海外音楽評論・論文紹介

音楽に関するレビューや学術論文の和訳、紹介をするブログです。

<Pitchfork Sunday Review和訳>Prince Paul: A Prince Among Thieves

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pitchfork.com

1999年作、野望と正義に満ちたストーリーテリング・ヒップホップ作品

  プリンス・ポールはヒップホップ史の中でもかなり重要な音楽家であるが、その功績とは裏腹に何故かずっと無視され続けている存在でもある。時に見下され、時に拒否され、音楽業界に不当に搾取されていたポール・ヒューストンことプリンス・ポールはインサイダーであると同時にアウトサイダーであり、その視点の切替によって不条理と向き合う稀有な能力を身につけた。『A Prince Among Thieves』は少なくとも表面上は35曲入り77分のユーモラスなストーリーテリング・ヒップホップの傑作であり、ヒップホップ黄金時代(いわゆる"Golden Era")のスターやアンダーグラウンドのレジェンドたちがこぞって参加している。しかしその下に横たわっているのは、多難続きのキャリアとそれがこのロングアイランド出身の道化の天才の精神におとした影が生んだ、噛み付くような皮肉なのである。

 1980年代、プリンス・ポールは熱心で驚異的なティーンエイジャーで、スキルと良い"好み"を持つDJとしてニューヨーク・アミティービルの黒人コミュニティでプロップスを得ていた。彼の噂はイースト・ニューヨークのストリートにまで広がり、あのStetsasonicは彼をグループに迎え、ポールはDJを務めたのちお抱えプロデューサーの一員として活躍した。急進的なアイデアを実行に移すため自主性を求めたポールは、彼と同じくアミティービル・メモリアル・ハイスクールに通っていた同志3人と出会うことになる。彼と同じくらいオタク気質で風変わりだったDe La SoulのPosdnuos、Trugoy、Maseの3人にポールは親近感を覚えたのだった。

 その新たな創作の共犯者たちと共に、ポールは当時のラップのクリシェをひっくり返そうと目論んだ。他のプロデューサーたちがJames Brownのカタログからサンプルを絞り出していた頃、ポールとDe La Soulのパレットはもっとごった煮で、Johnny CashからSly and the Family Stoneまでなんでもありだった。みんながゴールドチェーンなら、De La Soulはブラックレザーのアフリカのメダリオン。みんなが前へ前へなら、彼らは控えめだった。他がハードに打ち出るのなら、De La Soulおどけてみたりするのである。

 彼らのやり方は正解だった。『3 Feet High and Rising』(1989)は広く批評的成功を収め、『De La Soul Is Dead』(1991)もそれに続いた。この4人の若者はステレオタイプを転覆させ、ラップのサンプルの幅を広げた。さらにラップ・アルバムにおけるスキットをストーリーテリングの装置として完成させ、アルバムの一貫性に不可欠なものにまで仕立て上げた。この成功で波に乗ったプリンス・ポールは引っ張りだこのプロデューサーとなり、Big Daddy Kane、Slick Rick、Queen Latifah、Boogie Down Productions、3rd Bassなど当時人気絶頂のプレイヤーたちと仕事をするようになった。彼はブルックリンのMC、Jazもプロデュースし、若きJay-Zはそのトラックの上でラップし、彼の名前をシャウトしている

 残りの90年代の間は、ポールにとって不遇の時代であった。今日でこそDrakeのようなラッパーやPharrellのようなプロデューサーが何年もの間勝ち続けることができるが、当時はラッパーがレーベルから落とされずに3枚目のアルバムまでこぎつければ上出来だったし、プロデューサーが流行の音に置いていかれるまでの”旬”は1〜2年が関の山だった。90年代といえばリスナーは皆西海岸のギャングスタ・ラップサウンドに夢中で、ポールの得意とする風変わりで折衷主義のサウンドは時代遅れとなった。3枚目である『Buhloone Mindstate』の製作中にはポールとDe La Soulの間には創作的な面でのギャップが生まれた。留守番電話の音でお馴染みの「Ring Ring Ring(Ha Ha Hey)」を共同プロデュースしたこの男は突然、ヒップ・ホップ界の友達・同僚と連絡が取れなくなってしまったのである。

 90年代の中頃になると、ポールのキャリアは下降線をたどり、彼の私生活もまた波乱に満ちていく。彼が主宰するDew Doo Man Recordsは失敗に終わり、彼にはもうDe La Soulもなくなってしまい、何よりも元恋人と息子を巡る親権争いにも巻き込まれてしまう。ポールは『Psychoanalysis』(1996)で音楽業界に中指を立て、サヨナラを告げるつもりでいた。この作品は彼の空っぽの心を探検する奇妙で興味深い作品であり、ボーカルで参加しているのは彼の周りにいた無名の友人たちである。彼の好みである悪ふざけは幻滅の色合いを帯び、ユーモアはダークそのものだった。2015年にThe Cipher podcastに出演したポールはこの制作の背景にあった考えをこう語っている。「僕のキャリアは終わって、みんな僕が嫌いで、この作品を聴く人なんかいない…だったらこの作品は精神病やらもっと狂ったものごとを患った男についての作品にして、みんなが何を言うかは気にしないでおこう、って」

 しかし意外なことに、この作品はヒップ・ホップ界の異端として称賛を浴び、以前所属していたレーベルであるTommy Boyがアルバムの再発と再契約のために接触してきた。Tommy Boyは当時CoolioやNaughty By Natureといったポップ・ラップ勢と契約し稼いでいたが、ポールに専属一流アーティストになって欲しがったのである。新たな興味に再び活気づいた彼はある提案をする:ナラティヴがスキットだけで語られるアルバムではなく、アルバム自体が始まりから終わりまでのお話になっているアルバムを作ったらどうだろう?このプロジェクト全体が低予算のミュージックビデオで上演されてもいいし、レーベルはそれと同時にTommy Boy Filmsを立ち上げれば良い。レーベルはアルバムのアイデアには食いついたがフィルム制作のコストになると財布の紐をきつく締めた。当時はデジタルフィルムなんて簡単に手に入るものじゃなかったし、まともな映像を作るのはとても高価な作業だった。彼らは予告編の撮影代としてわずか10000ドルを彼に与えた。

 それでもめげず、むしろインスパイアされたポールは、低俗なTV番組のようなものとヒップ・ホップが交差するような物を作りたかった。笑えて、ちょっとひねくれていて、楽しめるようなもの。「録音された映画を作りたかった。大人のための子供向けアルバムを作りたかったんだ」と彼は2011年Complexに語っている。アルバムのプロットを練り上げていく段階で彼は昔良く見たB級映画を研究し、よくありがちな場面を自分の脚本に当てはめていった。お話の結末を決めるにあたって、彼はこれまでに経験してきた苦い思い出に思いを馳せ、その怒りに身を任せた。音楽業界で味わった失望と失敗、息子の親権を元恋人に与えた家庭裁判所を思い返し、話を通底するテーマめいたものが彼のもとに降りてきた。「悪いやつがいつも勝つのさ」

 物語の中心は”Tariq”という卑劣な人物だ。彼は野心を持った怠け者のラッパーで、RZAに会って渡すためのデモのレコーディングを終わらせるのに1000ドルが必要だ。一週間でお金を作らねばならず彼が頼るのがTrueという名のゴロツキの友達で、彼はTariqにお金を貸す代わりに彼を犯罪の世界に引きずり込む。純朴で騙されやすいTariqはすぐに大金はタダでは手に入らないことを学び、汚い取引、そして裏切りの犠牲者となる。ここでTariqは日陰者、境遇、そして貧しい決断の犠牲者である。そう、Tariqとはポールなのである。

 そんな悲喜劇を書き上げたポールだが、彼はキャスティングの仕事もせねばならなかった。『Psychoanalysis』のおかげで彼はふたたびクリス・ロックのようなコメディアンと仕事をすることができるようになったが、全盛期のような権力が完全に回復したわけではなかった。Tommy Boyも彼に多額の予算を割いてくれるわけではなく、例えばTrueをNotorious B.I.G.に演じてもらうなんてアイデアはとうてい無理であった。そこで彼がしたのはいつも彼がやってきたことだった。つまり、浮浪者たちに訴えかけることだ。

 ラッパー兼声優のキャスティングのため、彼は主役にはアンダーグランドのMCたちを、そして準主役には旬が過ぎてしまったと思われているラッパーを求めた。主役にはアンダーグラウンドのラップグループ・JuggaknotsのBreeze Brewinが抜擢された。90年代中盤、彼のグループはEastWest Recordsから放出され、El-P率いるCompany FlowやNon-Phixion、Natural Elementsなどを中心としたニューヨークのアンダーグラウンドの小さなシーンの一部と成り果てた。プリンス・ポールはBreeze Brewinのうねるようなフロウ―巧みな中間韻で構成されたライムスキーム、皮肉の利いた冗談―がこの作品にぴったりだとわかっていた。成功を夢見ていたBreeze Brewinが、自分が生ける伝説だと考えていた男と仕事ができるというチャンスに飛びつかないわけがなかった。

 True役には、地元アミティービルのHorror Cityというクルーのラッパー、Shaを採用した。残りのキャストは彼が信頼するラッパーたちが集められた。House of Pain解散後、『Whitey Ford Sings the Blues』発表前のEverlastはレイシストの警官「Officer O'Maley Bitchkowski」、Kool Keithは「武器と性交渉したことで除隊された」元海軍大佐である武器の闇商人「Crazy Lou」、Big Daddy Kaneは口が上手いポン引き「Count Mackula」、XzibitとSadat Xは監房にいる粗暴な容疑者、Breezeの妹であるラッパーQueen HerawinはTariqの疑い深いが愛も深い恋人、Chubb Rockはマフィアのボス「Mr. Large」を演じた。ポールの古巣であるDe La Soulも出演し、Chris Rockと共にとにかく必死な麻薬中毒者を演じている。

 「このアルバムの制作でやばかったのは、だれも今何が起こっているのかわかっていなかったということだ」とPaulはThe CipherのShawn Setaroに語っている。「誰も全体のストーリーを知らなかった。みんなにはそれぞれの台詞だけを渡して、他の人の分は見せなかった。そして別々に一行ごとに録音したものをあとから編集したんだ」これは1998年、Pro Toolsが広く使われるようになる何年も前のことだ。だからPaulはASR-10、ADATデジタルテープ、MIDIのシークエンスプログラムを用いて音楽や台詞を継ぎ接ぎするという途方もない作業をこなしたのだった。このプロジェクトのビートに関しては、彼は自身のやり方を少し簡素化し、使用するサンプルは1〜2つで、その上にドラムを乗せるという手法をとった。その方が安上がりだったし、ストーリーや役者たちが前面に出てくるのだ。

 2年近くもの作業を経て、『A Prince Among Thieves』は1999年2月にリリースされた。アルバムはストーリーの終わりから始まる。救急救命士が傷を負った主人公を看病している。後ろでサイレンが鳴る中、Tariqの独白によって幕が上がる。スキットに続くのは「Pain」の物悲しいバイオリンの音色だ。Shaもここで登場する。Tariq(Breeze Brewin)がここで暴力や裏切りについて語り、物語の先行きを暗に示唆する。「Steady Slobbin」において彼は母親と暮らす、平凡な負け組として紹介される。Ice Cubeギャングスタの生き様を歌った「Steady Mobbin」のコンセプトを反転させ、この主人公は金欠で母親に叱られることから醜い女性とのセックスで早漏してしまったことまで、様々な「負け」を物語っていく。

 キャラクターをよりわかりやすいものにするため、「Just Another Day」でTariqは彼のずる賢い仲間、Trueとの関係についての背景を説明する。二人は古くからの知り合いである。若かった頃にTrueはTariqにラップの仕方を教えたが、Tariqが彼を追い抜くと彼はラップの夢を諦めたのだった。Tariqはその嫉妬を感じてはいたが、ブラザーの仲を引き裂くようなものだとは思っていなかった。その行き違い、見解の相違が後に登場するマンガのような脇役たちと相まって二人の関係に影を落としていくことになる。当時のポールが持っていた人間の本質に対する懐疑心が物語にも現れていて、Tariqは極めて俗っぽいやり方で1000ドルを手に入れようとするが、その過程でモラルを失っていく。

 (特に当時は)オーセンティシティやリアルさを追求していたこのジャンルにおいて、ポールはそういった決まりごとを喜んで風刺し串刺しにした。Tariqが地下の世界に堕落していくという、ラップの世界で言葉の綾のように繰り返し歌われてきたテーマはここではパロディの材料となっている。銃―のし上がりたいと思うハスラーやポーズをとりたいラッパーには必要不可欠なものだ―を手に入れるためには、彼はKool Keith演じる「Crazy Lou」の隠れ家(合言葉は「浣腸泥棒」だ)を訪ねる必要がある。Kool Keithは実在する武器から想像上のものまで武器を挙げていき、銃の話題をロマンティックに展開していく。そして最後に究極の武器「ドラゴン・プラス」を紹介する(「アルミニウムでできたワニの皮」で覆われた「6フィートのゴリラ」である)。彼が架空の武器庫の話を終える頃には、聞き手はそれが動物なのか機械なのかわからなくなってくるが、それがナンセンスであるということだけはわかる。Paulがスタジオでクスクスと笑っているのが聞こえるようだ。

 そして、誘惑にまつわる寓話がセックス無しで完結するなんてことがありうるだろうか?面白おかしくつくられたラヴ・シーン―勃起を表すビヨーンという効果音まで入っている―はEverlast演じる悪玉NYPD警官によって邪魔される。このキャラクターもまた道化の天才の偉業であり、彼はニューヨークの警官のあらゆるステレオタイプを「ワルいサツがお前の家まで行って / 黒人の家に証拠を植えて回るのさ」「道でお前を撃って / KKKの集会のように十字架にかけて燃やしてやる」といったラインで体現してみせる。しかしEverlastやBig Daddy Kane演じる「Count Macula」はポールのシニカルなストーリーに登場するカメオであるだけではなく、裏切りの担い手でもある。これらのキャラクターは聞き手に世間はお人好しに甘くないということを印象づける。これらはポールの敵、失望、失敗が擬人化されたものである。

 数々のサプライズ、隠された仕掛け、豪華ゲストがあるとはいえ、『A Pricne Among Thieves』という劇の中心はBreeze Brewin演じるTariqである。仕組まれた罠に騙されたとわかり裏切りを悟った時、この愛すべき愚か者はウエスタン風の決戦による復讐(「You Got Shot」)に打って出る。「生きていくのは辛い / お前も一緒なんだろ / お前のこともお前のゲームのことも知ってる / 神よお許しください...」彼の純潔は失われる。クライマックスにおいてTariqが騙されやすいカモから荒んだ復讐の鬼に生まれ変わるのは、ポールが音楽業界で経験したことと鏡写しになっている。でもこの作家は知っている。正しさと勝利を同時に手に入れるなんてことはめったにないということを。

<Pitchfork Sunday Review和訳>Alice Coltrane: Journey in Satchidananda

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時代を超越しハーモニーと悲しみに満ちた、スピリチュアル・ジャズの驚異

アリス・コルトレーンの娘、シータ・ミシェルはかつて、登校前にベッドに横になってたいたある朝を思い出してこう語った。彼女は美しいハープの音色で目が覚めてこう思ったのだ。「もし天国というのがこういうものなら、機会が来たらいつでもそれを歓迎したい」と。ジョン・コルトレーンがそのハープを注文したのだが、それが届く前に亡くなってしまったのだ。ジョンの死後数年の間にアリスのバンドリーダーとしてのキャリアが始まり、彼女の練習はその輝かしく新しい楽器を中心として行われていたことを考えると、彼女がジョンと共有していた音楽的遺産を受け継いでいくことを決定づけた贈り物としてこのハープを見るのは魅力的である。

 でもアリスはオルフェウスではなかったし、ジョンもアポロではなかった(訳者注:オルフェウスギリシア神話に登場する竪琴を弾く吟遊詩人であり。アポローン神がその父であり、彼に竪琴の技を伝授したとされる)。そのハープ自体によって彼女のキャリアが始まったとするのは彼女の才能の強烈さを否定するものであり、妻のレガシーはその夫のものに付属するのだという間違った考え方である。もちろん二人の互いへの影響は緊密ではあったが、彼らの作品は別のものであり、この素晴らしくエモーショナルな『Journey in Satchidananda』の中でアリス・コルトレーンのハープの物語の中心にある結び目が解け始めるのである。

 アリス・マクラウドとして1937年の夏にデトロイトにて生まれた彼女は最初から才能にあふれていて、地元のバプティスト教会でピアノやオルガンを弾いていた。彼女が生み出す音楽はとても美しく宇宙的であったので、アリス・コルトレーンは厳格な音楽教育を受けていないと思われがちである。しかし彼女は十代の頃デトロイトでクラシカルピアノのコンサートを開いている。60年代に彼女はパリに移り、バド・パウエルというメンターのもとでジャズを始める。次の年には彼女はパリのブルーノートで幕間にピアノを弾くまでに至る。

 アリス・コルトレーンが結婚した一人目の男は、ある意味では二人目の夫と出会うきっかけを与えたと言える。彼女は1960年にケニー”パンチョ”・ハグッドというジャズ・ヴォーカリストと結婚したが、一人目の子供を身ごもってすぐ彼のヘロイン中毒により二人の関係は悪化し、アリスはアメリカへと戻る。娘シータ・ミシェルの手を取り、その後アリスはデトロイトへ戻りプロのミュージシャンとしてのキャリアを本格化させる。デトロイトを回るうちに彼女はテリー・ギッブスのカルテットにピアノとして加入する。彼女は引っ張りだこの即興演奏家となり、バンドリーダーが提示したリズムすら超越してしまう様なトランス状態での演奏で有名となった。1962年、ギッブスのバンドでニューヨーク公演を行っている間、彼女はジャズクラブ・Metropoleでジョンと出会う。翌年には彼女はジョンと結婚することを告げギッブスのバンドを突然脱退。ジョンとアリスは三人の子供をもうけた。

 ジョンは肝臓がんで1967年に他界。彼女は茫然自失となった。もしくは「茫然自失」より強い言葉があればなんでもよい。彼女はよく眠れず、幻覚を見た。そして痩せ細った。悲しみの淵にあって、アリスはスワミ・チダナンダという男の元を訪ねた。彼はウッドストックで観客に演説を行った導師であり、彼女はその弟子となった。彼の助言や精神的導きが彼女の精神を安らがせた。

 アリスはこの時期になるとかなり深く精神の問題と関わりを持つようになっていた。彼女が作る曲は世界中のあらゆる音楽的伝統へとサイケデリックな方向に継投していったが、デトロイト時代のビバップ的な環境の味付けは残ったままだった。彼女は1970年、自身の精神的助言者スワミの名前をとった作品『Journey in Satchidananda』を録音する。彼女の初期作品はすべて、エジプトやインド(後者に彼女は70年代に何度か訪れている)の神話や宗教を探求するものだった。しかし彼女が60年代に経験した大きな変態―一人の人間として、そしてアーティストとして―へのトリビュートとして作られたのがこの『Journey in Satchidananda』である。

 透明感あふれるハープの音によってすぐさま明らかとなるのは、このアルバムが巧みなオーケストレーションについての作品であると同時に、魂=ソウルについての作品であるということだ。手がかりはタイトルにもある。これは「旅」なのだ。アリスは多くの文化や多様な楽器を用いてジャズの作曲において未踏の領域に連れて行ってくれるが、同時に移りゆく感情も我々に見せてくれる。彼女は1つのキーにとどまるのを嫌がるため、アルバムのテーマを反復するメロディの形として扱うのではなく、『Journey〜』の真の手触りは移行 / 過程 / フロウによって決定される。ここには始まりも終わりも存在しない。代わりに、1曲目の最初の部分で実演されるようにアリスは繰り返しと超越の原理を使うのだ。

 『Journey〜』を聴く際、我々は地面に横たわり目を閉じるべきである。なぜなら、それがアリスがライナーノーツで要求している一種の視覚化を行うにあたってベストなコンディションだからである。「この作品集を聴く者は誰であれ自分がチダナンダの愛の海に浮かんでいるところを想像しようとしなければなりません。その海はこれまでいくつもの帰依者の運命の移り変わりや人生の嵐のような荒波を文字通り乗り越えさせてきたのです」

 だから私は自分の部屋の床に身を投げ出した。すると自分が下の地面と上の宇宙の間の暗渠になった気分がしたのだった。アルバムはタンブーラによる3音のドローンで幕を開け、タイトル曲が始まる。その3音はぐるぐると繰り返し、私をその中にとどめておく。やがて柔らかく手応えのあるベースラインがその下で広がっていく。そしてアリスが入ってくる。タンブーラ(ネックの長い弦ドローン楽器で、弱々しい音が特徴である)で演奏される主題の中で彼女のハープはまるで妖精、あるいは長い幽閉から開放された子供のように聞こえる。まるで誰にも見られていないように気ままに上向きにそして下向きに踊る。目を閉じて聴けば、それはまるで水中に差し込む一筋の光である。

 伝説のフリー・ジャズのパイオニアファラオ・サンダースが加わわれば、彼のサックスのメロディはどこへだって行ける。セシル・マクビーのベースは安定感が抜群だからだ(この時すでに彼はマイルズ・デイヴィス、ユセフ・ラティーフ、フレディ・ハバードなどと演奏した経験を持っていた)。この曲そして続く4曲において、音の不調和は留まる場所ではなく訪れる場所である。すべての主旋律は探求であるが、アリスのオーケストレーションは我々に安定した、そしてくり返しやってくる帰還地点を提供してくれる。そのドローン / ベースによるテクスチャーはマクビーと「トゥルシ」とだけクレジットされているタンブーラ奏者によってもたらされるのだが、その一方でサンダースのサックスやヴィシュヌ・ウッドのウードがアリスのハープに加わってきらめくような自由律のダンスを行う。

 オーケストレーションは広大で深遠であり、間違いなくアリスの南アジアの伝統への興味が反映されている。『Jouney〜』で行われているコード進行はこれ以上ないほどに単調だ。しかしジョンのようにアリスはモード的スタイルを用いてルート音周辺の適当なコードを選び、機能的なハーモニーは切り捨てている。アルバムの和音はインド音階や他の非=全音階の体系を参考にしているが、大体はオープニングの3音ドローンのように主題からは逸脱している。アルバムの中を楽器から楽器へ、ある曲から別の曲へ、メロディはさまよい歩く。それは繰り返され、変化し、戯れる。

 2曲目「Shiva Loka」ではアリスのハープはより強力となり、人格を持って実存を獲得する。曲のタイトルは破壊の女神からとられている。1曲めから続く3音の循環はいまや確固たる土台となり、その残響は厚みを増し生き生きとする。鐘は速さを増し音楽の表面にばらまかれる。拍も厚みを増し、ビートから離れやがて本当のリズムとなる。地面に横たわったまま踊るのは難しいが、「Shiva Loka」はそれを可能にする。

 そのグルーヴは「Stopover Bombay」でも続けられ、列車が線路の上で揺れ始める。静かになるのは「Shomething about John Coltrane」においてだけである。アリスはピアノへとスイッチし、それは雨のように滴っていく。空間をクールな不規則さでかたどっていく。サンダースのサックスが叫び始める時、それが笑っているのか泣いているのかはわからない。強烈な感情によって生命を吹き込まれた曲であり、それは我々をいかなる方向にも連れて行く。終わりに差し掛かると、私は嵐から無傷で生還したような気分になった。タンブーラのサイクルが最初からずっと私を守ってきたかのようだ。

 最後の曲、ライブ録音された「Isis and Osiris」において、我々はようやくアリスの悲しみと向き合うことになる。11分間にわたって、ヴィシュヌ・ウッドは我々に短調に囚われたウードのメロディを献身的に届けてくれる。ウードの音色は鋭いが反響する。彼はすすり泣き、震え、作品の悲哀を決定づける。やがてすべてが静かになり、旅は終わる。

 床から立ち上がるのに長い時間を要したが、その間私はアリスの精神が未だに悲しみに触れられているように感じた。それは音にするよりも言葉にするほうが難しいのだが、作品の中に溢れんばかりに感情がまぜこぜになっている中に、痛みを聴くことができる。ジョンなくして旅はない。スワミなくしてチダナンダはない。悲しみなくしてスワミはないのだ。音楽と人生、夫と妻を分ける二分法の代わりに、この作品はアリス・コルトレーンの人生のすべての要素は無限の神の流れの中で彼女のために存在したのだということを明らかにしてくれる。ジョンの名は彼女に影を落とすかもしれないが、アリス・コルトレーンはそれから逃れようとはしないのだ。

 やっと私が目を開けると、部屋の中に陽の光が満ちていた。アルバムの中心で滝のように流れるハープのように、その日光は死を超えて存在するのは芸術だけだと私に言っているようだった。光がなければ影は存在しない。互いが互いを定義しているのだ。アリス・コルトレーンは『Journey in Satchidananda』を様々な感情、様々な人生、様々な伝統がないまぜになったとらえどころのない流れの真っただ中で作り上げた。アリスの音楽はそれ自体が旅であり目的地でもある、とこの作品は物語る。

点数:10/10

筆者:Josephine Livingstone

<Pitchfork Sunday Review和訳>Robert Ashley: Private Parts

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ロバート・アシュリーの『Private Parts』には筋書きがあるのだが、皆さんはご存じないことだろう。この1978年発表の作品(後に彼が手がけるテレビ用オペラ『Perfect Lives』の下敷きになる)は二人の男女の心情の機微を詳細に描いたものである。この二人の男女の正体は明かされないどころか、この二人同士がお互いを知っているかどうかも定かではない。40分超の再生時間は言葉たちで埋め尽くされているが、その意味はぐるぐると循環し決して帰結しない。このゆったりとした独白の数々によってアシュリーが探求したのは起こって「いない」ことすべてである。影の中をこっそりと踊り回る、ある倒錯である。我々は登場人物の強迫観念、行動の痙攣、性急的思考の反芻、精神の消耗を知らされるわけだが、それらの物語、内容、意味はまるでよく覚えていない夢のようにとらえどころのないままだ。『Private Parts』はその空虚さの上に成り立っている。その空虚さによってここまでわくわくさせられるというのだから驚くべきことである。

アシュリーで有名なのはその声である。落ち着きも大胆さも自信もあるのだが、もごもごとしゃべる。『Private Parts』はある意味ではその声が世に初めて放たれた作品である。この数年前に彼は『In Sara, Mencken, Christ and Beethoven There Were Men and Women』をリリースしているが、この中で彼のスピーチはぶつ切りにされ、モジュレートされ、ディジーなエフェクト処理がなされていた。しかしこの『Private Parts』では彼は少し怪しげでありながら聴くものを思考へと誘うような宇宙的規模の皮肉家という、後のキャリアで常に反復し続けることになる役割を引き受けた。このときですでに40代後半だったアシュリーは60代、70代になってもミルズ・カレッジの現代音楽センターの監督や、ミシガン州・アナーバーで開かれる「ONCE Festival of New Music」の主催者を務めたり、ソニック・アーツ・ユニオンとしてアルヴィン・ルシェ、デヴィッド・バーマン、ゴードン・ママといった分類不可能な音楽家たちと共演したりと精力的な活動を続けた。しかし、彼の録音物の発表は極めて稀となり、それらの多くは挑戦的で聴く者たちを対立させるようなものだった。1968年のリリース「The Wolfman」は偏頭痛を模したような15分の雑音であり、1972年の「Purposeful Lady Slow Afternoon」は完全ではない相互同意の上でのオーラル・セックスを、そのトラウマを克服した側が淡々と無気力に語るという問題作だった。

しかし『Private Parts』ではアシュリーは自分のほんとうの天職を見つけた。これらの尖った作品達は確かに顕著であったが、テレビ用のオペラに取り掛かったことがきっかけで彼の創造力はいまだかつてない高みへと到達する。『Perfect Lives』だけではなく『Automatic Writing』(1979)、『Atlanta (Acts of God)』(1985)、『Your Money My Life Goodbye』(1998)といったこれに続く作品群の多くはこの『Private Parts』が下敷きになっていると言えるだろう。それは完全に未知の領域であったが、アシュリーは全く新しい形式でそのアイデアに飛び乗った。「テレビ用のフォーマットにしたのは、それが音楽の唯一の可能性だと信じているからだ。我々には伝統なんていうものはない。ただ家にいて、テレビを見るだけだ」と彼はインタビューで発言した。彼の作品はシュールレアリズムの範疇で語られ、誰にも理解されないことも考えられた。しかしどれだけ熱心なオーディエンスでも彼の悩みの種ではなかったようだ。「アメリカのテレビ視聴者はバカだ」彼は不躾にこうコメントした。

このアルバムは2話分の作品を収録している。それぞれ20分少しの長さで、CMによる中断は予期していたと思うのだが、一時停止をするのにちょうどいい場所は一切ない。アシュリーはオペラという概念をリベラルに、もしくは文字通りにとらえていた。もしオペラが芝居じみたセットや高尚なドラマ、屋根に対して放たれるような歌声といったものを必要とするのであれば、彼は近寄らなかっただろう。しかしそれが音楽、キャラクター、スポークンワード、歌、セットデザインを組み合わせてできたメディアだとしたら、他に何になり得よう?

加えて、この音楽を聞けば意味についてとやかくあら捜しをしたくなるというものである。結局彼の気取った話し方が気になって仕方ないのである。アシュリーのオペラは疲れ切って大麻を吸った人間が電話帳を読んでいるかのようだが、それでも魅惑的なのだ。前衛的な作曲家「ブルー」ジーン・ティラニーによる曲がりくねるようなキーボードの音色、クリスの徐々に染み渡ってくるようなタブラに後押しされ、『Private Parts』の反・物語は安定した重力を生み出すのである。小さな断片の集まりがある方向を指し示すように思えるが、アシュリーはそういった線形の道を避け続けるのだ。

A面、「The Park」は男の声で始まる。「彼は自分を真面目な人間だと思っている。モーテルの部屋のパンチは切れてしまった。彼はカバンを開けた。」まるでノワール映画のオープニングのような雰囲気である。そして詳細が続く。「そこには2つあり、そのなかにまた2つ、さらに2つがあった。」ここですでに円環状で駆け足な統語論が我々を躓かせる。物語はほんの少しずつしか前進しないため立ち消えそうになる。おそらくアシュリーは次の不明瞭な台詞でその摩訶不思議な世界に対する慰みを与えようとした。「それは気楽な状況ではない。しかし気ままさのようなものが空気を漂っていた」。

一体何が起こっているんだ?そして次は一体何が?すべてが明らかになるのが近いと感じるかもしれない。ある時突然彼が山積みになったバラバラの思考を統合するのではないかと感じるかもしれない。しかし彼の眠たくて一本調子な喋りを聞いているうちに、そんなことは起こらないのだと確信に至る。後ろではキーボードが目的もなく漂い、タブラがのんびりとぶらついている。すべては沸騰寸前の温度にあるのだが、そこからクライマックスに至るわけでも、そこから冷めていくわけでもない。これは素晴らしく不調なラウンジ・アクトや、DMT愛好家によって作られたエレベーター・ミュージックを聞く感覚に近い。

彼と類似した音楽家やその試みは戦後の現代音楽シーンに散見される。ジョン・ケージの「Lecture on Nothing」のようなテキスト作品は、人が良く、知的ないたずら者という雛形を提示したという点で間違いなく土台となっている。アシュリーの文章の日常会話に寄り添った書き方はスティーヴ・ライヒの初期テープ作品やフィリップ・グラス「Einstein on the Beach」のざわめくようなギリシャ風のコーラスと共鳴する部分がある(トランスへと誘うような音楽的構造を重視している点でも同様である)。しかし彼は彼自身の爽やかな美学を持っていた。彼の奇怪さは先人たちと比べてもあらゆる点で過激であったが、それでも肩の力が抜けているように思えた。

ティラニーとクリスも、伝統的な実験音楽のような仕草を避けるという点ではアシュリーと同じくらい骨を折って作業した(アシュリーは実験音楽という言葉を公然と拒否していたことで有名だ。「作曲は決して実験などではない。典型的な専門職だ」と書いた)。彼の散文詩を不吉な不協和音で覆ってみたり、その散文詩に続いてタイトに作曲された(でも即興演奏に影響された)激しいアクセントのビートやギターを乗せてみたり…といったものを期待するかもしれない。でも代わりに彼らは、努めて牧歌的で調和を保ち続けることによって薄気味悪さを演出する。開けっ放しの蛇口のように彼らは終わりなく音やフレーズを垂れ流す。彼らは開放的な新しい時代の渦を受け入れてはいるが、まだ伴奏部には微量の威嚇が感じられる。彼らが鳴らす音にではなく、彼らの音の鳴らし方にこそ特異な点が感じられるのだ。誰に聞かせるわけでもない単調な音を鳴らし続けるような、イージーリスニングをエミュレートする最初期ののアルゴリズムを想像してみて欲しい。

初めて聴く人間には(5回目の人間にも)目隠しをした状態でA面とB面を聞き分けることは難しいかもしれない。両方とも穏やかなストイシズムを備えていて、決してチャンスを逃すことはない。しかしB面の「The Backyard」はどこかハードに聞こえる。おそらくそれは目録であり、計算であり、査定である。主人公の意識の瞑想をスキャンするところから始まり、アシュリーは彼女が考えないこと、すること / しないこと、そして彼女の心がどのように動き機能しているかを列記する。最も魅惑的な瞬間ができあがるのは「42もしくは40たす20は、常に62もしくは60である」という主張の辺りである。ここでプライスポイントと算数の間に亀裂が生じ、頭から離れなくなってしまう。「14.28ドルのほうが14ドルちょうどよりも魅力的に感じる」という考えがこの瘴気のなかから生じてくるのはなぜか?アシュリーはすぐに答える。「そういうものだ」と。

もしこれら全部が気が違うほどに意味不明だと思うとしたら、意味不明なのだ。しかしこの奇妙さが釣り合うのは直感的な衝撃だけだし、その影響は前衛音楽を追い求めた世代に見つけることができる。ローリー・アンダーソンがポーカーフェイスでアメリカの生活を切除したのもこの影響だろうし、スロッビング・グリッスルが同年に発表した「Hamburger Lady」なんかもそっくりに思える。ノー・ウェイヴのシーン全体(『Private Parts』から遅れること1〜2年で誕生した)がハイアートの真面目さとロウブラウ的なニセモノ感という似たような衝突を楽しんだ。一方でブライアン・イーノもデイヴィッド・バーンと共にTalking Heads『Remain In Light』(1980)や二人の共作『My Life in the Bush of Ghosts』(1981)においてシュールで甘ったるいアメリカ人という似たような地域に足を踏み入れることになる。

とても賢いリスナーだけが知り得るような「なるほど!」というような仕掛けがあるかどうか、それはわからない。より巨大な作品である「Perfect Lives」についての精読や徹底的な分析も、それがいかに理解不能であるかということを明らかにするだけである。権威のあるような読みや理解は構造や物語の理解を助けるかもしれないが、『Private Parts』が属している物語は蜃気楼のように遠くにあるものであり、アシュリー曰くそれは断片でしかなく「いくつかは意味をなすが、そうじゃないものある」んだそうだ。受け手にほぼ何も明らかにすることなく、解剖するものは多く与えるというのは少しかっこいいし、自由に見える。アシュリーは自分で現代の生活を「微妙な差異(ニュアンス)の濃霧のようなものであり、それがあまりにも濃いために主たる形式は失われている」と形容した。それは正しいように思える。

しかし別の名言もある。オペラの起源についての話の中で、同世代の作曲家アルヴィン・ルシェはアシュリーとオハイオを車で横切った夜のことを書いている。彼の回想はこの作品に込められている夢のような無限性を示唆しているようでもある。「バーで座り、互いにものすごく真剣に話し合っている男女のカップルたちがいた。私はそこにいる人たちは誰も結婚していないと思った。というのも彼らはとてもおもしろい会話をしていたからだ。そして帰りにその同じ酒場に戻ると、光景が全く同じだった。ここにはこのような人生があって、続いていっているんだ。それが永遠に感じたんだ」

得点:8.8

筆者:Daniel Martin-McCormick

<Pitchfork Sunday Review和訳>Tracy Chapman: Tracy Chapman

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pitchfork.com

社会の周縁の言葉たちとともに登場したフォークの傑作

Tracy Chapmanに注目が集まったのは、アカペラで歌われる「Behind the Wall」がきっかけだった。隣の部屋から聞こえる女性の叫び声を聞く隣人の視点から歌われるこの歌のなかで、彼女の声は震える低音からウィスパー声までをすばやく往来する。ヴァースとヴァースの間では、再びダークなシーンに立ち戻る前に空気を沈黙に落ち着かせる。「警察はいつも遅れてやってくる / やってくるのなら、の話だけど」という最後のラインのあと、曲は電話が切られたように唐突に終わる。Chapmanがこの曲を書いたのは1983年、彼女がまだタフツ大学の学生で、ボストンの通行人相手に路上ライブをしていた頃だ。それから5年後、彼女はこの曲をネルソン・マンデラの生誕70周年慈善コンサートが開かれた満員のウェンブリー・スタジアムで、6億人がテレビ中継で見守る中披露することになる。

ギターを手に一人でその巨大なステージに立った彼女は、声を響かせるマイクと熱狂する観衆と共にその曲の静けさを増幅させることに成功した。彼女が持ち前の人を引きつけるような落ち着きを持って歌うと、そこには聴衆たちの子供時代のベッドルームのような雰囲気が立ち現れた。「Behind the Wall」は3曲からなるセットの2曲目に披露された。しかし、皆の知るところだが、とある偶然によって世界はこの堂々としたアーティストを予定よりも少し長く見ることになった。Stevie Wonderが演奏するはずだった直前、彼の機材が不具合を起こし彼はステージに上ることを拒否した。Chapmanはその代役を請け負うことになった。「Fast Car」が演奏されたのはその時だった。

その2ヶ月前にかなり控えめな売上予想と共にElektraからリリースされていたこのセルフタイトルデビュー作の中で、「Fast Car」は「Behind the Wall」の重さと釣り合いを取るような曲である。低い声で歌われるヴァースは現実のわびしい認識をなけなしの希望とごちゃ混ぜにしたのち、物思いに耽る様な、楽しげなコーラスへと盛り上がりを見せる。それはきっとあなたがまだ若く、恐れを知らない時代へと連れて行ってくれる。ウェンブリーでの彼女のパフォーマンスを見に集まった人々の多くは彼女の持つ力を知らなかったし、おそらく名前すら聞いたことがなかっただろう。しかし彼らは人々の心臓を喉元まで挙げてしまうほどの彼女の能力をリアルタイムで経験したのだ。彼女のパフォーマンスは長年路上でやっていたのと同じものだった。ひとりきりで、鮮やかなほど自己をさらけ出した姿で。

Chapmanはデビューに際し、労働者階級としてこう提起した:我々は世界が最悪のやり方で我々の未来を投げ捨ててしまった、と。しかしこのアルバムは、いかなる力もそのカウンターなしでは存在しない世界を提示している。我々が耐え抜いてきた最悪の状況は、逆に正義というものを不可避なものとする。それは誰しもが共感できる世界の見方だ。ネルソン・マンデラのトリビュートから数ヶ月がたった1988年の夏の終わりまでには、この『Tracy Chapman』はプラチナ・アルバムとなり、彼女はスターとなった。

彼女が名声を獲得したのはウェンブリーでのパフォーマンスのおかげだとする向きもある。しかし一方で、当時の人工的で過剰に精緻なポップ・ミュージックの現状に対する不満が彼女の人気に関係しているのではという推測をする者もいる。しかし、シンセがきらびやかに鳴っていた80年代後半にこのフォーク〜ブルース・サウンドのシンガーソングライターのアルバムがヒットしたとはいえ、Chapmanが世界的人気を博したのは社会の周縁の視点を具現化したからである。彼女の予想以上の成功以上に批評家たちが苦心したのは、このファゴットのような温かな声を持ち、質素な服を着た、両性具有的な黒人女性がどのようにしてフォークの傑作を作り上げたのかということを紐解くことだった。

Chapmanは実生活では目立つのが苦手で、だから彼女は曲の中ではキャラクターを介して歌を歌う。インタビューが嫌いで、ステージ上で冗談を言うこともなく、「プロテスト・シンガー」と呼ばれることに嫌悪感を隠さなかった。よく比較の対象としてあげられるJoni MitchellJoan Baezの音楽とは違い、Chapmanの音楽は自分の中の何かを打ち明けるものではなく、彼女を取り巻く環境の描写だった。それによって彼女は赤裸々でありながらも凶暴なほどに楽観的な世界の見方を身につけたのだ。

1964年生まれのChapmanは、経済的・社会的抑圧が目に見える形で決壊していく時期のクリーヴランドで育った。学校は人種統合に苦しみ、地域住民の人口統計が移り変わり、白人が郊外に流れ込み、残されたアフリカ系アメリカ人の住人は住宅差別と労働機会の欠乏に直面していた。放火魔と空き家の建物を売り払いたい地主たちによって街は頻繁に火事に見舞われ、暴動やストライキが近隣住民や学区を機能させなかった。Chapmanが12回目の誕生日を迎える頃には、クリーヴランドは「爆弾の街」と呼ばれるようになった。理由は簡単で、街では実際に多くの爆発が起こっていたからだ。

このように濁った街の中で、母・HazelはChapmanとその姉を女手ひとつで育て上げた。ラジオのトップ40やHazelのジャズ、ゴスペル、ソウルのコレクション(Mahalia Jackson、Curtis Mayfield、Sly Stoneなど)を家族は共に歌った。一方で、番組「Hee Haw」に出演していたBuck OwensやMinnie Pearlといった人たちが、幼きChapmanにカントリー・ミュージックのスタイルを授けた。8歳になる頃にはウクレレを弾きはじめ曲を作り始めたという。ギターを11歳のときに始め、14歳のとき彼女は自分の街の苦しみを歌にした。彼女はその曲を「Cleveland 78」と名付けた。

Chapmanは10代のうちにクリーヴランドを離れ、コネティカット州英国国教会派の全寮制の学校に入学するのだが、それでも彼女のデビュー作は労働階級、そのなかでもやはり黒人の視点が歌われている。モタったギターとダルシマーに乗せられて歌う「Across the Lines」では、彼女は人種統合が進まない街で決死の暴動が始まるところを描写している。白人男性が黒人女性を襲い、被害者側に非があると判決が下る。そのニュースが火をつける。「つく側を選べ / 命がけで走れ / 今夜暴動が始まる / アメリカの裏路地で / 彼らはアメリカの夢を殺すのだ」Chapmanは落ち着き払った声で歌う。「私は一人では死なない / すべて手配しておくの / 私と私のもっているものすべてが入るほどの / 深くて幅広い墓穴を」柔らかなマリンバと激しいドラムのビートに乗せて歌は続く。

しかし、彼女の歌詞の中にはそのような暴力や絶望の描写と等しく、ラディカルで当時としては夢物語であったような来るべき公平な世界への韻律が込められている。「なぜ?」と世界にはびこる不平等に基本的な問いを投げかける。「なぜ女性は安全ではないの / 自分の家にいるときでさえ」。そして現代社会が行ってきた破壊行為に対して「誰かが答えなければいけない」と繰り返し訴える。1曲めの「Talkin' Bout A Revolution」はChapmanの政治的信条が一番良くわかる曲である。それは熱烈に輝いた目で「貧しき人々は立ち上がれ / 彼らの分け前を奪うのだ」と訴えるシンプルなフォーク・ポップのアンセムである。この明るい未来への厚かましいほどの信仰は踏みにじられてきた人々にとって、諦めないための励みとなった。社会の薄暗い裏側を見てきた人々にだけ、それが贖わなければならないものだということがわかる。彼女がこの曲を書いたのは16歳のときだった。

アルバムに通底する社会的正義の夢は、Tracy Chapmanを同時期のトップセラーと相殺した。しかし、「For You」の最後で響き渡る言葉たちによって、愛が生き残るための動機として現れる。彼女が声を吹き込んできた人物たちが究極的に求めていたのは愛だったのだ。「Fast Car」の中で”checkout girl”の恋人の性別が明かされないように(ダウンビートで謎めくほどに必死な「For My Lover」の中で唯一性別が明らかにされているのは「愛に深く溺れている / どんな男でも揺さぶれないくらいに」という部分である)、彼女の注意深い言葉遣いのおかげで、聞き手はクィア的な願望のことであると容易に理解できる。彼女はすべてのリスナーが自分の主観を共有できるようなラブソングを書いたにもかかわらず、自らのセクシャリティや恋愛については秘密を貫いたことで有名である。

リリース後、批評家たちはこのアルバムの政治的焦点を褒めちぎり、ポピュラー音楽が心の芸術性を取り戻したと祭り上げた。しかし『Tracy Chapman』は富と強欲を賛美する当時のトップ40の針路を買えることはなかった。むしろ、このアルバムはそのようなポピュラーとは離れたところで、これらに対する反抗として作られたのだ。彼女は業界の外で注目されるほどのイノベーションの例となるような業界の変化の使者ではなかった。当時のポップ・ミュージックの中では、Chapmanがどの様なアーティストであるかを分類する類型は存在しなかった。彼女がスポットライトから後ずさったように、彼女の作品や彼女自身の文脈を理解するのに必要だった厳しい環境も表舞台から姿を消したのだった。

このアルバムはBaezやDylanといった白人アーティストの血を引いていることを提示しているが、同時にOdettaのスピリチュアルなフォークのスタイル、Bessie Smithのようなブルースシンガーの影響も見せている。しかし、一度彼女が有名になると、批評家たちはこぞって彼女の音楽、彼女の聴衆、そして彼女自身の相対的な<黒さ>を議論した。1989年、Public EnemyChuck Dは彼女の聴衆の<白さ>に関してそのような批評家たちがもっていた感情を次のように要約した。「黒人はTracy Chapmanを理解できないさ。それで頭を35000回殴ったとしてもさ」。彼女の音楽やアイデンティティに見られるニュアンスの希薄さが、いかに彼女の芸術性がメインストリームの外に根付いているのか、そして黒人のアーティストやその聴衆について理解しているメインストリームの小売店がいかに少ないのかを浮き彫りにした。この作品がビルボードチャートにしぶとくチャートインしたのにもかかわらず、だ。

Ani DiFranco、Melissa Etheridge、Liz Phair、Fiona Appleといった社会派シンガーソングライターが彼女のあとに続いたが、アコースティックギターを持った黒人女性であるLauryn Hillが世界中の(ときに必要のない)注目を集めたのはそれから更に数年がたったあとだった。誰が世代を代表する声となるのかという期待、ポピュラー音楽界において女性が進出し自らの道を切り開く入り口というものをChapmanは示した。Chapmanが自身の多様な音楽的影響を通じて革新的な作品にたどり着いたことによって、彼女と彼女のデビューアルバムは黒人女性アーティストが立ち入ることのできる領域の豊かさを示す根拠たり得ている。

当時、ウェンブリーのステージ上の彼女の映像は自分への注目を最小限にとどめようとしていたアーティストの姿を暴いた。彼女はうつむき、ここではないどこかを見つめているようだった。彼女のギターストラップはシャツと同化し、そのシャツはステージと同化していた。しかし凍えるような沈黙の間を天にものぼるような美しきメロディのリボンで編んでいくような彼女のセットを見れば、それは「見るな」という方が無理な話だった。

得点:9.4/10

筆者:Ann-Derrick Gaillot

 

せっかくこんなブログを立ち上げたのに、年内にPitchforkが有料化されるという報道が。どうしようか。やり方を考えなければならぬ。