<Bandcamp Album of the Day>Coriky, “Coriky”
各メンバーのディスコグラフィーに触れることなくCorikuについて語るのは不可能である――そう、ここにはFugaziのメンバーが二人とThe Warmersのメンバーが一人、あるいはThe Evensのメンバーが二人とThe Messtheticsのメンバーが一人、あるいはある夫妻とその長年の友人、あるいはIan MacKaye、Amy Farina、Joe Lallyの三人がいる。彼らのBandcampのバイオ欄には、ありがちな控えめな書き方で「ワシントンD.C.出身のバンド」と書かれている。これらはすべて本当のことである。
これらのプロジェクトのうち一つでも馴染みがある人であれば、このセルフタイトルのデビュー作は表面上、瞬時に理解できるもののように感じるであろう。Farianaの我慢強く、明らかにジャズに影響されたドラムがLallyのベースを完璧に引き立て、補完的でありながらも予想外なメロディ・リズム的角度でドラムの周りを回転しながらループしている。MacKayeのギターはここでは主にグツグツと煮えたぎるようなテクスチャとして機能していて、歌詞は彼らしく婉曲的でありながら議論のようでもある(The Evensと同じようにヴォーカルは二人で分け合っていて、歌詞は二人の共作の産物であるようだ。しかしそこには明らかにMacKayeらしさが感じられる)。一曲目の“Clean Kill”はひょっとすると最も衝撃的な歌詞かも知れない。耳障りなほどに明るいメロディの上で、バンドは自分に責任のある死について良心を完全に消し去ることができないドローンの操縦士を描き出す(「いくら水と石鹸で洗っても/洗い流せない」)。
不安、心配事、そして無秩序が、アルバムの一つ一つの楽曲に現れる。アルバムの中でも最も抽象的な楽曲たち(“Say Yes”、“Too Many Husbands”、“Jack Says”)の中にさえ。うす暗く、ゆったりとした“Have a Cup of Tea”は妖精のようなインストゥルメンテーションによってアルバムの中でも少し浮いた曲であるが、何度か聴いていくうちにこのアルバムの中心的位置を占めるものであるように感じられてくる。歌詞に書き込まれているのは、自分(おそらく白人のこと)がこれまで良くしてもらっていた国が犯した罪の責任についてである(「それは我々の家の中に/手の中に/目の中に/血の中に/DNAの中にある」)。しかしここでは手のひらを返すような「白人であることの罪の意識(やその欠如)」は提示されていない。反人種差別主義者であること、反帝国主義者であることは能動的な洗濯であることが正確に縁取られている(「そこにあったものも/自分の責任ではないと言うことができる/それはあなたが見つけたものではない/あなたの中に見つかるものである」)。これを、明らかにアメリカの軍国主義に言及している“Last Thing”や“Shedileebop”、あるいは“Clean Kill”と照らし合わせると、Corikyの不安の種は解消されていく。
このアルバムでMacKayeが若い頃を回想しているのは“Have a Cup of Tea”だけではない。“Hart to Explain”では彼は、自身の過去から前進させることを拒む絶対主義者と格闘している(「お前のいる位置が、俺に直せという/俺が1986年に壊したというそれを」)。Fugaziの結成は1986年で、Minor Threatをより好むハードコア純粋主義者はそれ以降不満をたれている。
Corikyのアルバムがアナウンスされた時、私のタイムラインにはFugaziに関する議論がたくさん流れてきた。これはLallyとMacKayeがそれ以来初めて共演する作品なのである。90年代、DCの郊外で重大を過ごした私にとって彼らはもちろんとてつもなく重要なバンドだったし、今もそうあり続けている。でも、私は彼らの再結成を望まない。彼らは市場の関心で動くようなミュージシャンではないし、ノスタルジア――『Coriky』であからさまに表現されている――は罠である。勿論このアルバムとこのバンドは彼らの過去抜きには語れないが、CorikyをCorikyたらしめているのは彼らの成長、様々な編成で長年に渡って共に演奏しても尽きることのない楽しみ、自身の強さ、そして絆の強さなのである。
By Jes Skolnik · June 18, 2020