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<Pitchfork Review 和訳>Kanye West: Jesus Is King

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7.2

キリスト教信仰はカニエのゴスペル・アルバムにおいて揺らぐことのない焦点である。これはある男の神(そして自分自身)に対する愛についての、豊かにプロデュースされていながらも欠点だらけのアルバムである

1964年、ミシシッピ州ロングデールのある田舎の集落で、Mount Zionメソジスト教会に集まった黒人信奉者がクー・クラックス・クランによって待ち伏せ攻撃を受けるという事件があった。襲撃者たち(中には警察の制服を着たものもいたという)はある男の顎を折り、他の人達を激しく殴打し、最後には教会を焼き払った。その混乱の中で、ベアトリス・コールという名の女性が絶望のあまり祈りの言葉を捧げた。「主よ、私はあなたに助けを求めています。他の助けを私は知りません。もしそなたが私から身を引いてしまったら、私はどこへ行ったらよろしいのか」。すると、なんとKKKの団員たちは撤退していった。ゴスペルの力というのはこれほど強いものなのだ。

“Father I Stretch My Hands To Thee”はアイザック・ウォッツによって1700年代初期に書かれた悲しいメソジスト系の賛美歌である。次の世紀になると黒人のゴスペル歌手によって人々を鼓舞するスタンダード・ナンバーとなり、教会の信徒席を飛び出して歌い継がれた。この曲は表面上カニエ・ウェストのお気に入りであり、2016年の『The Life of Pablo』においてT.L.バレットのヴァージョンをサンプリングしている(ちなみにその曲はアナルの漂白に関する不条理で始まる)。それから3年が経ち、カニエの宗教的な生まれ変わりを経たいま、そのモチーフはカニエの9枚目のアルバム『Jesus Is King』で再び用いられることになる。ゴスペルならではのタイトルの直球さを持つ“Follow God”は燃え盛るようなヴォーカルのサンプルを中心に組み立てられている。「主よ、私はあなたに助けを求めています」、1974年に発表されたあまり世には知られていないWhole Truthの“Can You Lose By Following God”のシンガーは歌う。

カニエがキリスト教の信仰に戻ったと宣言したあとの数ヶ月でレコーディングされた(そして、もう一度レコーディングされた)このアルバムは、彼が世界的な教会ブランドにしたパフォーマンス・シリーズであるサンデー・サーヴィスを始めてから初めて世に問う作品である。彼が「売り」にしているように(比喩的な意味でも、文字通りの意味でも)、『Jesus Is King』は彼の過去の罪との絶縁であり、赦免であり、白紙の状態である。そこから彼はある特定の一人の神の言葉を広めようとしているのである。その祝福はカラバサスでの窮地やジャクソン・ホールの小屋に降り注いできたものである。彼は常に宗教的だった。2004年の“Jesus Walks”ではクラブを聖なる寺院になぞらえている。カーダシアン家の手の込んだ、壮大なイースターの写真は毎年の伝統のようなものになった。『The Life of Pablo』は明らかに信仰についてのアルバムだった。しかしこのタイミングというのは注目に値する。

多くの統計によって、自らをクリスチャンであるとするアメリカ国民の数はどんどん減っており、無神論者、不可知論者であるとする人の数は着実に増えていることがわかっている。その一方で信者たちは他の人と比べて「より」信心深い、といった程度の認識である。政治というフィールドの中で福音派の右翼たちが持っている権力(カニエも近年そこに加わった)が、彼がこの春キリスト教に逃避先を探すきっかけになったのであろう苦悩の一部を生み出したのだと考えてみよう(最近のVibeの記事で、カニエと同じく双極性障害の診断を受けたライターのキアナ・フィッツジェラルドは、躁病の経験とスピリチュアル熱を持つことを結びつけた感動的な仮説を述べている)。

『Jesus Is King』は今や彼の特徴とも言えるカオティックなアルバムであるが、2018年のアルバム『Ye』よりはずっと焦点のあった作品になっている。『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』のハワイでの作業によって有名になった彼の神話めいたラップ・キャンプ方式によって、Timbaland、Pi'erre Bourne、Boogz、そしてRatatatのEvan Mastといった様々なプロデューサーの参加を27分の―完全に罪深いわけではないにしても―愉快なテクスチャに統合している。20世紀ゴスペルの影響はわかりやすく、温かく適用されている。上がったり下がったりする畏怖を感じるほどの聖歌隊ハモンドオルガンの柔らかな唸り声、緩やかに波立つピアノ、西アフリカにまで歴史的/地理的に広がりを見せるリズム。これほどまでに一貫性があって楽しいアルバムを、彼がこのような状況の中で作ることができるとは正直思っていなかった。

『Jesus Is King』では、過去15年のカニエのキャリアの様々な瞬間にうなずき返している場面が多くある。“God Is”で使われているゴスペル・ソウルのサンプルは彼がロッカフェラのハウス・プロデューサーであった頃を思わせる。レザーのスカートを履いていた時期のマキシマリズムは“Use This Gospel”の広大なサウンドスケープに受け継がれている。ここでのケニー・Gのサックス・ソロは、それが「可能であること」だけを理由にエルトン・ジョンをフックに招き入れたことの2019年版ともいえる。2013年の『Yeezus』での荒涼とした、立ち向かっていくような態度は“Selah”の推進力になっているバトル・ドラムに聴くことができる。“Water”での彼の怒り気味の弁解は“Only One”や“FourFiveSeconds”のプロデュースをしていた時期を思い出させる。そして全編に渡って、オートチューンのかかったヴォーカルは2008年の『808s & Heartbreak』から、『The Life of Pablo』での苦悩を経由して本作につながっている。

『Jesus Is King』は『The Life of Pablo』で仄めかされていた暗闇に対するいくつかの解決策を提示してはいるが、それはアルバムを効果的・感動的にするほどの人間の探求の深さを持ち合わせていない。人生というのは白黒つけられないものであり、いかなる神との交流の経験だけで語れるものでもない。主題的に最も興味深い瞬間は、“Use This Gospel”で何年かぶりに、そしてそれぞれ異なる自己反省の段階にいる中で再結成したClipsePusha Tとその兄No Maliceの二人が持っている生まれつきの緊張感である。彼らは『Jesus Is King』の中でFred Hammond、Ty Dolla $ign、Ant Clemonsによってもたらされている、ゴスペルの持つ共感しやすい普遍性をつなぎ合わせている。彼らは温かな信仰がもつ、人を鼓舞し、ずっと続いていくような穏やかさを表現している。例えば“Climbing Higher Mountains”で登らなければいけない山や、“Take My Hand, Precious Lord”で横切らなければいけない嵐を想像してみてほしい。伝統的なゴスペル、現代のゴスペルが苦しみ、救済、そして転身を想起させるのに対し、『Jesus Is King』はカニエ自身にどう宗教が働きかけたのかという点に焦点をおいている。“On God”で彼はこうラップする。「『お前のところには何故そんなに幸運が訪れるのだ?』/『キリストを主・救世主として受け入れよ』俺はそう答えた」

先週のインタヴューでZane Loweに語った通り、人々をキリスト教に改宗させることカニエのミッションなんだとしたら、彼はもう少し深いところを探す必要があるだろう。聖書の引用における上辺だけの仕草や、アメリカのプロスペリティ・ゴスペル(訳者注:“prosperity theology”が「富は信仰に対する神聖な報酬である」という宗教的信念なので、富を重要視したゴスペルのことだと思われる)の資本主義者的偏向以外には、神に従うということについてなんの指示もない。つまり、黙って主がフォーブスの表紙や10億ドル単位を稼ぐスニーカーのブランドを与えてくれるのを待っている以外ない、ということだ。カニエを苦しませている障壁が、インスタのいいね!や法外な税率(彼はIRSが「パイの半分」を要求してくると文句をたれている)であるなら、彼のいうことを真面目に受け取るのは難しい。人を最も変化させる信仰の特徴としての神の恵みや正義、そして愛よりも、カニエはメガ・チャーチの牧師としての野望にまつわるジョークに費やされたこの数ヶ月を有効にするために、裕福で権力を持った人のよりどころとなる宗教的肩書づけを内面化している。

タイトな着こなしをしていた妻を叱責したり、共作者たちに婚前交渉を控えるようお願いしたり、カース・ワードを一日2回までと決めてキリスト教徒としての点数を稼ぎ始めたりと、ここ数週間での啓示は、彼のゴスペルの解釈は信仰深いというよりは教義的であることを示唆している。歴史を振り返れば、カニエを唯一無二の絶対的な芸術家たらしめていたのは自身の偽善と倫理的欠落を弱さとともに表現してきたことだった。残念ながら、『Jesus Is King』にはそのような複雑さは殆どない(唯一の例外は“Follow God”で、自身の父親との対話は―浅はかと言えば浅はかだが―「キリスト的」であることの意味を考えさせられるものである)。

彼の政治から注意を逸らすほどの、あるいはそれをわかりにくくさせるほどの深さがこの作品には欠けている。拙速で短かなスローガン的作品であり、スポンテニアスさと未完成さを履き違えた結果、この額縁の外側にある事実を無視することは難しくなっている。例えば彼は合衆国憲法修正第13条の廃止を求めているが、それは彼が支持してやまないレイシストで、懲罰と監禁にとりつかれたかの大統領とは正反対の意見である。たしかに、“Water”で聴かれるベースラインはここ数年でベストの出来であるが、このような瞬間は作品のハイライトというよりも、せめてもの慰めのように感じられるのだ。カニエのアルバムはかつて我々の知覚や想像力を広げさせてくれるものだった。いまや彼の作品は彼のますますしぼんでいく世界の輪郭をクッキリと浮かび上がらせる。