<Pitchforok Sunday Review和訳>Eve: Let There Be Eve...Ruff Ryders' First Lady
点数:8.1/10
評者;Wawiya Kamier
Eve、1999年のデビュー作。逞しく、意志に満ちたショウケース
1997年、Eveの約束されたキャリアは一人の皮肉屋で、ジャンキーで、髪をブロンドに染めたデトロイト出身の白人少年によって終わりを迎えかけた。彼女は10代の頃から音楽に手を出していたが、本気で取り組み始めたのはたまたま立ち寄ったブロンクスのストリップクラブでMaseと出くわしたことがきっかけだった。「あの夜、彼はと二人でドライブして、日が昇るまで夜通し二人でラップしたの」と彼女は最近振り返った。「そして二度とクラブには戻らなかったわ」そしてドクター・ドレーのAftermathの幹部とこれまたばったり会い、彼女はロサンゼルスに飛び、オーディションを受け、その場で契約を交わした。共演を始めて8ヶ月が経ったところで、ドレーはエミネムに出会い、Eveはフィラデルフィアへと送り返されることになる。
よくできた出自話にはありがちなことだが、この失敗がEve Jihan Jeffersを決心させた。そのチャンスはRuff Rydersという形で現れた。彼らはニューヨークのクルーで、90年代後期にはマネージメント会社からレーベルへと転身を遂げた。プラチナ・ブロンドの坊主頭、両胸に配された前足のタトゥー。Eveは目立った。しかしそれと同じくらい驚かれたのは彼女のラップスキルであった。「書いては読まされ、書いてはよ優れを繰り返した。まるでブートキャンプだった。彼らに自分が本物であることを証明しなければならなくて、それのおかげで良いMCになれたんだと思う」と彼女は言う。
1998年、Ruff Rydersを代表するラッパー、DMXがダブル・プラチナ・アルバムをリリースしたのと同じ年、Eveは本格的に活動を開始する。その時点で、彼女の名前がクレジットされた仕事は映画『ブルワース』のサウンドトラックに提供した1曲だけだった(当時の名義はEve of Destruction)。しかし1999年にはエリカ・バドゥとThe Rootsのブレイク曲「You Got Me」に参加(クレジットはされていない)、Blackstreet、Janet Jackson、Ja Ruleと共に「Girlfriend/Boyfriend」にも登場した。彼女は全く違うスタイルをこの二曲で披露している:前者ではずる賢く魅惑的な香りのするラップ、後者では真面目でウィットが効いたラップを。彼女の初リリースは、なんとなくサルサに影響されたと思われる「What Ya Want」で、ゲストはDru HillのNokio。E-MUのシンセのラテン・プリセットでごく簡単に組んだようなビートのこの曲はすぐにトップ40へと食い込んだ。
その秋、2000年問題や不確かな未来へのあやふやな集団的不安心理が高まる中、Eveは自らを「スカートを履いた闘犬」と称しRuff Ryderに正式に加入、『Let There Be Eve...Ruff Ryders' First Lady』をリリースする。このアルバムは女性ラッパーとしては史上3枚目となるビルボード200の1位を獲得した。彼女はまだ21歳で、人気上昇中のラップ・クルーにおいて「ファースト・レディー」という象徴的な、しかしそれでいて強制的な役割を担わされていた女性たちの一人であった。リル・キム、フォクシー・ブラウン、ミア・X、そしてラー・ディガなどがこのジャンル内で名を挙げ、それぞれが自分のスタイルを持っていた。そしてもちろん外せないのがローリン・ヒルだ。彼女はどうにかしてワイクリフ(・ジョン)やThe Fugeesによる暴政を逃れ、今日まで破られることのない記録を持つアルバムをリリースすることに成功していた。
Eveのように、この様な女性ラッパーたちは同じくらいの知名度を持つ男性ラッパーたちよりもカリスマ性がありスキルもあったが、自分のプロジェクトに対するクリエイティヴ面での権限が彼らほど与えられないことが多かった。『Let There Be Eve』ではその緊張感を感じることができるだろう;14曲と4つのスキットを通して、Ruff Rydersの傲慢なエネルギーは明白である。Eveは彼女自身のデビューアルバムにおいて、最初に登場する声でも、2番目でも、3番目でもない。イントロ曲「First Lady」は今まさにレッドカーペットが広げられようとしているのと同じような曲で、スウィズ・ビーツと男性の声によるコール・アンド・レスポンスが続く。「E−VAYって言ったら、Eで返せ!/RU−UFFって言ったら、RYDERSで返せ!」次の曲は鋼のように尖った「Let's Talk About」で、Ruff Ryders関係者のDrag-Onのアドリブで始まる。そして何秒後かにようやくEveが登場し、それはまるで太陽光のような安心感である。
それでも、全体を通して「内輪感」は非常に強い。スウィズ・ビーツのプロデュースによる元の断片ー例えば凍てつくようなポッセ・カット「Scenario 2000」(フィーチャリングはDMX、Drag-On、The Lox)においては、スウィズは自分の楽曲をサンプリングしているーに彼女のアイデアが追加されているように思える箇所も、Eveは自分のために十分な空間を作る必要があった。胸をドシンと打つようなスキット「My B******s」はDMXの「My N****s」に対する直接の回答であるが、このプロジェクト全体のテーマを提示するような役割を見事に演じている:「子供の面倒をみる私のB**** s/お前がリスペクトしてない私のB****s/お前がいつも無視する私のB****s/お前らなんかリアルでもなんでもない、クソ以下だ」。Eveのリリックは書き起こすといたってシンプルに見えるが、それはフィリー・ラップが称賛されてきた叙情性と切迫さを湛えているのだ。
『Let There Be Eve』を利用しようとすしたRuff Rydersの狙いとは裏腹に、「これはオレたちのゲームだ」と思いこんでいた男どもをEveは難なく負かしてしまい、このアルバムは自己決定の作品として受け止められることになった。このアルバムには実験的な側面はほとんど無いーそれは後の大ヒット作『Scorpion』を待たねばなるまいーが、Eveは器用に、スウィズ・ビーツの無気力なプロダクションを相手にまるでボクサーのように動き回る。当時、共演者や批評家はEveの成功の要因を彼女が伝統的な女性性を失うことなく男どもとつるむことができる能力にあると分析した。ローリング・ストーン誌のトゥール氏はこのアルバム評の中で彼女を「曲線のあるサグだ」と描写した。彼女の策略は、「スカートを履いた闘犬」になるにあたってジェンダー・コードをスイッチさせることを要求した。「クール・ガール」という概念がポップ・カルチャーの中で広く認識される何年も前の話である。これは過酷で攻撃的なフレームワークであった。すべてのジャンルを反映させ、Eveは自身のパワーを刻むために時にハーコーな、「男らしい」ラップをすることによってその命題に挑戦した。
彼女は自身を大胆に定義する。フェミニストであり、元ストリッパーであり、男性ばかりのクルーに籍を置くことはなんでもないが女友達に対してはユニークな忠誠を誓う。このアルバムの主なシングル群はその両方に対する忠誠を表現したものである。景気の良い、弾むようなリズムの「Gotta Man」は絆のアンセムで、保釈金を喜んで支払うことや秘密を守ることを歌っている。10代の頃、私はよく「Love Is Blind」を聴いて泣いたものだった。この半自伝的なシングルにおいてEveは親友がパートナーに暴力を受けていることを物語り、復讐を夢見る:「お前を殺してしまうかもしれない/お前はあの子を人形のように扱い、棚の奥に押し込んだ/学校にも行かせず、チャンスも与えず/お前のせいで子供が生まれたのにお前はなんの手助けもしないじゃないか」。1999年というと、デスティニーズ・チャイルドやTLCが「Bills, Bills, Bills」や「No Scrubs」といった曲で男たちに責任を取るよう求めており、それによって彼女たちは不当にも男嫌いのフェミニストとして一括りにされてしまった。Eveもそのコーラス隊に加わったが、その精神をより具体的で、一か八かのリアリティーに落とし込んだ。電話代をかさませるような男も厄介だが、子供の面倒を見ない男も、パートナーに手を挙げる男も、周囲の女性の生活を困難にさせるような男も、同様に厄介なのだ。このメッセージは多くの人に突き刺さった。
2000年、Eveは『ザ・クイーン・ラティファ・ショウ』に個人的経験をPSA(公共広告)として提供した、あの「Love Is Blind」の題材となった友人とともに登場した。フックで歌っているのはフェイス・エヴァンズだが、彼女にしては珍しくうす暗い声で歌っている。この曲は私個人の経験からはかけ離れているが、思春期を迎える若い女性としてこの曲の物語はクソみたいな架空の未来で起こりえそうなものの範疇の中にあると感ぜられた。90年代には、Salt-N-Pepaやリル・キムといった女性がヒップホップをセックス・ポジティヴ・フェミニズムを歓迎する雰囲気にも似たものに変えた。Eveはそれをもう一歩押し進め、複雑なナラティヴを駆使してセックスについてラップし(「あなたが私をイカせると、ここら一帯が洪水になるかも/靴下もびしょ濡れね」)、人生の砂っぽさを伝える。彼女はチャートのトップを占めていた、キラキラとしたファンタジーに対するありがたいカウンターバランスであった。それはまるで嫌というほどディズニーのファンタジー映画を見たあとに強力なドキュメンタリー作品を見るようなものだった。
しかしこのアルバムのリリース後、Eveは自身が説明するところのうつ状態に陥ってしまう。彼女はいきなり訪れた急激な変化に飲み込まれてしまったのだ。「私はまだ21歳で、ほんとうの意味での話し相手もおらず、自分が経験していることを真に理解してくれる人もいなかった。私はその時まさに成長の真っ只中で、若い女性から女性へと変わりつつあった」と彼女は2001年、Ebony誌に語っている。
彼女はRuff Rydersからクリエイティヴ面でのコントロールを勝ち取り、『Scorpion』という作品を作ることでそこから抜け出すことに成功した。「Let Me Blow Ya Mind」をフィーチャーしたこのポップなアルバムはグラミー賞の最優秀ラップ/サング・コラボレーション部門の最初の受賞作となった;彼女はDrag-Onとスウィズ・ビーツの代わりにグウェン・ステファニーとドクター・ドレーを手に入れたのだ。そうすることで、彼女は女性ラッパーというテリトリーを広げることに成功した。リル・キムやフォクシー・ブラウンといった彼女の同期たちはイット・ガール・ファッションに好ましさを見出していたが、Eveは高級ブランドの広告に出演することよりもより高い野望をいだいていた。「ファッションに気を使いすぎて、ラップを書くのがうまくない奴らもいる」と彼女はしたり顔でラップした。しかし彼女もやがて自身のブランド、惜しまれつつも短命に終わったFetishを立ち上げた。その間中ずっと彼女は25歳以降音楽を作り続けるとは思わないと、早期の引退を予言していた。彼女は演技や映画監督、慈善事業に興味を示していた。『Scorpion』から18年が経ち、彼女はいくつかの大予算映画には出演しているが、アルバムのリリースは2枚だけだ。彼女は約束を守ったのである。