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<Pitchfork Sunday Review和訳>David Crosby: If I Could Only Remember My Name

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pitchfork.com

点数:8.7/10
筆者:Sam Sodomsky

デヴィッド・クロスビーのソロ・デビュー作。サイケデリック・フォーク・ロックの霧がかった夢

0年代は過ぎ去り、デヴィッド・クロスビーはボートの上で暮らしていた。レコーディング・スタジオの横に置かれた「Mayan号」と名付けられた59フィートのスクーナーだけが、彼がまともでいられる場所だった。クロスビーは11歳の時両親にセーリングのクラスに入学させられたのだった。カリフォルニアで生まれたその青年は夢見がちでいつもニヤニヤ笑っているような子供で、半権威主義的な気がありトラブルを起こすこともあった。そこで両親は、この子も船渠にやれば少しはしつけられるだろうし、少なくともひと夏を過ごす場所を与えてやれると思ったのだ。セーリングは彼にとっても合うようだった。まるで前世で多くの船の船長を務めていたかのように。それは慰めのような、奇妙で神秘的な感情だった。60年代の終わりに彼はCrosby, Stills, Nash & Youngの出世作『Déjà Vu』のタイトル・トラックにおいて、まさにこの高揚感について歌詞を書いた。

 それと同じ時期に、彼は人生ではじめての大きな喪失を経験している。1969年、クロスビーの恋人であったクリスティーン・ヒントンが猫を獣医に連れて行く途中でスクール・バスに衝突する事故を起こしたのだ。彼女は即死だった。悲しみに打たれひどくふさぎ込んだクロスビーは、その後20年間続くことになる長いスパイラルの入り口に立っていた。「ぼくはデヴィットの一部が死んだのをその日に見た。彼は宇宙が彼に一体何をしてくれるのか、声に出して思い悩んでいたんだ」とバンドメイトだったグラハム・ナッシュは書いている。そこで彼が頼ったのはハード・ドラッグだった。15年後、彼は変わり果てた姿で檻の中にいた。彼を彼たらしめていた創造の火花はほぼ消え去ってしまった。クロスビーは「過去の人」になってしまったように思えた。

 クラシック・ロック・ラジオという美しい悲喜劇において、デヴィッド・クロスビーという男は決して主人公ではなかった。彼はどちらかと言うとマリファナをキメた相棒といった趣だった。カラフルで愛らしく、いつもなんだか周りにいるやつ。時おりリードをとることもあるが、彼の声はいつもどこかの中間にいる時に最も輝いていた。The Byrds、CSN、CSNYにおいてもそうだった。彼のエゴについては多くが語られている―そしてその多くはクロスビー自身によって語られた―しかし周囲にいた人間によって自身のレガシーが定義されることに彼ほど満足感を感じているアーティストは少ない。友だちに囲まれて、彼は幸せだったのだ。グレイス・スリックは60年代にクロスビーと初めて出会った時のことを「あれ程の関心や喜び、自発的な反応を持っている人間は見たことがなかった。あんなに無邪気にエキサイトしている人間の顔は、見るだけで嬉しくなってしまう」と語る。

 セーリングと同じく、音楽も若きクロスビーにとっても合っているようだった。彼が音楽に目覚めたのは4歳のとき、母に連れられて公園で交響楽団を見た際だった。彼はその楽曲自体を除く全てに釘付けになった。楽器をチューニングする際の混沌とした音たち、演奏者たちが動作をに入る瞬間のシンコペートした肘のダンス、そしてとてつもない種類の音が一瞬にしてハーモニーとなり一つになる様を、彼は畏怖の念と共に座って見ていた。彼は、これらどのハーモニーもそれ自体ではこれほどまでにパワフルには響かないということに気がついた。「まるで波のように襲ってきたんだ」と彼は回想する。それは彼がキャリアを通じて追い求める緒であった。

 1971年発表のこの『In I Could Onlye Remember My Name』はクロスビーがソロ名義でリリースする初の作品にして、長い間「唯一の」リリースだった。このアルバムはハーモニー、共同体、そして一体感にまつわるアルバムである。バックバンドを務めるのはThe Grateful DeadとJefferson Airplane。ニール・ヤングジョニ・ミッチェル、グラハム・ナッシュといった著名メンバーも参加している。リリース当時、これらのメンバーはポピュラー音楽界で最も高名なアーティストであり、それぞれがキャリア面・商業面で絶頂期を迎えていた人たちである。しかし彼らが集まって作ったサウンドは素晴らしく曖昧なものだった。そのサウンドはまるで、朝夢から目覚めてそれを思い出そうとするようなものだった。霧がかっていて、一貫性はほぼ皆無、思い出そうとしたそばから霧散していってしまうような。

 これがデヴィッド・クロスビー流なのだ。彼の初期の曲を振り返れば、彼がポップ・ミュージックの制限と格闘しているのを聴くことができるだろう。彼はギターを変わった方法で演奏する。変則チューニングを好み、彼の曲や歌詞を予想だにしない場所へと運んでいく。彼の最初の名曲、The Byrdsの「Everybody's Been Burned」は標準的なロック・ソングに聞こえるが、曲の間ずっとベースがソロをとっているのがすごい。後に「What's Happening?!?!」ではものすごく真剣なムードで、まるで言わなければしょうがないことが多すぎて激怒しているかのように、言葉では本当の思いが伝わらないことに気がついたかのように歌っている。バンドはそんな彼についていくのが難しくなった。

 噂によると、クロスビーがThe Byrdsを追い出されたのにはいくつかの理由があるという。ひとつ、彼は一緒に働くには辛い人間だった。ふたつ、彼はステージ上での長い演説(ジョン・F・ケネディの暗殺に関する陰謀論など)をするようになった。みっつ、彼はこのやっかいな「3P」にまつわる曲を書いた。彼の不貞は続き、モントレー・ポップ・フェスティバルではBuffalo Springfieldのスティーヴン・スティルズとのロール・プレイングを引き受けた。バンドメイトたちはこれを不忠の兆候だととらえた―もしくは、彼を捨てるための単なる言い訳だったのかもしれない。The Byrdsを解雇されたあと、クロスビーとスティルズはThe Holliesのグラハム・ナッシュと作業を始め。タイトなソングライティングと3パートのハーモニーに焦点を当てた新しいプロジェクトを始動させた。クロスビーの冗談で笑ったり、必要なときは安らぎと知恵を授けてくれたり、Mayan号でカリフォルニア湾を下ったり。クロスビーはナッシュという自然に付き合えて安定したパートナーを見つけたのだ。

 『If I Could Only Remember My Name』の終盤、ナッシュとクロスビーは豪華な、言葉では言い表せない程美しい曲でデュエットしている。そのスキャットはクロスビーが書いた中でも最上級のメロディーである。「『言葉のない歌』と呼んだんだ」1970年のショウで彼は誇らしげに言う。そして横のナッシュを指差し、「そして彼は『葉のない木』と呼んだんだ。彼がどこにいるのかわかるだろ」という。観客が笑う。レコードのスリーヴには両方のタイトルの記載があって、ナッシュのタイトルが括弧の中に入れられている。この作品のグループ的メンタリティを物語る象徴的な妥協である。音楽とともに孤独であったクロスビーは、スケッチを聴いたのだ。そしてそれは周りの友達と合わさることで自然の力となった。

 このアルバムの製作はスタジオ内でのクロスビーの怠惰な生活の中で行われ、共演者が到着してムードを高め音楽を活気づける前は彼は壁にもたれかかったり涙をながすこともしばしばだった。ジェリー・ガルシアのペダル・スティールとジョニ・ミッチェルのコーラスはこの作品で最も伝統的な「Laughing」をサイケ・フォークの極北へと転化させた:沈みゆく怠惰な日没の余韻。万華鏡のような1曲目「Music Is Love」はただの泣きのギター・リフだが、聖歌隊がそれをコミューンへと変える。「みんな音楽とは愛だというさ」と彼らは口々に歌い、その言葉は真となる。

 クロスビーは断固としてこの作品を彼の痛みについての作品にしたがらなかった。「足を引きちぎられるアリと同じくらい、あの出来事はぼくにとって理不尽なことだった」と彼は自身の悲しみについてRolling Stone誌に語っている。「あれはぼくの人生において最もひどい出来事だったし、誰もそれを体験する必要なんかない」とも。音楽はあくまで逃避である。このアルバムはなんだか途中でいきなり終わる感じがある。それは平和でありながらどこか壊れたようなサウンドだ。

 ちゃんとした起承転結のある物語があるのは「Cowboy Movie」だけである。これはCSNYの離散に関する赤裸々なストーリーであり、ヒッピー神話の没落として興味深いのと同時に、過ぎ去っていく一分一秒のなかで必死でありながら孤独であったナレーターの描写も面白い。音楽自体にも物語がある:消えゆくキャンプファイヤーのようにパチパチと音を立てて消えていく構成は、節くれだった誇大妄想癖のあるヤングの思考を切り取った「Down By the River」を思わせる。クロスビーの声は普段よりざらついた感触を見せる。「ぼくは今アルバカーキで死んでいく/それは君が見た中で一番気の毒な光景かもしれない」と彼は最後に歌う。

 アルバムを締めくくるのはクロスビーが一人で録音した2曲だ。共にほぼアカペラであり、多重録音された彼の声が天使的、そして深遠に響く。「ぼくはただ座って、ふざけていただけなんだ」と彼はこの実験について語る。「でも突然、ぼくはふざけていないことに気がついたんだ」。「I'd Swear There Was Somebody Here」と名付けられた最後の曲はクリスティーンに捧げられた哀歌であると考えられている。この作品の中には政治的で辛辣な曲(「What Are Their Names」)や喪失について歌った歌(「Traction in the Rain」)が収録されているが、この曲は最も明瞭なメッセージを含んでいる。彼は無力に、取り憑かれたように歌う。

 70年代を通じて、クロスビーは徐々にフォーカスを失っていく。彼とナッシュは共にデュオとして、そしてCSNとしていくつかの強力なアルバムとヒットを飛ばすが、やがて距離を取るようになる。コカイン吸引パイプがアンプから落ちた際にクロスビーがジャムを止めたのを見た時に、ナッシュはこのバンドが終わってしまったことを悟った。事態は悪化するばかりであった。あるときには彼は警官から逃れようとしてMayan号に乗り込むこともあったが、やがてFBIに投降した。1年後彼が刑務所から出てくると、髪は短く切られ、彼のトレードマークであった口ひげもそられていた。素面になった彼だが、今度は健康状態が悪化していた。90年代には肝不全で死にかけた彼だが、その後も肥満と心臓病が彼を襲った。

 そんな間も、『If I Could Only Remember My Name』は評価を高めていった。クロスビーの他の作品や当時の批評家の誤解とは異なり、この作品は2000年代のフォーク・アーティスト達によって、ジュディ・シルヴァシュティ・バニヤンによる似たような宇宙的な作品たちと並べられて再発見されることになった。しかし、その門下で特筆すべきなのはクロスビー、彼自身であった。過去5年間の彼はこの作品の静かで催眠的なヘッドスペースへと戻ってきた。彼の直近の最高傑作『Here If You Listen』(2018)では、若き共演者たちと60年代や70年代に書いたデモを掘り起こし、書き捨てた思考を完結させた。彼は歌う「もし自分がいる物語が気に入らないなら/ペンを取ってもう一度書き直せばいい」と。

 それは彼の新しく興味深いキャリアのフェイズだが、それは失われたものすべてを思い起こさせる:共演者、友、時間。2014年にクロスビーはMayan号をBean Vrolykというカリフォルニアの大富豪に売却した。クロスビーはお金が必要で、この男なら大切にしてくれると思ったのだ。それ以来、彼は海に出ていない。しかしボートは最高の状態にある。整備ブログで、VrolykはMayan号の第二の人生について情熱的に綴っている。彼は未来の世代のためにこのボートを居住可能にしようとしている。彼はこのボートの製作者の孫に連絡を取り、歴史を学んだ。いくつかのレースにも参加しているようだ。「古いボートには愛情が必要だ」と彼は書いている。しかしそれを見つけられるのは一握りだけである。