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<Pitchfork Sunday Review和訳>Joyce Manor: Joyce Manor

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6131 • 2011

 ソーカル(カリフォルニア南部)のポップ・パンクを約半世紀にわたって保ち続けてきた、地下室やボーリング場のビールにまみれたエコシステムの中から、ジョイス・マナーは出現した。しかしバリー・ジョンソンは、パンクの流行のテイストを担う新たな先鋭隊によって拡散された、この一語一句を引用したくなるような、すべてフックでできているような18分間・10曲である『Joyve Manor』の伝説が、本当はどのような存在によって作られ、消費されていたのかを知っている:「16歳や17歳の、鼻ピアスをつけて髪の毛を緑に染めた女の子たち」、GIFや歌詞の引用、低画質のライブ・ビデオをシェアすること。彼の言っていることがよくわからないのであれば、それは「Tumblr」である、と言い切ってもいいだろう。Tumblr時代最初の決定的なパンク・アルバムである『Joyce Manor』はその予測可能な未来への道筋を作り、即時性を報酬とし注意持続時間の不可逆的な一口サイズ化をもたらしたソーシャル・メディアとストリーミング・トレンドの時代を見越していた。

 2011年、彼らはシンプルに誰しもが賛同できるようないちバンドだった:ハードコア・キッズたちにとっては、コップにお代わりを注いでいるうちに少なくとも3曲、疾風のように突き進んでいくジョイス・マナーを評価していたし、ナードたちにとってもフォーク・パンク、スカへの傾倒や魚に生理はあるのかと不思議がる曲などに夢中になっていた。ポップ・パンク保守派とエモ・リヴァイヴァリストも、Jawbreakerblink-182Green DayWeezerを同等にカリフォルニアのポップ・ロックの形成に貢献したと考える一つのバンドによって統一されたのであった。

 このような典型的な派閥争いの中でジョイス・マナーは「年長の政治家」のような存在であると考えられていた。その息の長さによって尊厳が与えられていたのだ。しかし彼らは『Joyce Manor』ですでにそれを乗り越え、すべての曲のサブテキストから、あるいはポスト・ティーンであること、ポスト・パンクであることから退いた。あるいは、年を取って丸くなった、ともいえるかもしれない。ジョンソンはジョイス・マナーが田舎の青春時代風アメリカーナで形成された町・トーランスのサウス・ベイ郊外で結成されたときすでに20代であった。彼がベーシストのマット・エーベルトと初めて出会ったのは地元のボーリング・リーグにおいてであった。それは「アメリカをモール化したもの」とかつて評されたデル・アモ・ファッション・センターからそう遠くないところで開催された。二人はのちにオレンジ・カウンティのスカ掲示板で再開することになる。ギタリストのチェイス・ノッブは当時16歳でゲイブル・ハウス・ボウルの従業員だったが、ディズニーランドの駐車場で不正に手に入れたジュース(Joose。アメリカで販売されている炭酸アルコール飲料)で「お清め」をされた。

 その3年後、『Joyce Manor』は大半のソーカル・パンクのアルバムがそうであるように、ハイスクールでの退屈な日常の描写から幕を開ける。”Orange Julius” はジョイス・マナーの本質を伝える1曲である。長い単一のヴァースが激しさを調整していき、終わる直前に一瞬ギャング・ボーカルがカタルシスを表出する。ジョンソンはこの曲を「自分をいじめてくる人と恋に落ちること」についての楽曲であると説明しているが、憎んでいる人間と恋に落ちることはおそらくジョイス・マナーの音楽に最も多く登場する通奏低音であるかもしれない。ジョンソンが恋愛について書くと、それは ”See How Tame I Can Be” となるのである。ジョイス・マナーにはサウス・ベイから出られないのではないかという恐怖を歌った曲がたくさん、とにかくたくさんあるが、そこを去ることがどういう気分であるかということを本当に考えてつづった曲は一つもない。

 ジョンソンとエーベルトは、ソーカル・パンクを実物大の革命の素描として、あるいは頭皮のためのヴィジョンとして用いることの無意味さを身を持って体験した。今日に至るまで、ジョイス・マナーはトーランスの閑静な住宅街にある、改築したガレージで練習している。この場所が使用可能な状態であるということは、所有者の親切心ゆえである。その所有者とは、ブラック・フラッグのグレッグ・ジンが主宰する伝説的なレーベル=SSTから3枚のアルバムを出したLAのパワー・ポップ・アクト=ザ・ロストの元ギタリストである。ロストのギャラではローンが払えなくなったこの家主は、やがてヒューレット・パッカードでかい社員の職を得て、ハスラー・ハニー(訳注:ポルノ雑誌『ハスラー』の見開きページに登場するモデル)たちが参加するような全国規模の会議に出席していた。ガレージの壁には10代の息子のためにサインされた何十枚もの見開きページが貼られている。

 2011年当時、大企業に務めることや、あるいはエピタフのような伝説的なLAパンク・レーベルで3枚「も」アルバムをリリースしていることでさえジョンソンには魅力的には思えなかった。『Joyce Manor』に至るまでのバンドの結成物語は、ジョンソンが徐々に自身の意志とは反対側に突っつかれていった過程でもあった。その3年前、フォーク・パンカーであるアンドリュー・ジャクソン・ジハード(今はAJJと名乗っている)が、彼が以前やっていたハードコア・バンド=フィーヴァー・キッズと一緒にギグをやらないかと持ちかけた。彼らはちょうど解散したところで、ジョンソンは新しいプロジェクトの名前もその場で適当にでっち上げた(「ええと、ジョイス・マナーだっけ?」)。彼はすぐにいくつかの楽曲をかき集め、アコースティック・デュオとしてジョイス・マナーの最初のギグで演奏した。ジョンソンはソングライターとして恐ろしいほどの労働倫理を持っていたが、DIYパンクの泥臭い事柄には一切興味がなかった。フライヤーを作り、友人をショウに招待し、ギグをブッキングし、ジョンソンに対し他のメンバーと同様にジョイス・マナーを真剣にやるように説得したのは全てエーベルトだった。「(当時にしてみれば)それはぼくがそれまでに関わった中で一番馬鹿げたクソみたいなアイデアだった」とジョンソンは2018年に振り返っている。「家賃やらなんやらでとにかく大変だったのに、24歳でトム・ソーヤーみたいな冒険を始めようだなんて嫌だった」

 ジョイス・マナーがパンク・ミュージックを演奏するということ自体が驚きのようなものだった。彼らはよくモリッシーウィーザーを主な影響源として挙げていた:それはいつの時代も、自分を惨めだと感じるには自分は賢すぎると思っているが、賢すぎるがゆえに自分のことを惨めだと感じているようなティーンエイジャーたちが発見するアーティストたちだ。しかし、ジョイス・マナーはその二組のようなサウンドを熱心に目指している他の幾百、幾千ものソーカル・バンドに混ざることに対して興味がなかったし、そうする能力も持ち合わせていなかった。”Ashtray Petting Zoo” の元気なシャッフル・ビートにはなんとなく ”Is It Really So Strange?” の面影を感じさせるが、それくらいである。ウィーザーとの比較も、ミッドテンポの6/8拍子で、クールな子どもたちがそうしているからと言ってパンパンになったリュックサックを片肩に背負ったナードのようにノシノシと歩いている ”Leather Jacket” や ”Beach Community” にのみ起因する。

 また、彼らは非常に短い曲しか作らず、そこにオルタナ・ロックのメロディーを一日中酔っ払っているようなシュールレアリズムの作法で打ち付けている。それはまるでアルコポップ(訳注:炭酸清涼飲料水のような味付けのアルコール飲料)しか飲まないソーカルGuided By Voicesのようだった。”Beach Community” では紛失したノキアの携帯を探しながら、ジョンソンは「逆向きに数を数える」警察や道行く人々に眉をひそめられる。”Ashtray Petting Zoo” や ”21st Dead Rats” と言った不条理な楽曲のタイトルは、腐っていく肉体を想起させたり、あるいは単に音声的に叫んで様になる言葉として、彼らのフックとしても機能している。デモ音源やスプリット、そしてジョンソンのノートに散らばっていたそれまでのジョイス・マナーのそれまでの楽曲はすべて公の場に出ていたので、『Joyce Manor』はどんなアイデアも無駄にすることが耐えられない多作なソングライターによるアイデア手形交換所として、彼ら版の『Bee Thousands』になっていたかもしれなかっった。しかしジョンソンはインディーズの自己非難的なものであれ、パンクの自己破壊的なものであれ、「ライフスタイルだから」という言葉が通用するものは何でも懐疑的に見ていた。Guided By Voicesがそれぞれのアルバムに数ダース分モノ楽曲を詰め込む傾向にあることについて尋ねられたジョンソンは鼻で笑って、「そんな事しなければいいのにと思ったことはない?」と言い放った。

 『Joyce Manor』は、五打ち切られてもいいような向こう見ずなショウにはうってつけだった――どの部分で終わってもキリが良かった。”Beach Community” ほどの粘着力のあるコーラスを書いたバンドならだれでも、それを少なくとも2回は繰り返すだろう:しかし彼らはビッグなコーラスとビッグなコーダを一緒にやってしまう。”Leather Jacket” は全てがコーラスだと言ってよいほどだが、本当のフックは高校生の裏切りによる臆病な怒りを追体験させるような、ブリッジにおけるエーベルトのリード・ボーカルである。

 10年の間に着実に評価が高まっていたのにも関わらず、私はJoyce Manorのようなサウンドを鳴らすバンドが他に思いつかない。というのも、どうしてそんな事をしようとするだろうか?彼らの楽曲は真似するのがほぼ不可能だ。全ての構成要素が全体と分かちがたく存在しているからだ。その後の発表されたアルバムも全てそうだったように、『Joyce Manor』は彼らの編集や抑制における、非パンク的性質の突出ぶりを示す作品だった。それはジョイス・マナーが「イマイチ」の棚から引っ張り出してきたであろう楽曲群において顕著である。彼らの2009年1月15日のデモ音源においては、”Stir Crazy” は発狂したフォーク・パンクのバーナーのような曲で、コカイン中毒に足を踏み外していく友人について歌われていた。2年後、彼らはその曲のテンポを落とし、安定感のあるシャッフル・ビートに乗せ、ボーカルのザラつき感を削ぎ落とし、”Ashtray Petting Zoo” という楽曲に仕立て上げた。”Constant Nothing” や ”Leather Jacket” は前年の『Constant Headache EP』から選曲され、より整ったプロダクションが与えられている。このバンドを象徴するような1曲 ”Constant Headache” 自体はそのEPには収録されていない。

 他の同じようなパンク・アルバムのように、『Joyce Manor』が9曲、15分間だけで終わっていた平行世界があったかもしれない。しかし ”Constant Headache” という楽曲がなかったとしたら、このアルバムが10年後もこうして語られるような作品になったり、彼らが3000人キャパの箱でトリを務めるなんてことは起こらなかっただろうと感じる。この曲は『Joyce Manor』の中で最も野心的ではない楽曲でありながら、より大きな出来事の前兆となった。この曲を通して一つのメロディー・ラインが繰り返されているが、それは ”Don't You Want Me” を覚えようとしている人が2軒めのバーで眠りに落ちてしまったような代物である。楽曲の大半は2つのコードだけで構成され、ギターのレッスンを3回受けただけのティーンでも引けるような爪弾くようなパターンとリズムで演奏される。ジョンソンが「entirely fucked」とシャウトするところでピークを迎えた後、バンドの演奏は停止する。しかし ”Constant Headache” は、高校自体に酔っ払ったり初めてセックスをした記憶が、その後の人生では決して匹敵することのない基準を設定してしまったのだという、しつこくて厄介な諦めを伝えるために絶対に必要な楽曲だった。

 彼らが初期の頃、そして今でもしつこくJawbreakerと比べられるのは、”Constant Headache” によって道理の通ったことのように感じられる。カリフォルニアのバンドで、その場にいながらもいないような、その場から少しだけ浮遊しているような、ぶっきらぼうながらも記憶に残る、粘着力のある楽曲を作るバンドという意味で。しかしその比較は、過ぎ去った時代の倫理を、シーンの政治やありとらゆる種類の政治を一切用いなかったバンドに押し付けているようにも感じられるのだ。「そう、お前の父さん/あいつはお前の顔をぶん殴った警官だ/お前は言った、「くたばれ、父さん!お前なんか大嫌いだ」本気でそういったんだ」とジョンソンは初期のシングル ”House Warning Party” でシャウトしている。それは後に彼らのレア音源を集めたコンピレーション『Songs From Northern Torrance』(2020)の「リード・シングル」となる。現在の状況において、「お前の父さんは警官だった/あいつの父さんは警官だった、賭けてもいい/そうさ、でもお前はけいかんじゃないだろ」という歌詞は遺伝的な病理への機微に満ちた洞察であるように読めるし、あるいは警官というのは連邦によって支えられているクソみたいな父親たちが暴力と規律を混同しているようなものだ、と言っているようにも読める。ジョイス・マナーの初期のショウから判断するに、それは泣き虫な青年がついに父親に向かって「ファック・オフ」と言い放つほどの自信を得たのだというカタルシスを生む推進力になっているように感じられる。

 ジョイス・マナーの歌詞は生きる糧となることを意図して書かれてはおらず、彼らのように生きるライフスタイルのアクセサリーのようなものとして書かれている。高校の卒業アルバムに引用したっていいし、内輪のジョークにしたっていいし、当時現れつつあった、彼らの成功の要因にもなったミニブログに書き記したっていい。この10年の間、エモとポップ・パンクは過度に饒舌で、あけすけに過剰にドラマチックな、Friendster、LiveJournalMySpaceのBlingee(訳注:この時期に流行した、デコることを目的としたGIF作成サイト)的なケバケバしさと同義語と見なされてきた。当時の指導者的な人物たちがロック・ラジオから退き始める中、意志が強くより敏捷なシーンが、短く簡潔な、御しやすい不安を扱った表現に最適化されたソーシャル・メディアのプラットフォームと共に出現した。あるいはその不安は、ジョンソンが『Joyce Manor』で扱った主題として語っているようなものだ:「退屈、同じ過ちを何度も繰り返してしまうこと、キャンディーを食べすぎてしまうこと、性的憂鬱、向上的な憂鬱、15本で5ドルのVHSテープ、そういった物たち」。

 しかしこれらの取るに足らない物たちはジョンソンの、社会的交流の中にあるさり気ない残酷さを捉えるという才能を開花させる離陸地点となった。あるいは、彼はクズについて書くのがうまかったのかもしれない(証拠A:”The Jerk”。)小説や映画において、クズは小さな怒りを蓄積し、社会の上っ面を削ぎ落とし本当の色を明らかにさせるような役割を与えられる。しかしジョンソンはそこにいきなり切り込んで、”Call Out” のはじめでクズの非公式モットーを高らかに叫ぶ。「俺はごめんとは言うが、本当にごめんと思っているわけじゃない」。彼はその後「お前みたいになってたまるか」とあざ笑うが、彼はその役を演じることに何年も費やすことができた。海の傍に座って、自転車のハンドルにまたがる。『Joyce Manor』は高校時代と身持ちのしっかりした大人の中間の危なっかしい期間、自分が気づいてきた人間関係を振り返り、なんとなく表面的な興味飲みによって行動し、新しい友人を作ることがその労力に見合うものなのか判断する時期についての作品である。

 最新のライブからおよそ1年後、ジョイス・マナーはツイッター上で彼らの楽曲を1行で表すとしたら、というお題でファンからの投稿を募った。『Joyce Manor』収録曲の例を挙げると、「パーティーに向かう車の中で気分が悪くなること」「変わることができないこと」などだが、その中のいくつかは的を得ている:「不確かであること」。これらの10曲は最初からこのような行為に基づいて作られていて、一つ一つがキャッチコピーにまとめることができる。「ここに一歩踏み入れたら、最悪の事態よりも更に悪いものを見つけた」「それが本当だということに気がついた、全てが君を思い出させる」「自分でも置きどころのわからない感情の波に乗っている」「俺は強い、と口に出すというのはどんな感じなのか知りたい」、そして他のどれよりもTumblrで引用したい気持ちにさせるのはこれだ。「酔いつぶれた俺はそこに寝転がって抗議するんだ/完璧な夜は一つじゃ全然足りないということを頑固に思い知らせるんだ」。

 それから10年も経たないうちに、彼らはその完璧な夜に驚くほどに接近した。ジョイス・マナーは2019年、Jeff RosenstockとAJJ(彼らの最初のギグで最初にお金を支払った人物と、彼らの最初のギグを担当した人物)と並んで、Hollywood Palladiumのトリを務めたのだ。彼ら3組の前座を務めたのは、ジョンソンが「10年に一度のバンドだ」と称賛した、エモの新星=awakebutstillinbedだった。『Joyce Manor』自体はは2011年に発表されたときには革命的ではなかった。それは「物事を感じる」タイプの音楽と相互関係にあるシーンの最初の中心地の一つであり、それはそのスタイルが凝り性のアート・ロックからギター中心のインディー・ロックの形式の座を奪うよりも前、まだ地下で泡立っていた頃の話だった。エモ、ポップ・パンク、告白的なシンガーソングライター、ティーンエイジャーたちがそのシステムから逃げ出すための音楽。何百ものエモ少年とインディー・ロック好きの40代が、アンコールの最後で演奏された ”Leather Jacket” でジョンソンと一緒になって完全に燃え尽きてしまった気持ちをシャウトする光景は、なんでジョイス・マナーというバンドがTikTokやその他諸々がTumblrの役割を果たすようになった今でも生き残っているのかという理由をはっきりと示している。こんな音楽を聞くには年を取りすぎたな、という気持ちは決して年を取らないのである。