海外音楽評論・論文紹介

音楽に関するレビューや学術論文の和訳、紹介をするブログです。

<Pitchfork Sunday Review和訳>David Crosby: If I Could Only Remember My Name

f:id:curefortheitch:20190311215719j:plain

pitchfork.com

点数:8.7/10
筆者:Sam Sodomsky

デヴィッド・クロスビーのソロ・デビュー作。サイケデリック・フォーク・ロックの霧がかった夢

0年代は過ぎ去り、デヴィッド・クロスビーはボートの上で暮らしていた。レコーディング・スタジオの横に置かれた「Mayan号」と名付けられた59フィートのスクーナーだけが、彼がまともでいられる場所だった。クロスビーは11歳の時両親にセーリングのクラスに入学させられたのだった。カリフォルニアで生まれたその青年は夢見がちでいつもニヤニヤ笑っているような子供で、半権威主義的な気がありトラブルを起こすこともあった。そこで両親は、この子も船渠にやれば少しはしつけられるだろうし、少なくともひと夏を過ごす場所を与えてやれると思ったのだ。セーリングは彼にとっても合うようだった。まるで前世で多くの船の船長を務めていたかのように。それは慰めのような、奇妙で神秘的な感情だった。60年代の終わりに彼はCrosby, Stills, Nash & Youngの出世作『Déjà Vu』のタイトル・トラックにおいて、まさにこの高揚感について歌詞を書いた。

 それと同じ時期に、彼は人生ではじめての大きな喪失を経験している。1969年、クロスビーの恋人であったクリスティーン・ヒントンが猫を獣医に連れて行く途中でスクール・バスに衝突する事故を起こしたのだ。彼女は即死だった。悲しみに打たれひどくふさぎ込んだクロスビーは、その後20年間続くことになる長いスパイラルの入り口に立っていた。「ぼくはデヴィットの一部が死んだのをその日に見た。彼は宇宙が彼に一体何をしてくれるのか、声に出して思い悩んでいたんだ」とバンドメイトだったグラハム・ナッシュは書いている。そこで彼が頼ったのはハード・ドラッグだった。15年後、彼は変わり果てた姿で檻の中にいた。彼を彼たらしめていた創造の火花はほぼ消え去ってしまった。クロスビーは「過去の人」になってしまったように思えた。

 クラシック・ロック・ラジオという美しい悲喜劇において、デヴィッド・クロスビーという男は決して主人公ではなかった。彼はどちらかと言うとマリファナをキメた相棒といった趣だった。カラフルで愛らしく、いつもなんだか周りにいるやつ。時おりリードをとることもあるが、彼の声はいつもどこかの中間にいる時に最も輝いていた。The Byrds、CSN、CSNYにおいてもそうだった。彼のエゴについては多くが語られている―そしてその多くはクロスビー自身によって語られた―しかし周囲にいた人間によって自身のレガシーが定義されることに彼ほど満足感を感じているアーティストは少ない。友だちに囲まれて、彼は幸せだったのだ。グレイス・スリックは60年代にクロスビーと初めて出会った時のことを「あれ程の関心や喜び、自発的な反応を持っている人間は見たことがなかった。あんなに無邪気にエキサイトしている人間の顔は、見るだけで嬉しくなってしまう」と語る。

 セーリングと同じく、音楽も若きクロスビーにとっても合っているようだった。彼が音楽に目覚めたのは4歳のとき、母に連れられて公園で交響楽団を見た際だった。彼はその楽曲自体を除く全てに釘付けになった。楽器をチューニングする際の混沌とした音たち、演奏者たちが動作をに入る瞬間のシンコペートした肘のダンス、そしてとてつもない種類の音が一瞬にしてハーモニーとなり一つになる様を、彼は畏怖の念と共に座って見ていた。彼は、これらどのハーモニーもそれ自体ではこれほどまでにパワフルには響かないということに気がついた。「まるで波のように襲ってきたんだ」と彼は回想する。それは彼がキャリアを通じて追い求める緒であった。

 1971年発表のこの『In I Could Onlye Remember My Name』はクロスビーがソロ名義でリリースする初の作品にして、長い間「唯一の」リリースだった。このアルバムはハーモニー、共同体、そして一体感にまつわるアルバムである。バックバンドを務めるのはThe Grateful DeadとJefferson Airplane。ニール・ヤングジョニ・ミッチェル、グラハム・ナッシュといった著名メンバーも参加している。リリース当時、これらのメンバーはポピュラー音楽界で最も高名なアーティストであり、それぞれがキャリア面・商業面で絶頂期を迎えていた人たちである。しかし彼らが集まって作ったサウンドは素晴らしく曖昧なものだった。そのサウンドはまるで、朝夢から目覚めてそれを思い出そうとするようなものだった。霧がかっていて、一貫性はほぼ皆無、思い出そうとしたそばから霧散していってしまうような。

 これがデヴィッド・クロスビー流なのだ。彼の初期の曲を振り返れば、彼がポップ・ミュージックの制限と格闘しているのを聴くことができるだろう。彼はギターを変わった方法で演奏する。変則チューニングを好み、彼の曲や歌詞を予想だにしない場所へと運んでいく。彼の最初の名曲、The Byrdsの「Everybody's Been Burned」は標準的なロック・ソングに聞こえるが、曲の間ずっとベースがソロをとっているのがすごい。後に「What's Happening?!?!」ではものすごく真剣なムードで、まるで言わなければしょうがないことが多すぎて激怒しているかのように、言葉では本当の思いが伝わらないことに気がついたかのように歌っている。バンドはそんな彼についていくのが難しくなった。

 噂によると、クロスビーがThe Byrdsを追い出されたのにはいくつかの理由があるという。ひとつ、彼は一緒に働くには辛い人間だった。ふたつ、彼はステージ上での長い演説(ジョン・F・ケネディの暗殺に関する陰謀論など)をするようになった。みっつ、彼はこのやっかいな「3P」にまつわる曲を書いた。彼の不貞は続き、モントレー・ポップ・フェスティバルではBuffalo Springfieldのスティーヴン・スティルズとのロール・プレイングを引き受けた。バンドメイトたちはこれを不忠の兆候だととらえた―もしくは、彼を捨てるための単なる言い訳だったのかもしれない。The Byrdsを解雇されたあと、クロスビーとスティルズはThe Holliesのグラハム・ナッシュと作業を始め。タイトなソングライティングと3パートのハーモニーに焦点を当てた新しいプロジェクトを始動させた。クロスビーの冗談で笑ったり、必要なときは安らぎと知恵を授けてくれたり、Mayan号でカリフォルニア湾を下ったり。クロスビーはナッシュという自然に付き合えて安定したパートナーを見つけたのだ。

 『If I Could Only Remember My Name』の終盤、ナッシュとクロスビーは豪華な、言葉では言い表せない程美しい曲でデュエットしている。そのスキャットはクロスビーが書いた中でも最上級のメロディーである。「『言葉のない歌』と呼んだんだ」1970年のショウで彼は誇らしげに言う。そして横のナッシュを指差し、「そして彼は『葉のない木』と呼んだんだ。彼がどこにいるのかわかるだろ」という。観客が笑う。レコードのスリーヴには両方のタイトルの記載があって、ナッシュのタイトルが括弧の中に入れられている。この作品のグループ的メンタリティを物語る象徴的な妥協である。音楽とともに孤独であったクロスビーは、スケッチを聴いたのだ。そしてそれは周りの友達と合わさることで自然の力となった。

 このアルバムの製作はスタジオ内でのクロスビーの怠惰な生活の中で行われ、共演者が到着してムードを高め音楽を活気づける前は彼は壁にもたれかかったり涙をながすこともしばしばだった。ジェリー・ガルシアのペダル・スティールとジョニ・ミッチェルのコーラスはこの作品で最も伝統的な「Laughing」をサイケ・フォークの極北へと転化させた:沈みゆく怠惰な日没の余韻。万華鏡のような1曲目「Music Is Love」はただの泣きのギター・リフだが、聖歌隊がそれをコミューンへと変える。「みんな音楽とは愛だというさ」と彼らは口々に歌い、その言葉は真となる。

 クロスビーは断固としてこの作品を彼の痛みについての作品にしたがらなかった。「足を引きちぎられるアリと同じくらい、あの出来事はぼくにとって理不尽なことだった」と彼は自身の悲しみについてRolling Stone誌に語っている。「あれはぼくの人生において最もひどい出来事だったし、誰もそれを体験する必要なんかない」とも。音楽はあくまで逃避である。このアルバムはなんだか途中でいきなり終わる感じがある。それは平和でありながらどこか壊れたようなサウンドだ。

 ちゃんとした起承転結のある物語があるのは「Cowboy Movie」だけである。これはCSNYの離散に関する赤裸々なストーリーであり、ヒッピー神話の没落として興味深いのと同時に、過ぎ去っていく一分一秒のなかで必死でありながら孤独であったナレーターの描写も面白い。音楽自体にも物語がある:消えゆくキャンプファイヤーのようにパチパチと音を立てて消えていく構成は、節くれだった誇大妄想癖のあるヤングの思考を切り取った「Down By the River」を思わせる。クロスビーの声は普段よりざらついた感触を見せる。「ぼくは今アルバカーキで死んでいく/それは君が見た中で一番気の毒な光景かもしれない」と彼は最後に歌う。

 アルバムを締めくくるのはクロスビーが一人で録音した2曲だ。共にほぼアカペラであり、多重録音された彼の声が天使的、そして深遠に響く。「ぼくはただ座って、ふざけていただけなんだ」と彼はこの実験について語る。「でも突然、ぼくはふざけていないことに気がついたんだ」。「I'd Swear There Was Somebody Here」と名付けられた最後の曲はクリスティーンに捧げられた哀歌であると考えられている。この作品の中には政治的で辛辣な曲(「What Are Their Names」)や喪失について歌った歌(「Traction in the Rain」)が収録されているが、この曲は最も明瞭なメッセージを含んでいる。彼は無力に、取り憑かれたように歌う。

 70年代を通じて、クロスビーは徐々にフォーカスを失っていく。彼とナッシュは共にデュオとして、そしてCSNとしていくつかの強力なアルバムとヒットを飛ばすが、やがて距離を取るようになる。コカイン吸引パイプがアンプから落ちた際にクロスビーがジャムを止めたのを見た時に、ナッシュはこのバンドが終わってしまったことを悟った。事態は悪化するばかりであった。あるときには彼は警官から逃れようとしてMayan号に乗り込むこともあったが、やがてFBIに投降した。1年後彼が刑務所から出てくると、髪は短く切られ、彼のトレードマークであった口ひげもそられていた。素面になった彼だが、今度は健康状態が悪化していた。90年代には肝不全で死にかけた彼だが、その後も肥満と心臓病が彼を襲った。

 そんな間も、『If I Could Only Remember My Name』は評価を高めていった。クロスビーの他の作品や当時の批評家の誤解とは異なり、この作品は2000年代のフォーク・アーティスト達によって、ジュディ・シルヴァシュティ・バニヤンによる似たような宇宙的な作品たちと並べられて再発見されることになった。しかし、その門下で特筆すべきなのはクロスビー、彼自身であった。過去5年間の彼はこの作品の静かで催眠的なヘッドスペースへと戻ってきた。彼の直近の最高傑作『Here If You Listen』(2018)では、若き共演者たちと60年代や70年代に書いたデモを掘り起こし、書き捨てた思考を完結させた。彼は歌う「もし自分がいる物語が気に入らないなら/ペンを取ってもう一度書き直せばいい」と。

 それは彼の新しく興味深いキャリアのフェイズだが、それは失われたものすべてを思い起こさせる:共演者、友、時間。2014年にクロスビーはMayan号をBean Vrolykというカリフォルニアの大富豪に売却した。クロスビーはお金が必要で、この男なら大切にしてくれると思ったのだ。それ以来、彼は海に出ていない。しかしボートは最高の状態にある。整備ブログで、VrolykはMayan号の第二の人生について情熱的に綴っている。彼は未来の世代のためにこのボートを居住可能にしようとしている。彼はこのボートの製作者の孫に連絡を取り、歴史を学んだ。いくつかのレースにも参加しているようだ。「古いボートには愛情が必要だ」と彼は書いている。しかしそれを見つけられるのは一握りだけである。

<Pitchfork Review和訳>Solange: When I Get Home

f:id:curefortheitch:20190306002142j:plain

pitchfork.com

点数:8.4/10

筆者:Anupa Mistry

Solangeの4枚目のアルバムは落ち着いた、アンビエントで探究心に満ちた作品。スピリチュアル・ジャズからGucci Maneまでありとあらゆるものを使って、そして類まれなる作曲とプロダクションでSolangeは故郷を呼び起こす。

秋発売されたT Magazineのインタビューにおいて、ライターのAyana MathisはSolangeの新アルバム制作を「心の中のヒューストン」への回帰だと形容した。そこはSolangeとその姉の生誕地としてKnowles家の神話が色濃く残る街である。そのインタビューが行われた時はまだ『When I Get Home』という、まさに帰還についてのアルバムであることを示すこのタイトルはわかっていなかった。そして今登場したこのアルバムとそれに付随したショート・フィルムSolangeの心象風景としてのヒューストンを再構築する。

 それは文字通りの意味での過去の客体化でも、ましてや街の未来の記憶でも、精神の儚い網でもない。シーソーのようなベースはウッドパネルのついたキャンディーペイントのスラッブ(訳注:ヒューストンで盛んなクルマ文化のひとつ。こんな感じ)から鳴り響くようだ。シンセサイザーやサンプルはまるでヒューストンのダウンタウンにある空っぽのオフィスビルディングから放たれるようで、空の上へと反響していく。夕闇の中を馬で駆けるブラック・カウボーイは―さしずめドラムビートが刻む蹄の音か。空間の拒絶は宝だ。そしてDevin the DudeやScarfaceといった地元のラッパーの声は、まるで通り過ぎる車から聞こえる話し声だ。

 赤裸々な『A Seat at the Table』のリリースから3年がたち、Solangeは伝統的な曲構造、厭世的な歌詞を投げ捨て、より自由で、ホワイト・ゲイズ(訳注:白人中心的な世界観で世の中を眺めること)にとらわれない、音楽的にもテーマ的にもアンビギュアスなこの作品を作り上げた。『A Seat〜』ではニュー・オリンズがそうだったように、今作でもその中心となっているのはヒューストンという街だが、音楽そのものの化物のような多彩さは、「ホーム」という概念がより開かれていることを示唆している。そこから去っていく人たちに向けて、Solangeはある基本的教訓を授ける:ホームというものはあなたが所有することができるものではなく、あなたなしでも生きながらえるものだ、と。おそらく彼女は我々の記憶は信頼できるものではないということも理解していて、だからこそSlangeは音楽に動きを与えるのだ。思い出の不確かさを増強するような「私は見た…私は想像した/想像した…ものを」というリフレインが繰り返されることによって、我々はこの「心の中のヒューストン」へと滑り込んでいくのである。

 サウンドには動きがありすぎて、捉えるのが難しいほどだ。その曲がりくねったサウンドによってこの音楽が自動的に重要性を増すわけではない:むしろ、ジャズやドローン音楽のように、じっくり聞けば聞くほど感情を煽るのである。『A Seat at the Table』の時のようにSolangeが明白な説明を施していないので、この作品に接近しその意味を発見する責任は聴き手に委ねられる。これはアーティストにとっては開放的な創作の衝動になりうる。特に広く作家主義であると考えられているポップ・スターにとっては。Solangeと共作者たち―言うまでもないが、AbraとCassieを除けばほとんどが男だ―は様々な拍子記号の合間を潜り、縫い進み、前面に出た魔法のようなモーグのキーボートの下にイースターエッグを埋め込み、織り込まれたドラムラインがロー・エンドを飾る。サンプルやバックグラウンド・ヴォーカルも挿入され、ヒューストンの過去/現在/未来を象徴する人達の名がクレジットされている:Phylicia Rashadや詩人Pat Parkerといった人たちからSolangeの息子・Julez Smith II(「Nothing Without Intention」にクレジットがある)まで。

 『When I Get Home』は実験的でありつつ、聴きやすさを保っている。「Down With the Clique」や「Way to the Show」のメロディーは彼女のティーン・ポップ期のファースト・アルバム『Solo Star』の際の残り物をアレンジし直したものでもおかしくないほどだ。輝きの達人、Pharellはいつもの4カウント・イントロを携え「Sound of Rain」で登場する。この曲は90年代初期にあったぼんやりとした未来観が持っていた安っぽい「ピクセル的楽観主義」を完璧に伝えている。彼は「Almeda」でも自身の工具箱からタイトに締められたようなスネアの音とシンコペーションするピアノの音を提供している。これは赤ちゃん声のPlayboi Cartiの思いがけない参加により初期からのファンのお気に入りで、彼は暗闇の中で輝くダイアモンドについてラップし、Solangeは黒人の所有権を高らかに宣言する。我々はいまヒューストンにいるのだから、Solangeが最近ジャマイカで過ごした日々についてほのめかす曲は一曲だけだ。「Binz」は聴けばみな、壁を叩き腰や尻を振るだろう。Dirty Projectorsの「Stillness Is the Move」をカヴァーしたときから彼女の名刺代わりになっている3つに分かれた優美なハーモニーが濃密なアルペジオ・ベースラインの上を上昇していき、SolangeThe-Dreamが楽しげに乾杯を交わし、Sister Nancyの呪文のような歌声が響き渡る:「日没、風鈴/CPタイム(訳注:Colored People Timeの略。アフリカン・アメリカンは時間にルーズだというステレオタイプをもとにした表現)に起きてみたい

 ここでSolangeは音と戯れているのだ。スティーヴィー・ワンダーのような無限の高揚感をもたらす魔法、チョップド・アンド・スクリュードのサイケデリックな悦び、アリス・コルトレーンスピリチュアル・ジャズサン・ラーのアーケストラまで、様々な自由なテンプレートを使って。作品を通じて参加している主な共作者にJohn Carroll Kirbyがいるが、彼のソロ作品はニュー・エイジとしか形容できない。若きニューヨーク・ジャズ・グループ、Standing on the Cornerがドラマと緊張に満ちた崇高な瞬間をもたらしている。Solangeが好む、非言語的で、ポスト・モダンで、ケイト・ブッシュ的な振り付けにうってつけのテンプレートだ。

 『When I Get Home』は『A Seat at the Table』の感情的なカタルシスで浄化されたアンビエント作品として特に美しい。しかしここには明白なテーマめいたものは存在しない。アルバム収録曲19曲のうち14曲が3分以下であるが、このパッチーワークの効果は、例えばTierra Whackによるアイデア先行の簡潔さよりもさらに「意識の流れ」的ブリコラージュを思わせる。彼女は多くのアイデアを持っているが、このアルバムが彼女の美的実践について何を語っているのか、私にはまだわからない(「Nothing Without Intention」はそのタイトルにもかかわらず理解の助けにはならない)。しかしこの方向性を明らかにしたいという欲求は、『A Seat at the Table』があまりにも切迫したものだったからこそ気になるだけである。

 ここで、Solangeはくつろいでいる。このアルバムは聴くにしても、演奏するにしても、繰り返すに値する。繰り返すことは瞑想状態のきっかけにもなるし、決まり事にもなりうる。「想像したものを見た/想像したものを」と彼女は1曲目で歌う。「私達はあなたたちにうんざり/うんざりなのよ」と「Down With the Clique」と続く。そして「Almeda」での単一フレーズの繰り返し―誇りとともに「黒い肌、黒い顔、黒い肌、黒い髪」とリストアップしている―から切り替わる時までには、アルバムは半分終わり、ムード、夢を見ているような状態はここでリセットされる。

 マントラや祈りなど、繰り返すことで意識や存在を誘発したり、過去に呼びかけたり未来を変えたりするといったスピリチュアルな伝統が存在する。デザインの原則では繰り返しは一致や一貫性を伝えるものだと教えられる。SolangeGucci Maneと愛らしいヴァースを掛け合っている「My Skin My Logo」を聴いてみよう。曲自体は子供じみていて可愛らしい。マッチョなラッパーは彼のナーサリー・ライム的なフロウを少し和らげ、本当にナーサリー・ライムのように聞こえるラップをしている。繰り返しによってSolangeはタイムレスで形もない心の中のヒューストンを生き返らせる。彼女はこの繰り返しという装置を広範に、そして半ば強迫的に使用している。まるでアメリカにおける黒人音楽・黒人文化においてより広い文脈でこの慣習を思い出そうと、忘れまいと、位置づけようとしているように。

<Pitchfork Sunday Review和訳>Everything But the Girl: Walking Wounded

f:id:curefortheitch:20190303221621j:plain

点数:9.0/10

筆者:Ruth Saxelby

ポップとトリップ・ホップの、そして愛と記憶の交差点。1996年発表の傑作。

 Wrong」のMVの中で、銀色の壁に囲まれたホテルの部屋を歩く多くのTracey Thornたちは、大半がうつむいた姿勢である。彼女たちはヘビ革がプリントされたワンピースを纏い、しおれたクイッフ・ヘアは眉毛に届きそうだ。その後ろではこれまた多くのBen WattたちがThornの動きをつぶさに観察している。当時彼女の恋人であった彼は、床にかがんだり、壁にもたれかかったり、キッチンカウンターに座っていたりする。あるショットでは、二人の彼がThornの方にもたれかかり、彼女の優しいラインを口ずさむ。「私は彼がどういう人なのか知りたかった」。その間彼女は床を見つめている。このバンドメイトたちはシースルーであり、さらに言えばお互いにだけではなくサビにおいて周りで踊っているエキストラの群れにとっても幽霊なのである。「どこへ行こうが私はついていく/だって私は間違っているから」。

 我々が愛する人々は等しく肉体、血液、そして記憶でできている。時間とトラウマが人間関係に衝撃を与えたり、自分の感覚を粉々にしてしまう無数の方法。それが『Walking Wounded』というアルバムが歩き回る領域である。1996年5月にリリースされたUKの二人組・Everything But the Girlの8枚目となるこの作品のサウンドは、パズルの欠片を拾い集め、それを復元したようなものだ。その欠片がフィットするのなら、の話だけれど。当時のUKチャートはOasisのラッド・ロックとLighthouse Familyのイージー・リスニング・ヒットによって占領されていた(過去の焼き直しの、二つの大きく異なる例である)。TrickyやMassive Attackといったトリップ・ホップのパイオニアたちが批評家たちのお気に入りだったが、彼らの実験的な初期作はどちらかといえばソウルやヒップ・ホップを指向したものだった。点と点をつなぎ、ポップに新たな息吹を与える機会が長いこと待たれていたのだ。

 愛をその限界まで押し進めることについての曲「Wrong」がハウス的なピアノのリフによって緊張感を高めているのに対し、『Walking Wounded』の真価はダウンテンポドラムン・ベース、トリップ・ホップを利用した部分にこそある。このような当時まだ発展途上にあったジャンルを幅広くポップのフォーマットに落とし込むことは理論上、とんでもない大失敗に終わる可能性があった。しかし、痛むと同時に温かい、力強くはないが豊かである、といったようなThornの声の多重性や、Wattの真に宇宙的な音の構築を乗りこなしてしまうシームレスさには筆舌に尽くしがたい魅力がある。

 フェミニズムや左翼思想に根ざしながら、日常を描くようなThornとWattの曲作りはこれまでの7枚のアルバムで熟成し、『Walking Wounded』では彼らの精神を音楽との会話という形式で手繰り寄せることに成功している。彼らが手足を伸ばし、誰かを愛するということは何を意味するのか、そのつながりを保つのには何が必要なのかをじっくり考える事ができるのは、まさにこのアルバムのスペースの使い方によるものだ。

 アルバムは脆弱だったにもかかわらず、リリース当時『Walking Wounded』につきまとった言説は、このインディー・ポップ・バンドが急にダンスフロア志向になったことに終始した。彼らは以前からジャズ、ボサノヴァ、ソウル、管弦楽などの実験を経てきたが、この若さあふれる新しい方向性は彼らをそれまでにないほどのスターダムへと押し上げた。彼らのサクセスストーリーはよくこのように語られる:『Amplified Heart』(1996)収録の「Missing」をニューヨークのハウス・レジェンドTodd Terryが大胆にリミックスし、それが『Walking Wounded』のクラブ・サウンドにつながったんだ、と。Terryが「Wrong」のような曲の下地を用意したのは確かだが、この手の話にはありがちなように、このストーリーはかなりの部分を省略してしまっている。

 ThornとWattは1981年に大学で出会ってすぐ、互いを音楽の神・ミューズと思うようになった。ThornはKurt Cobainお気に入りポスト・パンク・グループMarine Girlsとして、そしてWattはRobert Wyattとコラボレーションしたソロのフォーク・アーティストとして、二人は同じレーベルと契約していた。ロックが覇権を握る世の中に嫌気がさしていた二人の間で、情熱的で音楽的なパートナーシップが築かれていった。彼らは共に、現状の模倣ではないなにかハイブリッドなサウンドを探求することに関心を持っていた。しかし彼らのレーベルBlanco y Negro―WEA/ワーナー・ミュージックの子会社である―はポップ・ヒットを欲しがり、ミュージシャンたちの自信を貪ってしまうようなある種のプレッシャーをかけていた。ツアー生活にインスパイアされた気だるい『Worldwide』(1991)を含む6枚のアルバムは、どこかノスタルジックな雰囲気があり、ヒットを飛ばした。しかし1992年の夏、Wattは極めて珍しく命の危険がある自己免疫異常、チャーグ・ストラウス症候群であると診断される。彼は腸の8割を取り除き、症状の再発もあり何ヶ月もの間集中治療下に置かれる必要があった。彼の回復は長くゆっくりで、厳しい食事制限も課されたという。

 1993年、Wattは新たな人生になれ始めると、急激にコンピュータシークエンサーに夢中になった。プロデューサーになる旅の始まりである。年の中頃になると、ThornはMassive Attackのセカンド・アルバム『Protection』にゲストボーカルで参加する招待を受けた。そのタイトル・トラックを初めて聴き、彼女は衝撃を隠せなかった。「これほどまでにスロウで空っぽな音楽作品をそれまでに聴いたことがあったかどうか、わからなかった」と彼女は自著『Bedsit Disco Queen』の中で回想する。Wattが健康を取り戻している間、この曲につけた歌がWattへの感情を牽引していた。

 その夏の初め、フェスティバルでFairport Conventionと共演するため、二人はオックスフォードシャーを訪れた。そこで見たのは60年代の英国フォーク・グループが、息が詰まる様なメジャー・レーベルの要求の外部で活動する姿だった。それを見たThornとWattは自分たちのDIYな出自を思い出し、不安を脱ぎ捨てることにした。「昔みたいに、私たちは『そうする必要があるから』作品を作っていた」ちThornは振り返る。

 そうして制作されたアルバム『Amlified Heart』(1994)は、患者と介護者両方の視点から、Wattの臨死体験の苦悩を伝えるものだった(Thornが大半の歌詞を書くことが多かったが、このアルバムでは半々である)。しかしサウンド面では、Fairport Conventionの切ないフォークよりもMassive Attackのような初期トリップ・ホップに接近したものとなった。そこにさらにクラブ風のタッチを加えたのが、カウベルアコースティック・ギターの伴奏が目立つ「Missing」であった。

 それをリードシングルにするにあたっては皆が賛同したが、その曲のポテンシャルにほんとうの意味で気がついたのはアメリカのレーベルだった。アトランティックはTodd Terryにリミックスを依頼し、それは1994年後半に米国でリリースされた12インチに収録されることとなった。それとは逆にWEAはこの英国のバンドはもう終わってしまったと判断し、捨ててしまった。

 「Missing」は一夜にしてヒットになったわけではなかった。その曲がもしかしたら成功するのかもしれないという兆候が見え始めたのは1995年初頭、ThornがMassive Attackと共にニューヨークでプロモーションを行っていた頃になってからだった(「その曲はもうすでにパワフルだった。私はただそこにビートとベースラインを加えただけ。ハウス・ミュージックはラジオ/クラブ両方の感覚を持っているとずっと感じていたんだ」とTerryは述懐する)。Massive AttackのDaddy Gはその曲をクラブで耳にし、Thornに「ダンス・フロア・ヒットのように聞こえた」と報告した。Massive Attackとのインタビューの合間を縫って、彼女はホテルの部屋で「Single」を書いた。それはアルバム制作が本格的に始まる前のことだったが、それが『Walking Dead』のトーンを定めることになった:関係性という文脈において絶対的個人として見られること/自分を見てしまうことという一種の苦しみ。後にThornはミュートされたサックスのような音のシンセと物憂げなトリップ・ホップ・ビートの上でこう歌う。「あなたなしの私って何?/それはより自分に近づいた私?それとも自分らしさを失った私?/若さ、騒々しさが増していく/まるで最初から誰ともつながっていなかったみたいに

 1995年春、ThornはWattとともにニューヨークに戻り、数ヶ月間『Walking Wounded』のアイデアを練った。その旅の道中、彼らはTerryのリミックスがマイアミ、そして全米でヒットとなりクラブやチャートを賑わせていることを知った。全世界で300万枚を売り上げたのだ。

 「Missing」がUKで爆発する数ヶ月前、Wattはロンドンのドラムン・ベース・シーンに身を投じた。そこで彼はFabioやDoc ScottといったDJを見にドラムン・ベースの始祖であるLTJ Bukemの「Speed」に赴いた。そこで彼はBukemがジャズと比較した、とにかく自由な音の流れを体に染み込ませた。彼の熱狂ぶりを見て、Thornもやがて夜のクラブについていくようになった。「ロック・コンサートでもなく、レイヴでもない―全く新しいものに感じられた。風変わりだけどどこか親近感もあって、『あり』だと思えた」と彼女は振り返る。

 これらの新しい出会いが弾けた精神的スペースは、『Walking Wounded』でThornとWattが取った作曲のアプローチの明確さに見て取ることができる。涼しげな「Flipside」(Wattによる歌詞とスコットランドのプロデューサーHowie Bのスクラッチがフィーチャーされている)では、Wattの人生が急激に変化した瞬間が直接的に言及されている。「92年夏、ロンドン/それを境に僕は大きく変わったと思うんだけど、君もそう思う?」次のヴァースでは、彼は海のなすがままに形を変え続ける海岸線に自分をたとえ、自分は「枯れた土地」だと書いている。これはトラウマの過程がその出来事だけではなく自分自身すら形成していくということの、詩的なリマインダーである。

 Thornの口から語られる歌詞は、Wattの臨死体験によって彼らは共によろめき、知っていた事柄に疑問を持つようになったということを強調する。「Flipside」のB面は「Big Deal」というゆっくりなドラムン・ベースナンバーである。Thornによって書かれたこの曲で、彼女はタイトルのフレーズをリアリティ・チェックのために使うという皮肉を見せる。フラストレーションのなか、彼女はWattがクラブに回答を探していることについて歌っているようだ:「あなたは治療をしたいと、考えることをやめたいと言う/痛いと、不安だと/まず自分を疑い、そして彼女を疑い/これはおおごとだ、そう私達は感じた」。誰もがどうにかしてトラウマを乗り越えるものだ、とこの曲はほのめかす。大事なことはお互いにそのためのスペースを確保することだ、と。

 『Walking Wounded』の強みはまさにそこにある。Everything But The Girlのアルバムはどれもスタイルやストーリーがあるが、ThornとWattの個々の才能が最も眩しく輝いているのは、彼らがすべてを脱ぎ捨てているこの作品である。彼らは複雑に絡み合った感情を吐露し、まだ生まれたてのサウンドとの対話を作り出し、これまで最もうちに閉じたやり方で作品作りを行った。そのタイムリーなサウンドと感情的なテーマはティーンエイジャーたちにはもちろん、彼らと同世代の大人たち(筆者含め)にも訴求した(ブリストルドラムン・ベースのドン、Roni Sizeも太鼓判を押している)。この作品はThornとWattにとって最も売れたアルバムであり、全世界での売上は130万枚に及ぶ。U2からもツアーの誘いが来たが、彼らがスペースを必要としたので結局断ることになった。ThornとWattの関係は最初からキャリアと結びついていたが、『Walking Wounded』で表明された独立の叫びを聴く時にあった。ツアーに出る代わりに彼らは家族を持ちはじめ、来るキャリアに向けてまた車輪を回し始めた。

<Pitchfork Review和訳>Blu / Oh No: A Long Red Hot Los Angeles Summer Night

f:id:curefortheitch:20190301220941j:plain

pitchfork.com

点数:7.3/10

筆者:Mehan Jayasuriya

次々に繰り出されるライム、鮮やかな仕掛け、そしてサンプリング主体のビートがゴールデン・エイジ・LAヒップ・ホップを想起させるこの作品。ついにあの呪いのような作品の続きが登場した。

 況が少しでも違えば、Bluはスターになっていたかもしれない。2009年、J Dillaなどとの作品やそれに対する熱い称賛を経て、このLA出身のラッパーはワーナー・ブラザースと契約を交わした。それは音楽に限ったものではなく、彼の今後の作品それぞれについて作られる映像作品も含んだ契約だった。しかしメジャー・レーベルにはつきもののありふれた悲劇がそれに続き、結局それはせいぜい「ピュロスの勝利(訳注:古代ギリシャの王・ピュロスが多大な犠牲を払ってローマに勝利したことから、割に合わない勝利を指す慣用句)」だった。苛立ちからか呆れからか、Bluは自身のメジャー・レーベル作『NoYork!』を2011年のRock the Bellsツアーの際にリークしたと言われている。そしてそれ以来、彼はアンダーグラウンドに潜り、低予算でローファイなアルバムを着実に連続してリリースしている。しかし、ついに彼は『NoYork!』に続く作品を我々に提示する用意ができたようだ。たとえこの『A Long Red Hot Los Angeles Summer Night』が、あの実験的趣味を持つアンダーグラウンドのラッパーに期待するようなサウンドではないにしても、だ。熱心に、そしてスマートにプロデュースされた懐かしのサウンドによって、『Red Hot〜』はBluの郷愁、そして市民としての誇りの蓄えをコツコツと叩くのだ。

 彼がこのような作品を作ろうとしたのははじめてのことではない。2014年の『Good to Be Home』ではウェスト・コースト・ラップの原点回帰を目指している。しかしこの作品は一貫性を欠けていて、不明瞭なミックスがそれに拍車をかけていた。それでも、それは『Red Hot〜』に向けた助走だったのではと今では思える。今作では前作の確信であった自尊心はそのままに、前述の諸問題に正面から向き合っているのだ。この作品は、過去30年間のLAヒップ・ホップの名盤たち―『Regulate...G Funk Era』から『Madvillainy』まで―との会話という構成をとっている。その並びに自分を埋め込みたいというBluの熱烈な試みである。そしてもしウェスト・コースト・クラシックを作りたいのにMadlibとの友情の瓦解がそうはさせない場合、その弟・Oh Noの協力を得るのも悪くないだろう。ふたりとも埃の匂いがするサンプルや技巧派ラップを好むプロデューサーであり、この二人の伝統主義者は完全に同期している。

 自分のヴィジョンを伝えるためのこの確固たる信念があってこそ、この『Red Hot〜』はそのへんの復興主義者たちの作品や、Blu自身のこれまでの作品とはひと味もふた味も違うものになっている。一秒たりとも無駄にすることなく、Bluは空きあらば言葉を滝のように詰め込んでくる。彼のラップは怒りにあふれていて、2007年のデビュー作『Below the Heavens』以来のエネルギーと集中力の入りっぷりを示している。『The Chronic』や『Good Kid, m.A.A.d. City』のようなナラティヴにインスパイアされたBluは、消えゆく都市というものに対する讃歌とも読める物語を編み、17曲の中で確かな「場所の感覚」を生み出している。Bluの描くロサンゼルスは緊迫した場面、疑惑の目、そして突発的な暴力に満ちている。ジェントリフィケーションの波がすぐそこまで来ていて、あらゆる街角に危険が潜んでいる、そんな街。

 映画の契約までこぎつけたラッパーである彼らしく、これらの曲はサウンド的にも内容的にもシネマティックである。「Stalkers」の加工していく鍵盤とオートハープの刺すような音はフィルム・ノワールのスコアのようだ。その中でBluとDonel Smokesはまるでバトルしているかのようにかわるがわるヴァースを蹴っていく。しかし残念なことに、Bluはホモフォビア的なスラーによってこの懐かしムードをぶち壊してしまっている。2019年においては言い訳のできないことだ。もちろん、どの時代を指向しているのかにかかわらずだが。「Murder Case」はSnoop Doggの「Murder Was the Case」のパロディであり、主人公の転落を語る。「Jail Cypher」ではBluの新しい同房者たちを演じるゲストMCたちがそれぞれの物語、そしてアドヴァイスを伝えてくれる。

 まるでホラー映画のように練りに練られた2曲の「目玉」によって、このアルバムのシアトリカルさは極限を迎える。インタールード「Champagne」は1990年代のラップ作品には必ずと行っていいほど収録されていたメジャー・レーベル主導のもとに作られた「女性たちのための曲」のモノマネだが、「The Robbery」の始まりとともに唐突に終わる。BluとOh Noはその不調和なつなぎの美味しいところを上手に使う。ブリッジミュートしたギターの音と金属の空き缶をドラムスティックで叩いたようなスネアの音しかしないトラック上で、Montage OneTriStateが、ラップオタク気質のダジャレを競い合うようにでリヴァーしながら、盗みの物語を明らかにする。「盗みを働く(=”run the jewels”)ときはゆっくりな / ラップグループの話じゃない、チェーンとか靴とかだ」とTriStateは唸る。

 『NoYork!』は当時流行りのチップチューンサウンドを多用し、時代を見据えていた。しかし『A Long Red Hot Los Angeles Summer Night』は意識的に現代のヒップ・ホップから逸脱し、ニューヨークとLAだけがラップにとって重力の中心である世界を提示する。そのような半ば願望にも似た考え方は新しいリスナーの賛同を得れないかもしれないが、この作品はBluとOh Noの二人がウェスト・コーストサウンドの最も献身的な熱狂者であることの証左である。Bluはかなり前から明らかに他人の成功を気にするのをやめたのだ。そしてその方が彼のサウンドは冴え渡る。

<Pitchfork Review和訳>Lil Pump: Harverd Dropout

f:id:curefortheitch:20190228204730j:plain

pitchfork.com

サウス・フロリダのラップ・シーンのローファイ的ルーツを投げ捨てたLil Pumpは、自身のカリカチュアと成り果てた。このセカンド・アルバムは時々聞いてて楽しいことはあるものの、総じて「不必要」である。

得点:3.8/10

筆者:Alphonse Pierre

 16歳の時にネット上でセンセーションを巻き起こして以来、Lil Pumpはイエス・マンに囲まれ人生最良の日々を送っているようだ。彼の衝動や思いつきはひとつ残らず、メジャーレーベルの敷いた赤絨毯によって何のためらいもなく世に出される。彼の17歳の誕生日にあっては、レーベルはストリップ・クラブを貸し切り、Pumpがザナックスをかたどったケーキに入刀するところを楽しげに見ていた。おそらくこういった連中は彼が「フォートナイト」で遊んでいる間「ちょ、なにするんすかパンプさん」や「パンプさんってマジで金持ちっすよね〜」とか言ってPumpを鼓舞する(訳注:原文では"gas Pump up"となっており、「ガスを入れてふくらませる」といった洒落になっている)ことでお金をもらっているんだろう。そして本当に特別な日にだけPumpをスタジオに送り、Rolling Loudフェスティバルで聞かれるようなEDMホーンがついたビートに乗っかるよう命令するのだ。そのようにしてPumpが曲を大量生産し作られたのがこのセカンド・アルバム、『Harverd Dropout』というわけだ。

 このセカンドは言うまでもなく、ファーストアルバムすらLil Pumpには必要なかった。2016年後半、Smokepurrppのところの若いサイドキックというレッテルを脱ぎすて、サウス・フロリダのラップ・シーンの頂点へと上り詰めた彼は、典型的な一発屋ラッパーとなった。Pumpのリリースはどれも、「物議を醸すピンクドレッド振り回し男」というキャラクターに見事にフィットするように作られていた。Pumpのシングルはどれも不吉なキーボードサウンドと歪んだベース、そしてDJ AkademiksのTwitchをよく見る人であればより理解できるであろうリリックで構成されている。Pumpはマーケットに過剰に供給されることもなければ、多くのラッパーのようにリークに苦心することもなかった。彼のシングルは何ヶ月かおきにリリースされ、彼は熱狂的ファンたちが死滅するまでその波に巧みに乗り続けるのだ。

 やがてレーベルがLil Pumpを食い物にし始めると、彼はそのほぼ完全無欠のテンプレートを投げ捨て、マイアミ風のChief Keef的美学から離れ、ポップスターとしての地位を目指すようになる。2017年、Pumpは自分でも何かの間違いで人気になってしまったと感じている一大センセーションだったが、この『Harverd Dropout』ではそういった感情は消え失せ、キャッチフレーズはまるで予測変換で作られたように不自然に響く。Pumpが実在しない人間にすら感じられることも多い。Pumpがサウンドクラウドの研究所において16歳の状態で生まれたのではないということを示す唯一の痕跡は、「iCarly(訳注:アメリカで放送されたコメディドラマ。日本でもNHKで見ることができる)」やデレク・フィッシャー(訳注:元NBAプレイヤー)などのポップカルチャーからの引用が時折見られることである。

 『Harvered Dropout』において、Pumpが体現しているのはOdd Futureのスローガン「殺せ、燃やせ、学校なんてクソ食らえ」を少ししょぼくしたバージョンである。Pumpの唯一のモチベーションは彼の昔の高校教師たちを演じることだけだ。そのテーマはアルバムにおいて高圧的であり、Pumpは彼はハーバードに通っていて中退したのさ、というジョークで繰り返し我々を叩きのめす。このユーモアがおわかりいただけるだろうか。つまり、ハーバードは賢い人が行くところで、Lil Pumpは自分で行っているように「金持ちだけど、読みがわからない」。Pumpは1曲目の「Drop Out」で、大人たちへの復讐を繰り返す。中身はといえば自慢にもならない自慢である。「中退して、今はお前の母ちゃんよりも金持ちだぜ」(Pumpよ、私の母親は高校教師である)。彼のカネ関連のボースティングはたいてい目も当てられない代物だ。「Multi Millionaire」ではPumpは金持ち過ぎて、Wingstop(訳注:アメリカのチキンウイングチェーン)に行くのにも飛行機を使うんだと息巻く。Pump君よ、Yelp(訳注:アメリカ版「食べログ」)のアプリをダウンロードしてみてくれよ。君の住んでるところにはもうちょいマシなお店があるでしょうが。

 Lil PeepMac Millerの件があった今、Pumpが反教育的な内容の代わりに自分の薬物中毒をのんきに自慢しているのにはうんざりさせられる。「11歳の頃から吸ってるぜ/錠剤は7歳から」とは「Drug Addicts」でのPumpの弁だ。薬物中毒を自慢しなきゃいけないっていうのはちっとも魅力的ではないし、むしろ必死にみんなの注目を集めようとする策略のように映る。

 Pumpの貧しい意思決定能力はビートの選択にも現れていて、まるで去年のDJ CarnageによるEDMセットを大いに気に入ったのかのようなインストの上でラップをしている。それでも大金を注ぎ込んだプロダクションによっていくつか輝いて聞こえる瞬間はある。Lil Wayneのアシストもあり、Pumpの純粋なポップさが開放されている「Be Like Me」がそうだ。Ronny Jはいかにもサウス・フロリダらしいディストーションを「Vroom Vroom」で聞かせてくれるが、彼の貢献も結局はPumpがいかにローファイ的なルーツから離れてしまったのかを我々に思い出させるだけである。

 Lil Pumpは自身のカリカチュアに成り果ててしまったのだ。彼はなにか再発明したり、自分が名を挙げた地元のシーンと再びコネクトすることもできたのだ。しかし今やインスタグラムにおいて1800万人ものフォロワーを持つPumpはあまりにも巨大になりすぎて、後ろを振り返ることができなくなっている。そしてこれが今のLil Pumpの姿である。自分の若さに固執するポップカルチャーのタイムスタンプが、たまたまラップもするというだけのことだ。

<Pitchfork Sunday Review和訳>Nirvana: MTV Unplugged in New York

f:id:curefortheitch:20190224230719j:plain

pitchfork.com

Nirvanaによる越境的ライヴ・アコースティック・アルバム

 Nirvanaがこの『MTV Unplugged〜』のパフォーマンスを収録した1993年当時、彼らは世界最大のバンドだった。そう見えていたというわけではない。デイヴ・グロールタートルネックとポニーテール姿。クリス・ノヴォセリックは借りてきた巨大なベースを手懐けようと必死。そしてカート・コベインは自分を預言者だと信じている人で埋まった部屋の中で、どうにかリラックスしようと苦心していた。

 もちろんそれは「電源を落とした(=unplugged)」、そしてある意味では「涅槃(=Nirvana)」の状態だった。コベインは有名になったあとも、大抵は苦しみながらも通常であろうと務めていた。『Unplugged〜』収録の1ヶ月ほどあと、彼は黒いレクサスを買ったのだが、そのことによって大変な屈辱を味わい―彼の友達にも徹底的に嘲笑われたのだ―その日のうちに返品してしまった。「これは俺らの最初のアルバムの曲だ」と彼は「About a Girl」の前にぼそっと呟く。「みんな持ってないだろうけどね」と。その次の作品を買った500万人もの人々なんか気にしない(="Never mind")のである。

 バンドがこのような繊細なことをやってのけれるかどうか、収録の前コベインはひどく心配していたと言われる。「俺らは音楽的にもリズム的にも馬鹿なんだ。俺らは激しくプレイしすぎて、ギターのチューニングが間に合わないくらいなんだ」と彼は『Nevermind』(1991)発表時にGuitar World誌に語っている。収録の24時間前まで、彼はデイヴ・グロールをステージに座らせるかどうかで悩んでいた。彼のドラムがバンドの演奏をかき消してしまうことを恐れたのだ。バンドの音楽性のためにエレクトリックな環境で演奏することが必要であるミュージシャンにとって、アコースティックな(もしくはセミアコースティックな)環境で演奏することは大変なことで、裸でステージ上に上がるどころか、手足を切断された状態で人前に立つことに等しい。コベインはフィナティー(訳注:Amy Finnerty。MTVのディレクター。)に対して自分たちがとても静かに演奏したからみんな気に入らなかっただろう、と文句を言ったとされる。彼女は言った。「カート、みんなあなたのことをイエス・キリストだと思ったわよ」

 MTVが「Unplugged」の放送を開始したのは1989年のこと。有名アーティストを比較的親しみやすい文脈でパッケージすることが狙いだった(「Unplugged」というタイトルはそれだけで、音楽が部屋の中にいる人間が行う自発的表現にすぎないというユートピアを想起させる)。アーティストは登場すると、衣服を脱ぎ、その甲冑の下で血を流す心臓をファンにさらけ出す。1991年から1993年の間に、エルヴィス・コステロR.E.M.のような大衆向けオルタナティヴ・バンド、エリック・クラプトンポール・サイモンのようなレジェンド、そしてマライア・キャリーのような当時のポップスターなどがゲストとして登場した。真剣にとらえてほしいという意向でヘア・メタルバンドもいくつか出演したが、残念ながら10代のファンたちの熱烈な愛情はそれほど真剣ではなかった。ちなみにNirvanaが収録する前日のゲストはDuran Duranだった。

 創造的努力を重ね、コベインは見え透いた術策をやめ、自分がリアルだと思うものをやりたいと思うようになっていた。しかし少なくとも、彼は考えなしにワシントン・アバーディンを飛び出し、NirvanaMr. Bigにするようなことはしなかった。彼はステージを黒いろうそくとスターゲイザーリリーで装飾するように指示した。これは葬儀の装飾であり、彼の自殺を予見していたのだという説が定期的に唱えられる。しかしこれは実際は伝統的な美というものをなにかグロテスクなものに転換するという彼の好みに依るところが大きい。彼の日記の中にあった「Rape Me」のビデオの構想の中で彼はリリとユリを使おうとしていた―「わかるだろ、膣の花だ」とコベインは書いている―そのビデオの中では花は花開きしぼんでいく様子をタイムラプスで撮る予定だった。まるで華やかな状態は一瞬しか保つことができないかのように。コベイン自身も度々破れたドレスや汚れたメイクで現れ、まるで舞台の初演で気が動転している女優のように怒りを嵐のように撒き散らす。それはBlack Flag的なというよりは『サンセット大通り』的なものだった。Nirvanaのベストソングで、激しいノイズの嵐がT-MobileのCMに合うような子守唄になりうるという証明したものはなんだろう?もしあなたが花をよく買う人であれば、答えはわかるはずだ。大きく、美しいユリの花束ほど臭うものはないのだ。

 MTVに何の許可も説明もなく提出されたセットリストは6曲のカヴァーを含んでおり、「Come As You Are」以外ひとつのヒットソングも含んでいなかった。これは大きな論議を引き起こし、コベインは収録の前日になってもまだ出演をキャンセルすると脅しをかけていた(フィナティーは「彼は我々が取り乱すところを見たかったのよ。彼はその権力を楽しんでいたの」と語っている)。6曲のカヴァーのうち3曲は当時のツアーメイトであったThe Meat Puppetsのものだった。このアリゾナ出身のバンドはNirvanaと同じように素晴らしきものと愚かなもの、平凡な観察―「太陽は沈んだが、私は光を持っている」―と宇宙的な洞察との間の境界を崩壊させるような世界を作ろうと企んだバンドだった。爆発的なパフォーマンスで知られるバンドにしては、この演奏はきしんでおり、我々に寄り添うようであり、不気味なほどに控えめである。レッド・ベリーの「In The Pines」(ここでは「Where Did You Sleep Last Night?」と改題されている)のカヴァーを最初に聞いたニール・ヤングはコベインの声を狼男に例えたそうだ。死人でもゾンビでもなく、それでも何か超越した存在。私にはわかる。『Unplugged〜』を聴くと私はNirvanaが私の身体に矢を放ち穴だらけにしているような、それでも私は歩き続けているような、そんな感覚になる。

 少なくとも振り返る際、コベインは『Nevermind』に満足していなかった。ある時は「臆病な作品だ」と言ったり、あるときはこの作品をモトリー・クルーと比べた。どちらも謙遜と正統性にとりつかれたパンク・ロッカーであり、宿主を救いようのない状態にするかのように腐敗を完全に露出してしまったのだ。『Unplugged〜』の収録のわずか数ヶ月前にリリースされた『In Utero』では、コベインが『Nevermind』の中に聞いたものの訂正のように聞こえた。凶暴さ、卑劣さ、息切れの音、傷口の周りが腫れ上がった白い肌。今聞いても、私は自分が放課後に吸っていた松脂の匂いを思い出すことができる。このアルバムの人気は私の孤独感を軽減してくれると思っていた。しかし代わりにそれは私は自分が義父を刺し、彼の車でポールに突っ込んでいくような気持ちにさせた。でも今考えるとそれはまさに12歳の子供が感じて然るべき感情である。

 批評家チャック・クロスターマンはそれを「罪悪感ロック(="guilt rock")」と呼んだ。『Nevermind』のような成功作を作ってしまったこと、自分が嫌っていた脳筋バカどものすぐ隣の列までたどり着いてしまったことに対する罪悪感から作られるロック・ミュージックのことである。しかし『Unplugged〜』を聴くと―音の繊細さ、パフォーマンスの脆弱さ、コベインの声に感じられる闘志を聴くと―怒りというのは脆さを拠り所にしているということがわかった。そして『Unplugged〜』と『In Utero』はどんどん分裂していっていた創造性にとって必要だった釣り合いだったということも。『In Utero』が私の怒りを認めてくれたように、『Unplugged〜』はそれを超えた場所を教えてくれた。落ち着いていて、思いやりがあって、傷ついてはいるが静けさのあるところ。空虚であると同時に葬式のような、癇癪のあとに落ち着いたときのような不思議な感覚。

 これが『Unplugged〜』で聴くことができるNirvanaである。世代を代表する声ではなく、伝統を壊すのではなく新しく直感的な配置に並び替えたバンドからの叱咤。私が好きなのは古いブルースの曲(「Where Did You Sleep Last Night?」)である。コベインの痛みも私の痛みも消して新しいものではなく、多くの人々が通り過ぎてきた感情の残滓であり、私もいずれは通り過ぎるものであるということを思い出させてくれるからである。落ち着きがなく、表向きは惨めだがある時いきなりすべてが変わるのだという密かな希望をいだいた少年として、気分を良くしようと思わなくても良いんだと、落ち込むこともあっていいんだと、人間っていうのはいつも落ち込んできたんだと、でも落ち込みすぎることもあるんだと肩に手をおいて言ってくれるのを夢見ていたのだ。

 それはなんだか不穏な遺産である。『In Utero』の仮タイトルは『I Hate Myself and Want to Die(=俺は自分が嫌いで死にたい)』だった。今やどこにでもある表現である。本当の痛みの代わりに用いられる皮肉、苦しみをジョークに変えようとする虚勢。自殺、それはミームである。宇宙の熱力学的死に無感動に振る舞うこと。絶望に慣れてしまって退屈だと感じるという考え。コベインは日記にこう書いた「『先端の世代(=”now generation”)』が敵のフリをして、あるいは敵を利用して敵を内側から破壊することを手助けすることが必要だと常に感じていた」。「先端の世代」。私生活に置いても、彼は自身の冷笑主義から逃れることはできなかった。彼の真の悲劇は中毒でも、はたまた自殺でもなく、彼が自分は運命の美味しいとこどりができる―体制を内側から破壊できる―と言い張った、イカロスにも似た頑固さであった。そのような苦しい試練を受け続け、アルバムに『I Hate Myself and Want To Die』と名付けようと思ったばかりか、本当に自分を憎み、死にたいと思い、数カ月後に死んでしまったのだ。

 『Unplugged〜』の録音とコベインの自殺の間の5ヶ月の間に、NirvanaはMTVのために2つの収録を行った。1つ目はカート・ローダーとエイミー・フィナティーによるインタビューである。そこでクリス・ノヴォセリックデイヴ・グロールは12000ドル相当のホテル家具を破壊してしまうのだが、それはマッチョイズムの表出であり、Nirvanaに是正してほしいと望んでいたものでこそあれ、その例となることは望んではいないことだった。その数日後彼らはシアトル・ピュージェット湾の空き倉庫でショウを行い、その音源は後に『Live and Loud』として発売された。ここでは暴虐で輝いているNirvanaを再び聴くことができる。『Unplugged〜』の忘れがたい瞬間が「In the Pines」の最後の数節でコベインが息切れをしているところだとするならば、『Live and Loud』のそれは「Endless Nameless」終了後フィードバックノイズが鳴り響くなか、彼がカメラにギターを押し付け唾をはく場面である。彼は文句なしに機嫌が良かったようだ。そしてついに彼はMTVで「Rape Me」を演奏することができた(訳注:彼らは1992年のMTVアワードで同曲を演奏したが、放送上ではカットされるという出来事があった)。

 『Unplugged〜』の終盤、「All Apologies」と「In The Pines」の間で、コベインはある男の話を始める。その男はレッド・ベリー財団の人間で、彼にレッド・ベリーのギターを500000ドルで買わないかと持ちかけた。彼は観客を笑わせようと数字を盛っているのがわかる。まるで誰か聡明な人間が愚かにもその収集品にそんな大金を払うだろうと思っているかのように。リアルなパンクスは歴史を買ったりなんかしない。歴史なんて汚してなんぼなのである。

 それでも彼は自身の癇癪と自己嫌悪を隠しきれずに、デイヴィッド・ゲフィンに個人的に買ってくれとお願いしようと思うと付け加えている。どうしようもない息子とそれを甘やかす父親というごっこ遊び。彼はすでにこの練習のようなものを1993年3月号のSpin誌の中で行っている。でもオチは少し違って、「俺にお金を貸してくれるような金持ちのロックスターでもいればいいんだけど」と彼は言った。

 コベインは自殺の約1ヶ月前、2500ドルで65年式ダッチ・ダートを購入している。もちろんあまり運転できなかっただろうし、運転したかどうかも怪しい。この車は最近アイルランドで行われた「Growing Up Kurt Cobain」という展示会で展示され、この車の所有権―ワシントン州の登録で、登録番号は2155173082―は2010年オークションで640ドルの値で落札された。「魂なんてものは安いものだ」とコベインは「Dumb」の中で書いている。そうだ。そしてガラクタっていうのは高くて、結局値打ちがつけられないものなんてほとんど存在しないのだ。

得点:9.5/10

筆者:Mike Powell

<Pitchfork Sunday Review和訳>Tortoise: TNT

f:id:curefortheitch:20190222000446j:plain

 

pitchfork.com

演奏とテクノロジーの素晴らしき魔術

 Tortoiseの5人のメンバーがその前に加入していたバンド、そしてその後に加入したバンドをすべて示した図を想像してみよう。その漏斗の上方にはドリーミーなサイケ・ロックからアーシーなポスト・パンクバンドまで、Eleventh Dream DayやBastro、Slint、the Poster Childrenといったグループが含まれる。そして「Tortoise後」の側にはIsotope 217Chicago UndergroundBrokebackといったエレクトロ・ジャズやインスト・ロックバンドがいる。この図において、Tortoiseはギュッと締まっている地点である。このプロジェクトはこれらすべての音の要素を含んでいるが、そのどれにも縛られない音を鳴らしている。

 Tortoiseは自由に動く。まるでコックリさんのように、個々のメンバーはどこに向っていくのか、そして誰がそれを動かしているかはわからない。1998年発表『TNT』は初期の作品では体現しきれていなかったそういった部分を体現しきっている。奇妙なほどに美しく形容しがたいこの作品は、過去の価値観(高度な演奏、計算された作曲)がデジタルな未来と出会った支点であった。

 しかし我々は過去の話から始めるのが良いだろう。つまりリズム隊、2人乗メンバーについて。ドラマーのJohn HerndonとベーシストのDoug McCombsが1990年代はじめに親しくなり、シカゴで演奏をともにするようになったのがそもそもの始まりである。プロデューサーのBrad Woodと共に最初のシングルをレコーディングしようとスタジオに入った際、HerndonとMcCombsは音に肉付けをするために多くの部分をオーバーダブしたのだが、自分たちが思い描いているものを形にするためにはさらに多くのミュジシャンが必要であることに気がついた。テープを知人たちに聞かせていくうちにドラマーのJohn McEntireとベーシストのBundy K. Brownの二人(ルイビルを拠点とするポスト・ハードコアバンドBastroのリズム隊であった)、そしてパーカッショニストDan Bitneyを加えた彼らは、Tortoiseを結成する。

 90年代初頭という時期がTortoiseのようなバンドが出現するのに完璧なタイミングだとしたら、シカゴは完璧な場所と言えるだろう。この街のインディ音楽シーンは全国的な注目を集めるようになっていた。ポスト・Nirvanaオルタナティヴ・ロックの爆発的人気を経て、誰もが「次のシアトル」を探していた。そしてシカゴはその候補地のひとつだった。1993年、ビルボード誌が発表した記事はシカゴを「最前線の新首都」と売り出した。引き合いに出されたのはLiz PhairUrge OverkillSmashing Pumpkinsといったアーティストたちである。しかしプレスの眼差しはMTV向きのオルタナバンドに向いていたため、アンダーグラウンドシーンはスポットライトから遠く離れたところで好き勝手やることができた。そしてシカゴの場合、そういったシーンの土台となっていたのはTouch and Go、Drag City、そして1995年にニューヨークから移転してきたThrill Jockey(設立したのは元Atlanticの名A&R、Bettina Richardsである)といったローカルのレーベルたちである。

 ベーシストのBrownが元・Slintのギタリスト/ベーシストDave Pajoに代わり、Tortoiseは様々な音楽世界を流動的に漂い始める。ロックの楽器を用いた実験的な音楽が出始めると、「ポスト・ロック」という呼称が使われ始めた。この言葉は当初Disco InfernoBark PsychosisといったUKのバンドたちに使われていたが、1995年にThe Wire誌に掲載された記事の中で、批評家Simon Reynoldsはアメリカのこの種の音楽を理解する枠組みを展開した。Reynoldsが指摘するように、アメリカ風のポスト・ロック(記事の中ではTortoiseLabradfordUIStars of the Lidなどが紹介された)はグランジに対する一種のカウンタームーブメントであり、より急進的で越境的なオルタナティヴに対するオルタナティヴだと考えることができた。「グランジは字義通りの意味では『ホコリ』『汚物』『泥』という意味である。そのようなグランジの世俗的な情熱に対抗するためにこれらのバンドがSFや宇宙空間へと想像力を働かせていくのは当然の流れと言える」とReynoldsは書いている。

 グランジやそこから派生した音楽においてはギターが支配的な位置を占めていたが、ポスト・ロックは電子楽器やその他の楽器が入る余地が十分にあった。McEntireがToritoiseのテック・ウィザードだったが、バンドのやり口はデビュー時の重たいビートから当時のエレクトロニカ音楽の潮流に沿うようなものへと変化していった。Virginが1995年にリリースした『Macro Dub Infection』はダークな雰囲気のエレクトロニカが集まったコンピレーションだったが、TortoiseはここにSpring Heel Jack4 HeroTricky、the Mad Professorという面々と並んで参加している。そして翌1996年にはMo' Wax編纂の2枚組トリップ・ホップ・コンピレーション『Headz 2A』に参加、前後の曲はDJ KrushMassive Attackだった。Tortoiseはどちらのコンピレーションにもフィットしていたわけではなかった。彼らの音楽は支離滅裂で、空想によってグルーヴを置いてけぼりにすることもあった。しかしこれらの作品に参加したことで彼らは音楽においてスタジオでの制作が第一であり、パーツを集めて組み立てることに重きを置く考え方を手に入れたのだ。

 リミックスが当時の流行で、Toritoiseはそれを歓迎した。2枚目のアルバム『Millions Now Living Will Never Die』(1996)のオープニングトラック「Djed」は驚くべき20分の旅路だが、その中心にあるのは演奏後のマニピュレーションである。豊かなるグルーヴが生まれ、成長し、そしてエラーにも聞こえるようにデジタル的処理によって途中で崩壊する。その内破が起こる際のまごつくような変化は、次の作品の内容を示唆するものだった。

 『TNT』は「Djed」のアイデアを発展させ、非線形のエディットの創造的可能性を探るものだった。Pro Toolsを用いてハードディスクに録音されるという1996年当時にしては比較的新しいアイデアを用いて制作された(同時期にMcEntireがエンジニアを務めたStereolabの『Dots and Loops』もまたテクノロジーへの新たな試みであった)。『TNT』はコピー、切り取り、ペースト、そしてやり直しが制作を司っていた作品である。個々のパーツはリハーサルで制作されたのちいろいろなコンビネーションで録音され、その後McEntireとバンドによって新たな作品として再形成された。

 録音後の組み立てが『TNT』の美味しい緊張感の一つである。細かな小片を集めて、注意深く計算されて作られた音楽のようには聞こえない。それぞれのパートは機械ではなく人間が演奏しているように感じるだろう。プレイヤーの技術は達人級だが、人間らしく聞こえる。鍵盤を叩く手やドラムキットに座る人間が見えるようだ。ベースは少しヨレて聞こえるし、ギターはベースと会話をしているようだ。

 『TNT』の1曲目は最もライブ演奏のように聞こえる作品だが、これもまたパーツごとに注意深く作られたものだ。最初のシンバルやスネアの音は打ち寄せる満ちていく潮のようで、Tortoiseにしてはジャジーに滑空し着水する。この泡の堆積から抜け出すとJeff Parkerのあの不滅のギターラインが現れる。Parkerはバンドの新顔であり、シカゴの伝説的なコレクティヴAACMにいた経歴を活かし、真剣なジャズの要素を持ち込んだ最初のメンバーだった。彼はそのギターリフ―グループで最も皆に覚えられているであろう瞬間、アルバムのムードだけではなく時代全体の雰囲気すら代弁するようなリフである―を携えてTortoiseに加入した。Parkerの12音のフレーズは質問を投げかけ、もう半分でそれに答えるかのようである。そしてそれは不完全な思考を伝達するので、聞き手が埋めることができる余白を残している。曲のあいだじゅうループされるそのギターのリフレインに後押しされ、「TNT」はホーン、シークエンサー、がっしりとしたベース(とそれにハモるParkerのフレーズ)が混ざり合い展開してく。それがどのように「演奏されているか」ということと同時に、アルバムの「モジュラー構造」―個々のパートが差し込まれ、それが成長しやがて爆発する―も感じることができるだろう。「TNT」は可能性を伝達する―未来について空想するというのはどんな感じなのかという音楽的表現である。もっとも、アルバム自体がすでに時代を先取りしていたのだが。

 この作品の残りの部分はこれほどダイナミックでもオーガニックでもない。そのかわりに『TNT』はジャンルを大股で跨ぎ、その背景に入り込むぞと脅しつつ実際にはそうしないという境界域に落ち着く。これは曖昧な作品だが、実はそれはこの作品の強みの1つである。聞き手には確信のなさをつのらせ、探検の余地を残し、聴くたびに違った作品に聞かせるのである。曲の多くは途切れることなく次の曲へと繋がり、モチーフは一度現れたと思ったらのちに再登場する。他とのつながりの希薄な曲は少なく、あるアイデアが紹介されるとあとから別の角度から再び探求される。まるでこのアルバムが自分との会話をしているようだ。

 「TNT」の最後のシンバルのシューという残響音は、ベースが主役のムーディーな「Swung From the Gutters」へとクロスフェードしていく。この静かな曲はGrateful Deadの『Blues for Allah』の中のインタールードを思わせる。この曲は続く「The Suspension Bridge at Iguazú Falls」につながるシンプルなメロディーに焦点を当てている。このメロディーは後に再び登場し、落ち着いた速さで紐解かれていく。これらのジャンルへのご挨拶は決してストレートには演奏されない。「I Set My Face to the Hillside」は遊ぶ子供の声で幕を開け、続いてナイロン弦のギターの音が入り、Ennio Morriconeサウンドトラックのようにフラメンコの記憶が花開く。このサウンドはすでにTortoiseの定番となっていたが、個々ではもうひとひねり加えられている。「Set My Face」では蹄のポコポコという音に似たドラムが聞こえるが、そこにピアニカで演奏される主旋律が入ってきてAugustus Pablo・ミーツ・アップタウンのThe Venturesのような趣を湛える。

 他の引用はもっとわかりやすい。「Almost Always Is Nearly Enough」ではTortoiseは当時Thrill JockeyからリリースしていたMouse on Marsのようなちょっと変わった騒々しいエレクトロ・ポップを確信犯で模倣している。ご丁寧に飛び跳ねるようなプログラミング・ビートとロボ声までつけて。そのボーカルは「Jetty」まで続き、少し前のめりなビートも相まって通常のダンス・ミュージックへ接近する。「The Equator」はゆったりとしたエレクトロで、不安定なベースラインが楽しげなドローンとスライドギターの下でにじみ渡る。これらすべての曲を定義する言葉は「ほとんど」だ。彼らは他のアーティストの作品にヒントを得てその幅広いスタイルを体現するが、完全に真似しきるということはしないのだ。Tortoiseが本物のダンス・ミュージックを作ることに興味を持ったことはないし、同じく伝統的な手法でインプロヴィゼーションをする気もなかった。彼らの音楽はその2つの裂け目で起こっていることなのだ。

 「最近の数枚のアルバムでは間違いなくトレブルにフォーカスが移っていったんだ」とMcEntireは1998年Billborad誌に語っている。彼が話しているのは『TNT』にも頻繁に登場するマレット楽器、特にマリンバについてである。「Ten-Day Interval」とその仲間「Four-Day Interval」では前作『Millions Now Living』でもちらつかせたSteve Reichの影響をさらに明確に打ち出している。「Ten-Day〜」は比較的濃密で忙しく、「Four-Day」はその前の曲の亡霊のように半分のテンポで進み、2倍になったスペースを使って展開していく。TortoiseがReich的な繰り返しを用いるとポップ的な風味を持ち、長い時間を書けてトランスを作り上げていく代わりに極めて基本的な前提を提示する:ピアノやベース、パーカッションを使ってリズムをひねり、それでおしまい。すべてのかけらが一緒になって機能し、タイトルトラックは抜きにすれば個々の曲に過度の注意を引きつけることはない。

 最初の2枚についてはTortoiseは熱烈な称賛ばかり受けていたが、この『TNT』に対する反応は当初賛否両論だった。その2枚が様々な制限に抵抗して来たのに対し、この作品はそこから少しずれたかのように見えた。様々な伝統をぶっ壊してきた彼らが作ったのは、静かで小奇麗で、ディナーパーティーでかけても大丈夫な作品だった。SPIN誌は『TNT』は確かに良くできているが全く温かみを感じないと評し、The Wire誌は「全く爆発力のない作品で、ただただ困惑させる」と切り捨てた。どちらの批判もフェアではないが、同時にこの作品の特別さを不注意にも言い当ててしまっている―その「どっちつかずさ」を。Jeff Parkerは1998年、CMJに対して「人間っていうのはわかりやすいものを期待してしまう。でも人生はぜんぜんそんなんじゃないし、なんでそんなおがくを作らなくちゃいけないんだ?」と語っている。『TNT』は確信を与えるような作品ではない。それは着地したところで色んな意味を持つ自由な作品であり、表面上は美しいがその深部は解剖ができないアルバムである。この作品を楽しむことは、わからないという不安な気持ちに向き合い、何を感じるべきなのかを教えてくれない音の中でくつろぐことなのだ。

筆者:Mark Richardson

得点:9.0/10