<Pitchfork Sunday Review和訳>Bennie Maupin: The Jewel in the Lotus
Bennie Maupin: The Jewel in the Lotus Album Review | Pitchfork
点数:9.1/10
評者:Shuja Haider
ジャズの過去と現在の交差点。縁の下のモダニストの傑作
1972年の夏のある夜。ハービー・ハンコックのグループ・Mwandishiがワシントン州・シアトルで演奏することになっていた。スワヒリ語で「作曲家」「作家」を意味する語から名付けられたこのグループのメンバーは、ベーシストのバスター・ウィリアムズ、ドラマーのビリー・ハート、そしてマルチプレイヤーのベニー・モーピン。サクソフォンだけではなく、クラリネットとフルートも演奏することが出来たモーピンは、グループに最後に加入したメンバーだった。デトロイト出身の彼は当時32歳、徐々にサイドマンとして己を確立しつつあり、ニューヨークにあるユダヤ人記念病院でのヒルの仕事をやらなくても良くなってきていた。彼がMwandishiに加入する頃には、モーピンとバンドはマイルス・デイヴィスの1970年のアルバム『Bitches Brew』のためのセッション―モーピンとハンコックが初めて共演した場所だ―の際に始まった作業を再開していた。その作業とは、その時代において最も革新的だったジャズの自由即興と複雑な和音の使用といった特徴を保ちつつ、ロックとR&Bのリズムを統合するという試みだった。
ハンコックが自伝の中で思い出したことには、シアトルでのショウは理想的な状況では行われなかった。バンドが到着したのはショウの前日の夜で、最初のギグのあと、彼らは夜通し飲み歩いた。「ホテルに戻ったときには、日は昇っていただけではなくもはや沈み始めていた」とハンコックは書いている。たった2時間の睡眠のあとで、ハンコックは毎晩行っていたピアノソロでショウを始める気になれなかった。そこで彼は責任を免れるために「Toys」で始めることにした。ベースのソロで始まる曲だ。
その次に起こったことは、変革をもたらすほどの大事件だった。バスター・ウィリアムズのソロは素晴らしく、ハンコックは当初2〜3分を予定していたソロを10分にわたって彼に弾かせた。「彼の手はまるで気が狂った蜘蛛ののように、ベースのネックを上下に這いずり回っていた」とハンコックは振り返る。ついにバンド全体が演奏に加わると彼らは更に活気を増し、観客に涙を流させるほどの演奏を繰り広げたのであった。
演奏が終わると、ハンコックは感服のあまり、ウィリアムズにあの演奏をするためのバイタリティを一体どこから見つけてきたのかと問い詰めた。ウィリアムズは喜んで説明を始めた。前の晩、皆が眠りにつこうとしていた頃、ウィリアムズは自身の部屋でずっと詠唱していたのだった。彼は太古の『法華経』というテキストに基づいた日蓮宗の中心的なマントラである「南無妙法蓮華経」という文言をずっと繰り返した。ウィリアムズは妹にその慣習のことを教えられ、すでにベニー・モーピンにも探求するように勧めていた。生涯の付き合いとなるウィリアムズ、モーピン、ハンコックの三人はその後のツアーの間パーティーではなく仏教のコミュニティを訪ねて回った。
このチャントは「音を通じた神秘なる因果の法則」とも訳すことができ、Mwandishiはそれを彼らの音楽に対するアプローチに取り入れはじめた。ベニーは1975年、『Down Beat』というジャズ雑誌に対し、そのチャントを音楽的に解説している。「自分自身とだけでなく他の人との調和が取れるくらい、このリズム自体はとても基本的なリズムである」
その後、ハンコックはMwandishiを解散し違う方向に進んだ。しかし彼はモーピンを手元から離さなかった。モーピンは彼の共演者の中でも「最も変化に寛容である」と思っていたからだ。パーカッション奏者のビル・サマーズを迎えた新グループは『Head Hunters』(1973)を録音した。これはジャズとファンクを融合しようとした試みの中でも最も成功した部類に入る。最も有名な「Chameleon」という曲にはモーピンが作ったメロディーも含まれていて、ハンコックがアープ・オデッセイ・シンセサイザーで弾いた催眠的なベースラインの上のドラマティックなファンファーレがそれだ。モーピンはのちに音楽学者スティーヴン・ポンドに対して、あの主題はその年行われたワッツタックス・コンサートのときに降りてきたものだと明かした。観客がファンキー・ロボットと呼ばれるダンスをしているのを見て、彼は頭の中で音がつながっていくのを感じたのだ。結果的にできたメロディは文句なしにファンキーでロボティックである。
ベニー・モーピンがはじめてのソロアルバム『The Jewel in the Lotus』をリリースしたのは1974年だった。新興だったECMから出たこの作品は、ウィリアムズ、ハート、ハンコック、サマーズに加えてもうひとりの打楽器奏者フレッド・ウェイツを迎えて制作された。タイトルはまたも仏教のチャント「オーン・マニ・パドメー・フーン」からの翻訳である。これはある昔話を思い出させるものである。ブッダがかつて弟子たちを集め説法をしたさい、彼はしゃべるのではなく黙って蓮の花を持ち上げた。蓮は根がなくても、泥水の中でも育つ花ということで力強さの象徴となった。
アルバムタイトルによって想起されるチャントは、1曲めの「Ensenada」ですぐさま明白になる。バスター・ウィリアムズがドローン的な2音のベースラインで曲を始めると、フレッド・ウェイツがマリンバでアクセントを加える。モーピンによるフルートが前面に出てメロディーが始まる。ハンコックがその下からかすかに輝くハーモニーを加えていく。フルートの旋律は非常に簡素で、メロディーになっているかどうかも怪しい:モーピンはこの曲全体を通して何拍子かに一音だけしか吹かないのだ。『Down Beat』誌に語ったところによると、これが彼がハンコックやウィリアムズ、ハートと共にMwandishiの活動の中で探求していた原理なのである:「我々は(一つ一つの)音という概念を排除してきたし、それにはいくつもの実例がある。我々がしてきたことはコードを示唆するかもしれないけど、実際の例の中ではそうではない。我々はただ単にある種のイリュージョンを発生させるためのいろんなサウンドの領域を発見しただけに過ぎない」
ジャズに関する伝統的な知識によって解釈したならば、このアプローチはほとんど不完全に思えるだろう。ジャズの伝統に関する主流な読み物の中では、音楽とはヒロイックな個人主義の表出であり、合奏の中で複雑なメロディを用いるソロイストによってそれは体現されるものであった。この推論によって、政治的な結論をジャズの中に見出すという見取り図が不可避のものとなった。伝統主義者のウィントン・マルサリスによって設立されたリンカーン・センターによるジャズの綱領には「我々はジャズが民主主義のメタファーであると信じています」と書かれている。ホワイトハウスでのジャズ・トリビュートイベントの際、バラク・オバマはこう問うた。「アメリカという国以上に素晴らしいインプロヴィゼーションがこれまでに存在しただろうか?」
かなり簡略化すると、この原理というのはソロの連続―皆が代わる代わる話す順番を持っている状態―を減らすということである。しかし「Ensenada」において、一人突出したヒーローというものはいない。そこには存在しないメロディーに対する伴奏や、伴奏に対する伴奏があるように思える。このような音楽構造は近代の聴き手には親しみやすい:小節同士を編み込んでいくという手法はブライアン・イーノからベーシック・チャネルにいたるまで、アンビエントやエレクトロニック・ミュージックを特徴づけてきた。「Ensenada」は時代を先取りしていた:リカルド・ヴィラロボスやマックス・ローダーバウアーといったミニマル派テクノ・プロデューサーがリミックス・アルバム『Re: ECM』でトラックの土台として使用したほどである。
トランペット奏者チャールズ・サリヴァンが参加した「Mappo」はわかりやすいジャズの構造を取り入れている。この曲は、サリヴァンとモーピン(フルート)による最初と最後の主題部分以外は、すべてリズム隊に与えられている。ハンコックがこのアルバムの中では最もジャズらしいソロを演奏し、それでもなおベースとパーカッションに同じだけのスペースを残している。この曲のタイトルもまた日蓮宗から取られたもので、仏教哲学において現在の時代を指す言葉である。この時間の儚さへの執着は「Past + Present = Future」「Winds of Change」といった二つの短いインタールードにも現れている。
アジアの音楽からの引用はジャズにおいて珍しいものではなく、同胞デトロイトのユセフ・ラティーフによるアルバム『Eastern Sounds』(1961)やアリス・コルトレーンの『Journey in Satchidananda』等が挙げられる。ウィリアムズのベースはラーガ(訳注:インド古典音楽における旋律に関する規則。季節や時間帯によって異なったものを用いる)を提示しているようだし、「Excursions」ではまさにモーピンがチャントをしているところを聴くことができる。音楽をチャントの延長線上であるとみなすことは何も行き過ぎではない―同じ音節や音に対して多数の声が重ねられるという点において。チャントに由来するタイトルトラックでは、この考え方を押し進めるとどうなるかということを提示している。この曲ではハンコックが電子ピアノを弾き、モーピンがサックスを吹くというMwandishiのサウンドに近いものが聴ける。ここでモーピンはアルバムを通して唯一の長いソロを取るが、「Ensenada」で確立された原理を保ち、一小節の中で一つ以上の音を吹かないように心がけている。
ナラティヴよりもテクスチャを強調していることは、それがたとえ国際的なレンズを通したものだとしても、ジャズの伝統から完全に断絶されているということではない。40年代中盤のビバップの出現に代表されるような、メロディラインの発展に重きをおいたジャズ史観は、その下部で起こっていた音楽を取り巻く環境の変化を見逃している。ビバップは1939年によく起点を置かれる。その年にチャーリー・パーカーはポップの曲である「Cherokee」の上でソロを吹き、その際にコードだけではなく音楽的スケールの全体から音を引っ張ってこれることを発見した。しかしジャズの近代化は30年代中頃、ウォルター・ペイジがカウント・ベイシー楽団で行っていた、多様な反復を伴うベースラインにもはじまりを置くことができる。彼の「ウォーキング」スタイルは拍子をあまり区切らないため、ケニー・クラークやマックス・ローチのようなドラマーにマッチしたし、ハーモニー間の移行をよりシームレスにし、コードの代用によってピアニストたちがついて行きやすいものであった。『The Jewel in the Lotus』に参加している演奏者たちはすべてこの系譜を受け継いでおり、モダン・ジャズ、コンテンポラリー・R&B、そしてアフリカやアジアの古典音楽に共通点を見出すのだ。
ベニー・モーピンがリーダーとしてクレジットされているが、『The Jewel in the Lotus』は音楽の作曲や演奏に置けるヒエラルキーに関する仮定をすべて排除するものである。「これ以上に無私なアルバムは想像できない」と『Down Beat』誌のレヴューには書かれている。モーピンは仏教から着想を得たかもしれないが、結果としてできた音楽はもっと普遍的な原理を示唆している。特にジャズにおいて、さらには自己表現一般において。ジャズの巨人たちのなかでももっともヒロイックなソロイストたち―類・アームストロング、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーンなど―がそれぞれの発明を達成できたのは気配りのできるアンサンブルがあったからであり、巨人たちは彼らにも同等の注意を払っていた。たとえ個人が一人で話しているとしても、集団がそれを聴いているということが前提であり、他人のために伴奏するということ以上の天職はないのである。