀な存在であることは明白だった(アップルに似たアーティストがいないことは当時のポップ界の景色であり、作家でありRolling Stone誌の批評家であるロブ・シェフィールドはそれを見て彼にしては珍しく行き過ぎたことを書いている:「ある意味では、アップルの音楽はコーンやリンプ・ビズキットなどの怒りにまみれたラップ・メタルの精神的な姉妹なのである」)。振り返ってみると、彼女のほんとうの意味での同志というのはエリカ・バドゥやザ・マグネティック・フィールズ、ローリン・ヒル、コーナーショップなどのアーティストである。分類不可能なシンガーソングライターで、新旧を織り交ぜたスタイルで時代性を超越したものを作り出すのだ。Entertainment Weekly誌が『When The Pawn』のレビューの中で枠組みを提示したように、「たくさんの若いアーティストたちがチャートやMTVの『Total Request Live』を席巻していて、それは止まることがなさそうだ。しかしその現状によって我々は―なんと言えばよいのだろうか―長生きと本質をパフォーマーに求めるようになっている」

 ポップ・フェミニズムの台頭、メンタルヘルスにまつわる開けた、見聞の広い会話などが、あの10代の悲しい少女が1996年からずっと見てきたものを広く世界に知らしめるのには、フィオナ・アップルは狂ってなんていなかったのだと知らしめるのには、さらに2枚の型破りなアルバム(2005年の『Extraordinary Machine』と2012年の『The Idler Wheel』)が必要だった。でも『When The Pawn』は彼女を批判していた人ですら真剣に向き合うことを強いられるほどよい作品であり、批評家たちも不服ながら高く評価し、彼女が最終的には勝ちを収める闘いの始まりを告げる一斉射撃がこれであった。「私にはいい弁護人が必要」とアップルは「Criminal」の中で嘆願した。そして3年後、彼女は自分自身の最良の代弁者となったのだ。

<Pitchforok Sunday Review和訳>Eve: Let There Be Eve...Ruff Ryders' First Lady

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pitchfork.com

点数:8.1/10
評者;Wawiya Kamier

Eve、1999年のデビュー作。逞しく、意志に満ちたショウケース

997年、Eveの約束されたキャリアは一人の皮肉屋で、ジャンキーで、髪をブロンドに染めたデトロイト出身の白人少年によって終わりを迎えかけた。彼女は10代の頃から音楽に手を出していたが、本気で取り組み始めたのはたまたま立ち寄ったブロンクスのストリップクラブでMaseと出くわしたことがきっかけだった。「あの夜、彼はと二人でドライブして、日が昇るまで夜通し二人でラップしたの」と彼女は最近振り返った。「そして二度とクラブには戻らなかったわ」そしてドクター・ドレーのAftermathの幹部とこれまたばったり会い、彼女はロサンゼルスに飛び、オーディションを受け、その場で契約を交わした。共演を始めて8ヶ月が経ったところで、ドレーはエミネムに出会い、Eveはフィラデルフィアへと送り返されることになる。

 よくできた出自話にはありがちなことだが、この失敗がEve Jihan Jeffersを決心させた。そのチャンスはRuff Rydersという形で現れた。彼らはニューヨークのクルーで、90年代後期にはマネージメント会社からレーベルへと転身を遂げた。プラチナ・ブロンドの坊主頭、両胸に配された前足のタトゥー。Eveは目立った。しかしそれと同じくらい驚かれたのは彼女のラップスキルであった。「書いては読まされ、書いてはよ優れを繰り返した。まるでブートキャンプだった。彼らに自分が本物であることを証明しなければならなくて、それのおかげで良いMCになれたんだと思う」と彼女は言う。

 1998年、Ruff Rydersを代表するラッパー、DMXがダブル・プラチナ・アルバムをリリースしたのと同じ年、Eveは本格的に活動を開始する。その時点で、彼女の名前がクレジットされた仕事は映画『ブルワース』のサウンドトラックに提供した1曲だけだった(当時の名義はEve of Destruction)。しかし1999年にはエリカ・バドゥThe Rootsのブレイク曲「You Got Me」に参加(クレジットはされていない)、Blackstreet、Janet JacksonJa Ruleと共に「Girlfriend/Boyfriend」にも登場した。彼女は全く違うスタイルをこの二曲で披露している:前者ではずる賢く魅惑的な香りのするラップ、後者では真面目でウィットが効いたラップを。彼女の初リリースは、なんとなくサルサに影響されたと思われる「What Ya Want」で、ゲストはDru HillのNokio。E-MUのシンセのラテン・プリセットでごく簡単に組んだようなビートのこの曲はすぐにトップ40へと食い込んだ。

 その秋、2000年問題や不確かな未来へのあやふやな集団的不安心理が高まる中、Eveは自らを「スカートを履いた闘犬」と称しRuff Ryderに正式に加入、『Let There Be Eve...Ruff Ryders' First Lady』をリリースする。このアルバムは女性ラッパーとしては史上3枚目となるビルボード200の1位を獲得した。彼女はまだ21歳で、人気上昇中のラップ・クルーにおいて「ファースト・レディー」という象徴的な、しかしそれでいて強制的な役割を担わされていた女性たちの一人であった。リル・キム、フォクシー・ブラウン、ミア・X、そしてラー・ディガなどがこのジャンル内で名を挙げ、それぞれが自分のスタイルを持っていた。そしてもちろん外せないのがローリン・ヒルだ。彼女はどうにかしてワイクリフ(・ジョン)やThe Fugeesによる暴政を逃れ、今日まで破られることのない記録を持つアルバムをリリースすることに成功していた。

 Eveのように、この様な女性ラッパーたちは同じくらいの知名度を持つ男性ラッパーたちよりもカリスマ性がありスキルもあったが、自分のプロジェクトに対するクリエイティヴ面での権限が彼らほど与えられないことが多かった。『Let There Be Eve』ではその緊張感を感じることができるだろう;14曲と4つのスキットを通して、Ruff Rydersの傲慢なエネルギーは明白である。Eveは彼女自身のデビューアルバムにおいて、最初に登場する声でも、2番目でも、3番目でもない。イントロ曲「First Lady」は今まさにレッドカーペットが広げられようとしているのと同じような曲で、スウィズ・ビーツと男性の声によるコール・アンド・レスポンスが続く。「E−VAYって言ったら、Eで返せ!/RU−UFFって言ったら、RYDERSで返せ!」次の曲は鋼のように尖った「Let's Talk About」で、Ruff Ryders関係者のDrag-Onのアドリブで始まる。そして何秒後かにようやくEveが登場し、それはまるで太陽光のような安心感である。

 それでも、全体を通して「内輪感」は非常に強い。スウィズ・ビーツのプロデュースによる元の断片ー例えば凍てつくようなポッセ・カット「Scenario 2000」(フィーチャリングはDMX、Drag-On、The Lox)においては、スウィズは自分の楽曲をサンプリングしているーに彼女のアイデアが追加されているように思える箇所も、Eveは自分のために十分な空間を作る必要があった。胸をドシンと打つようなスキット「My B******s」はDMXの「My N****s」に対する直接の回答であるが、このプロジェクト全体のテーマを提示するような役割を見事に演じている:「子供の面倒をみる私のB**** s/お前がリスペクトしてない私のB****s/お前がいつも無視する私のB****s/お前らなんかリアルでもなんでもない、クソ以下だ」。Eveのリリックは書き起こすといたってシンプルに見えるが、それはフィリー・ラップが称賛されてきた叙情性と切迫さを湛えているのだ。

 『Let There Be Eve』を利用しようとすしたRuff Rydersの狙いとは裏腹に、「これはオレたちのゲームだ」と思いこんでいた男どもをEveは難なく負かしてしまい、このアルバムは自己決定の作品として受け止められることになった。このアルバムには実験的な側面はほとんど無いーそれは後の大ヒット作『Scorpion』を待たねばなるまいーが、Eveは器用に、スウィズ・ビーツの無気力なプロダクションを相手にまるでボクサーのように動き回る。当時、共演者や批評家はEveの成功の要因を彼女が伝統的な女性性を失うことなく男どもとつるむことができる能力にあると分析した。ローリング・ストーン誌のトゥール氏はこのアルバム評の中で彼女を「曲線のあるサグだ」と描写した。彼女の策略は、「スカートを履いた闘犬」になるにあたってジェンダー・コードをスイッチさせることを要求した。「クール・ガール」という概念がポップ・カルチャーの中で広く認識される何年も前の話である。これは過酷で攻撃的なフレームワークであった。すべてのジャンルを反映させ、Eveは自身のパワーを刻むために時にハーコーな、「男らしい」ラップをすることによってその命題に挑戦した。

 彼女は自身を大胆に定義する。フェミニストであり、元ストリッパーであり、男性ばかりのクルーに籍を置くことはなんでもないが女友達に対してはユニークな忠誠を誓う。このアルバムの主なシングル群はその両方に対する忠誠を表現したものである。景気の良い、弾むようなリズムの「Gotta Man」は絆のアンセムで、保釈金を喜んで支払うことや秘密を守ることを歌っている。10代の頃、私はよく「Love Is Blind」を聴いて泣いたものだった。この半自伝的なシングルにおいてEveは親友がパートナーに暴力を受けていることを物語り、復讐を夢見る:「お前を殺してしまうかもしれない/お前はあの子を人形のように扱い、棚の奥に押し込んだ/学校にも行かせず、チャンスも与えず/お前のせいで子供が生まれたのにお前はなんの手助けもしないじゃないか」。1999年というと、デスティニーズ・チャイルドやTLCが「Bills, Bills, Bills」や「No Scrubs」といった曲で男たちに責任を取るよう求めており、それによって彼女たちは不当にも男嫌いのフェミニストとして一括りにされてしまった。Eveもそのコーラス隊に加わったが、その精神をより具体的で、一か八かのリアリティーに落とし込んだ。電話代をかさませるような男も厄介だが、子供の面倒を見ない男も、パートナーに手を挙げる男も、周囲の女性の生活を困難にさせるような男も、同様に厄介なのだ。このメッセージは多くの人に突き刺さった。

 2000年、Eveは『ザ・クイーン・ラティファ・ショウ』に個人的経験をPSA(公共広告)として提供した、あの「Love Is Blind」の題材となった友人とともに登場した。フックで歌っているのはフェイス・エヴァンズだが、彼女にしては珍しくうす暗い声で歌っている。この曲は私個人の経験からはかけ離れているが、思春期を迎える若い女性としてこの曲の物語はクソみたいな架空の未来で起こりえそうなものの範疇の中にあると感ぜられた。90年代には、Salt-N-Pepaやリル・キムといった女性がヒップホップをセックス・ポジティヴ・フェミニズムを歓迎する雰囲気にも似たものに変えた。Eveはそれをもう一歩押し進め、複雑なナラティヴを駆使してセックスについてラップし(「あなたが私をイカせると、ここら一帯が洪水になるかも/靴下もびしょ濡れね」)、人生の砂っぽさを伝える。彼女はチャートのトップを占めていた、キラキラとしたファンタジーに対するありがたいカウンターバランスであった。それはまるで嫌というほどディズニーのファンタジー映画を見たあとに強力なドキュメンタリー作品を見るようなものだった。

 しかしこのアルバムのリリース後、Eveは自身が説明するところのうつ状態に陥ってしまう。彼女はいきなり訪れた急激な変化に飲み込まれてしまったのだ。「私はまだ21歳で、ほんとうの意味での話し相手もおらず、自分が経験していることを真に理解してくれる人もいなかった。私はその時まさに成長の真っ只中で、若い女性から女性へと変わりつつあった」と彼女は2001年、Ebony誌に語っている。

 彼女はRuff Rydersからクリエイティヴ面でのコントロールを勝ち取り、『Scorpion』という作品を作ることでそこから抜け出すことに成功した。「Let Me Blow Ya Mind」をフィーチャーしたこのポップなアルバムはグラミー賞の最優秀ラップ/サング・コラボレーション部門の最初の受賞作となった;彼女はDrag-Onとスウィズ・ビーツの代わりにグウェン・ステファニードクター・ドレーを手に入れたのだ。そうすることで、彼女は女性ラッパーというテリトリーを広げることに成功した。リル・キムやフォクシー・ブラウンといった彼女の同期たちはイット・ガール・ファッションに好ましさを見出していたが、Eveは高級ブランドの広告に出演することよりもより高い野望をいだいていた。「ファッションに気を使いすぎて、ラップを書くのがうまくない奴らもいる」と彼女はしたり顔でラップした。しかし彼女もやがて自身のブランド、惜しまれつつも短命に終わったFetishを立ち上げた。その間中ずっと彼女は25歳以降音楽を作り続けるとは思わないと、早期の引退を予言していた。彼女は演技や映画監督、慈善事業に興味を示していた。『Scorpion』から18年が経ち、彼女はいくつかの大予算映画には出演しているが、アルバムのリリースは2枚だけだ。彼女は約束を守ったのである。

<Pitchfork Review和訳>Juice WRLD: Death Race for Love

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pitchfork.com

点数:6.8/10
筆者:Alphonse Pierre

エモ・ラップの旗手が送る、72分にもわたる探求―ドラッグ、失恋、そして失恋につながるドラッグについて

www.youtube.com

 の浮上のスピードはそれを期待させたのだが、Juice WRLDがInterscopeのサインの入った箱に入れられ、「新しいラップ界の顔です、お見知りおきを」というメッセージと共に2018年のヒップホップ界の玄関に置かれることはなかった。この20歳のイリノイ出身のラッパーは2015年以来、Lil Peepのような赤裸々さ、Chief Keefのようなデリバリー、XXXTentacionのようなチープなアコースティック・ギターサウンドといった影響を、完璧なレシピを用いて自分のスタイルに発展させていった。しかしこのレシピだけでは彼の成功は説明がつかない。SoundCloudをちょっとスクロールするだけで、同じ様な材料をブレンドさせたアーティストがが山ほど出てくるが、成功しているのはほんの僅かである。その秘密は、Juice WRLDには人を引きつける才能があるということだ:あるラインはまるで、彼が見つけたiPodではMy Chemical Romanceの「Welcome To the Plack Parade」しか流れなかったかのように聞こえるし、かと思えばその次のラインはまるで彼がたった今『Bang Pt. 2』を聴き終えたのかのように聞こえるのだ。

 この『Death Race For Love』の72分間を通して―Juice WRLDのアルバムがポッドキャスト1.5個分の長さであるべき理由はまったくない―Juice WRLDの歌詞は二つのカテゴリーに分けられる。歌詞の50%は悪であり(「最悪の状況に逆戻り、悪魔の絵文字」)、残りの50%もまた悪であるが、それは頭の中に引っかかり、究極的には善となる(「君の最も暗い秘密を教えてよ、クソ、どうせお前はイエス様にもいわないんだろうよ」)。1曲目の「Empty」において、Juice WRLDは自身のお気に入りのプロデューサー、Nick MiraがプロデュースしたZaytovenのなり損ないのようなキーボードの上で、問題を隠すためのバンド・エイドのようにドラッグを使用する(「問題はスタイロフォームで解決」)。その無愛想さは「Robbery」のようなこれまたピアノ・リード曲でも続き、彼はオープン・マイクを台無しにする詩人のように歌い、映画『セイ・エニシング』のジョン・キューザックさながら恋人を取り戻そうとする。「医師を君の窓めがけて投げる/ぼくは家に戻らないと」

 Juice WRLDがエモーショナルになるときはいつも(つまり常に、ということだ)、彼はリーンによって泣きそうになりながらも、すんでのところでその悲しみをほろ苦さに変えるように聞こえる。彼とコラボ・アルバムをリリースしたFutureのように、Juice WRLDの開け具合には限界がああり、自分の男らしさに疑問を持たれることを恐れているように思える。その点について、文字通り「HeMotions」というタイトルの曲が収録されている。

 彼はまるでジキルとハイドである。彼は常軌を逸していて、自分の感情に正直ではない。しかしそれでいて、何かを憎しみによって乗り越えたときでさえどこか得意げなのである。まるで彼の世界は愛を中心に回っているようである。その回転が止まるときまでは。

 『Death Race For Love』には3人のゲストが登場する。一人目は場違い(だが歓迎だ)なR&Bシンガー、Brent Faiyazで、インタールードで歌っている。もうひとりは道化役のYoung Thug、そして3人目がエモいCleverの客演である。Cleverと並ぶと、Juice WRLDがいわゆる「エモ・ラップ」界隈からどれほど抜きん出た存在7日がよく分かる。Juice WRLDは金儲けがしたくてヒップホップを作っているパンク/ロック・アーティストではない。彼はジャンルの範疇外から影響を受けたラッパーなのである。彼はラップを離れ、もっと遠く、例えばポップ・パンクをやっていた可能性も十分にある。でも彼はそうしなかった。そしてその事実こそが『Death Race For Love』に本当のJuice WRLDを感じることができる理由でもある。これまでに受けた影響と心を素直に、人生の浮き沈みをリアルタイムで作品に反映させているという意味で。

<Pitchfork Sunday Review和訳>David Crosby: If I Could Only Remember My Name

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pitchfork.com

点数:8.7/10
筆者:Sam Sodomsky

デヴィッド・クロスビーのソロ・デビュー作。サイケデリック・フォーク・ロックの霧がかった夢

0年代は過ぎ去り、デヴィッド・クロスビーはボートの上で暮らしていた。レコーディング・スタジオの横に置かれた「Mayan号」と名付けられた59フィートのスクーナーだけが、彼がまともでいられる場所だった。クロスビーは11歳の時両親にセーリングのクラスに入学させられたのだった。カリフォルニアで生まれたその青年は夢見がちでいつもニヤニヤ笑っているような子供で、半権威主義的な気がありトラブルを起こすこともあった。そこで両親は、この子も船渠にやれば少しはしつけられるだろうし、少なくともひと夏を過ごす場所を与えてやれると思ったのだ。セーリングは彼にとっても合うようだった。まるで前世で多くの船の船長を務めていたかのように。それは慰めのような、奇妙で神秘的な感情だった。60年代の終わりに彼はCrosby, Stills, Nash & Youngの出世作『Déjà Vu』のタイトル・トラックにおいて、まさにこの高揚感について歌詞を書いた。

 それと同じ時期に、彼は人生ではじめての大きな喪失を経験している。1969年、クロスビーの恋人であったクリスティーン・ヒントンが猫を獣医に連れて行く途中でスクール・バスに衝突する事故を起こしたのだ。彼女は即死だった。悲しみに打たれひどくふさぎ込んだクロスビーは、その後20年間続くことになる長いスパイラルの入り口に立っていた。「ぼくはデヴィットの一部が死んだのをその日に見た。彼は宇宙が彼に一体何をしてくれるのか、声に出して思い悩んでいたんだ」とバンドメイトだったグラハム・ナッシュは書いている。そこで彼が頼ったのはハード・ドラッグだった。15年後、彼は変わり果てた姿で檻の中にいた。彼を彼たらしめていた創造の火花はほぼ消え去ってしまった。クロスビーは「過去の人」になってしまったように思えた。

 クラシック・ロック・ラジオという美しい悲喜劇において、デヴィッド・クロスビーという男は決して主人公ではなかった。彼はどちらかと言うとマリファナをキメた相棒といった趣だった。カラフルで愛らしく、いつもなんだか周りにいるやつ。時おりリードをとることもあるが、彼の声はいつもどこかの中間にいる時に最も輝いていた。The Byrds、CSN、CSNYにおいてもそうだった。彼のエゴについては多くが語られている―そしてその多くはクロスビー自身によって語られた―しかし周囲にいた人間によって自身のレガシーが定義されることに彼ほど満足感を感じているアーティストは少ない。友だちに囲まれて、彼は幸せだったのだ。グレイス・スリックは60年代にクロスビーと初めて出会った時のことを「あれ程の関心や喜び、自発的な反応を持っている人間は見たことがなかった。あんなに無邪気にエキサイトしている人間の顔は、見るだけで嬉しくなってしまう」と語る。

 セーリングと同じく、音楽も若きクロスビーにとっても合っているようだった。彼が音楽に目覚めたのは4歳のとき、母に連れられて公園で交響楽団を見た際だった。彼はその楽曲自体を除く全てに釘付けになった。楽器をチューニングする際の混沌とした音たち、演奏者たちが動作をに入る瞬間のシンコペートした肘のダンス、そしてとてつもない種類の音が一瞬にしてハーモニーとなり一つになる様を、彼は畏怖の念と共に座って見ていた。彼は、これらどのハーモニーもそれ自体ではこれほどまでにパワフルには響かないということに気がついた。「まるで波のように襲ってきたんだ」と彼は回想する。それは彼がキャリアを通じて追い求める緒であった。

 1971年発表のこの『In I Could Onlye Remember My Name』はクロスビーがソロ名義でリリースする初の作品にして、長い間「唯一の」リリースだった。このアルバムはハーモニー、共同体、そして一体感にまつわるアルバムである。バックバンドを務めるのはThe Grateful DeadとJefferson Airplane。ニール・ヤングジョニ・ミッチェル、グラハム・ナッシュといった著名メンバーも参加している。リリース当時、これらのメンバーはポピュラー音楽界で最も高名なアーティストであり、それぞれがキャリア面・商業面で絶頂期を迎えていた人たちである。しかし彼らが集まって作ったサウンドは素晴らしく曖昧なものだった。そのサウンドはまるで、朝夢から目覚めてそれを思い出そうとするようなものだった。霧がかっていて、一貫性はほぼ皆無、思い出そうとしたそばから霧散していってしまうような。

 これがデヴィッド・クロスビー流なのだ。彼の初期の曲を振り返れば、彼がポップ・ミュージックの制限と格闘しているのを聴くことができるだろう。彼はギターを変わった方法で演奏する。変則チューニングを好み、彼の曲や歌詞を予想だにしない場所へと運んでいく。彼の最初の名曲、The Byrdsの「Everybody's Been Burned」は標準的なロック・ソングに聞こえるが、曲の間ずっとベースがソロをとっているのがすごい。後に「What's Happening?!?!」ではものすごく真剣なムードで、まるで言わなければしょうがないことが多すぎて激怒しているかのように、言葉では本当の思いが伝わらないことに気がついたかのように歌っている。バンドはそんな彼についていくのが難しくなった。

 噂によると、クロスビーがThe Byrdsを追い出されたのにはいくつかの理由があるという。ひとつ、彼は一緒に働くには辛い人間だった。ふたつ、彼はステージ上での長い演説(ジョン・F・ケネディの暗殺に関する陰謀論など)をするようになった。みっつ、彼はこのやっかいな「3P」にまつわる曲を書いた。彼の不貞は続き、モントレー・ポップ・フェスティバルではBuffalo Springfieldのスティーヴン・スティルズとのロール・プレイングを引き受けた。バンドメイトたちはこれを不忠の兆候だととらえた―もしくは、彼を捨てるための単なる言い訳だったのかもしれない。The Byrdsを解雇されたあと、クロスビーとスティルズはThe Holliesのグラハム・ナッシュと作業を始め。タイトなソングライティングと3パートのハーモニーに焦点を当てた新しいプロジェクトを始動させた。クロスビーの冗談で笑ったり、必要なときは安らぎと知恵を授けてくれたり、Mayan号でカリフォルニア湾を下ったり。クロスビーはナッシュという自然に付き合えて安定したパートナーを見つけたのだ。

 『If I Could Only Remember My Name』の終盤、ナッシュとクロスビーは豪華な、言葉では言い表せない程美しい曲でデュエットしている。そのスキャットはクロスビーが書いた中でも最上級のメロディーである。「『言葉のない歌』と呼んだんだ」1970年のショウで彼は誇らしげに言う。そして横のナッシュを指差し、「そして彼は『葉のない木』と呼んだんだ。彼がどこにいるのかわかるだろ」という。観客が笑う。レコードのスリーヴには両方のタイトルの記載があって、ナッシュのタイトルが括弧の中に入れられている。この作品のグループ的メンタリティを物語る象徴的な妥協である。音楽とともに孤独であったクロスビーは、スケッチを聴いたのだ。そしてそれは周りの友達と合わさることで自然の力となった。

 このアルバムの製作はスタジオ内でのクロスビーの怠惰な生活の中で行われ、共演者が到着してムードを高め音楽を活気づける前は彼は壁にもたれかかったり涙をながすこともしばしばだった。ジェリー・ガルシアのペダル・スティールとジョニ・ミッチェルのコーラスはこの作品で最も伝統的な「Laughing」をサイケ・フォークの極北へと転化させた:沈みゆく怠惰な日没の余韻。万華鏡のような1曲目「Music Is Love」はただの泣きのギター・リフだが、聖歌隊がそれをコミューンへと変える。「みんな音楽とは愛だというさ」と彼らは口々に歌い、その言葉は真となる。

 クロスビーは断固としてこの作品を彼の痛みについての作品にしたがらなかった。「足を引きちぎられるアリと同じくらい、あの出来事はぼくにとって理不尽なことだった」と彼は自身の悲しみについてRolling Stone誌に語っている。「あれはぼくの人生において最もひどい出来事だったし、誰もそれを体験する必要なんかない」とも。音楽はあくまで逃避である。このアルバムはなんだか途中でいきなり終わる感じがある。それは平和でありながらどこか壊れたようなサウンドだ。

 ちゃんとした起承転結のある物語があるのは「Cowboy Movie」だけである。これはCSNYの離散に関する赤裸々なストーリーであり、ヒッピー神話の没落として興味深いのと同時に、過ぎ去っていく一分一秒のなかで必死でありながら孤独であったナレーターの描写も面白い。音楽自体にも物語がある:消えゆくキャンプファイヤーのようにパチパチと音を立てて消えていく構成は、節くれだった誇大妄想癖のあるヤングの思考を切り取った「Down By the River」を思わせる。クロスビーの声は普段よりざらついた感触を見せる。「ぼくは今アルバカーキで死んでいく/それは君が見た中で一番気の毒な光景かもしれない」と彼は最後に歌う。

 アルバムを締めくくるのはクロスビーが一人で録音した2曲だ。共にほぼアカペラであり、多重録音された彼の声が天使的、そして深遠に響く。「ぼくはただ座って、ふざけていただけなんだ」と彼はこの実験について語る。「でも突然、ぼくはふざけていないことに気がついたんだ」。「I'd Swear There Was Somebody Here」と名付けられた最後の曲はクリスティーンに捧げられた哀歌であると考えられている。この作品の中には政治的で辛辣な曲(「What Are Their Names」)や喪失について歌った歌(「Traction in the Rain」)が収録されているが、この曲は最も明瞭なメッセージを含んでいる。彼は無力に、取り憑かれたように歌う。

 70年代を通じて、クロスビーは徐々にフォーカスを失っていく。彼とナッシュは共にデュオとして、そしてCSNとしていくつかの強力なアルバムとヒットを飛ばすが、やがて距離を取るようになる。コカイン吸引パイプがアンプから落ちた際にクロスビーがジャムを止めたのを見た時に、ナッシュはこのバンドが終わってしまったことを悟った。事態は悪化するばかりであった。あるときには彼は警官から逃れようとしてMayan号に乗り込むこともあったが、やがてFBIに投降した。1年後彼が刑務所から出てくると、髪は短く切られ、彼のトレードマークであった口ひげもそられていた。素面になった彼だが、今度は健康状態が悪化していた。90年代には肝不全で死にかけた彼だが、その後も肥満と心臓病が彼を襲った。

 そんな間も、『If I Could Only Remember My Name』は評価を高めていった。クロスビーの他の作品や当時の批評家の誤解とは異なり、この作品は2000年代のフォーク・アーティスト達によって、ジュディ・シルヴァシュティ・バニヤンによる似たような宇宙的な作品たちと並べられて再発見されることになった。しかし、その門下で特筆すべきなのはクロスビー、彼自身であった。過去5年間の彼はこの作品の静かで催眠的なヘッドスペースへと戻ってきた。彼の直近の最高傑作『Here If You Listen』(2018)では、若き共演者たちと60年代や70年代に書いたデモを掘り起こし、書き捨てた思考を完結させた。彼は歌う「もし自分がいる物語が気に入らないなら/ペンを取ってもう一度書き直せばいい」と。

 それは彼の新しく興味深いキャリアのフェイズだが、それは失われたものすべてを思い起こさせる:共演者、友、時間。2014年にクロスビーはMayan号をBean Vrolykというカリフォルニアの大富豪に売却した。クロスビーはお金が必要で、この男なら大切にしてくれると思ったのだ。それ以来、彼は海に出ていない。しかしボートは最高の状態にある。整備ブログで、VrolykはMayan号の第二の人生について情熱的に綴っている。彼は未来の世代のためにこのボートを居住可能にしようとしている。彼はこのボートの製作者の孫に連絡を取り、歴史を学んだ。いくつかのレースにも参加しているようだ。「古いボートには愛情が必要だ」と彼は書いている。しかしそれを見つけられるのは一握りだけである。

<Pitchfork Review和訳>Solange: When I Get Home

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pitchfork.com

点数:8.4/10

筆者:Anupa Mistry

Solangeの4枚目のアルバムは落ち着いた、アンビエントで探究心に満ちた作品。スピリチュアル・ジャズからGucci Maneまでありとあらゆるものを使って、そして類まれなる作曲とプロダクションでSolangeは故郷を呼び起こす。

秋発売されたT Magazineのインタビューにおいて、ライターのAyana MathisはSolangeの新アルバム制作を「心の中のヒューストン」への回帰だと形容した。そこはSolangeとその姉の生誕地としてKnowles家の神話が色濃く残る街である。そのインタビューが行われた時はまだ『When I Get Home』という、まさに帰還についてのアルバムであることを示すこのタイトルはわかっていなかった。そして今登場したこのアルバムとそれに付随したショート・フィルムSolangeの心象風景としてのヒューストンを再構築する。

 それは文字通りの意味での過去の客体化でも、ましてや街の未来の記憶でも、精神の儚い網でもない。シーソーのようなベースはウッドパネルのついたキャンディーペイントのスラッブ(訳注:ヒューストンで盛んなクルマ文化のひとつ。こんな感じ)から鳴り響くようだ。シンセサイザーやサンプルはまるでヒューストンのダウンタウンにある空っぽのオフィスビルディングから放たれるようで、空の上へと反響していく。夕闇の中を馬で駆けるブラック・カウボーイは―さしずめドラムビートが刻む蹄の音か。空間の拒絶は宝だ。そしてDevin the DudeやScarfaceといった地元のラッパーの声は、まるで通り過ぎる車から聞こえる話し声だ。

 赤裸々な『A Seat at the Table』のリリースから3年がたち、Solangeは伝統的な曲構造、厭世的な歌詞を投げ捨て、より自由で、ホワイト・ゲイズ(訳注:白人中心的な世界観で世の中を眺めること)にとらわれない、音楽的にもテーマ的にもアンビギュアスなこの作品を作り上げた。『A Seat〜』ではニュー・オリンズがそうだったように、今作でもその中心となっているのはヒューストンという街だが、音楽そのものの化物のような多彩さは、「ホーム」という概念がより開かれていることを示唆している。そこから去っていく人たちに向けて、Solangeはある基本的教訓を授ける:ホームというものはあなたが所有することができるものではなく、あなたなしでも生きながらえるものだ、と。おそらく彼女は我々の記憶は信頼できるものではないということも理解していて、だからこそSlangeは音楽に動きを与えるのだ。思い出の不確かさを増強するような「私は見た…私は想像した/想像した…ものを」というリフレインが繰り返されることによって、我々はこの「心の中のヒューストン」へと滑り込んでいくのである。

 サウンドには動きがありすぎて、捉えるのが難しいほどだ。その曲がりくねったサウンドによってこの音楽が自動的に重要性を増すわけではない:むしろ、ジャズやドローン音楽のように、じっくり聞けば聞くほど感情を煽るのである。『A Seat at the Table』の時のようにSolangeが明白な説明を施していないので、この作品に接近しその意味を発見する責任は聴き手に委ねられる。これはアーティストにとっては開放的な創作の衝動になりうる。特に広く作家主義であると考えられているポップ・スターにとっては。Solangeと共作者たち―言うまでもないが、AbraとCassieを除けばほとんどが男だ―は様々な拍子記号の合間を潜り、縫い進み、前面に出た魔法のようなモーグのキーボートの下にイースターエッグを埋め込み、織り込まれたドラムラインがロー・エンドを飾る。サンプルやバックグラウンド・ヴォーカルも挿入され、ヒューストンの過去/現在/未来を象徴する人達の名がクレジットされている:Phylicia Rashadや詩人Pat Parkerといった人たちからSolangeの息子・Julez Smith II(「Nothing Without Intention」にクレジットがある)まで。

 『When I Get Home』は実験的でありつつ、聴きやすさを保っている。「Down With the Clique」や「Way to the Show」のメロディーは彼女のティーン・ポップ期のファースト・アルバム『Solo Star』の際の残り物をアレンジし直したものでもおかしくないほどだ。輝きの達人、Pharellはいつもの4カウント・イントロを携え「Sound of Rain」で登場する。この曲は90年代初期にあったぼんやりとした未来観が持っていた安っぽい「ピクセル的楽観主義」を完璧に伝えている。彼は「Almeda」でも自身の工具箱からタイトに締められたようなスネアの音とシンコペーションするピアノの音を提供している。これは赤ちゃん声のPlayboi Cartiの思いがけない参加により初期からのファンのお気に入りで、彼は暗闇の中で輝くダイアモンドについてラップし、Solangeは黒人の所有権を高らかに宣言する。我々はいまヒューストンにいるのだから、Solangeが最近ジャマイカで過ごした日々についてほのめかす曲は一曲だけだ。「Binz」は聴けばみな、壁を叩き腰や尻を振るだろう。Dirty Projectorsの「Stillness Is the Move」をカヴァーしたときから彼女の名刺代わりになっている3つに分かれた優美なハーモニーが濃密なアルペジオ・ベースラインの上を上昇していき、SolangeThe-Dreamが楽しげに乾杯を交わし、Sister Nancyの呪文のような歌声が響き渡る:「日没、風鈴/CPタイム(訳注:Colored People Timeの略。アフリカン・アメリカンは時間にルーズだというステレオタイプをもとにした表現)に起きてみたい

 ここでSolangeは音と戯れているのだ。スティーヴィー・ワンダーのような無限の高揚感をもたらす魔法、チョップド・アンド・スクリュードのサイケデリックな悦び、アリス・コルトレーンスピリチュアル・ジャズサン・ラーのアーケストラまで、様々な自由なテンプレートを使って。作品を通じて参加している主な共作者にJohn Carroll Kirbyがいるが、彼のソロ作品はニュー・エイジとしか形容できない。若きニューヨーク・ジャズ・グループ、Standing on the Cornerがドラマと緊張に満ちた崇高な瞬間をもたらしている。Solangeが好む、非言語的で、ポスト・モダンで、ケイト・ブッシュ的な振り付けにうってつけのテンプレートだ。

 『When I Get Home』は『A Seat at the Table』の感情的なカタルシスで浄化されたアンビエント作品として特に美しい。しかしここには明白なテーマめいたものは存在しない。アルバム収録曲19曲のうち14曲が3分以下であるが、このパッチーワークの効果は、例えばTierra Whackによるアイデア先行の簡潔さよりもさらに「意識の流れ」的ブリコラージュを思わせる。彼女は多くのアイデアを持っているが、このアルバムが彼女の美的実践について何を語っているのか、私にはまだわからない(「Nothing Without Intention」はそのタイトルにもかかわらず理解の助けにはならない)。しかしこの方向性を明らかにしたいという欲求は、『A Seat at the Table』があまりにも切迫したものだったからこそ気になるだけである。

 ここで、Solangeはくつろいでいる。このアルバムは聴くにしても、演奏するにしても、繰り返すに値する。繰り返すことは瞑想状態のきっかけにもなるし、決まり事にもなりうる。「想像したものを見た/想像したものを」と彼女は1曲目で歌う。「私達はあなたたちにうんざり/うんざりなのよ」と「Down With the Clique」と続く。そして「Almeda」での単一フレーズの繰り返し―誇りとともに「黒い肌、黒い顔、黒い肌、黒い髪」とリストアップしている―から切り替わる時までには、アルバムは半分終わり、ムード、夢を見ているような状態はここでリセットされる。

 マントラや祈りなど、繰り返すことで意識や存在を誘発したり、過去に呼びかけたり未来を変えたりするといったスピリチュアルな伝統が存在する。デザインの原則では繰り返しは一致や一貫性を伝えるものだと教えられる。SolangeGucci Maneと愛らしいヴァースを掛け合っている「My Skin My Logo」を聴いてみよう。曲自体は子供じみていて可愛らしい。マッチョなラッパーは彼のナーサリー・ライム的なフロウを少し和らげ、本当にナーサリー・ライムのように聞こえるラップをしている。繰り返しによってSolangeはタイムレスで形もない心の中のヒューストンを生き返らせる。彼女はこの繰り返しという装置を広範に、そして半ば強迫的に使用している。まるでアメリカにおける黒人音楽・黒人文化においてより広い文脈でこの慣習を思い出そうと、忘れまいと、位置づけようとしているように。

<Pitchfork Sunday Review和訳>Everything But the Girl: Walking Wounded

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点数:9.0/10

筆者:Ruth Saxelby

ポップとトリップ・ホップの、そして愛と記憶の交差点。1996年発表の傑作。

 Wrong」のMVの中で、銀色の壁に囲まれたホテルの部屋を歩く多くのTracey Thornたちは、大半がうつむいた姿勢である。彼女たちはヘビ革がプリントされたワンピースを纏い、しおれたクイッフ・ヘアは眉毛に届きそうだ。その後ろではこれまた多くのBen WattたちがThornの動きをつぶさに観察している。当時彼女の恋人であった彼は、床にかがんだり、壁にもたれかかったり、キッチンカウンターに座っていたりする。あるショットでは、二人の彼がThornの方にもたれかかり、彼女の優しいラインを口ずさむ。「私は彼がどういう人なのか知りたかった」。その間彼女は床を見つめている。このバンドメイトたちはシースルーであり、さらに言えばお互いにだけではなくサビにおいて周りで踊っているエキストラの群れにとっても幽霊なのである。「どこへ行こうが私はついていく/だって私は間違っているから」。

 我々が愛する人々は等しく肉体、血液、そして記憶でできている。時間とトラウマが人間関係に衝撃を与えたり、自分の感覚を粉々にしてしまう無数の方法。それが『Walking Wounded』というアルバムが歩き回る領域である。1996年5月にリリースされたUKの二人組・Everything But the Girlの8枚目となるこの作品のサウンドは、パズルの欠片を拾い集め、それを復元したようなものだ。その欠片がフィットするのなら、の話だけれど。当時のUKチャートはOasisのラッド・ロックとLighthouse Familyのイージー・リスニング・ヒットによって占領されていた(過去の焼き直しの、二つの大きく異なる例である)。TrickyやMassive Attackといったトリップ・ホップのパイオニアたちが批評家たちのお気に入りだったが、彼らの実験的な初期作はどちらかといえばソウルやヒップ・ホップを指向したものだった。点と点をつなぎ、ポップに新たな息吹を与える機会が長いこと待たれていたのだ。

 愛をその限界まで押し進めることについての曲「Wrong」がハウス的なピアノのリフによって緊張感を高めているのに対し、『Walking Wounded』の真価はダウンテンポドラムン・ベース、トリップ・ホップを利用した部分にこそある。このような当時まだ発展途上にあったジャンルを幅広くポップのフォーマットに落とし込むことは理論上、とんでもない大失敗に終わる可能性があった。しかし、痛むと同時に温かい、力強くはないが豊かである、といったようなThornの声の多重性や、Wattの真に宇宙的な音の構築を乗りこなしてしまうシームレスさには筆舌に尽くしがたい魅力がある。

 フェミニズムや左翼思想に根ざしながら、日常を描くようなThornとWattの曲作りはこれまでの7枚のアルバムで熟成し、『Walking Wounded』では彼らの精神を音楽との会話という形式で手繰り寄せることに成功している。彼らが手足を伸ばし、誰かを愛するということは何を意味するのか、そのつながりを保つのには何が必要なのかをじっくり考える事ができるのは、まさにこのアルバムのスペースの使い方によるものだ。

 アルバムは脆弱だったにもかかわらず、リリース当時『Walking Wounded』につきまとった言説は、このインディー・ポップ・バンドが急にダンスフロア志向になったことに終始した。彼らは以前からジャズ、ボサノヴァ、ソウル、管弦楽などの実験を経てきたが、この若さあふれる新しい方向性は彼らをそれまでにないほどのスターダムへと押し上げた。彼らのサクセスストーリーはよくこのように語られる:『Amplified Heart』(1996)収録の「Missing」をニューヨークのハウス・レジェンドTodd Terryが大胆にリミックスし、それが『Walking Wounded』のクラブ・サウンドにつながったんだ、と。Terryが「Wrong」のような曲の下地を用意したのは確かだが、この手の話にはありがちなように、このストーリーはかなりの部分を省略してしまっている。

 ThornとWattは1981年に大学で出会ってすぐ、互いを音楽の神・ミューズと思うようになった。ThornはKurt Cobainお気に入りポスト・パンク・グループMarine Girlsとして、そしてWattはRobert Wyattとコラボレーションしたソロのフォーク・アーティストとして、二人は同じレーベルと契約していた。ロックが覇権を握る世の中に嫌気がさしていた二人の間で、情熱的で音楽的なパートナーシップが築かれていった。彼らは共に、現状の模倣ではないなにかハイブリッドなサウンドを探求することに関心を持っていた。しかし彼らのレーベルBlanco y Negro―WEA/ワーナー・ミュージックの子会社である―はポップ・ヒットを欲しがり、ミュージシャンたちの自信を貪ってしまうようなある種のプレッシャーをかけていた。ツアー生活にインスパイアされた気だるい『Worldwide』(1991)を含む6枚のアルバムは、どこかノスタルジックな雰囲気があり、ヒットを飛ばした。しかし1992年の夏、Wattは極めて珍しく命の危険がある自己免疫異常、チャーグ・ストラウス症候群であると診断される。彼は腸の8割を取り除き、症状の再発もあり何ヶ月もの間集中治療下に置かれる必要があった。彼の回復は長くゆっくりで、厳しい食事制限も課されたという。

 1993年、Wattは新たな人生になれ始めると、急激にコンピュータシークエンサーに夢中になった。プロデューサーになる旅の始まりである。年の中頃になると、ThornはMassive Attackのセカンド・アルバム『Protection』にゲストボーカルで参加する招待を受けた。そのタイトル・トラックを初めて聴き、彼女は衝撃を隠せなかった。「これほどまでにスロウで空っぽな音楽作品をそれまでに聴いたことがあったかどうか、わからなかった」と彼女は自著『Bedsit Disco Queen』の中で回想する。Wattが健康を取り戻している間、この曲につけた歌がWattへの感情を牽引していた。

 その夏の初め、フェスティバルでFairport Conventionと共演するため、二人はオックスフォードシャーを訪れた。そこで見たのは60年代の英国フォーク・グループが、息が詰まる様なメジャー・レーベルの要求の外部で活動する姿だった。それを見たThornとWattは自分たちのDIYな出自を思い出し、不安を脱ぎ捨てることにした。「昔みたいに、私たちは『そうする必要があるから』作品を作っていた」ちThornは振り返る。

 そうして制作されたアルバム『Amlified Heart』(1994)は、患者と介護者両方の視点から、Wattの臨死体験の苦悩を伝えるものだった(Thornが大半の歌詞を書くことが多かったが、このアルバムでは半々である)。しかしサウンド面では、Fairport Conventionの切ないフォークよりもMassive Attackのような初期トリップ・ホップに接近したものとなった。そこにさらにクラブ風のタッチを加えたのが、カウベルアコースティック・ギターの伴奏が目立つ「Missing」であった。

 それをリードシングルにするにあたっては皆が賛同したが、その曲のポテンシャルにほんとうの意味で気がついたのはアメリカのレーベルだった。アトランティックはTodd Terryにリミックスを依頼し、それは1994年後半に米国でリリースされた12インチに収録されることとなった。それとは逆にWEAはこの英国のバンドはもう終わってしまったと判断し、捨ててしまった。

 「Missing」は一夜にしてヒットになったわけではなかった。その曲がもしかしたら成功するのかもしれないという兆候が見え始めたのは1995年初頭、ThornがMassive Attackと共にニューヨークでプロモーションを行っていた頃になってからだった(「その曲はもうすでにパワフルだった。私はただそこにビートとベースラインを加えただけ。ハウス・ミュージックはラジオ/クラブ両方の感覚を持っているとずっと感じていたんだ」とTerryは述懐する)。Massive AttackのDaddy Gはその曲をクラブで耳にし、Thornに「ダンス・フロア・ヒットのように聞こえた」と報告した。Massive Attackとのインタビューの合間を縫って、彼女はホテルの部屋で「Single」を書いた。それはアルバム制作が本格的に始まる前のことだったが、それが『Walking Dead』のトーンを定めることになった:関係性という文脈において絶対的個人として見られること/自分を見てしまうことという一種の苦しみ。後にThornはミュートされたサックスのような音のシンセと物憂げなトリップ・ホップ・ビートの上でこう歌う。「あなたなしの私って何?/それはより自分に近づいた私?それとも自分らしさを失った私?/若さ、騒々しさが増していく/まるで最初から誰ともつながっていなかったみたいに

 1995年春、ThornはWattとともにニューヨークに戻り、数ヶ月間『Walking Wounded』のアイデアを練った。その旅の道中、彼らはTerryのリミックスがマイアミ、そして全米でヒットとなりクラブやチャートを賑わせていることを知った。全世界で300万枚を売り上げたのだ。

 「Missing」がUKで爆発する数ヶ月前、Wattはロンドンのドラムン・ベース・シーンに身を投じた。そこで彼はFabioやDoc ScottといったDJを見にドラムン・ベースの始祖であるLTJ Bukemの「Speed」に赴いた。そこで彼はBukemがジャズと比較した、とにかく自由な音の流れを体に染み込ませた。彼の熱狂ぶりを見て、Thornもやがて夜のクラブについていくようになった。「ロック・コンサートでもなく、レイヴでもない―全く新しいものに感じられた。風変わりだけどどこか親近感もあって、『あり』だと思えた」と彼女は振り返る。

 これらの新しい出会いが弾けた精神的スペースは、『Walking Wounded』でThornとWattが取った作曲のアプローチの明確さに見て取ることができる。涼しげな「Flipside」(Wattによる歌詞とスコットランドのプロデューサーHowie Bのスクラッチがフィーチャーされている)では、Wattの人生が急激に変化した瞬間が直接的に言及されている。「92年夏、ロンドン/それを境に僕は大きく変わったと思うんだけど、君もそう思う?」次のヴァースでは、彼は海のなすがままに形を変え続ける海岸線に自分をたとえ、自分は「枯れた土地」だと書いている。これはトラウマの過程がその出来事だけではなく自分自身すら形成していくということの、詩的なリマインダーである。

 Thornの口から語られる歌詞は、Wattの臨死体験によって彼らは共によろめき、知っていた事柄に疑問を持つようになったということを強調する。「Flipside」のB面は「Big Deal」というゆっくりなドラムン・ベースナンバーである。Thornによって書かれたこの曲で、彼女はタイトルのフレーズをリアリティ・チェックのために使うという皮肉を見せる。フラストレーションのなか、彼女はWattがクラブに回答を探していることについて歌っているようだ:「あなたは治療をしたいと、考えることをやめたいと言う/痛いと、不安だと/まず自分を疑い、そして彼女を疑い/これはおおごとだ、そう私達は感じた」。誰もがどうにかしてトラウマを乗り越えるものだ、とこの曲はほのめかす。大事なことはお互いにそのためのスペースを確保することだ、と。

 『Walking Wounded』の強みはまさにそこにある。Everything But The Girlのアルバムはどれもスタイルやストーリーがあるが、ThornとWattの個々の才能が最も眩しく輝いているのは、彼らがすべてを脱ぎ捨てているこの作品である。彼らは複雑に絡み合った感情を吐露し、まだ生まれたてのサウンドとの対話を作り出し、これまで最もうちに閉じたやり方で作品作りを行った。そのタイムリーなサウンドと感情的なテーマはティーンエイジャーたちにはもちろん、彼らと同世代の大人たち(筆者含め)にも訴求した(ブリストルドラムン・ベースのドン、Roni Sizeも太鼓判を押している)。この作品はThornとWattにとって最も売れたアルバムであり、全世界での売上は130万枚に及ぶ。U2からもツアーの誘いが来たが、彼らがスペースを必要としたので結局断ることになった。ThornとWattの関係は最初からキャリアと結びついていたが、『Walking Wounded』で表明された独立の叫びを聴く時にあった。ツアーに出る代わりに彼らは家族を持ちはじめ、来るキャリアに向けてまた車輪を回し始めた。