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<Pitchfork Sunday Review和訳>Janet Jackson: Damita Jo

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Janet Jackson: Damita Jo Album Review | Pitchfork

点数:7.8
評者:Rich Juzwiak

再評価にふさわしい、豪華で、ずば抜けてセックス・ポジティヴなアルバム

ャネット・ジャクソンがジャケットで見せている、チェシャ猫のような笑みに騙されてはいけない―このアルバムはある意味で悲劇なのである。このアルバムは、まるで数時間後に死亡事故に逢う最愛の人との他愛もない会話のように、思わぬ重さを持ってしまっている。始まろうとする愛の表現として意図されたものは、多くの目には不快で恥ずかしいものになってしまった―ジャネット・ジャクソンがある一線を越えてしまったあとに、さらにその先にまで行ってしまったことの証明である。

 2004年のスーパーボウル・ハーフタイムショー―例の乳首事件が起こった―の直後にリリースされたこともあり、『Damita Jo』は、あの世界的に愛されたアーティストのキャリアを揺るがしてしまったほどの暴落にどうしても結び付けられてしまう。彼女の『Greatest Hits』には本当にグレイテストなヒットが収録されるほどの、商業的なピークにおいて、である。一夜にして、ジャネットは「普通の人」から「奇人」ジャクソンになってしまったのである。

 しかし、『Damita Jo』はその状況の単なる被害者であるばかりではない。これは騒動へのレスポンスでもあったのだ。恥を恐れないセクシュアリティで溢れかえったこの作品は、ジャクソンの作家性(例のスーパーボウルでのパフォーマンスも含め)の中にすでに充満していた官能性をあからさまに倍増させた。ジャクソンはこのセックスの愉しみに関する瞑想を拡大していくことを抑えることだってできたはずだ―2004年1月の半ばに放送された「MTVニュース」を読むとスーパーボウル後にもまだ数週間、彼女にはアルバム制作時間が残されていたことがわかる。しかし、そのかわりに彼女は自分のヴィジョンを描ききった。「問題になるだろうからと、いくつかの曲をアルバムから外すよう求めてきた人もいた。でもそうすると自分自身のあり方を変えてしまうことになる。そんなことはたとえ誰のためであろうとやらない」と、ジャクソンはアルバムリリース日の翌日、「Good Morning America」で語っている

 ジャクソンは真っ向から戦うのではなく、子守唄を歌うべきだったのかもしれない。『Damita Jo』のリリースのタイミングで行われたほとんどすべてのインタビューでスーパーボウルの話題が持ち上がり、ジャクソンは明らかに不快そうだった。しかも魔の悪いことに、彼女の身体に脂が乗っていたのは明白だった。ジェイ・レノはキスを請い(「よかったよ・・・君の得意分野だ」とキスのあとに言った)、イギリスのトークショーの司会ジョナサン・ロスは「なんて可愛い顔をしているんだ」と述べデヴィッド・レターマンは普段は毅然としているジャクソンを激怒させるほど問い詰めた。10分間ものスーパーボウルに関する質問を受けたあと、彼女は「私の胸に注目してほしいわけじゃないから、なんか他のことは話せないわけ?」と言い放った。

 近年、ブラック・ツイッター(訳注:アフリカ系アメリカ人たちの、ツイッター内でのヴァーチャル・コミュニティ。#BlackLivesMatterや#HandsUpDontShootなどの運動の中で一定の役割を果たしている)や、ジャスティン・ティンバーレイクが2018年のスーパーボウルでパフォーマンスするというどう考えても癪に障る決断によって、ジャクソンのキャリアは批評的な再評価がなされてきた。リスナーたちには無視され、批評家たちには適当な聴かれ方をした『Damita Jo』はジャクソンの作品の中でも拭うことのできないシミであり、如何に強者が没落していくかを量的に示した一連の商業的失望の第一歩である。

 しかし『Damita Jo』は我々の関心や正義を受けて当然である。それは単に評価を修復するということだけではなく、メインストリームの場―スーパースターが所属するメジャー・レーベルの、高い期待寄せられたアルバム―における具体的なセクシャリティの描写という点でずば抜けているからだ。

 『Damita Jo』は新しく築かれた人間関係においてセックスが担う決定的な役割についての探求である。これは除菌されたメインストリームのポップカルチャーが若い恋愛を描く際に虚飾されてしまう基本的な真実である。付き合いたてのカップルはたくさんセックスをするという単純な事実を検証した芸術は―大島渚の1976年の映画『愛のコリーダ』やギャスパー・ノエの2015年の作品『Love』のように―悪名高い遺産を残すことがよくある。『Damita Jo』はアルバムのリリース時でジャクソンが1年半ほど付き合っていたプロデューサーのジャーメイン・デュプリとの関係に着想を得たものである。

 「これは愛についてのアルバムだ」とジャクソンはライアン・シークレストに答えている。そして、このセリフはこの時期多くのインタビューで繰り返されている。これを昼間のテレビ用の方便であると捉えることもできるし、文字通りに捉えてもいい:『Damita Jo』が愛というテーマを下敷きにしているのなら、セックスについて率直に話し合うことが必要不可欠なのである。愛に焦点を当てることは、セックスを漂白することではなかったのだ:それはセックスを文脈の中で語るということなのである。あるいは当時多くの評論家が言ったように、レコードを多く売るために挑発的になっているのだ、ということもできるし、長い間リスナーから信頼を得てきたアーティストを信頼するということもできた。「セックスは売れるって多くの人が知っているし、彼らはそれを利用したんだと思う。でも私にとっては、セックスっていうのは本当のことに思えた。私の友達に聞けば、セックスは私の人生の大きな部分を占めているって教えてくれるはず」と彼女はBlender誌に語る

 ジャクソンによる事実に基づいたセックスのプレゼンテーションは、アメリカが生まれつき持っている清教徒的風土にあってはラディカルであると受け止められた。『Damita Jo』やそのひとつ前の2001年の『All for You』(ジャクソンが9年間を共にした元夫、レネ・エリゾンド・Jr.との破局直後に制作)で書かれ、歌われているセックスは、結果など気にせずに提示されたものであった。ファンタジーの中でも最上級のファンタジー、メタ=ユートピアがあり、そこでは女性やスーパースターは自分自身を完全にさらけ出すことができ、更にそれでいてそれを恥じる必要がない。ジャクソンという、何十年も自分のベッドに聴き手をいざなってきたアーティストが可もなく不可もなく、平凡なミッドテンポなR&Bを使って微妙な命題を伝えようとしたことは、子作り用の音楽で溢れたこのジャンルにおいて、ヘイターたちを納得させるには間違いなく不十分である。(訳注:この一文だけどうしても意味が取れませんでした・・・。)

 ジャクソンが『Damita Jo』と引き換えに思い出させてくれるセックスというものは、楽しいものであると同時に彼女の存在にとって非常に決定的な概念である。「映画にも出るし、ダンスもするし、音楽もやる/何かをするっていうのが大好きなんだ」と彼女はタイトル・トラックで歌っている。この曲の推進力のあるコーラスでは、まるで70年代のシットコムのテーマソングのように上昇するホーンの音に導かれて始まる。『Damita Jo』においてセックスはクラブの隅っこで見つけられたり、古きハリウッドから脱出するための婉曲表現として飾り立てられたりする。カニエ・ウェストがプロデュースに参加している「I Want You」では、B.T. エクスプレスによる「Close To You」のサンプルの上で彼女は「好きにして」と甘くささやく。このサンプルはピッチがかなり上げられているので、ストリングスはまるでダグラス・サークの映画の音楽のような凄まじく感情的な音色になっている。

 ここでは、ジャクソンにとっては歓びというものが原理となっている。彼女の歌は、欲望の対象については多くを語らない:これらは愛そのものに宛てられたオードなのである。これらの歌はジャクソンを中心に据え情熱のための情熱、セックスのためのセックスを訴える。このことは「Warmth」や「Moist」のようなオーラル(・セックス)組曲において最も明白になる。前者では駐車した車の中でフェラチオをすることを熱を込めて語っており、ジャクソンは口にペニスと思しきなにかが入った状態で歌っている(2009年、『Discipline』のリリースタイミングでのインタビューにおいて彼女は確かに「口の中に何かを入れて」レコーディングを行ったことを喜んで認めた)。「Warmth」は歌というよりはサウンドスカルプチャーに近いものであり、ちょっと弱いサビと同じくらい、うめき声や喘ぎ超えが重要な役割を果たしている。「これは私のターン」と彼女は「Warmth」の結末でささやき、オーラルセックスを受ける側に回る「Moist」へと流れ込んでいく。

 2曲は合わさってこのような場合における「能動的」と「受動的」な役割を構成していると同時に、ジェンダーに関係なくオープン・マインドなセックスがもつ汎用性のようなものを強調している。ジャクソンは自らを「ボトム(訳注:セックスにおいて服従的な役割を担う人。Mということなのか、ゲイ用語で言う「ネコ」のことなのかは不明瞭)」であると公言している―2004年6月、ニューヨーク・プライド・フェスティバルにおける「The Dance on the Pier」でヘッドライナーを務めた彼女は集まったゲイの男たちに向けてそう言ったと言われている。しかし彼女のリリックを見るに、ジャクソンが特に「パワー・ボトム(訳注:これはゲイ用語。「される」側でありながらセックスにおいて主導権を握ること)」であることは間違いない(彼女が見知らぬ男のナニを見て、すぐさま「私だけって言って」と懇願する「All For You」における彼女の推察の仕方は、完全に彼女の正体を暴いている)。

 『Damita Jo』は黒人女性によって著されたメインストリームのエロティカである点だけではなく、それが暗闇や恥にまみれていないという点でも特異であった。ジャクソンの1997年の名作『The Velvet Rope』は我々をボンデージ・プレイを行うダンジョンに放り投げるようなものであったが、『Damita Jo』は一転して概してアップビートである(音楽がアップテンポというわけではないが)。彼女のキャリアの中でも最もR&B的なサウンド(ジミー・ジャムとテリー・ルイスによるプロダクション/作曲チームに依るところが大きい)によって、『Damita Jo』は明るく涼しげな雰囲気を持っている。島を想起させるような曲もいくつかある。そう、その島というのは人々がファックする島である。

 前述したアルバム・カバーで彼女が浮かべている笑みは、トム・オブ・フィンランドが肉感的な絵画で描いてきたような、ありえないくらいの巨大な男たちの余韻である。自分たちがしたセックスの一秒一秒を愛するような、そんな笑み。歓びとパワーに溢れた「ボトム」の話をしよう。高名な伝記作家デヴィット・リッツによるUpscale誌のインタビューの中で、彼女は自分がセックスに取りつかれているのではという憶測を取り上げ、こう言った。「『取りつかれている』というのはなんだか断定的な言葉に聴こえる。セックスについては、私はあらゆる断定を窓から投げ捨てようとしている」

 しかし、内部からの恥がないことは、外部から見ても恥がないことを保証はしない。『Damita Jo』には確かに好意的なレビューもあったが(有名なところではBlender誌で4つ星をつけたアン・パワーのものが知られている)、多くの批評家(その大抵は男であったが)がこの作品に当惑し、うんざりした。ニール・ストラウスはRolling Stone誌に『Damita Jo』は「気張りすぎてるきらいがある」と書き、Whashington Post紙のデヴィッド・シーガルはこのアルバムには「自暴自棄な雰囲気が感じられる」と言った。Entertainment Weekly紙で、デヴィッド・ブラウンはジャクソンが「セクシーで挑発的であろうと気張るあまりに、結局どちらにもなれていない」と言った。アレクシス・ペトリディスによる一見好意的なレビュー(「その結果は驚異的なものである」)でさえもこのアルバムの「歌詞における偏執狂」を取り上げている。「彼女は『doing it』や『coming』と言った語句を使ってうんざりするほど言葉遊びをしており、それはまるで発狂した14歳の少年のようだ」と。

 今日において『Damita Jo』がセックス問題を抱えていないことは明白であるが、一つだけ特殊な問題を抱えている。「R&B Junkie」のようなすばらしいトラックにはあまりメッセージが込められていない―それはジャクソンがラテン系のように踊ること、キャベツ・パッチ(訳注:80〜90年代に流行したダンスの一種)、エレクトリックスライド(訳注:これもダンスの一種)、Voughan Mason & Crewの「Bounce, Rock, Skate, Roll」・・・などなどを引用する、オールドスクールR&Bに対する漠然とした賛歌である。(言うだけ野暮かもしれないが、Evelyn "Champagne" Kingの至高のブギー・クラシック「I'm In Love」を引用して曲を作ったのは、ジャクソン自身がR&Bジャンキーであることの証明である)

 下品な論説を伴うということは、ジャクソンがそれまで公にしてこなかった面―つまり、大胆不敵なダミタ・ジョー(彼女のミドルネーム)と、誰とでもヤッてしまうストロベリー―を提示するという点で『Damita Jo』における明白なテーマである。しかしこれらのキャラクターはいささか軽快なタッチで描かれている。たしかに彼女のアルバムがここまでセックスにフォーカスしたことはなかったが、彼女に注意を払ってきた者ならだれでも、彼女がそれまでの数十年にも渡ってヤリマン女だったことは知っていた。そして、彼女が遡ること1986年に「私のファースト・ネームは「baby」じゃない/ジャネットっていう立派な名前があるの/ミス・ジャクソンとお呼び」と吐き捨ててからというもの、そのことを改めて考える人はいなかった。では、『Damita Jo』はいかに我々のジャネット・ジャクソンに対する理解度を高めたのだろう?はっきり言って、このアルバムにはそんな効果はないのだ。

 実は、これらのキャラクターは答えよりも疑問を我々に投げかける。このアルバムにはジャクソンが伝えていないことを伝えているというライトモチーフがある:「私にはもう一つの一面がある/それは隠していない/でも見せはしないけどね」と彼女はタイトルトラックで歌う。アルバムは告白のアルバムであると宣伝されていたので、聴いたとしても新しい情報はないと、騙されたと感じて聴くのを止めたくなるかもしれない。しかし、9年間の結婚をそれが終わる時になるまで秘密にしていた(『The Velvet Rope』のプロモーションの際にオプラに嘘をつくということをしてまで)エンターテイナーとしては、彼女自身のナラティブに関して好戦的であるのは一種の表現である。これらの仮面やキャラクターというのは彼女の違った側面を照らし出すためではなく、むしろ彼女が手放したくないものを守るためのものなのだ。

 それでも、そんなことは彼女の愛嬌のあるデリバリーを聞けば気にならないものだ。ジャクソンは技術的な面では素晴らしい声の持ち主ではないが、素晴らしいシンガーである(その点では、クリスティーナ・アギレラはそのちょうど真逆である)。彼女は美味しそうに曲を飲み込み、確信を持ってパフォームをし、明らかに限られたレンジの中で優しさの無限のパレットを持っているようだ:クスクス笑い、呻き、囁き、猫のような声、小鳥のさえずりのような声。彼女のリズムの感覚は敏捷で、それによってビートの周りでボーカルが跳ね回る。彼女は教会の屋根を吹き飛ばすほどのパイプの持ち主ではないが、非常に器用なパフォーマーである。彼女、ジャム、ルイスの三人が彼女の限界をどうしたら拡張できるかを知っているため、彼女のメイン・ボーカルを幾重にも重ねたハーモニーにもたれかからせるのである(甘美な「Truly」を聴いてみると良い)。彼女の声には美的な力は備わっていないように思えるが、伝統的な「歌の巧さ」を超越することができる理由は、「全能のパワー」以外にあり得るだろうか?

 『Damita Jo』のシングルはひとつも国内のトップ40にチャートインしなかったが、ヒットが少ないことでかえって、我々は今日この作品を聞いても余計な文化的付録に惑わされることなく、一つの声明として聴くことができる。(それは、たとえ「Truly」や「Island Life」ほどの至高の作品が無視されていても、ポップカルチャーに公正さを履行する義理はないということも思い出させてくれる。)ジャクソンが普通の人間であり、セックスのような普通の人間がすることを普通にするというステータスを頑として表明したこのアルバムのリリースが、彼女の商業的な不振とたまたま重なったことはテーマ的な宿命であるように感ぜられる。『Damita Jo』の中で―意図として、そしてその遂行において―明白に提示される人間性は、愚鈍なマーケティングの観点とは逆に、究極的には人間の本来の機能・欲望の一部として性的な内容を売った。曲と曲の間には彼女のトレードマークとも言うべきインタールードがあり、そこで彼女は湿気、ウナギ、夕暮れ時、そして音楽に対する愛をぺちゃくちゃとしゃべる。彼女は人生とは部外者には無関係に思われるようなディテールにこそ価値があるということを知っている。『Damita Jo』の中には勝利、悲劇、そして死の運命と言った気配が、まるでジャクソンの笑顔のように広がっている。彼女は言う、生まれたまんまの真っ裸でここにいるけど、乗るか乗らないか、どうする?と。多くの人々が乗らなかった。そしてそれは彼らの敗北であった。